「人間には不可能、神には可能」

本城 仰太

        イザヤ書 43章 8節〜20節
              マルコによる福音書 10章17節〜31節
43:8 引き出せ、目があっても、見えぬ民を/耳があっても、聞こえぬ民を。
43:9 国々を一堂に集わせ、すべての民を集めよ。彼らの中に、このことを告げ/初めからのことを聞かせる者があろうか。自分たちの証人を立て、正しさを示し/聞く者に、そのとおりだ、と/言わせうる者があろうか。
43:10 わたしの証人はあなたたち/わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。あなたたちはわたしを知り、信じ/理解するであろう/わたしこそ主、わたしの前に神は造られず/わたしの後にも存在しないことを。
43:11 わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない。
43:12 わたしはあらかじめ告げ、そして救いを与え/あなたたちに、ほかに神はないことを知らせた。あなたたちがわたしの証人である、と/主は言われる。わたしは神
43:13 今より後も、わたしこそ主。わたしの手から救い出せる者はない。わたしが事を起こせば、誰が元に戻しえようか。
43:14 あなたたちを贖う方、イスラエルの聖なる神/主はこう言われる。わたしは、あなたたちのために/バビロンに人を遣わして、かんぬきをすべて下ろし/カルデア人を歓楽の船から引き下ろす。
43:15 わたしは主、あなたたちの聖なる神/イスラエルの創造主、あなたたちの王。
43:16 主はこう言われる。海の中に道を通し/恐るべき水の中に通路を開かれた方
43:17 戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し/彼らを倒して再び立つことを許さず/灯心のように消え去らせた方。
43:18 初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。
43:19 見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き/砂漠に大河を流れさせる。
43:20 野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ/わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。


10:17 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
10:18 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。
10:19 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」
10:20 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。
10:21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
10:22 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
10:23 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」
10:24 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。
10:25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
10:26 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。
10:27 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
10:28 ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。
10:29 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、
10:30 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。
10:31 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」


1.宣教師たちの捨てる生き方

 横浜の海が見える小高いところに外国人墓地があります。歴史は古く、開国を迫るペリーに率いられた艦隊がやって来た時に遡ります。一人の水兵が船から転落死してしまった。そこで、その水兵を葬ったのが外国人墓地の歴史の始まりだそうです。
 その後、多くの外国人が日本にやって来ました。伝道の志を持った多くの者もやって来た。宣教師たちがやって来た。また宣教師たちはいわゆる牧師たちになりますが、牧師でなく信徒であっても、何らかの技術を持っている者たちも、志を立てて日本にやって来ました。外国人墓地を訪れた時に、詳しい方にガイドをしてもらい、どういう人がここに葬られ、その人がどういう働きをし、どういう志を持っていたのか。そのガイドをしていただきました。私はそれを聴いて大変驚きました。明治の初期でありますから、まだ飛行機で来るなどということは考えられない時代です。船でやって来る。それも数十日をかけて、太平洋を渡ってやって来るのです。時間もかかりますし、命懸けです。日本での働きを終えて、本国に帰国をした人たちもたくさんいるわけですが、日本の地に骨を埋める人たちがいた。その人たちが外国人墓地に葬られているというわけです。こういう宣教師たちの例は、枚挙にいとまがないのです。
 最近、亡くなられた方になりますが、私も存じ上げていた宣教師の方がおられました。九十過ぎで亡くなられた方ですが、この方もやはり船に乗って日本に来られた方です。以前、お話をした際に、とても野暮な質問だったと思いますが、なぜ日本に宣教師として来られたのか、そんな質問をしました。日本が好きだからとか、魅力を感じたからとか、そんな理由ではありません。神に遣わされたから、理由はそれしかない。いつも確信をもって、喜んで働いておられた方です。そして私が伝道者になる志が与えられて、神学大学に通うようになり、そのことも大変喜んでくださいました。
 その方が宣教師にならなければ、もっと別の人生があったでしょう。わざわざ時間と命を懸けて日本に来なければならない理由があったのではない。いろいろなものを後に置いて日本にやって来たのです。どうしてそんなに自由に捨てられるのか。理由は単純です。本日、私たちに与えられた聖書箇所の主イエスの言葉に生きているからです。しかも歯を食いしばって生きているのではない。喜びがある。主イエスのお言葉を喜んで生きておられるのです。

2.捨てられるのは喜びがあるから

 主イエス・キリストは私たちに捨てることを求めておられます。そういう生き方を求めておられる。そこで大事なのは、私たちに喜びがあるかどうかです。主イエスのお言葉に従って喜んで捨てるのか。それとも歯を食いしばって後ろ髪を引かれるようにして捨てるのか。主イエスに命じられたので仕方なく捨てるのか。人の顔色を窺いながら自分の持っている物を捨てるのか。喜びがあるかないか。同じ捨てるにしても、まるで違う捨て方です。主イエスのお言葉に従って捨てるためには、喜びがなければできない。それが秘訣です。
 主イエスはこう言われます。「私のためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも…」(29節)。主イエスのために捨てる。そして福音のために捨てる。福音はよき知らせです。喜びの訪れです。その喜びがあるから捨てられる。
 皆さまは礼拝に来られています。なぜ来られているのでしょうか。日曜日になるときまって教会へやって来る。なぜ来られるのか。あるいは電話で礼拝をされている方は、この時間になるときまって電話をかけて礼拝をする。なぜ電話をかけるのか。長年、キリスト者として歩んでおられる方にとっては、いったいどのくらいの時間を礼拝のために費やしてこられたでしょうか。お年を召された方も、日曜に教会に来るために、体調を整えて一週間を過ごしておられる方もある。まるで幼子のように集ってくる。なぜそんなことができるのか。他にも多くのことのために費やさなければならない貴重な時間を捨てて、礼拝のために費やす。あるいは、日曜日に家族をいわば捨てるようにして教会に来られる。この後で献金をします。いわば私たちが持っている富を自分のために用いない。富を捨てて献金をするのです。なぜそんなことをするのでしょうか。理由はただ一つ、そこに喜びがあるからです。福音の言葉を聴く喜びがあるからです。
 キリスト者は、この喜んで捨てる生き方ができる人です。自分が持っているものに執着しない生き方ができる。逆に今、自分が持っているものを、自分が持っているものとしてではなく、神から与えられた者として受けとめることができる。そのように百倍の祝福をもって与えられたものとして、自分の持ち物を見ることができる。そこに喜びがあるのです。

3.今のままでよい…

 ただ、私たちが喜んで捨てるための闘いがあります。今日の聖書箇所に出てくる金持ちの男も、主イエスの弟子たちも、その闘いが始まったばかりです。
 金持ちの男も、主イエスの弟子たちもそうですが、私たちは自己肯定感を得たいという思いがあります。今の自分に満足したいのです。金持ちの男は、いったい何を期待して主イエスのところに行ったのでしょうか。どんな言葉を期待したのでしょうか。この人は子どもの時から聖書の掟をきちんと守って生きてきた、そういう自負のある人です。しかし漠然とした不安があった。だから善い先生である主イエスに、あなたはそのままでよい、そう言ってもらいたかったのだと思います。自己肯定感を得たかったのです。
 主イエスの弟子たちも同じでした。目の前で、この金持ちの男と主イエスとのやり取りの一部始終を見ていたのです。男が主イエスの前から立ち去ります。あの人は捨てることができずに立ち去った。けれども私たちは立ち去ることなく、すべてを捨てて主イエスに従っています。私たちは今のままで大丈夫ですよね、主イエスにそのことを問いただしたかった。主イエスからあなたがたはきちんと捨てて従っている、そう言って欲しかったのでしょう。弟子たちも自己肯定感を得たかったのです。
 こういうような思いは、私たちの心の中にも潜んでいるでしょう。あなたはそのままでよい、立派にやっている、今のままで大丈夫だ、そう言ってもらいたい心が私たちにはあります。
 しかしそういう心のままでは、私たちは捨てることが難しくなってしまいます。そして何よりも問題なのは、私たちに喜びがなくなってしまうことです。今持っているものを失ったらどうしよう。変われと言われたらどうしよう。捨てなさいと言われたらどうしよう。不安しかない。喜びがないのです。それゆえに、今持っているものに執着する生き方になり、不自由になり、喜びのない生き方になってしまうのです。

4.神なら不可能を可能にできる

 どうしたらよいのか。私が牧師になる前のまだ信徒だった頃、教会の何人かの人たちと一緒に、聖書の学びとしてこの箇所を読んだことがあります。この箇所を読んで、ざっくばらんにいろいろなことを発言します。その中で、牧師がこんな発言をしました。「この聖書箇所の中で、一番大事な言葉はどれでしょうか」。もちろん、大事な言葉は一つだけではなく、いろいろと挙げることができるでしょう。しかしこの牧師は言うのです。二七節の主イエスのお言葉が一番大事だと。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」(27節)。
 人間には不可能とまず言われています。今日の聖書箇所の流れとしては、難しいという言葉が出てきて、そして最後には不可能という言葉が出てきます。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」(23節)。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。」(24節)。二五節のらくだが針の穴を通るというのは、譬えですけれども、不可能を表す譬えです。そして二七節、人間には不可能ということが言われる。
 人間にとってのその不可能を可能にしていただいた、それが私たちキリスト者です。捨てる生き方をするようになった。人間には不可能なのですから、それが可能になったのは、あくまでも神が私たちに働きかけて、そのようにしてくださったのです。私たちはそのような神の賜物、ギフトをいただいているのです。
 ある神学生がいました。神学校での最終学年では、自分の任地が具体的に定まってきます。どこの教会に赴任するのか、とても大きな出来事です。その神学生は、自分の任地としていろいろと思うところがあったようです。考える軸として、第一に神さま、第二に自分、そして第三に学長。そんな順番でこれまでは考えてきた。
 しかしいざ学長から任地が示されて、その任地は自分の思っていたようなものではなかった。しかしこの神学生が考え直すようになったのです。今まで自分は、第一に神さま、第二に自分、第三に学長と考えてきた。しかしそれは違った。第一に神さま、第二に学長、第三に自分。そのように受けとめなおすようになった。この神学生は自分の思いを捨てて、学長によって、いや神によって示された任地へと喜んで遣わされていきました。
 一人の神学生の例にすぎないかもしれませんが、しかし私たちの誰もが経験することです。自分がこれまで思ってきたことや大事にしてきたことがある。けれどもそれを捨てることを迫られる。その時にどうするか。

5.逆説の祝福に生きる

 ある聖書学者が、今日の聖書箇所の注解の最後の言葉として、このように書いています。「もしこのメッセージがわれわれをはっとさせないとすれば、あるいはまたわれわれが衝撃を受けず、度を失わず、また深く悲しんだり、驚いたりしないとすれば、今なおそれを聞いていないのか、あるいは、何度も聞いたので、もはや真実に聞かないかの、そのどちらかである」。
 主イエスの弟子たちも衝撃を受けました。「弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。」(24節)。「弟子たちはますます驚いて…」(26節)。このように衝撃を受け、驚いたのです。しかしここで終わりではありませんでした。その先が続いていったのです。人間には不可能。しかし神には可能。可能性が拓かれたのです。
 そしてここから闘いが始まります。主イエスのお言葉通りに捨てる生き方が始まっていきます。しかも喜んで捨てられる生き方です。そして捨てたものを、百倍の祝福をもって受け取りなおす祝福です。この説教の冒頭で紹介した宣教師たちも、この生き方を生きていた人たちです。私たちも同じです。
 今日の聖書箇所の最後のところにある二九〜三一節の主イエスのお言葉は、逆説の響きを持っています。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(29〜31節)。この逆説に生きることができるのが、キリスト者です。神がおられるからこそ成り立つ逆説です。神が百倍の祝福を与えてくださるからです。
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