「負の連鎖を断ち切るキリスト」

本城 仰太

        士師記  2章 8節〜23節
              マルコによる福音書 10章32節〜34節
2:8 主の僕、ヌンの子ヨシュアは百十歳の生涯を閉じ、
2:9 エフライムの山地にある彼の嗣業の土地ティムナト・ヘレスに葬られた。それはガアシュ山の北にある。
2:10 その世代が皆絶えて先祖のもとに集められると、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った。
2:11 イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、バアルに仕えるものとなった。
2:12 彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周囲の国の神々に従い、これにひれ伏して、主を怒らせた。
2:13 彼らは主を捨て、バアルとアシュトレトに仕えたので、
2:14 主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らを略奪者の手に任せて、略奪されるがままにし、周りの敵の手に売り渡された。彼らはもはや、敵に立ち向かうことができなかった。
2:15 出陣するごとに、主が告げて彼らに誓われたとおり、主の御手が彼らに立ち向かい、災いをくだされた。彼らは苦境に立たされた。
2:16 主は士師たちを立てて、彼らを略奪者の手から救い出された。
2:17 しかし、彼らは士師たちにも耳を傾けず、他の神々を恋い慕って姦淫し、これにひれ伏した。彼らは、先祖が主の戒めに聞き従って歩んでいた道を早々に離れ、同じように歩もうとはしなかった。
2:18 主は彼らのために士師たちを立て、士師と共にいて、その士師の存命中敵の手から救ってくださったが、それは圧迫し迫害する者を前にしてうめく彼らを、主が哀れに思われたからである。
2:19 その士師が死ぬと、彼らはまた先祖よりいっそう堕落して、他の神々に従い、これに仕え、ひれ伏し、その悪い行いとかたくなな歩みを何一つ断たなかった。
2:20 主はイスラエルに対して怒りに燃え、こう言われた。「この民はわたしが先祖に命じたわたしの契約を破り、わたしの声に耳を傾けなかったので、
2:21 ヨシュアが死んだときに残した諸国の民を、わたしはもうこれ以上一人も追い払わないことにする。
2:22 彼らによってイスラエルを試し、先祖が歩み続けたように主の道を歩み続けるかどうか見るためである。」
2:23 主はこれらの諸国の民をそのままとどまらせ、すぐ追い払うことはなさらなかった。彼らをヨシュアの手に渡すこともなさらなかった。


10:32 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。
10:33 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。
10:34 異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」



1.負の連鎖

 今日の説教の説教題を「負の連鎖を断ち切るキリスト」と付けました。イエス・キリストがその負の連鎖を断ち切ってくださったということを言おうとしている説教題ですが、まずその前に、私たち人間には「負の連鎖」がある。そういわざるを得ないところがあります。
 「歴史は繰り返す」とよく言われます。誰がこれを最初に言ったのか。諸説あるようです。あの歴史家ではないか。そういう主張がなされることもありますが、その歴史家の前にも、やはり似たような言葉はもうすでにある。大昔からあったと言ってよいのでしょう。二千年以上も前に書かれた旧約聖書にも、このように書かれています。「かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。見よ、これこそ新しい、と言ってみても、それもまた、永遠の昔からあり、この時代の前にもあった。」(コヘレトの言葉1・9〜10)。
 例えば戦争。多くの戦争に関して言えることだと思いますが、最初は些細な争いであった。人が傷つきます。その報復がなされます。そうすると一人の命が失われます。その報復がなされます。今度は複数の人の命が失われます。その報復がなされます。そうなると、いつの間にか全面戦争になっている。もはやなぜ戦っているのか、それすらよく分からない。生まれた時から憎しみを植え付けられ、相手と闘うことが正義になっていく。そのように争いが続いていく。そしてボロボロになってようやく争いが止んでいく。そういう負の連鎖があります。
 何度もこういう戦争が繰り返されてきた。人間に負の連鎖があるからです。なにも戦争という極端なことでなかったとしても、私たち人間にそういう性質がある。もう二度とやらない、そう決意したはずなのに、ついまた手を出してしまう。失敗して懲りたはずなのに、また同じ過ちを繰り返してしまう。そういう負の繰り返しがある。そのことを認めざるを得ない。どこかで、それが断ち切られなければならないわけですが、繰り返されてしまうのです。

2.士師記の負の連鎖

 本日、私たちに与えられた旧約聖書の箇所は、士師記の第二章です。ここにも負の連鎖のことが記されています。
 出エジプトのリーダーのモーセの後継者であったヨシュアが、一一〇歳の生涯を閉じる。そのことがまず記されています。ヨシュアが生きている頃は、イスラエルの民の歩みも健やかであったようです。何しろ、神がイスラエルの民をエジプトの奴隷生活から導き出してくださったわけで、イスラエルの民は自分たちの故郷に戻り、そこでの定住生活をすることができるようになりました。神に感謝です。その感謝に生きていたのです。
 ところが、ヨシュアが死んだ後、歯車が狂ってしまった。感謝を忘れたのです。神様がそんなに大きなことをしてくださったのに、それが当然、当たり前になってしまった。感謝を忘れた。もっと言うならば、そういう歴史を忘れてしまったのです。その歴史を踏まえないと、人間の歩みが愚かになってしまいます。
 私たちの生活もそうです。神が何をしてくださったのか、今ある生活をすることができるのはいったいなぜか。誰のおかげなのか。そのことを忘れた時、私たちの生活の歯車が狂ってしまいます。神に感謝することを忘れ、むしろ不満の方が大きくなってしまいます。
 イスラエルの民もそうでした。歴史を忘れ、感謝を忘れ、そして神を忘れてしまう。イスラエルの民は堕落してしまいます。しかし苦境に立たされたイスラエルの民を、神が憐れんでくださいます。士師という人を立ててくださるのです。士師というのは、この時代のイスラエルのリーダー的な存在です。モーセ、ヨシュアに次いで、リーダー的な存在であった人たちのことを士師と言います。やがて、イスラエルに王が登場し、サウル、ダビデ、ソロモンという王が次々と登場しますが、モーセ・ヨシュアと王たちの間の時代に士師の時代があるのです。この士師記には、そういう士師たちが出てきます。英語で士師記のことをJudgesと言います。スポーツの審判が「ジャッジ」をするなどと言いますが、イスラエルをそういう形で裁いたリーダーたちです。様々な士師たちの物語が士師記に書かれています。
 今日の聖書箇所は、士師記全体の序文、イントロダクションのような箇所です。ヨシュアが死んで、イスラエルの民が堕落してしまった。そうすると神が士師を立ててくださいます。「主は士師たちを立てて…」(士師記 2・16)。傾いたイスラエルの民が持ち直します。しかしまた堕落してしまう。そうすると「主は彼らのために士師たちを立て…」(士師記 2・18)。また持ち直すわけですが、すぐにまた堕落してしまう。この繰り返しです。負の連鎖です。しかも「いっそう堕落して」(士師記 2・19)しまうのです。

3.負の連鎖を断ち切るために、先頭を歩かれる主イエス

 「負の連鎖を断ち切るキリスト」という説教題。これまでのところで、負の連鎖について触れてきました。その負の連鎖をいよいよキリストが断ち切ろうとされる。今日のマルコによる福音書の聖書箇所で、主イエスは先頭に立たれます。「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」(32節)。
 先頭を歩かれる主イエスのことを、弟子たちは驚き、そして恐れます。これまでの歩みで、主イエスの命が脅かされていることは、もはや明白でした。実際に今日のような受難予告も、すでに二度なされています。今日の予告が三度目です。どういうことがこれから起ころうとしているのか、主イエスははっきり言われます。「イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。」(32節)。
 先週、私たちが御言葉を聴いた箇所は、この一つ前のところです。その最後のところにこうありました。「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(31節)。論理的に考えてみましょう。今日の聖書箇所で主イエスは先頭に立たれています。前回の聖書箇所の三一節でそう言われた直後に、先頭に立たれたのです。前回の聖書箇所で、主イエスはすでにエルサレムに向けての旅を出発されようとしていたところでした。そこに金持ちの男がやって来て、短時間でしょうけれども、ちょっとしたやり取りがありました。三一節の言葉を言われた直後に、先頭に立たれたのです。論理的に考えれば、主イエスが今ここで先頭に立たれたのですから、間もなく後ろに下がることは明らかです。
 先頭に立たれたのですから、最後尾に下がるのです。エルサレムでは十字架の死が待ち受けています。負の連鎖を断ち切るために、ここで先頭に立たれ、そして間もなくエルサレムで最も後ろに下がられるのです。

4.キング牧師の説教

 ところで、ご存じの方も多いと思いますが、マーティン・ルーサー・キングという牧師がいました。一九五〇年代から六〇年代にかけて、アメリカで「公民権運動」という闘争がなされました。アフリカ系アメリカ人の権利を求め、差別の解消を目的にした闘いが繰り広げられていました。闘い方にはいろいろなやり方があったようです。時と場合によっては暴力に訴え出る方法を取る者たちもあったようですが、キング牧師は非暴力を貫いた。非暴力を貫くというのは、言葉で言うのは簡単なことですが、決して生易しいことではありません。
 キング牧師は説教において、闘いを続けました。ある時、「あなたの敵を愛せよ」という説教題で説教をしました。主イエスの「汝の敵を愛せ」という言葉に基づく説教です。キング牧師はこう語ります。「憎しみには憎しみをという考えは、ただこの宇宙における憎悪と悪の存在を増幅するだけであるから、ということである。もし私があなたを打ち、あなたが私を打つ、そして今度は私が打ち返す、するとあなたが私を打ち返す、こうして繰り返しが続いていくとすると、どうなるか。お分かりのように、事態は無限に続くことになる。その連鎖は終わることがない。こういう場合には、どこかでだれかが少しばかり良識を持たなければならない。そういう人は強い人である。そして強い人とは、憎悪の連鎖、悪の連鎖を断ち切ることのできる人である。」(『真夜中に戸をたたく、キング牧師説教集』、八二〜八三頁)。
 キング牧師は、この説教に限ったことではありませんが、しばしば非暴力を説いていきます。やられたからといって、やり返してはいけない。相手と同じ土俵に立ってはいけない、と。そして続けてこう言います。「イエスが、「あなたの敵を愛せよ」と言われる究極の理由を、考えてみたい。それは、愛はそれ自身の中に贖罪の力を秘めているから、ということである。そこには究極的に個々人を変える力があるのである。…もしあなたが敵を愛するならば、あなたは愛の根源には贖罪の力があることを、発見するであろう」(八六頁)。
 贖罪というのは、罪の赦しのことです。負の連鎖を断ち切るために、どこかで歯止めがかけられなければならない。そしてその歯止めのところには、赦しがある。キング牧師はそう説くわけです。私たちがその歯止めになろうではないかとキング牧師は説くわけですが、なぜそんなことができるのか。主イエスが先頭に立ってくださったからです。先頭に立たれ、負の連鎖を断ち切るために、一番後ろに下がり、赦しをもたらしてくださったのです。

5.裁かれて罪を背負う主イエス

 主イエスは先頭に立たれて、三度目の受難予告を具体的にされます。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」(33〜34節)。
 一度目、二度目の受難予告の言葉と比べてみると、いろいろなことが分かってきますが、ここでの三度目の「死刑を宣告して」という言葉は、これまでの受難予告になかった言葉です。「死刑を宣告して」というのは、明らかに裁判があるということを意味します。
 私たちが毎週の礼拝で告白している「使徒信条」があります。教会の信仰がどういうものなのか、そのことを短い文章で表しているのが使徒信条です。その使徒信条の中で、主イエスがどのようなお方なのか、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」とあります。ポンテオ・ピラトというのは、ローマ帝国の地方総督の名前です。なぜ使徒信条にこんな名前が出てくるのか。それは、ポンテオ・ピラトが裁判官だったからです。主イエスは裁きを受けて、そして十字架刑に処せられたのです。
 今日の聖書箇所のところで、主イエスが先頭に立ってエルサレムに向かわれます。これから人類の罪を背負って死ぬのです。しかしどんな死に方でもよかったわけではありません。石を投げつけられて偶発的に死ぬという死に方では駄目なのです。きちんと裁かれる。本当は罪などないお方です。しかし人類の罪を背負って、裁きに服してくださる。本当は罪なしで無罪だったところを、罪ありとされて、十字架刑の判決を受けて、死なれたのです。
 三三節のところに「異邦人に引き渡す」とあります。続く三四節にも、その上で、「侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す」という主イエスの裁きの結果が記されています。十字架という言葉はないかもしれません。しかしそういう裁きを甘んじて受けてくださったのです。ユダヤ人には、人を死刑に定める権限がありませんでした。ローマのやり方で十字架刑という処刑がなされました。ローマ市民ならば決して受けることのなかった十字架刑。ローマ帝国への反逆者としての十字架刑。裁かれて、それに服することになったのです。
 その十字架にお架かりになるために、主イエスは先頭に立たれます。十字架に架かられます。そして復活される。「三日の後に復活する」(34節)。この言葉は、どの受難予告にも記されている共通の言葉です。主イエスが負の連鎖を断ち切るためのフロントランナーになってくださる。そして一番後ろの者として、十字架にお架かりになってくださる。主イエスの切り拓いてくださった道には、罪の赦しと新しい命があるのです。
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