「キリストの献身」

本城 仰太

       サムエル記下 24章18節〜25節
          マルコによる福音書 10章35節〜45節
24:18 その日ガドが来て、ダビデに告げた。「エブス人アラウナの麦打ち場に上り、そこに主のための祭壇を築きなさい。」
24:19 ダビデは主が命じられたガドの言葉に従い上って行った。
24:20 アラウナが見ると、王と家臣が彼の方に来るのが見えた。アラウナは出て行き、王の前で地にひれ伏して、
24:21 言った。「どのような理由で主君、王が僕のところにおいでになったのですか。」ダビデは言った。「お前の麦打ち場を譲ってもらいたい。主のために祭壇を築き、民から疫病を除きたい。」
24:22 アラウナは、「お受け取りください。主君、王の目に良いと映るままにいけにえをおささげください。御覧ください。焼き尽くしてささげる牛もおりますし、薪にする打穀機も、牛の軛もございます」と言って、
24:23 何もかも王に提供し、「あなたの神、主が王を喜ばれますように」と言った。
24:24 王はアラウナに言った。「いや、わたしは代価を支払って、あなたから買い取らなければならない。無償で得た焼き尽くす献げ物をわたしの神、主にささげることはできない。」ダビデは麦打ち場と牛を銀五十シェケルで買い取り、
24:25 そこに主のための祭壇を築き、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげた。主はこの国のために祈りにこたえられ、イスラエルに下った疫病はやんだ。


10:35 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」
10:36 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、
10:37 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」
10:38 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」
10:39 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。
10:40 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
10:41 ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。
10:42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
10:44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
10:45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」



1.私たちも仕える者に

 毎週の日曜日、私は礼拝が終わりますと、礼拝堂を出たところに立ちまして、礼拝に出られた方々と挨拶や言葉を交わしたりいたします。とても大事な時です。そこでは様々なやり取りがなされますが、説教の感想を伺うことがあります。
 先週も同じように立っていましたら、多くの方が説教の感想を寄せてくださいました。その多くの感想が、次のようなものでした。先週の聖書箇所に、主イエスが先頭に立たれたことが記されています。「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。」(32節)。しかしその直前に「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(31節)という言葉が記されている。この三一節の言葉の真意がよく分からなかったけれども、三二節で主イエスが先頭に立たれ、そして間もなく一番後ろに立たれるように主イエスが十字架にお架かりになる。その主イエスの歩みから、三一節の言葉がよく分かった。ああ、イエスさまが先頭におられたけれども、私たちのために一番後ろに下がってくださったのですね、よく分かりました。そういう感想を多くいただきました。
 多くの方がそのように受けとめてくださったように、確かにその通りで、それは間違いのないことです。しかしそれだけで済ますわけにはいきません。主イエスはご自分が後ろに下がる、その上で問いかけておられるのです。あなたがたも、後ろに下がるように、と。今日の聖書箇所にこうあります。「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(43〜44節)。私たちもまた問われているのです。
 そしてこの主イエスのお言葉に喜んで従ったのが、教会に生きるキリスト者です。キリストがこのように言われたから、仕方なく、嫌々と従っているのではありません。キリストは力をもって人を服従させられるお方ではありません。そうではなく、喜んで従う。自ら進んで従う。今なお、教会と世界に、そのようなキリスト者たちの姿を見ることができるのです。

2.ナポレオンの遺言

 このことの関連で、ご紹介したい言葉があります。ナポレオンという人物を皆様もご存知でしょう。歴史上の人物です。細かい紹介はする必要ないと思います。一時、世界で最も大きな権力を握った人です。今日の聖書箇所にもこうあります。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」(42節)。
 まさにナポレオンなどもここに含まれるわけですが、主イエスの言葉遣いもなかなか面白いと思います。「支配者と見なされている人々」と言われています。本当の支配者というわけではない。単に「見なされている」だけだと主イエスは言われる。権力を持ち、力を持っている。けれどもその支配は一時のことにすぎません。
 ナポレオンが戦いに敗れ、セントヘレナ島というところに島流しにされます。ナポレオンはここで最後の数年を過ごし、ここで死を迎えます。そのナポレオンが残した遺言があります。ある牧師が翻訳をしてくれました。以下の通りです。
 「私は、大胆に、キリストを信じますと、大声で告白できなかった。そうだ、私は、自分がクリスチャンであると、告白すべきだった。今、セントヘレナにあって、もはや遠慮する必要はない。私の心の底に信じていた事実を告白する。私は、永遠の神が存在していることを信じる。その方に比べると、バートランド大将よ、貴方はただの元首に過ぎない。私の天才的なすべての能力をもってしても、このお方と比較する時、私は無である。完全に無の存在である。私は、永遠の神キリストを認める。私は、キリストを必要とする。私は、キリストを信ずる。私は、今セントヘレナの島につながれている。一体誰が、今日私のために戦って死んでくれるだろうか。誰が、私のことを思ってくれているだろうか。私のために、死力を尽くしてくれる者が今あるだろうか。昨日の我が友はいずこへ。ローマの皇帝カイザルもアレクサンダー大王も忘れられてしまった。私とて同様である。これが、大ナポレオンとあがめられた私の最後である。イエス・キリストの永遠の支配と、大ナポレオンと呼ばれた私の間には、大きい深い隔たりがある。キリストは愛され、キリストは礼拝され、キリストへの信仰と献身は、全世界を包んでいる。これを、死んでしまったキリストと呼ぶことが出来ようか。イエス・キリストは、永遠の生ける神であることの証明である。私ナポレオンは、力の上に帝国を築こうとして失敗した。イエス・キリストは、愛の上に彼の王国を打ち立てている」。
 権力を握っているナポレオンは、自分の意のままに人を動かすことができました。実際にナポレオンのために命を捨てた兵士も多いのです。しかしそんな権力者ナポレオンの姿はもう過去のものになってしまった。セントヘレナで自分の最期を見据えて、ナポレオンはこのような遺言を残すのです。
 イエス・キリストの十字架の出来事から、ナポレオンの時代ではすでに一八〇〇年も経っていました。それでもまだ、キリストの愛の力が人を動かしている。人の力は、一時は人を動かすかもしれないけれども、必ずそれは廃れる。ナポレオンはそのことを人生の最期に悟るのです。

3.キリストの右と左

 今日の聖書箇所には、ナポレオンも最期に驚くことになった、愛をもって人を動かすキリストの力の源が記されています。
 今日の聖書箇所は、二人の弟子の願いから始まっています。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」(37節)。「栄光をお受けになるとき」とはどういう時なのか、はっきりとは示されていませんが、キリストが王のようになる、その権力の座に着く時、私たち二人をその左右に座らせてください、というお願いです。
 この二人がこの願いをしたことに対して、他の弟子たちは腹を立てます。「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。」(41節)。なぜ腹を立てたのか。他の弟子たちも同じような願いを心の中に持っていたからです。自分たちが知らないところで勝手にそんなお願いをするなんて、そんな思いが怒りにつながったのでしょう。
 けれども、主イエスはこの二人の願いを直ちに拒否されたのではなく、このようなことを言われます。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」(38節)。よく分かっていない二人の弟子たちは「できます」(39節)と答えます。そうすると主イエスは言われます。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」(39〜40節)。
 杯、洗礼とは何を表しているのでしょうか。それほど複雑に考える必要はないと思います。ソクラテスが毒杯をあおいだことも有名ですが、主イエスも十字架にお架かりになる直前、祈りをしました。「この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(14・36)。洗礼も、アマチュアからプロの世界に入り、プロの洗礼を受けるなどと言われることがあります。水をかけられること、沈められることを意味します。杯も洗礼も、自分が受ける何らかの苦難や困難を表しています。
 その杯や洗礼を、これから私が受けることになるが、その左右に座るあなたがたも何らかの杯や洗礼を受けなければならない、その覚悟はあるか、と主イエスは問うておられるのです。

4.身代金

 この二人は自分が何を願っているのか、キリストの左右に座るとはどういうことなのか、まったく分かっていなかったわけですが、この二人の願いが叶わなくてよかったと言えるでしょう。なぜなら、キリストが十字架での死を遂げる時に、二人の犯罪人がその左右で十字架に架けられたからです。キリストが受ける杯、洗礼とは、何よりもキリストの十字架を意味します。今日の聖書箇所の最後の四五節にこうあります。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(45節)。
 「身代金」という言葉が使われています。身代金とは、誘拐の事件などでよく聞く言葉です。誰かが捕まってしまった。その人を解放するために、身代金が支払われなければならない。
 この言葉は、私たちが考える以上に、聖書では重要な言葉です。かつての口語訳聖書では、身代金ではなく「あがない」と訳されていました。新改訳聖書では「贖いの代価」です。自分を得るために、命を得るために、支払われなければならない代価のことです。
 例えば、二千年前の奴隷のことを考えてみるとよいと思います。奴隷という身分の者がいた。奴隷から自由になることもできた。しかし代価が支払われる必要があります。そうなると奴隷は解放される。その「身代金」という言葉がここに使われているのです。
 キリストが何のために来てくださったのか。王さまとして人の上に君臨して「仕えられるためではなく仕えるために」(45節)、主イエスは来てくださいました。人の下に立つためです。人の下に立ち、身代金を、代価を支払ってくださいました。そのために後ろに下がってくださいました。それが十字架です。人を生かすために、自分を献げてくださった。献身に生きてくださった。それがキリストの生き方です。

5.人間は自分では代価を支払いきれない

 本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、サムエル記下の最後の部分です。先ほど朗読いたしましたのは、第二四章一八節以下の部分ですが、第二四章の初めから読んでいきますと、人口調査の問題が出てきます。王様であったダビデが、イスラエルの人口調査をしてしまったという出来事です。人口調査をすることがなぜこの時は悪いことだったか。神の力よりも人の数の力により頼もうとしたことだったからです。「民を数えたことはダビデの心に呵責となった。ダビデは主に言った。「わたしは重い罪を犯しました。主よ、どうか僕の悪をお見逃しください。大変愚かなことをしました。」」(サムエル記下24・10)。
 その結果として、罪の裁きが下ることになります。イスラエルの中に疫病が発生するのです。そのため、ダビデは罪の赦しを得るために、代価を支払う必要が生じます。今日の聖書箇所では、神を礼拝するための場所を無償で提供してくれる人が現れますが、ダビデは自分で代価を支払って買い取ることにこだわりを見せます。「いや、わたしは代価を支払って、あなたから買い取らなければならない。無償で得た焼き尽くす献げ物をわたしの神、主にささげることはできない。」(24・24)。この時の疫病は、この代価によって収束していきました。「主はこの国のために祈りにこたえられ、イスラエルに下った疫病はやんだ。」(24・25)。
 しかし想像してみていただけるとよいと思いますが、人間はこのような代価を支払わなければならない事態というのが延々と続いていきます。代価を払えたとしても、また何らかの罪を犯す。そうするとまた代価を支払わなければならない。いつまでたっても代価、代価です。
 この人間の延々と続く繰り返しの中で、キリストによる代価が支払われました。単なる人間による代価ではありません。神の独り子による代価です。今日の説教題にもなっているように、「献身」という言葉があります。自分の身体を献げるのです。人のために。キリストはご自分の命を献げられました。私たちに対してその代価が支払われているのです。
 それでは私たちはどうすればよいでしょうか。キリストは言われます。「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(43〜44節)。キリストとは違う杯、洗礼であるかもしれません。しかし私たちもキリストに倣って献身に生きる。それが人を動かしてきました。上の力によってではない。権力によってではない。キリストが人の下に立つ、そのような愛によって、人は動かされてきたのです。

6.ペンテコステ

 今日はペンテコステ、聖霊降臨日です。二千年前に弟子たちに聖霊が降り、神の言葉が語られ、それを聴いて信じた者たちが洗礼を受け、そこに教会が生まれました。教会は人間の力によって生まれたのではありません。むしろ人間の力は何もありませんでした。しかし教会が生まれ、広がっていきました。
 教会が誕生したその時に、主イエスの弟子の一人のペトロが言った言葉があります。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(使徒言行録 3・6)。
 ナポレオンが人生の最期の時に、キリストの愛の力に驚き、一人のキリスト者として、キリストに従い、葬られていきました。キリストは権力で人を動かすのではありません。キリスト自らが献身なさる。そのお姿が、そのお言葉が、多くの人が動かしてきた。私たちもまたキリストによって動かされるのです。

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