「一つだけ願い事が叶うなら、何を願いますか?」

本城 仰太

       歴代誌下  1章 7節〜12節
           マルコによる福音書 10章46-52節
1:7 その夜、神はソロモンに現れて言われた。「何事でも願うがよい、あなたに与えよう。」
1:8 ソロモンは神に答えた。「あなたは父ダビデに豊かな慈しみをお示しになり、父に代わる王としてわたしをお立てになりました。
1:9 神なる主よ、あなたは父ダビデになさった約束を今実現し、地の塵のように数の多い民の上に、わたしを王としてお立てになりました。
1:10 今このわたしに知恵と識見を授け、この民をよく導くことができるようにしてください。そうでなければ、誰が、あなたのこの大いなる民を裁くことができましょうか。」
1:11 神はソロモンに言われた。「あなたはこのことを望み、富も、財宝も、名誉も、宿敵の命も求めず、また長寿も求めず、わたしがあなたをその王として立てた民を裁くために、知恵と識見を求めたのだから、
1:12 あなたに知恵と識見が授けられる。またわたしは富と財宝、名誉もあなたに与える。あなたのような王はかつていたことがなく、またこれからもいない。」


10:46 一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。
10:47 ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。
10:48 多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
10:49 イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」
10:50 盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
10:51 イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。
10:52 そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。



  1.願い事は人そのものを表す

 人には願い事があります。何を願って生きているか、そのことはとても大事なことだと思います。その人がどういう人なのかということが、その人の願い事に表れるところがあるからです。
 先週、私が観た映画で、こんな場面がありました。映画の主人公が、事情があってなかなか人前で顔を上げられない。特に初対面の人はそうです。顔を下に向けることになります。顔を下に向けると何が見えるか。相手の靴が見えます。その靴によって、相手がどのような人なのか、主人公には大体分かる。そんな映画のワンシーンがありました。
 もっとも、私たちは靴を何足か持っていますから、TPOに応じて、時、場所、状況に応じて、靴を履き替えます。そういうわけですから、靴だけですべてが分かるかと言えば、そんなことはないでしょう。しかし願い事に関してはどうでしょうか。その人がどんな願い事を持っているかによって、その人の人となりが分かってくるところがあると思います。極端なことを言えば、人を押しのけてでも一番になりたいと願っている人と、みんなと仲良く平和にすることができるようにと願っている人では、性格もまるで違うと思います。人を押しのけてでも一番になりなさいという教育を受けてきた子どもと、みんなと仲良く平和にすることができるようにという教育を受けてきた子どもでは、やはり違いがあると思います。
 個人レベルではなく、もっと広げて考えることもできるでしょう。人類の歴史も、人の願いによって動かされてきました。特に為政者たちがどんな願いを持っているかというのは、歴史にかかわる大事なことです。世界を支配したい、天下を取りたいと思っている人が作る歴史と、世界が平和であるようにと願っている人が作る歴史では、そこにまるで違う世界が生まれてきます。
 このように考えてみると、私たちが何を願うかは、とても大事なことです。その願いが叶うか叶わないかは別にしても、その願い事によって、私たちの人生を左右されると言っても過言ではないのです。

  2.「何をしてほしいのか」

 イエス・キリストは問われます、「何をしてほしいのか」。聖書によれば、このイエス・キリストというお方は、力あるお方です。今なお、世界中の多くの者たちが、このお方を救い主であると信じています。聖書の中に、このお方が病を癒した話が記されています。そういう力をお持ちです。時には死者を甦らせたこともあるお方です。そして何よりも人の罪を赦すお方です。そのお方が問われます。「何をしてほしいのか」、と。
 聖書を持っておられる方は、今一度、開いていただきたいと思います。今日はマルコによる福音書の第一一章四六節以下のところを、先ほど朗読いたしました。中渋谷教会では、このマルコによる福音書を少しずつ区切りながら、神の御言葉を聴き続けていますが、先週の聖書箇所はこの一つ前のところでした。三五節以下のところです。実は先週の聖書箇所にも、今週の聖書箇所にも、同じ言葉が出てきます。「何をしてほしいのか」(36、51節)。主イエスが同じ言葉で、別々の人たちに対して言われた言葉。意図的に同じ言葉が並べて書かれているとしか思えないほどです。
 先週の聖書箇所で、「何をしてほしいのか」(36節)と問われたので、主イエスの十二人の弟子たちの中のヤコブとヨハネという兄弟が、主イエスにこうお願いをしました。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」(37節)。主イエスが王座につかれる時、私たち兄弟をその右と左に座らせてください、という願い事です。他の十人の弟子たちはこれを聞いて腹を立てました。
 今日の聖書箇所では、「何をしてほしいのか」(51節)と問われたのに対し、目の見えなかった人が、「先生、目が見えるようになりたいのです」(51節)と答えています。主イエスからの同じ問いです。しかしまるで違う答え方を両者はしたのです。

3.一番の願い事が叶ったら、二番が一番になる?

 一つだけ願い事を言うことができるとすれば、誰でも自分の一番の願いを言うだろうと思います。ヤコブとヨハネの願いも、盲人の願いも、おそらくその時の一番の願いを言ったのだと思います。
 けれども、皆さまもどこかそう感じておられると思いますが、ヤコブとヨハネの願いは、盲人の願いに比べて、どこか違うと思われていると思います。そんな願い事をすべきなのか、と。何かが違うのではないか、と。そうだとすれば、何が間違っているのでしょうか。
 もしその一番の願い事が叶ったならば、その後はどうなるかということを、考えてみていただきたいと思います。ヤコブとヨハネの願いは、主イエスの左右に座りたいというものでした。もしこの願いが叶ったら、次の願いは何でしょうか。ずっとこの地位にとどまりたいと願うかもしれません。あるいは、自分たちの待遇をもっとよくしてほしいと願うかもしれません。あるいは、自分の身内の人も、同じように高い地位につけて欲しいと願うかもしれません。結局そうなると、願い事というのは際限がなくなります。一番の願い事が叶ったならば、二番目の願い事が一番に変わるだけです。小さな子どもが「お母さん、一生のお願い…」と言っているのを、誰でも聞いたことがあるでしょう。今日「一生のお願いをする」、明日また「一生のお願いをする」、来る日も来る日も「一生のお願いをする」、極端なことを言えば、そんなことが延々と続くのです。
 反対に、バルティマイの場合はどうだったでしょうか。バルティマイという名前は、「ティマイの子」(46節)という解説まで付けられています。バルティマイは「目が見えるようになりたいのです」(51節)という願い事をしています。切実な願いです。そしてこの願いは叶えられます。そうすると、このバルティマイは、また別の願いをしたでしょうか。そうはしませんでした。この人は、満たされて生きたのです。

4.「グリフィンの祈り」

 ヤコブとヨハネの願いのおかしさを考えてきましたが、この願い事では延々と願い事が続いていってしまうことが分かります。どこかで歯止めが、ストップがかけられなければなりません。どうすればよいでしょうか。
 ご紹介したい一つの祈りがあります。日本では「グリフィンの祈り」として知られている祈りです。この祈りは、いろいろな説があるようですが、アメリカの南北戦争を戦った一人の兵士の祈りであるようです。一説によると、戦争によって怪我を負ってしまい、思い描いていた人生ではなくなってしまった時に、神に向き合って紡ぎ出した祈りの言葉と言われています。このような祈りです。
 「大きなことを成し遂げるために 力を与えて欲しいと神に求めたのに、謙虚を学ぶようにと弱さを授かった。偉大なことができるように健康を求めたのに、より良きことをするようにと病気をたまわった。幸せになろうと富を求めたのに、賢明であるようにと貧困を授かった。世の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに、得意にならないようにと失敗を授かった。求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。神の意に沿わぬものであるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りはすべて叶えられた。私は最も豊かに祝福されたのだ」。
 この祈りをカトリックのグリフィン神父という方が日本語に訳したために、日本では「グリフィンの祈り」として知られています。とても心惹かれる祈りです。自分の願いは叶わなかったとはっきり言います。それどころか、自分が望まなかったものを授かってしまったと言います。しかし、私の願いは叶えられた、そのように最後のところで受けとめているのです。
 なぜ、この兵士はこのように変わることができたのか。傷を負い、思い描いていた人生ではなくなってしまったのに、そのことを受けいれることができた。なぜ受け入れることができたか。それは、神ときちんと向き合ったからです。神不在の祈りではないのです。神から自分の望まなかったこれらのものも、神から賜った、神から受け取った。そして逆説のようですが、そのような祝福を神から賜った。そのように受けとめたのです。

5.誰に願うか?

 何を願うかということよりも、誰に願うかということの方が、ずっと大事なことです。願っていることがあるのであれば、誰かにそれを願っているはずです。誰に願っているのかよく分からない場合、それは独り言にすぎませんし、ちょっとした自己満足で終わってしまいます。そうではなく、いったい誰に祈っているのか、そのことが大事です。そして、もしその願いが叶ったならば、叶えてくださった方への感謝を表すことが大事になってきます。しかもそれが一番の願いであったならばなおさらです。そのことによって私たちの生き方が変わってくるのです。
 バルティマイの場合もそうでした。目が見えるようになりたいというのは、当然の願いです。しかしこの願い事が叶ったならば、何が待ち受けているでしょうか。目が見える生活が待っています。バルティマイはこれまで「物乞い」をしていました。「道端に座っていました」。目が見えないから、このようにしていたのです。目が見えるようになったら、もうそういうことはできません。人の力に頼るわけにはいかなくなる。自分の力で生きていかなければならない。もちろん、バルティマイがそこまで考えていたかどうかは不明ですが、願い事が叶うということには、大きな責任が伴うのです。
 バルティマイは主イエスに願い事を叶えていただきました。その後、どうしたのでしょうか。「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」(52節)。

6.主イエスへのこだわり

 バルティマイは、今日の聖書箇所において、癒される前も後も、主イエスへの異常なこだわりを見せています。物乞いをしていたバルティマイは、「ナザレのイエス」(47節)がすぐ近くを通られていることを知ると、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(47、48節)と叫び、何度も叫び続けます。これまでにも、いろいろな人たちに「目が見えるようになりたいのです」と言ったことはあったでしょう。家族や友人に対して、医者に対して、物乞いの仲間に対して、道行く人に対して、そう何度も言ってきたことがあったでしょう。しかしこの場合は違いました。主イエスに異常なまでのこだわりを見せ、叫び続けます。「ダビデの子」というのは、来るべき救い主を表す言葉です。その救い主に対して、叫び続けた。
 そしてその声が届き、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」(49節)と言われると、「上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」(50節)とあります。大喜びをしながら、もう目が見えているかのような歩き方です。そして主イエスから「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(52節)と言われるほど、主イエスを信じ、主イエスにひたすら願ったのです。
 「何をしてほしいのか」(51節)、主イエスは私たちにも問いかけておられます。私たちが今、一番願っていることを、遠慮する必要はありません。主イエスに向けて祈っていただきたいと思います。そうすれば…、願い事が叶うとは申し上げません。願い事は叶うかもしれませんし、叶わないかもしれません。その願い事がやがて変わるかもしれませんし、もう願い続ける必要がなくなるかもしれません。
 しかしこれだけははっきりと言うことができます。「グリフィンの祈り」を祈ったあの兵士のように、イエス・キリストが必ずよいようにしてくださいます。落ち着くべきところに落ち着かせてくださいます。バルティマイのように、願い事から解き放たれて歩む、祝福された道が拓かれます。今日、ここに来られたお一人お一人に、よき道が与えられますように。

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