「平和の王が来られる」

本城 仰太

          ゼカリヤ書  9章 9節〜10節
              マルコによる福音書 11章 1節〜11節
9:9 娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。
9:10 わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。


11:1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、
11:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。
11:3 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」
11:4 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。
11:5 すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。
11:6 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。
11:7 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
11:8 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。
11:9 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。
11:10 我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
11:11 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。



1.大事な受難週

 中渋谷教会では、昨年の四月よりマルコによる福音書から御言葉を聴き続けています。今日から第一一章に入りました。全体のボリュームからすると、三分の二がすでに終わり、残すところがあと三分の一になったというところまで来ました。
 そして今日の聖書箇所から、いわゆる「受難週」の一週間の歩みが始まっていきます。受難週とは、主イエスが十字架にお架かりになった一週間のことです。主イエスが金曜日に十字架にお架かりになる。前日の夜が、いわゆる「最後の晩餐」です。その一週間、日曜日から始まる一週間のことを「受難週」と言うのです。とても大事な一週間です。
 他の福音書でもそうですが、マルコによる福音書では、この受難週の歩みがとても大事にされています。わずか一週間の出来事が、福音書全体の三分の一を占めている。この福音書を書いたマルコがどれだけこの一週間を大事にしたか、よく分かります。
 そしてこの受難週の歩みを書いていくのに際して、マルコは受難週の一週間の一日一日の歩みを大事に書いていきました。今日の聖書箇所が、受難週の日曜日の話です。来週の聖書箇所になりますが、第一一章一二節に「翌日」と記されています。これが月曜日です。そして第一一章二〇節に「翌朝早く」とあります。ここから火曜日です。火曜日はたくさんのことがあり、第一二章、第一三章はずっと火曜日の出来事です。第一四章一節に「過越祭と除酵祭の二日前」とあります。これが水曜日です。同じ第一四章一二節に「除酵祭の第一日」というのが木曜日です。この日の夜に「最後の晩餐」がなされます。そして主イエスが捕らえられ、第一五章の冒頭、「夜が明けるとすぐ」(一五・一)、ここから金曜日、十字架の一日が始まっていきます。土曜日は「安息日」と呼ばれる日で、外出することができませんので、この日の記述はありません。そして日曜日、第一六章の冒頭から復活の朝を迎えます。「安息日が終わると…」(16・1)。
 今後、このような流れで私たちは御言葉を聴いていきます。受難週の一週間がかなり色濃く記されています。以前、私は受難週の一週間の祈りを作成したことがあります。私たちが受難週を過ごすにあたり、祈りの生活をこの一週間、整えていただきたいと願い、日毎の聖書の箇所を選び、その箇所に沿った祈りを作り、印刷し、配布しました。いくつかの違うパターンを作りましたが、その中の一つとして、マルコによる福音書から、その曜日と同じ聖書箇所から選んで、作ったことがあります。主イエスの受難週の一週間の歩みを正確にたどることができるのが、このマルコによる福音書なのです。
 受難週の一週間の聖書箇所には、主イエスの歩みだけでなく、主イエスの弟子たちや周りにいた者たちのことも記されています。そういう人たちの姿の中から、自分の姿を見出して、受難週の祈りに自分の祈りを重ね合わせていく。教会はこの一週間の歩みをとりわけ大事にしてきたのです。私たちもこれからしばらくの間、受難週の聖書箇所を大事にし、御言葉を聴き続けたいと思います。

2.「平和の王が来られる」

 今日の説教の説教題を「平和の王が来られる」と付けました。今日の聖書箇所は、いわゆる「エルサレム入城」の場面です。「入城」というのは城に入るという漢字を書きます。エルサレムの都は城壁に囲まれていました。その町の中に入って行く場面です。他の福音書を読むと、主イエスはこれまでエルサレムに行かれたことはありましたが、マルコによる福音書の記述では、主イエスが初めてエルサレムに入城される。とりわけ大事にされている聖書箇所であると言えます。
 今日の聖書箇所の最初と最後にこうあります。「一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき」(1節)、「こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。」(11節)。主イエスがエルサレムに近づかれて、エルサレムに入城され、そこから出て行かれる。そんな場面です。
 説教題にある通り、主イエスが「王」としてお入りになる。ただし、普通の王とは違います。人々に認められて、王の位についたのではありません。いや、王と言うのも憚るくらい、実に控えめで、へりくだった王の入城なのです。
 先日、テレビを観ていましたら、ある国のリーダーが別の国を訪問し、その到着の場面が放映されていました。私たちもよく目にするニュースの一コマです。飛行機で空港に到着する。飛行機にタラップがつけられ、その階段から相手の国のリーダーが降りてくる。その人を階段下のところで丁重に迎える。階段から降りてきたら、そこに赤いじゅうたんが敷いてあり、その上を手を振りながら歩く。大勢の市民が旗を振って歓迎する。そんな様子が放映されていました。私はもちろんそんな経験がありませんが、そのように歓迎されたら、気分もよいのかもしれません。
 しかし主イエスはまったくそうではありません。人を威圧するような威厳ある偉い王としてエルサレムに入城されるのではなく、平和の王としてエルサレムに入られるのです。

3.ろば

 その平和の王の象徴として、ろばが出てきます。一節の後半から三節までお読みします。「イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」」(1〜3節)。
 今日の話は、主イエスが言われた通りに事が運んでいきます。主イエスがろばにこだわった。しかも子ろばです。なぜでしょうか。本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書のゼカリヤ書にこうあります。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。」(ゼカリヤ9・9〜10)。
 ゼカリヤ書のこの箇所は、どういう背景があったのか、具体的にはよく分からないところがあるそうですが、平和が踏みにじられている、むしろ力をもって支配されている状況があったのでしょう。そういう状況の中、救い主が来られる。その救い主は力をもって来られる救い主ではありません。「ろばに乗って」「雌ろばの子であるろばに乗って」来られるのです。そのような王のことが「高ぶることなく」と表現されています。
 とても不思議なことだと思います。普通、王と言えば、立派な馬にでも乗っているものです。それがろば。戦争ではまったく役に立ちそうもありません。しかも子ろばであり、「まだだれも乗ったことのない子ろば」(2節)です。ある人がこんな心配をしています。まだだれも乗ったことのない子ろば、ということは、初めて人を乗せることになる。その子ろばの上に主イエスが乗られて、子ろばは暴れなかっただろうか。さらに心配は続きます。子ろばがどのくらいの大きさだったのかは分かりませんが、大の男の大人が子ろばに乗る。子ろばはへばらなかっただろうか。主イエスの足が地面につきそうなくらいだったのではないか。そんな心配をしている人がいるくらいです。もちろん、そんなことは聖書には書かれていない。しかし、どう考えても、普通の王らしくないのは明らかです。
 しかも、この平和の王は、このようにして乗ることになった子ろばを、きちんと持ち主に返すのです。「主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります」(3節)。この世の王は、自分の権力ゆえに、何でも自分のものにしてしまいます。時には相手の命さえも、自分の意のままにすることができる。兵隊として命を差し出させる。何らかの労働のために力を差し出させる。奪い取ったら奪いっぱなしです。返すようなことはしません。しかし主イエスはそうではない。きちんとお返しになる。

4.主イエスをどこで見出すか?

 主イエスのこのような王です。このような主イエスのお姿は、この世の中の権威あるところで見出すのではありません。ある人が、マルコによる福音書のエルサレムに入城は「とても控えめ」だと言いました。どういうことか。実際の入城の様子はこう書かれています。「二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」」(7〜10節)。
 「二人の弟子」が自分の服をろばにかけます。「多くの人」が自分の服を道に敷きます。「ほかの人々」が葉や枝を道に敷きます。どのくらいの数の人がいたのかは分かりません。エルサレムの住人がこぞって出迎えたというわけではなさそうです。まだ城門の外です。もしかしたら、主イエスの弟子たちの身内だけで、こういうことを行ったのかもしれません。マルコによる福音書のエルサレム入城は、主イエスの弟子たちだけが九〜一〇節にあるような声をあげた、そういう静かな入城の仕方なのです。
 エルサレムの街の多くの人の目に留まらない、そういう目立たないところに、主イエスのお姿がありました。私たちが主イエスとお会いするのも、立派な宮殿でお会いするのではありません。むしろ私たちが気付かないような、目に留めないようなところで、主イエスと出会います。
 私は以前、ある方からこんな話を伺いました。その方はキリスト者で、世界の飢餓のために働いておられる方です。そういう使命に召されて、ある時、ある国で、いつものように食料を配っていた。そうしたら、その食料を受け取っている人たちの中に、ふと主イエスがおられるように感じた。
 その方は今までは、主イエスはいつも高い所におられ、栄光に輝き、立派な身なりをし、肌のつやもよく、威厳のあるお方だと思っていたそうです。しかし、食料を受け取る貧しい者たちの中に主イエスがおられた。その主イエスから、あなたは私に何をしてくれるのか、そう問われたような気がした。それが、その方の原動力となっています。
 主イエスは人の上に立つ、輝かしい王座におられるのではありません。低い所におられます。馬に乗るのではなく、ろばに乗っておられます。そのような低い所から語られた言葉、低い所に降られたお姿によって、世界をここまで動かしてきました。

5.「主がお入り用なのです」

 今日の聖書箇所に記されているように、主イエスのエルサレム入城は控えめな入城でした。この時点で、主イエスの弟子たちをはじめとする周りの者たちは、主イエスに何が待ち受けているか、ほとんどよく分かっていませんでした。
 しかし、私たちは自分自身の姿を、この聖書箇所に出てくる人たちの中に見出すことができます。私たちは、主イエスに遣わされた二人の弟子たちの中にいるでしょうか。私たちは、主イエスに子ろばを提供した者でしょうか。私たちは、道に服を敷いた者たちの中にいるでしょうか。私たちは、葉や枝を敷いた者たちの中にいるでしょうか。あるいは、ある牧師がこう言いました。「私はイエス様をお乗せするこの子ろばになりたい」。
 「主がお入り用なのです」(三節)。これは主イエスが私たちに教えてくださった言葉です。世界の飢餓のために働いておられる方も、主イエスと出会い、自分に与えられている小さな働きをしています。「主がお入り用なのです」、その言葉を信じて歩んでいるのです。
 主イエスの十字架への道行きが進んでいきます。私たちの罪を背負い、十字架にお架かりになります。王として十字架にお架かりになり、王の僕である私たちを救ってくださいます。
 私たちに何ができるでしょうか。私たちにできるのは小さなことです。子ろばを提供したり、子ろばを連れて来たり、服や葉や枝を道に敷いたり、できるのは些細なことです。しかし何よりも、主イエスを自らの王としてお迎えしたいと思います。私たち自らの罪を悔い改め、罪を赦してくださる王に感謝をささげる。些細なことかもしれませんが、決して小さなことではありません。まさにそのことを、主が私たちに求めておられるのです。
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