十字架の王・メシア

及川 信

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にする ところによって弁護することはない。 弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をも って地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。 正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。 狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそ れらを導く。 牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。 わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆って いるように/大地は主を知る知識で満たされる。 その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求 めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。」 イザヤ書11章 1節〜10節 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられ た。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、 御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、 天から聞こえた。 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒に おられたが、天使たちが仕えていた。 マルコによる福音書 1章 9節〜13節

 先月、『蟻の兵隊』というドキュメント映画を観ました。その映画を通して、軍司令官の 命令によって敗戦後も中国に残り、国民党軍と共に共産党軍と戦い、挙句の果てに捕虜に なり、筆舌に尽くしがたい苦労をした上で数年後に帰国してみたら、「脱走兵」として軍籍 から抜かれるという形で国家に見捨てられた人々がいることを知らされました。その映画 の中に、脳梗塞になって話すことが出来なくなった妻を介護している八十代半ばの方が登 場します。もう腰から上が九十度も曲がってしまったようなご老人ですけれど、その方が 中国転戦中に中国人に対して自分がやったことを捕虜収容所で書かされた文章が出てきま した。その内容の一部はこういうものです。従軍中に中国人の男性を道案内として同行さ せた上で、役目が終わると、「自分達の行程を知っているから生かしてはおけない」として、 銃剣で顔を突き刺し、さらに地面に倒れたその男性の血だらけの顔に直径三十センチほど の岩を投げつけて、顔を潰して殺した、というものです。今から六十年以上前に自分が書 いた文章を通して、自分がやったことを改めて思い出させられたその方の顔を忘れること が出来ません。その方は、目を真っ赤に充血させながら「まさに鬼だな、これは」と仰い ました。狂気にならなければ生きていけない戦場で、「鬼」として生きていた自分、むごた らしく人を殺し、婦女を暴行しながら生きていた戦場の記憶が一気に甦ってきて、恐ろし さに顔を引きつらせておられました。そのように無残な殺され方をした中国の男性は、も ちろん日本の兵隊に殺されたのですから被害者です。しかし、突然「お国のため」と戦場 に引っ張り出され、国家による殺人教育を受けて鬼となり、人を殺しながら生きるしかな かった若き兵隊もまた、日本の国家、その戦争責任者によって殺人者にされた悲しい被害 者であると言うべきではないだろうか、と思います。戦争における加害と被害の関係は非 常に複雑です。  先日は、イラク戦争を巡るドキュメント番組を観ました。その中に、今はカナダに逃げ 込んで亡命申請をしているアメリカ軍の脱走兵が登場しました。その若い脱走兵は、『蟻の 兵隊』に出てきた元日本兵の方も口にした言葉ですけれど、「軍の殺人マシーンになること に耐えられなかった」と言いました。彼の同僚の一人は、ある時、皆の見ている前で、イ ラク人の女の子を撃ち殺したというのです。理由は、銃を撃ちたくてうずうずしていたか らというものです。それだけのことで、一人の人が殺される。そして、そのことが殺人罪 として追求されることもない。私たちの娘が、そういう形で殺されたら、私たち夫婦は怒 りと悲しみに耐えることが出来るのか?想像することすらしたくないほどです。また、私 たちの息子が、戦場に駆り出されて、そういうことをしているとしたら、と思うと、それ もまた耐え難いことです。子供は、そのように殺されるために生まれてきたのではないし、 そのように人を殺すために生まれてきたのでもないのです。また、現在のイラクの街中に は、宗派の対立もあって首を切られた遺体が転がっていることがあるそうなのですが、ア メリカ軍の兵士達は、ある時、切り離された生首をボールに見立ててサッカーに興じ始め たというのです。その仲間達の姿を見て、彼は、これ以上兵士を続けていたら、自分も殺 人マシーンとなり、人間の心を失うと思い、一時帰国中に軍隊を脱走してカナダに逃げ込 んだのです。まともな人間として生きていきたかったからです。しかし、国家はそういう 青年を許すべからざる「裏切り者」として追及の手を緩めません。彼は人間としての良心 に従って行動したのだと認めたのは、彼の母親だけで、あとの親族や友人のすべては、彼 との交わりを一切絶ったそうです。彼はいつ何時アメリカに強制送還されるか分からない のですが、そうなれば、軍事裁判にかけられて極刑に処せられる可能性もあると言われて います。道路を歩いていた女の子をただ銃を撃ちたかったという理由で殺すことは罰せら れず、そんなことはしたくないと思って軍を脱走することは、許し難き犯罪として罰せら れる。軍隊とはそういう所でしょう。善悪、正邪の価値が通常の社会とは逆転しているの です。戦場では、人を沢山殺すことが良いことなのですから。  真に裁かれるべきは、どちらなのでしょうか?人を殺したくないという当然の願いをも って、その願いに従う人間なのか。それとも、命令のままに、あるいは命令されなくても、 殺すことに慣れてしまっている人間なのか。さらには、そういう人間を英雄だ、英霊だと いって誉めそやし、人を「殺人マシーン」にするために「愛国教育」をする国家、あるい はその権力を持っている人々こそ、裁かれるべきではないのか?しかし、そもそも人や国 家を裁くことが出来るのは一体誰なのでしょうか?戦勝国が敗戦国の戦争責任を裁くと言 っても、所詮それは強かった犯罪人が弱かった犯罪人を自分たちにとって都合の良いよう に裁いただけだという側面はたしかにあるわけでしょう。  今日与えられているイザヤ書の言葉は、紀元前八世紀に南王国ユダで活動したイザヤと いう預言者の言葉です。皆さんのお手許に、簡単な年表と地図をお配りしてありますが、 それを見ても分かりますように、その時代にも国家の分裂があり、国家同士の敵対があり、 アッシリアやエジプトという大国の横暴があり、小国の反乱があります。戦争があり、人 殺しがある。つまり、人間の歴史があるのです。『聖書』の言葉の背後には、いつもその時 代背景があり、具体的な歴史状況があります。今日の箇所について言えば、年表に印をつ けておきましたが、紀元前713年〜711年のアシュドトのアッシリアに対する氾濫の直後、 アッシリアがカナン地方に攻め上ってきた時代が背景にあると言われています。  イザヤの時代のユダ王国は、大帝国アッシリアの圧力を加えられると「王の心も民の心 も、森の木々が風に揺れ動くように動揺」したと、7章には記されています。そういう時 代に、預言者イザヤは、王のもとに派遣され、「落ち着いて、静かにしなさい。恐れるこ とはない。・・信じなければ、あなたがたは確かにされない」と語りかけます。しかし、 神の民であるはずのユダ王国の王も民も、預言者を通して語られる神の言に耳を傾けず、 大国の力を恐れて右往左往するだけでした。  そういう王と民に対して、神様はイザヤを通してこうお語りになりました。前のページ の十章二四節からお読みしたいと思います。 それゆえ、万軍の主なる神はこう言われる。「シオンに住むわが民よ、アッシリアを恐れ るな。たとえ、エジプトがしたように 彼らがあなたを鞭で打ち、杖を振り上げても。や がて、わたしの憤りの尽きるときが来る。わたしの怒りは彼らの滅びに向けられる。」  これは、アッシリアが攻撃してくるのではないかと恐れているシオン・エルサレムの民 に対する言葉です。ここで主は、彼らアッシリアを「恐れるな」と仰っています。何故な ら、イスラエルの神様である主の怒りは、アッシリアに対して発せられるからです。古代 から現代に至るまで国家の守護神というのは、そういうものです。イスラエルの神様も、 やはりご自分の民、またご自分が立てた王国だけを愛しておられる。だから、ユダヤを攻 めてくる者には怒りを発せられる。ここを読む限り、そう見えますし、そういう箇所は旧 約聖書にはいくつもあるのです。  しかし、その下のページの27節後半からは「敵の攻撃」という小見出しがついていま すけれど、そこを読むと一瞬茫然としてしまいます。32節から読みます。 「更に今日、彼らはノブに立ち 娘シオンの山、エルサレムの丘に向かって 進軍の手を 振り上げる。見よ、万軍の主なる神は 斧をもって、枝を切り落とされる。そびえ立つ木 も切り倒され、高い木も倒される。主は森の茂みを鉄の斧で断ちレバノンの大木を切り倒 される。」  ここに出てくる「彼ら」とは、イスラエルの敵であるアッシリア軍のことです。しかし、 33節に、「見よ」と注意を喚起されていますけれども、そのアッシリア軍を使って攻め上 ってくるのは、実は「万軍の主なる神」なのです。イスラエルの神主が、アッシリア軍を 用いて、ご自身が選び立てた王であるダビデの王国を攻撃し、滅ぼすということが、ここ では預言されているのです。 ここに出てくる「森」はユダの国民のことであり、「高い木」とか「大木」はダビデ王の 末裔、ダビデ王家のことであると言われています。神様が自然の森を切り倒すわけではあ りません。神を恐れず、恐れるべきではないアッシリアを恐れて右往左往するユダの王と その民に対して、神様が鉄槌を下される。これがイスラエルの神、また聖書の神様なので す。イスラエルの民族神でありつつ、世界の神、唯一神様なのです。そして、イスラエル を愛するが故に、イスラエルを裁く神様なのです。 その続きとして今日の一一章があります。 「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち・・」  「株」とは「切り株」のことです。つまり、鉄の斧で切り倒された大木の「切り株」で す。「エッサイ」とは「ダビデ王」の父親の名前です。ですから、その「支配は永遠に続く」 と神様に約束をされたダビデ王朝の滅亡が予言されているのです。何故、滅亡するのかと 言えば、歴代の王たちが、主を恐れ、主に従う信仰を捨てて、この世の力関係の中で右往 左往する罪に陥ってしまうからです。神様は、そういう現状に対して預言者を送り、繰り 返し、悔い改めを迫りましたけれど、結局、すべてが拒絶されてしまうのです。今後も、 その態度が変わらないとすれば、神様は必ず外国を用いてイスラエルを攻め滅ぼすことに なる。イザヤはそう語ります。 しかし、それは彼らを見捨てることではありませんでした。神様はここで、その切り株 から「ひとつの芽」、その根から「ひとつの若枝」を萌え出させ、また育たせると仰ってい るからです。つまり、これまでとは全く違う王、メシアをお立てになると、イザヤは預言 するのです。そして、その預言は、そのメシアの支配の下に生きる新しい神の民が誕生す るという預言でもあります。 「その上に主の霊がとどまる。 知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊。 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。」   旧約聖書においては、預言者も祭司も王も、主の霊が彼の上に注がれ、聖別のための油 が注がれて、メシア(油注がれた者)として立てられるのです。ですから、メシアとは主 の霊に導かれつつ、ひたすらに主の御心を尋ね求め、その御心に従うべき存在です。現実 の王たちは、しかし、その使命を果たしませんでした。しかし、イザヤは、いつの日か必 ず、主の霊が「降る」だけでなくその後もずっと「その上にとどまる」王、メシアがダビ デ王朝の「断絶後に」立てられるという幻を見させられ、それを語りました。 彼の上に「とどまる」霊とは、なによりも「主を知り、主を畏れ敬う霊」です。つまり、 主なる神様以外の何者も恐れず、ただ主だけを「畏れ敬う霊」です。その霊に満たされ、 主の御心を知り、その御心を行う王が、いつの日か必ず立てられる。イザヤは、神様にそ う告げられて、その希望をここに語っている。  この王、メシアが、「目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによっ て弁護しない」統治を始める時、そこに何が起こるのか?ここでイザヤは驚くべきことを 語ります。 「狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち 小さい子供が それらを導く・・・。」  これは自然界で敵対しているもの同士が、互いに和解し、共生するという幻です。もち ろん、先ほどの「森」とか「そびえ立つ木」や「大木」が、民衆や王家の人々あるいは王 その人を象徴しているとすれば、この狼とか小羊なども、利害の対立する大小様々な国々 だとか、階級の違う人々の比喩として解釈することもできます。しかし、それと同時に、 天地をお造りになった神様は、人間社会だけではなく、自然世界をもその支配に置かれる お方であり、その統治を御心に適う王、メシアに託するという思想が旧約聖書の中にはあ るのです。  つまり、11章で待望されているエッサイの株から出てくる芽、若枝の統治あるいは支配 領域は、ただ単にダビデの王国内に留まらず全世界に広がり、さらに自然界を含む世界へ と拡大していくことを、この言葉は予言していると言って良いのだろうと思う。  しかし、こういう社会と自然の両方を含む平和とは、いかなる時に実現するのか?それ が問題です。イザヤは、こう言います。  それは、主を畏れる霊に満たされたメシアの統治によって 「水が海を覆っているように 大地は主を知る知識で満たされ」る時、 「エッサイの根はすべての民の旗印として立てられ国々はそれを求めて集う。 そのとどまるところは栄光に輝く」と。 切り株から出た小さな芽、つまり、ダビデ王家の断絶後に新たに生まれる王は、世界大 の規模から言えば本当に小さなユダヤ人の王であるに違いないけれど、この王が統治を始 めれば、いつの日か、全地は主を知る知識で満たされ、すべての者が主を畏れ敬い、全世 界の敵対する者同士が互いに和解し、その和解と共生は人間と自然界との関係にまで及ぶ のです。これは実に壮大な幻です。  しかし、これは一人の夢想家による大言壮語に過ぎないのか、それとも語られると必ず 実現する神の言なのか?それが問題です。  端的に言えば、この預言は、その後の2700年余りの歴史の中で、まだ完全な意味で実 現していないことは、言うまでもありません。ユダ王国滅亡からおよそ2600年の時を経 て、「イスラエル共和国」が建国されましたが、それがイザヤの預言の実現とは程遠い現実 であることは、今まさにレバノン(ヒズボラ)との間の戦争報道によって、嫌と言うほど 知らされています。 この問題については、新約聖書のあちこちを読みながら語らなければならないことがた くさんあります。新約聖書のすべてが、ある意味では、「イザヤの預言、イザヤを通して語 られた神の言は、神の子イエス・キリストにおいてその実現が始まり、今も、継続中であ ることを告げていると言ってよい」と私は思いますけれど、今日はその一端をマルコ福音 書に見ていきたいと思います。  マルコ福音書の書き始めは、「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉です。 「キリスト」とはヘブライ語では「メシア」で、聖霊を注がれて神に立てられた王のこと です。そのイエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受ける場面は、このように記されて います。 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御 覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、 天から聞こえた。   「霊が天から降る」ことも、「神の子である」と宣言されることも旧約時代から、ある人 間がメシア、王として即位させられたことを意味しています。しかしここではさらに、こ の王こそは、その霊の導きに従って生きる神の「心にかなう者」であることが強調されて います。  そのことが次の段落でいよいよ明らかにされます。 「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、 サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」  誰が好きこのんで荒れ野になどいくでしょうか?王として立てられた者は、宮殿に住み、 美味しいものを食べながら生活するのが常です。しかし、このメシア、神に愛され、霊を 注がれ、霊に従うメシアは、荒れ野で40日間、ほとんど飲まず食わずの中、サタンから 誘惑を受け続けられたのです。その誘惑の内容について、マルコ福音書は沈黙しています。 けれども、とっても興味深いことに、その四十日間、「野獣がイエス様と一緒にいた」と記 されています。私たちが使っている新共同訳聖書では、「野獣と一緒におられたが、天使た ちが仕えていた」とあって、なんとなく、天使たちが危険な野獣からイエス様を守ってい たというイメージになりますけれど、私はそういうことではないと思っています。イエス 様は野獣を恐れる必要がないし、野獣もイエス様も恐れない。マルコ福音書は、このイエ ス様こそ、人の子の姿となって現われた神に愛される子、真のメシアであり、イザヤが預 言した自然界との間にある平和を、今こそ造り始めるお方なのだと、告げているのではな いかと考えています。  そして、その次の段落で、ヨハネ逮捕直後に、イエス様が伝道を開始されたことが記さ れていますけれど、その時の言葉は、こういうものです。 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」  イザヤの預言から700年余りの年月を経たこの時、ついに「時が満ちた」のです。何の 時かと言えば、「神の国」が地上に到来を始める時です。この「神の国」とはユダ王国とか、 アッシリア帝国とか、日本国という意味での国ではありません。神様の支配のことであり、 それは国境を越え、また時代を越えて、この時から世の終わりの時に至るまで、天と地の 両方に建設され続けている神の国のことです。この国の住人になるために必要なことは、 「悔い改めて福音を信じる」ことです。  「悔い改めて福音を信じる」とは何か?それは、今までの文脈に合わせて一言で言えば、 イエス様をメシア・王と信じ受け入れることです。つまり、この世の支配者とか自分の欲 望の言いなりに生きる罪人であることを止め、真の王であるイエス様の言いなりになる神 の僕として生きることです。それが悔い改め、生き方の方向転換であり、信仰の生活です。  しかし、そこで問題になるのは、イエス様とはどういう意味で王、メシアなのかです。  この後、イエス様は弟子たちを召し出し、その弟子たちに様々な方法を通してご自身が 王として支配される「神の国」とは何であるかを教えていかれることになります。そんな ある日、イエス様と弟子たちがガリラヤ湖を小さな舟で横断することがありました。その 時、突然の嵐となり弟子たちはパニックになりました。でも、イエス様はその嵐の中でも 平然と眠っておられたのです。弟子たちは、「ここで自分達が溺れ死んでも構わないのです か?!」とイエス様をなじりながら起こしました。すると、イエス様は「風を叱り」、湖 に「黙れ、静まれ」と仰った。すると風はやみ、凪になりました。弟子たちは、「非常に 恐れて、『いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか』と互い に言った」とあります。ここにも自然界をも含めた神の国の姿と、その国を統治するメシ アの姿が記されています。つまり、イザヤが預言した切り株から出てくる若い芽の姿が、 記されているのだと思います。  そして、このイエス様の地上の歩みは、十字架に行き着くことになります。主イエスは 裸にされ、鞭打たれ、茨の冠をかぶせられて十字架につけられました。その十字架に掲げ られた罪状書きには「ユダヤ人の王」と書かれていました。それは、ユダヤ人にとっては 「メシア」という意味なのです。その称号を、彼らは嘲りの意味で掲げたのです。イエス 様を十字架につけた祭司長や律法学者たちは、そのイエス様を見て、「他人は救ったのに、 自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見た ら信じてやろう」と言って嘲りました。  しかし、実はこの方こそ、真にユダヤ人の王、メシアであり、この十字架の上こそ、神 の愛する子、その御心に適う子が、一度は着かねばならない王座なのです。霊に導かれ、 荒れ野でサタンの誘惑を受けつつ、世界中の平和、自然界を含めた平和を打ち立てるため に立てられた王、メシアは、この十字架にその王国、神の国、神の支配の土台を据えたの です。  それはどういうことか?もう今更言うまでも無いことですけれど、私たち人間にとって の本当の敵は、誰でしょうか?国、国家というものがある場合、敵国とか敵国人というも のがいる、あるいは作り出されていくことは、私たちは歴史の中で繰り返し経験して、知 っていることです。しかし、そういう人為的に作り出された「敵国人」が敵なのでしょう か?その敵国を滅ぼし、また敵国に属する兵隊とか民間人を殺していけば、平和が樹立さ れるのでしょうか?五族協和とか大東亜共栄圏とか、第三帝国建設とか、世界平和樹立と か、自衛のためだとか、様々な名目でこの世の支配者が戦争を引き起こしますけれど、そ の戦争で平和が樹立されたためしはありません。その戦争によっては憎しみや怨念が植え つけられるだけで、数年後、あるいは数十年後の、次の戦争を準備しているのです。 ですから、私たちが滅ぼさなければならない敵、勝利しなければならない敵、それは敵 国とか敵国人とかテロリストだとかではなく、すべての人間を支配し、神様から引き離そ うとする罪であり、サタンであり、悪魔なのです。「サタン」とか「悪魔」とかいうと、あ まりに前近代的でゾッとする方もおられると思いますけれど、漫画に描かれるような目に 見える存在を言っているのではありません。しかし、目には見えなくとも、私たちが身体 感覚的に感じることが出来る悪の力は確かにあるのではないでしょうか。私たちはその力 に負けて、鬼にも畜生にもなるのです。「鬼畜米英」とか言って、アメリカ人、イギリス人 を「鬼畜生」呼ばわりしている日本人が、実は鬼になり、テロリストを「悪魔」呼ばわり しているアメリカ人、あるいは自称「文明人」が、あまりにも野蛮な方法で人を殺し続け、 虐待を続けている。そういうことは世界中の各地で、いつの時代も必ずあります。そうい う現象を、聖書的、あるいは宗教的にはサタンの誘惑に負けているとか、悪魔の仕業、ま た罪の奴隷としての人間の業などと表現するのであって、昔は悪魔がいたかもしれないけ れど、現代には悪魔など存在しないと言ってしまうわけにはいかないでしょう。少なくと も、どこかの国の大統領も首相も主席も総書記も、過激派の指導者達も、そして、私たち 一般人も、皆、誰も彼も、罪の支配に服しているということ、その力には勝てないという ことを、私たちは知っているし、知っていなければならない。そういう知識こそ身につけ なければならないと、思います。そして、その知識こそが、主を知る知識と結び付いてい くのです。  旧約聖書における主なる神様は、全世界の罪人と新しい契約(新約)を結ぶために、ご 自身の子を世に送り、聖霊を注いで、人間社会と自然世界のすべてを統治するメシアとし てお立てになりました。そのメシアの使命、それはすべての人間を支配下においている罪 に対して完全に勝利することです。そのために、主イエス・キリストは、即位と同時にサタ ンの誘惑を受け、それに打ち勝たれました。そして、野獣と共に過ごし、風や波を鎮め、 最後に、人間を完全に支配している罪とその結果である死に対する勝利を収めるために罪 と戦って下さったのです。その戦いは、イエス様が十字架に掛かって罪人の身代わりに死 ぬこと、神様の敵である罪人が受けるべき裁き、死の滅びを、イエス様は身代わりになっ てその身に受けることにおいてなされた戦いです。嘲られ、罵られながら、嘲り、罵る者 の罪が赦されるために死ぬ。神様に見捨てられて死ぬ。実は、その姿、茨の冠をかぶせら れて十字架につけられたその最低最悪の姿こそ、神様が立てた最終的な王、メシア、キリ ストの姿なのです。この方こそ、罪に勝利をされた方だからです。  今から六十年前、つまり第二次世界大戦の直後、カトリックの神父さんの呼びかけで、 中世以来巡礼の町として有名なフランスのヴェズレーという町の教会で平和を望む合唱祭 が開催されたそうです。その神父さんは、戦争を引き起こし、互いに殺しあった罪を悔い 改め、平和を求めて集まり、祈りと賛美を捧げようと呼びかけた。するとヨーロッパの各 地から、多くの人々が大きな木の十字架を背負って、その町に集まってきたのです。その 時、最後の方から、ドイツの軍服を着た兵隊達が、やはり十字架を背負ってやってきまし た。つい先日まで、自分達の国々を蹂躙して、多くの人々を殺したドイツの兵隊達が歩い ている。普通だったら、皆で石や棍棒を持ってきて滅多打ちにしてしまうところでしょう。 でも、誰もそんなことはしなかった。皆、黙って、彼らを迎え入れ、そして共に平和を求 めて歌ったそうです。そんなことは、そこに十字架の主がおられなければあり得ないこと です。十字架の主の統治の下に、罪の力、サタンの力が屈服させられていなければ、人々 は憎しみと怒りに駆られてリンチをしたでしょうし、そうでないとしても彼らを追い出し たでしょう。しかし、ドイツ兵もまた十字架を背負い、罪の赦しを乞い求め、神の国の実 現、平和の実現を祈り求めてやってきたが故に、誰も彼もが彼らを迎え入れ、共に罪を悔 い改め、平和を求めて賛美を捧げることが出来たのです。  その歌はロマン・ロランの作詞のようですが、こういうものです。 いつの日か やってくるでしょう 人々が理想の世界を知るときが ライオンのような獰猛な動物でも 羊をいつくしむ時が サーベルをつぶして、鍬を作るときが いつの日か平和がやって来ますように  この歌は、明かにイザヤ書一一章と、時代的にはイザヤの最後の預言とも言われる二章 の言葉を背景にした歌です。イザヤ書二章には、終わりの日には全世界の国民がエルサレ ムを目指してやってくる。主の教えを求めてやってくると預言された上で、こうあります。 「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。 彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。 国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。 ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」  いわゆるキリスト教国もイスラム教国も仏教国もヒンズー教国も、どの国も、正義と平 和のための戦争をしています。皆、罪の支配に負けているからです。私たちは、十字架の 王、メシアの下から離れたり、その方から目を逸らせてしまえば、あっと言う間に罪の支 配に陥ってしまい、善悪の基準すら正反対になってしまうのです。  今日私たちは心新たに、ご自身に敵対する罪人である私たちが、神様に赦されるために 身代わりに死んでくださった十字架の王、メシアを見つめましょう。ただこの方だけが、 罪を支配し、敵意や憎しみを愛と赦しに変えてくださるお方なのです。そして、戦争は最 大の自然破壊でもありますけれど、神様がお造りになった世界に調和をもたらしてくださ るのも、このお方なのです。十字架の主、この方だけが復活し、天に昇り、神の右に座し、 私たちに聖霊を注いで下さる王なのです。この方が統治をされる神の国は、聖書にしるさ れている福音を聞いて信じ、その信仰によって生きる者たちには現前しています。私たち は、地上的な意味では、「日本国民」でありますし、その責務を果たすべきです(その点に ついては二十七日の礼拝で御言に聞きます)。しかし、本質的には「神の国」の住民である 私たちは、もはや武器を作ることも、手にすることもしません。最早戦いをしません。国 家の命令ではなく、主の教え、その言葉を学び、その教えに従って生きるのです。主の光 の中に、歩むのです。私たちは「剣を持つ者は剣によって滅びる」と仰りつつ、何の抵抗 もしないで十字架につけられた方を王として信じているのですから。その王に従って歩み ましょう。そこにこそ真の平和があるのです。そして、その私たちの歩みを主は共にし、 私たちの生きるところに「神の国」をもたらしてくださるのです。
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