自由と服従

ペトロの第一の手紙2章11節〜25節 及川 信

 先週は七條先生に『羊飼いの眼差し』と題する説教を頂き、罪によって迷い、
疲れ果てている私たちを、腸を痛めるような愛をもって見つめ、憐れみ、助け起
こしてくださる主イエスの愛を知らされたことです。今日の箇所は、それとは全
く関係なく、随分前に選んだ箇所ですけれど、今、お読み頂いて分かりますよう
に、ここにも「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者
であり、監督者である方の所へ戻って来たのです」という御言があります。「魂
の牧者」「監督者」がいてくださる。「わたしたちが罪に対して死んで、義によっ
て生きる」ようになるために「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪
を担って」くださったイエス様が、私たちの魂の牧者、監督者であるということ。
そのことを信じることが出来る幸い、平安。それは他の何ものにも替え難いもの
であることは言うまでもありません。今日の御言も、この幸いと平安の中で、主
の言葉として聴き、さらに従ってまいりたいと思います。
 今日の礼拝で聴くべき御言としてこの箇所を選んだことには理由があります。
八月は、私たちの国においては、特に平和を祈念する月であることは言うまでも
ありません。『聖書』でいう「平和」とは、「戦争」の反対としての「平和」とい
うだけでなく、今言いましたような「幸い」とか「平安」、つまり、私たち人間の
罪が赦されて、神様との間に良好な関係を持つことが出来る状態、つまり、義に
よって生きる状態を指しますから、必ずしも戦争との関連で使われるわけではな
いし、その関係でのみ使うべき言葉でもありません。しかし、戦争が、私たち人
間の罪の結果として最悪と言ってよいものである限りにおいて、戦争に対比され
て平和という言葉を使うことは、正当だと思います。
 そして、戦争という場合、それは個人と個人の間に起こることではなく、大き
な集団と集団の間に起こることです。部族、民族、そして国と国の間で戦争は起
こります。この国で今生きている私たちの場合は、戦争を部族同士とか民族同士
のものとしてではなく、国、国家が国民を動員して引き起こすものとしてイメー
ジします。そういう国、あるいは国家に対して、私たちはどういう態度を取るべ
きなのか?それは一人一人の国民として極めて大事な問題ですし、さらに一人一
人のキリスト者としても極めて大事な問題です。
 戦争を引き起こす国家、そしてその指導者たちに対して、肯定的な人は、少な
くとも日本のクリスチャンの中にはあまりいません。多くの人は、戦争を引き起
こした国家とその指導者に対しては批判的です。私もその一人です。しかし、そ
の場合、天皇をどう考えるかに関しては、人それぞれでしょう。最高責任者とし
て戦争犯罪を追及されて死刑にされるか、あるいは退位させられるべきだったと
思う方もいるでしょうし、自ら退位すべきだったという方もいるだろうし、天皇
には責任はないのだ、天皇はいつまでも日本国民の象徴、あるいは心の拠り所と
して存在し続けてもらわねば困ると思う方もいらっしゃるでしょう。
 天皇という日本独特の存在には、今日は触れませんけれど、国、国家とキリス
ト者、またキリスト教信仰とはどういう関係にあるのか?この問題について、今
日の御言に聞いていかねばならないと思ったのです。
 今月は13日にイザヤ書11章の御言を読み、また平和祈祷会では詩編46編の
御言を読みました。いずれも国と国の間に引き起こされる戦争を背景にしており、
ある意味では、王を初めとする国の指導者達の姿勢を根本的に否定している体制
批判の言葉として読むことが出来ます。そういう体制批判、反体制的、反国家的
な言葉は、聖書の中にはいくらでも探し出すことが出来ます。
 そもそも聖書の中で国、国家というものが、どう考えられているのかと問い始
めれば大変なことになりますし、先ほどから「国」とか「国家」と言って、敢えて
曖昧な言い方をしていますが、日本語で「国」と言えば、「お国はどこですか」とい
う言い方にも現われますように、故郷、出身地である場合もあります。英語でも
ステイツとかネイションとかカントリー、キングダムなど、いくつかの言い方が
それぞれに重なり合いつつ、国土や国民や国の支配形態などなどを表わしていま
す。要するに非常に漠然とした意味になるのです。この国の次期総理大臣確実と
言われる方の最近の著書の名前は『美しい国へ』というものですが、その「美し
さ」は自然のことなのか?「国」とは自然風土のことなのかと言えば、やはりそ
うではないでしょう。政治、文化、伝統などを考えてのことだと思います。そう
いうものを含めて「国」という言葉が使われるので、考えてみると、実に難しい問
題をはらんでいるのです。また聖書が書かれた古代社会の国家と、近代の国家で
はもちろん性格が違うわけですし、聖書に出てくる国々を現代の国々と同一視す
るわけにもいきません。
 そこで今日の主題である「自由と服従」ということに限定して、聖書が国家に
関して何を言っているか、そして、その国家の中で、神を信じて生きる民、私た
ちの場合で言えばキリストを牧者、監督者として生きる人間の生き方はいかなる
ものであるのかについて御言から示されたいと願っています。
 聖書において国家が出てくるのは、言うまでもなくエジプトがその代表です。
エジプトは古代国家がいずこもそうであったように神々の支配によって成立して
いた国家であり、王は時に神王、つまり自身が神として君臨しました。古代社会
は祭政一致社会ですから、近代におけるような世俗国家ではなく、国そのものが
宗教的なものであり、国とその象徴である王に対して忠誠を尽くすことは宗教的
行為でもあったのです。明治以降の日本は近代国家でありつつ、次第に現人神天
皇を中心とした「神国」という宗教国家になっていたのだと思いますけれど、そ
ういう宗教性を国家そのものが持つときに忠誠は礼拝行為となる。戦争で死ぬこ
とも、永遠の英霊として花を咲かせる礼拝行為となっていくのです。
 そういうエジプト帝国から脱出したイスラエルは、その途上で、神を絶対者と
してその言葉に完全に服従することを誓う「民」として成立しました。(そのこと
に関して、今日発行される「会報」の巻頭言に記しておきましたので、お読みくだ
さい。)イスラエルという名前そのものが「神の支配」を表わすと言われますし、新
約聖書に出てくる「神の国」という言葉は、まさに「神の支配」と訳すことが出来る
言葉です。
 その「神の民」イスラエルが約束の地カナンに定着して以後、周辺の諸国から
の侵入、あるいは侵略に対抗する必要上、自分達の「国」(当時「国」と言えば、
王を戴く「王国」ですけれども)を持ちたいと願うのです。その時代から、神様へ
の信仰と服従と国あるいはその支配者への忠誠とか服従が二極化し、互いに緊張
関係に入り、ある時は完全に矛盾し、対立する関係に入っていくことになります。
 その辺りの事情は、「サムエル記上」の前半に記されていますから、後でお読み
になると良いと思いますけれど、自分達も王が欲しいと当時の指導者であったサ
ムエルに願う民に関して、神様はこう告げます。

「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたで
はない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。(中略)今
は彼らの声に従いなさい。ただし、彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する
王の権能を教えておきなさい。」
 サムエルは王を要求する民に、主の言葉をことごとく伝えた。 彼はこう告げた。
「あなたたちの上に君臨する王の権能は次のとおりである。まず、あなたたちの
息子を徴用する。それは、戦車兵や騎兵にして王の戦車の前を走らせ、千人隊の
長、五十人隊の長として任命し、王のための耕作や刈り入れに従事させ、あるい
は武器や戦車の用具を造らせるためである。(中略)あなたたちの奴隷、女奴隷、
若者のうちのすぐれた者や、ろばを徴用し、王のために働かせる。(中略)こうし
て、あなたたちは王の奴隷となる。その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえ
に、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない。」
                  (サムエル記上八章七節〜一八節抜粋)

 その後、サムエルはサウルに油を注ぎ、次にダビデが王位につきイスラエル王
国が誕生し、ダビデを継いだソロモンの時に繁栄を極めましたが、それは堕落と
背信の結果でもあり、ソロモンの死後は南北王国に分裂し、それぞれアッシリア
やバビロンに滅ぼされて、彼らの王国は完全に滅亡したのです。
 つまり、旧約聖書において王国は、ある意味で必要悪として誕生し、他面では
神様からの試験として与えられた賜物という面があります。そして結局、歴代の
王たちは神の言葉に従うことをしなかったが故に、その試験には落第してしまい、
「王国」という国の形態は、以後イスラエルにおいてはなくなりました。
 しかし、「イスラエル」つまり「神の支配」がなくなったわけではありません。
神様は、王国滅亡後もイスラエルの神として、世界にご自身の支配をもたらすた
めに民を厳しく、そして、憐れみをもって導き続けます。
 今月の13日の礼拝における説教題は「十字架の王、メシア」です。そこで語
ったことは、時が満ちた時に、神の子イエス・キリストが自然界をも含む形で神
の支配(神の国)をもたらす王として到来したのであり、その王は十字架につけ
られた王であり、そうであるからこそ復活され、今は神の右の座に座しておられ
るのだということです。そして、私たちは日本国民であると同時に、キリストが
王である神の国、新しいイスラエルに属しているのであって、キリスト者として
は、「剣を持つ者は剣によって滅びる」と仰り、十字架に向かわれたキリストに従
う以外に道はないのだ、という趣旨のことを語りました。そして、その時に、国
民として生きている現実については、27日に御言に聴くこととすると付け加えて
おきました。
 そこで今日の御言です。主イエスは国としては当時のローマ帝国に属しており、
社会としてはユダヤ人社会に属していたと言ってよいかもしれません。そして、
ユダヤ人社会から神を冒涜する大罪人として訴えられつつ、ローマ帝国の権力に
よって殺されたのです。ローマはローマの宗教がありますけれど、宗教的な罪人
として殺されたのではなく、世俗的な意味で犯罪人として法に従って殺されたと
いう建前になっています。ことは複雑で、宗教と政治、社会と国家、ユダヤ人と
異邦人、そういう様々な要素が絡まる形で、主イエスは殺されました。これはリ
ンチではなく、公権力の執行としての死刑です。
 今、公権力と言いました。主イエスを殺した公権力という側面から言うと、何
か権力は悪いものだという印象を持ってしまいますが、たとえば私たちが連日嫌
でも目にしたり耳にしたりする様々な犯罪がありますけれど、そういう犯罪を取
り締まったり、犯罪者を捕まえたり、正規の裁判にかけて法に従う裁きを与える
ということがなされなければ、それは無法地帯ということになります。無法地帯
となれば、略奪、暴行、殺人をやりたい放題ということですから、つまりは弱肉
強食であって安心して外出も出来なくなります。そういう意味で、国家があり公
権力があるということは、人間がどうしようもない罪人である限り必要悪であり、
現段階では絶対に必要だし、私は分かりませんけれど、恐らく世の終わりまで必
要なのだろうと思います。
 しかし、その一方で国家というのは、所謂「自存自衛」のためにであっても、
戦争を始める場合があり、そうなった時には、先ほどの神様の言葉の通り徴兵を
しますし、徴用をします。国民の命も財産も、すべて国家のために、あるいは特
定の人物や階層のためにすべてを供出させるのです。つまり、国民を守り、国民
のために存在している国家であっても、時と場合によっては、国家のために国民
がいるとなっていく。主客が転倒し、本末も転倒していくのです。国家とはそう
いう側面を持っている。
 そして、キリスト教会とはその誕生の当初は、国家とは全く別の集団でした。
ユダヤ教の社会の中では異端視された集団でしたし、ローマ帝国内の諸宗教の一
つに過ぎませんでした。しかし、諸宗教と違う点は、唯一絶対の監督者を持って
いるということです。つまり、自分たちが従うべき存在を具体的に持っており、
それ以外の者の命令には、たとえローマ帝国の皇帝であっても従わないという点
で、他の諸宗教の信者とキリスト教の信者は違っていたのです。当時の国家はロ
ーマ帝国であり、ローマ帝国の皇帝はしばしば皇帝崇拝をその支配領域の民衆に
求めましたし、皇帝の軍隊に徴兵することもしました。しかし、新しいイスラエ
ルとしての教会は、ただキリストのみを王(メシア)とする神の国であり、キリス
ト者の国籍はその本質において天にあると信じていますから、徴兵は拒否したの
です。当然、迫害がありました。もちろん、迫害を恐れて信仰を捨てる人々もい
ました。しかし、捨てない人も沢山いたし、伝道はどんどん進展していき、つい
に四世紀にはローマの国教ということにまでなりました。そして、そのことが多
様な価値観を包摂していたローマ帝国を滅亡させる第一歩だったという評価が一
方ではあり、他方では、このことでキリスト教信仰はその生命を失ったのだとい
う評価があります。ローマは国家体制の基盤をキリスト教に置くことで、キリス
ト教徒を徴兵できるわけだし、ローマ帝国の繁栄は神の国の繁栄だということで、
他国との戦争も神の戦争、あるいは神のための戦争だという大義名分が立つよう
になったのです。キリスト教徒も最早迫害がなくなった代わりに、皇帝の軍隊に
入って、皇帝のために戦争をすることが当然ということになってしまった。それ
までは、神への服従をするが故に、皇帝には服従しないという信仰の自由を持っ
ていたのに、以後は、皇帝への服従は神への服従であるということになり、信仰
の自由を失っていくということにもなっていったのです。その流れが、十字軍で
あり、さらに帝国主義的侵略であり、現在のアフガニスタンとかイラクにおける
キリスト教国家であるアメリカの戦争に繋がっているという面があります。国家
と宗教が一つになると、どうしてもそういう面が出てくるのです。つまり、伝道
の勝利が信仰の敗北という皮肉な結果をもたらす場合があるように、私には思え
ます。
 聖書は、そういう問題についてどう言っているのか?これもまた一筋縄ではい
きません。最近の説教でも語ったことですが、戦争に関する記述ひとつとっても
様々です。国に対する評価だって先ほど読んだように、否定的な部分と極めて肯
定的な部分の両方があります。つまり、聖書は非常に現実的な書物であって、画
一的、教条的、短絡的な書物ではないのです。今日の箇所も、そういう箇所の一
つです。しかし、そうではあっても聖書が聖書である限り、そこを貫いているも
のがあることもまた事実であり、そうでなければ、私たちが今、神の言として聴
く意味もないでしょう。その貫くものについて聖書は何を言っているのか?それ
が今日の問題となります。

「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なの
ですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。 また、異教徒の間で立派に生
活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あな
たがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。」

 ここに「旅人」とか「仮住まいの身」という言葉が出てきます。キリスト者とは、
この世、あるいはこの地上を旅しながら歩む者であり、決して、この世あるいは
地上が永遠の住いではないということです。つまり、キリスト者とは、天を目指
して歩む旅人であり、世の終わりに完成する神の国、神の支配の中に既に信仰に
おいて生きている者であるということです。パウロという人は、フィリピの信徒
への手紙の中で、「わたしたちの本国は天にあります」と言っていますが、それと
同じことがここで言われていることです。
 ということは、私たちが忠誠を尽くすべきは本国である天、天国、つまり神様
であり、それ以外のものではないのです。これは旧約聖書も新約聖書も一貫して
いるのです。しかし、旧約聖書と新約聖書において、神様のあり方が決定的に変
わっていることも事実だと思います。前回の説教で読みましたように、旧約聖書
における神様は具体的な戦争の中でご自身が戦われます。ある時は、イスラエル
に味方し、ある時はイスラエルに敵対して戦争の中でもご自身の力を発揮された
のです。その目的は、何よりもイスラエルの中でご自身が神として崇められ、そ
の礼拝の姿を通して全世界にご自身の栄光が現れ、御名が崇められるためです。
いつの日か主を知る知識が全地に満ち溢れるとき、すべての武器が焼き払われ、
人間と人間に留まらず、猛獣と人間が共に生きる世界が出現し、その日にはすべ
ての民がエルサレム神殿で主を礼拝するという壮大な規模の預言がありますけれ
ど、その神の支配の実現に至る一つの過程において、武器を取って戦う戦争もま
た用いられたのです。
 しかし、ご承知のように、新約聖書においては、具体的な戦争の記事はありま
せん。神様は武器を取って戦えとお命じにはなりませんし、戦争の中にご自身の
存在とか力を啓示されることもありません。神様は、どこにご自身の存在とその
力を啓示されたかと言えば、ご自身の独り子であるイエス・キリストの中に、そ
の十字架と復活の出来事の中に、ご自身の存在とその力を現わされたのです。そ
して、イエス・キリストは「剣を持つ者は剣によって滅びる」と仰って、無抵抗の
まま逮捕され、十字架につけられて殺されました。しかし、この十字架こそ神が
立てた王の徴なのです。何故かと言えば、この十字架において、イエス様は「自
らその身にわたしたちの罪を担い」「わたしたちが罪に対して死んで、義によっ
て生きるように」して下さったからです。この「わたしたち」とはどこかの国に
属している「わたしたち」、たとえば日本人とかアメリカ人とか中国人という意味
ではなく、すべての人間を意味する「わたしたち」です。つまり、何人と何人の
戦争というようなものは新約聖書にはなく、かつてエジプトの奴隷であったイス
ラエルの民を解放して、神の僕とするために、神様はエジプトと戦ってください
ましたように、新しい契約においては罪の奴隷である私たち人間を解放して、神
の僕として永久に生かすために、神様はイエス・キリストを通して罪と戦い、勝
利をして下さったのです。それがイエス・キリストの十字架と復活、さらに昇天
という出来事に現われており、そのようにして、神の国、神の支配を天上と地上
を貫く形で打ち立てて下さったのです。
 そして、そのキリストによる罪と死に対する勝利という福音を信じて洗礼を受
けた私たちは、最早、その本質において神の国に属しており、この世の国には属
していません。私たちは、死んでこの国の神として祀られるわけではなく、天国
に迎え入れられるのですし、そこにはありとあらゆる国々でキリストへの信仰に
生きた人々が迎え入れられているのです。そして、そこが私たちの本籍なのです
から、地上の国籍の違いによって、殺し合うなどということは、愚の骨頂という
か、神様の御心に反することこの上ないことです。
 しかし、その神の御心に反することを、この世の統治者がやろうとする場合、
どうするのか?それが結局、今日の問題になるのです。皆さんはどうされるので
しょうか?
 たとえば今の日本政府は、アメリカが進めるグローバル化に乗って、米軍基地
の再編に協力し、これまで以上に、日本の国をアジア諸国に対するアメリカの不
沈空母化する動きをしており、アメリカと共に戦う備えを着々としています。学
校教育現場における日の丸掲揚、君が代起立斉唱の強制、また愛国心教育も、そ
の一環でしょう。
 そういう状況がどんどん進展していき、いつの日か、いわゆる有事が起こる場
合、政府だけでなく、一部の狂信的な愛国主義者たちが、最近もある政治家の家
に放火するという恐るべきことをしましたけれど、暴力的な脅迫によって言論を
弾圧してくるでしょうし、隣近所の間柄でも油断も隙もないという状況になるこ
とは、これまでの歴史からも、人間の心理からも明らかなことだと思います。
 そういう現実の中で、「悪人呼ばわり」されながれも「異教徒の間で立派に生活」
するということは、具体的にはどういうことなのか?また、人間の立てた制度に
従うとは、どういうことであり、統治者に「服従しなさい」とはどういうことな
のか?「戦争に行って人を殺して来い」と言われれば「ハイ」と言って出かけるこ
とが、ここで求められているのか?
 もし、そうだとすれば、17節にある「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏
れ、皇帝を敬いなさい」とは一体どういうことなのか?「すべての人」には所謂
敵国の人も入るわけでしょう。人を敬いながら殺すことは出来ないはずです。し
かし、敬うべき皇帝が、「戦争に行け」と言うなら、それに対して、どう対応する
ことが、神に服従すべき神の僕としての行動なのか?
 こういう具体的な問題になりますと、一般論では言えないのです。たとえば、
明治時代に時の政府に刃向かって「非戦論」を唱えた内村鑑三という人は、家族
を持つ男性が徴兵を拒否すると言った時に、「家族のことを考えろ」と言って、徴
兵に応じるように促し、但し、戦場でも敵を銃で撃つなと言ったそうです。つま
り、徴兵拒否によって本人が牢屋に入れられるだけでなく、非国民を生んだ家族
というレッテルが貼られた家族が味わうであろう塗炭の苦しみを思うと、徴兵に
は応じろ。しかし、殺すな、と言ったということでしょう。だとするなら、家族
がいなければ、拒否しろということになります。拒否することは、20節にありま
すように、「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心
に適うこと」になるのか?それとも統治者への服従を命じる神様の御心に背くこ
とになるのか?
 たとえば絶対非戦論をとれば、何が何でも銃を手にしないし、まして人を殺す
ことをしないということになります。第二次世界大戦の時にアメリカのキリスト
教の一派はその立場をとって有罪となり刑務所に入ったといわれます。しかし、
代わりは幾らでもいるのであって、自分は確かに人殺しの罪を犯さなかったかも
しれないけれど、他の人に犯させる結果をもたらしたことになります。あるキリ
スト者、こちらの方がはるかに大勢であったのですが、その人たちは相対的非戦
論を取りました。人殺しは確かに悪いことであり、神の御心に背くことだ。しか
し、現在ヨーロッパでナチスがやっているユダヤ人やジプシーや障害者などの大
量虐殺と領土侵略は、絶対悪であり、その悪を放置しておくことは、悪に加担し
ているのと同じだ。その悪を阻止するために戦争に参加し、人を殺すことは悪で
はあっても、絶対悪ではない。絶対悪を阻止するための相対悪だということでナ
チスとの戦争に賛成する。そういう人々もいた。
 どちらが正しいのか?私には分かりません。ただ、私たちはそれぞれに神の僕
として、この世の束縛からは自由にされた者として、神に服従すべきです。そし
て、その神へ服従するが故に、この世の権力者の命令には従わないことがあり得
るでしょう。その場合は、しかし、この世の制度、つまり「人間が立てた制度に
従って」裁判に掛けられ、有罪の判決を受けることになります。しかし、そうで
あても、「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しく
お裁きになる方にお任せになった」方の模範に倣うべきです。そして、私たち自
身を「正しくお裁きになる方に」任せるしかありません。
 また相対悪と判断して、結果としては統治者に服従して、戦争に行き、人を殺
す道を選んだ人も、「正しくお裁きになる方」の裁きに身を任せなければなりませ
ん。神様は、どちらの判断をした人間を正しいとなさるのか、それは私たちには
分からないからです。
 皇帝とか大統領とか首相とが「愚かであり、無知」である場合、その「善を行う」
ことによって「無知な発言を封じることが神の御心」であるとも記されているの
ですから、ここでの「服従」は、権力者、統治者が言っていることはすべて正しい
と肯定して服従することではありません。間違っている場合は、そのことに気づ
くように批判をしたり、反抗したりすることは、自由なのです。しかし、その自
由を、神の僕として用いなければならないのです。自分の肉の欲(これは性欲と
か欲情という意味ではなく、怒りや憎しみ軽蔑なども含めた人間の思い)に従っ
て勝手に行動することではなく、「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇
帝を敬う」という御心に従う僕として用いなければならないのです。つまり、人
から服従を求められたから人に服従するのではなく、神から求められたから、神
に服従するために、人に服従する。

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