多くの人のための契約の血

及川 信

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを
裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯
から飲んだ。
そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、
契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどう
の実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」一同は賛美の歌をうたっ
てから、オリーブ山へ出かけた。
               マルコによる福音書14章22節〜26節

 私たちは数年前から礼拝に関する学びを継続しています。最初は礼拝とはそも
そも何であり、その式次第に込められている意味や内容はどういうものであり、 そしてそのことに伴う姿勢や動作はどういうものであるのかに関して学び、その ことを踏まえて、例えば「招詞」の時に起立するなど、いくつかのことを変更し てきました。そして、去年からは、「説教」を重んじるプロテスタント教会にお いても欠くべからざる「聖餐の食卓」に関しての学びを開始しています。この学 びは今後数年掛かります。しかし何故、私たちはそういう地道な学びを今続けて いるのか?今日の朝礼拝は、修養会の開会礼拝の位置づけでもありますので、そ のことを、少し語らせていただきます。  先月、サッカーの日本代表チームの監督が代わりました。その監督のこれまで の実績は高く評価されているようですけれど、それと同時にその監督が発する言 葉の面白さも注目されています。彼は、就任に当たって「日本代表チームをどう いう方向で育てていくのか?」と問われた時、「まず最初に、もっと日本化する」 と言いました。そして、「ライオンに襲われた鹿が肉離れを起こしたら殺される。 走る、それも考えながら走るという基本に対して絶えず準備していなければ、生 きてはいけない」と言いました。この言葉は、教会にも当てはまると、私は思い ます。  日本の教会の伝道の衰退が言われ始めて、もう二十年以上が経ちます。その原 因の一つは、明かに三十年以上も前の、あの大学紛争に教会が巻き込まれたこと にあります。その紛争を引き起こした当事者達の主張は、教会はもっと日本社会 に対して働きかけるべきだ、社会の底辺に入り込んで差別と戦い、平和運動に参 画をし、権力者に抵抗し、反靖国、反天皇制の運動を推進すべきだというもので す。当時のユダヤの権力者に弾圧され、殺されたイエスに従うとはそういうこと だ、という主張がそこにはあります。そういう主張をする人々は、「社会派」と 名付けられたりしますが、レッテルはどうであれ関心は社会の変革です。彼らと しては、そうやって日本人社会の中に入っていけば、キリスト教会は社会に受け 入れられ、伝道も進展するはずだという考えが一方にあります。しかし現実には、 そういう社会派的教会も衰退の一途を辿っています。  また、彼らは、「自民党をぶっ壊す」というキャッチフレーズではありません けれど、「既成の教会、伝統的な教会をぶっ壊す」というモットーを持っていま す。そして、そのモットーに従った行為が、未受洗者への配餐、つまり、聖餐式 をすべての会衆に解放するという行為です。つまり、キリストに対する「信仰告 白」と神の民となる契約のしるしである「洗礼」を受けること抜きに、「聖餐の 食卓」に与らせるのです。「罪の悔い改め」などナンセンスだし、「水の洗礼」 も意味がないということです。「イエスはすべての人を差別なく愛しているのだ し、その愛をすべての人に提供するのが、イエスが目指していた教会だ。だから、 パンとぶどう酒をすべての人に分かち与えるのは当然だ」ということです。彼ら によれば、私たちが守っているような「洗礼を受けた者だけが聖餐に与るという 形は差別的で、イエス・キリストの心に反することだ」ということになります。  そういう、教会の根幹に関する基本的理解が混乱し、分裂している。それが、 現在の「日本基督教団」の一つの現実です。幸いにして、この中渋谷教会はその 点では全く悪影響を受けずに来ています。それは歴代の長老会の信仰と見識の確 かさの証しです。その点において、私たちは今後も些かもぶれることなく教会の 伝統を歩んでいかねばなりません。しかし、その点では少しもぶれなかった中渋 谷教会も、伝道の進展という点では、社会派・福音派を問わず、他の多くの教会 同様に停滞から衰退へ、そして少子高齢化の道を歩んでしまいました。しばしば キリスト教の世界の中で聞く言葉なのですが、「いつの時代だって真理を生きる 者は少数者だ」と居直るわけにはいきませんし、「現代は伝道が難しい時代だ」 と、原因を社会や時代に見出すというのも、情けない話です。原因は、私たち自 身にあると認識すべきだと思います。  この件については、これまでの長老会で随分議論しましたし、2001年の全員協 議会の時から、「教会とは何であって何でないか」、そして「中渋谷教会とは何 であって何でないか」ということに関して、私が思うことを語ってきましたし、 相当長い文章にもしてきました。そして、その学びの中間発表のような形で「神 の家族としての教会形成」という言葉を『10年ヴィジョン』の冒頭に掲げました。 その心は、日本人のサッカーチームがもっと日本化しなければならないのと同じ ように、日本の教会がもっと教会らしくなることが大事なのだと思うのです。日 本人が外国人のサッカーを真似ても、所詮それは真似事であり、戦えば負けてし まうのと同じように、教会が社会活動の真似事をしても、それは社会に埋没する だけだし、社会活動などしなくても教会が「俗(世間)化」していけば、世の人 がわざわざ教会に来る理由などなくなるのは当然です。教会が、他の所にはない 独自の特色と役割を果たさない限り、教会はこの世の中に埋没し、衰退していく ことは明らかだと思います。  教会が最も教会らしい姿を現すのは礼拝です。よく言いますが、学校は生徒に 教育する時に学校の姿を現わしますし、病院は病気や怪我を治療する時に病院と しての姿を現わします。それと同じように、教会はキリストを通して自己を啓示 された神様を礼拝する時に、最も教会らしい姿を現わすのです。ですから、礼拝 こそ教会の命、礼拝を礼拝として守ることが教会の生命線なのです。だとするな らば、礼拝とは何であるかということを、根本から学び続け、礼拝が持っている 張り詰めた緊張感と溢れる喜びや賛美を身に着けていく以外に、教会を教会化す ることは出来ないということになります。  「教会は神の家族だ」ということは、先週の説教でもくどいまでに語りました ように、私たちはイエス・キリストの父なる神様を、「アッバ・父よ」と呼びつ つ礼拝する者たちであるが故に、家族なのです。父が同じだから、私たちは皆神 の子であり、兄弟姉妹になるのです。  そして、家族とは一つ屋根の下で食卓を囲むものです。その食卓が崩壊してし まうと家族は壊れます。皆が食事の時間に食卓に集まらない。好き勝手に外食し たり、自分の部屋で食事を始めたら、家族は崩壊していきます。毎週決められた 時に礼拝に集まらないということは、命の糧である御言を皆で頂く食卓を自ら破 壊し、家族を破壊することです。礼拝はキリスト者にとって食事の時なのです。 また中渋谷教会の場合は、聖餐式は年に十五回と定められています。この聖餐の 食卓に集まるということ。これもまた神の家族としては極めて大切なことです。 その食卓に集まる日や時間を守らなくなれば、教会は解体していきます。  また、その食卓に、まだ「父よ」と呼ぶことを知らない人が座って一緒に食べ ているとするなら、それは家族の食卓ではありません。イエス・キリストによる 血の贖いによって自分の罪が赦されていることを信じ、洗礼を受けることによっ て神様の子となる契約を結び、正式に神の子として神の家族に迎え入れられた者 だけで食卓を囲むことが二千年前からの「神の家族」としての教会の伝統なので す。ここに教会の命があるのです。礼拝後の愛餐会と聖餐はまったく性質が違い ます。  古代教会では、聖餐式は、御言による礼拝が終わった後、未信者を帰してから、 別室で守られたと言われています。今、私たちは未信者の方もその場に臨席して 頂く形を取っています。それは、まだ洗礼を受けておられない方たちが、いつの 日か聖霊の導きの中で主を信じ、父を知り、罪を悔い改め、信仰を告白して洗礼 を受け、共に食卓を囲むことが出来るようにという祈りの中で聖餐の食卓に与っ ているということです。その場に臨席をして頂くのは、未信者、求道者の方たち を未来永劫に排除するためではなく、近い将来に兄弟としてお迎えするための招 きという意味があります。そして、未信者、求道中の方だって、配られるパンと ぶどう酒が何であり、それを食べるということが、どういうことであるかをきち んと教えられれば、信仰を与えられて洗礼を受ける前に食べたいと思うわけもな いでしょう。  とにかく、教会が最も教会らしい姿を現すのは礼拝においてですし、その礼拝 の中でも「洗礼式」と「聖餐式」のことを、私たちは聖礼典(サクラメント・秘 儀)と呼んで、最も神聖なものとして重んじている。その式が聖霊の注ぎの中で 行われ、信仰をもって与るときに、そのサクラメントの中で、私たちは、キリス トの現臨、神の現臨に触れ、キリスト者の命、つまり永遠の命が誕生し、養われ るからです。  ですから、この聖餐式を聖礼典としてきちんと守ることにおいて教会はその教 会性を発揮していくのだし、そこにおいてこそ、イエス様から託されている「伝 道の使命」を果たしていくことが出来るのだと私たちは信じています。そういう 意味で、私たちは数年がかりで「聖餐の食卓」に関する学びをするのだというこ とを、今日新たに確認をしておきたいと思います。  今日は、マルコによる福音書における「最後の晩餐」の記事を読みます。この 晩餐は、十二節以下の小見出しにも記されていますように、昨年の修養会の主題 であった「過ぎ越しの食事」としての夕食です。四百年間エジプトに住み、その 後半はエジプト王国の奴隷であったイスラエルが、神を礼拝する民となるべくエ ジプトを脱出する前夜に、神様に命じられてとった食事、それが「過ぎ越しの食 事」です。そこでは、小羊が屠られて、その血がイスラエルの家の鴨居に塗られ ました。その血がイスラエルの印となり、その家を死の使いが過ぎ越し(通り過 ぎ)たけれど、エジプトの家には死の使いが入り込み、その家の初子が死んでし まうという悲劇が起こりました。イスラエルは、神様が命じたとおりに小羊を家 族で食べ、パンを食べ、苦菜を食べて、その晩を過ごしました。この家族の食事 こそが、イスラエルを神の民として生み出す食事であったのです。ユダヤ人は、 毎年、春にその食事を家族でとることで、自分達が神様の民とされていることを 確認するのだし、新たに神の民として歩み始めるのでもあります。それは、信仰 に生きるユダヤ人にとっては現代に続く祭りです。私たちにとっては、その過ぎ 越しの祭りが、イエス様の十字架の死と復活を記念し祝う受難週とイースター (復活)礼拝であり、その礼拝の中で守られる聖餐式なのです。つまり、罪と死 の奴隷であった私たちを、神の小羊であるイエス様がその血を流して贖い取り、 永遠に神を礼拝する民として下さったことを感謝し、この祭りを守ることを通し て新たに神の民として生きているのが、私たちキリスト者であり、キリスト教会 なのです。  しかし、主イエスが弟子たちをご自身の家族として共にした最後の晩餐は、過 ぎ越しの食事の単純な再現ではありません。主イエスは、その食事の中で、ぶど う酒の入った杯を弟子に渡して、彼らが飲んだ後に、「これは、多くの人のため に流されるわたしの血、契約の血である」と仰いました。過ぎ越しの食事でも 「血」は重要な役割を担っています。「血」は「命」の象徴だからです。そして、 命は神様のものです。その血の贖いによって、イスラエルは神を礼拝する神の民 となるべくエジプトを脱出するのです。しかし、その食事においては「契約」と いう言葉は出てきません。この言葉が出てくるのは、今年の修養会の主題である 神様とイスラエルの契約締結の場面です。シナイ山で「十戒」と「契約の書」と 呼ばれる律法をモーセによって読み聞かせられた民が、「わたしたちは主が語ら れたことをすべて行い、守ります」と答え、その答えを聞いたモーセは犠牲の供 え物の血の半分をイスラエル十二部族の祭壇にふりかけ、もう一度読み聞かせて、 民がさらに「わたしたちは主が語られることをすべて行い、守ります」と答える と、血の半分を民に振りかけました。そして、モーセは民に向かってこう言った のです。 「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血であ る。」  こういう厳格な契約締結、犠牲が捧げられ、血が流され、言葉が語り聞かせら れ、さらに自分達の言葉できちんと応答する。そういう手続きを通して、イスラ エルは神の民、祭司の国、聖なる民、神の宝と言われる民として誕生するのです。 そして、その後に、民の代表者であるモーセと長老がシナイ山に登り、神を見な がら食事をするという、まるでそこは天国であるかのような光景が描かれるので す。そのことは、今日の午後、ご一緒に読んでまいりたいと思います。  主イエスだけが、これが最後の晩餐となることをご存知の「過ぎ越しの食事」 の中で、ぶどう酒のことを、「多くの人のために流されるわたしの血、契約の血 である」と仰る時、それは過ぎ越しの小羊の血と共に、新しい神の民イスラエル を誕生させるために流され、祭壇と民の双方に振りかけられた犠牲の血、契約締 結のときに流される血のことを意識しておられることは明らかだと思います。主 イエスは、この時、共に食卓を囲んでいる十二弟子を新しいイスラエル十二部族、 神を父と呼んで礼拝する民として誕生させようとしておられるのです。つまり、 契約を結ぼうとしておられる。  しかし、それではかつてのイスラエルが告白した言葉、「わたしたちは主が語 られたことをすべて行い、守ります」という言葉は、一体どこにあるのか?契約 締結と言う限り、当事者双方の言葉があって然るべきなのに、ここに弟子の側の 応答があるのか?そういうことが問題になります。  その点については、二つの言い方が出来るかと思います。一つは、主イエスは ここでまさに一方的な恩恵として契約を結んでおられるのだという言い方、ある いは見方です。つまり、相手がどうであれ私の方は契約を立て、その契約に命を かけると宣言しておられるのだという見方が、一方で出来ます。  しかし、その一方で、それとは別の言い方、あるいは見方も出来るように思い ます。そのことを考えるためには、この食事の前後にある主イエスと弟子たちの 会話を見なければなりません。 一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言ってお くが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたし を裏切ろうとしている。」弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」 と代わる代わる言い始めた。イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わた しと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。人の子は、聖書に書いてあると おりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方 が、その者のためによかった。」  楽しかるべき食事、神の民として新たに旅立つための家族の食事の席で、最愛 の弟子の中の一人が裏切ることを、主イエスご自身が予告される。こんな悲惨な ことはありません。「人の子を裏切るその者は不幸だ」と主イエスは仰いますし、 たしかにそうだと思います。けれども、「愛する弟子に裏切られるイエス様はな んて不幸なんだ」と言うほかにないし、裏切られることが既にイエス様自身には 分かっているのに、この食事をするイエス様の心痛を思わざるを得ません。しか し、弟子たちは弟子たちなりに「心を痛めて」「まさかわたしのことでは」と代 わる代わる言い始めている。そしてこの言葉は、「主よ、わたしはあなたを愛し ています。あなたを裏切るなんて、想像することすら出来ません」という意味で しょう。ここに愛と信仰と従順の誓いがあるとも言える。つまり、シナイ山にお ける民の告白、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」があ るとも言えると思います。  しかし、現実にはイエス様の仰るとおり、弟子の一人は裏切りました。そして、 その結果、この食事の数時間後にはイエス様は逮捕され、その翌日には十字架に つけられてしまう、殺されてしまう。そのことを、イエス様は既に承知していた し、ある意味では容認されていた。イエス様は弟子の裏切り行為を阻止もされま せんし、逃亡も企てられない。「聖書に書いてある通りに、去っていく」こと、 罪の奴隷状態から罪人を解放するために犠牲となる神の小羊として死ぬこと、新 しい神の民を生み出す契約締結に必要な「契約の血」を自ら流して死なねばなら ぬこと、それが神様の御心であることを承知し、そして容認しておられるのです。  この後、ユダがどうしたのか?退出したのか、まだ同じ食卓についていたのか。 マルコによる福音書では恐らく敢えて明確にしていませんが、イエス様はパンを 取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与え、さらに杯も同様にさ れました。「彼らは皆その杯から飲んだ」のです。「皆」です。  その食事の後、「一同は賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた」とあ ります。この時の現実と賛美とがどうして両立するのか?何故、イエス様は弟子 たちと賛美など歌えるのか?弟子たちもまた何故賛美など歌えるのか?この問題 もいつか深く考えていきたいと思いますが、イエス様は賛美を歌った直後に、こ う仰いました。 「あなたがたは皆、わたしにつまずく。 『わたしは羊飼いを打つ。 すると、羊は散ってしまう。』 と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラ ヤへ行く。」  つまり、弟子のうちの「一人」ではなく「皆」、イエス様を見捨てて逃げ去る ということです。弟子であることを止めてしまう。この世の中に帰ってしまう。 再び罪の奴隷に帰ってしまう。イエス様の招きに応えて、生活手段も捨ててイエ ス様に従い、神の国に入ったのに、そこから出て、世の中の住民になってしまう ということです。契約の血を飲んだ者が「皆」です。  ペトロは言います。 「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません。」  イエス様はこう言われます。 「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わた しのことを知らないと言うだろう。」  ペトロは力を込めてこう言い張りました。 「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどと は決して申しません。」 すると 皆の者も同じように言った。  杯を飲んだ「皆」が「つまずく」と主イエスは仰り、ペトロは「皆」がつまず いても「自分だけはつまずかない」と言う。そして他の弟子たちも「皆」、口々 に「私だってつまずかない」と言う。そこに「わたしたちは主が語られたことを すべて行い、守ります」という告白がある、とも言えます。  けれども、この告白はこの直後にメッキがはがれる告白であり、主イエスご自 身がすべてを見抜いておられる告白なのです。  だから、この新しい契約締結の際にも「告白はあった」とも言えるし、「この 契約は主イエスの一方的な恵み、赦しとして与えられている契約であり、その一 方の当事者は、少なくともこの段階では、契約の当事者能力は全くなかった」と も言えるように、思います。  そして、そういう現実にこそこの契約の内容、本質があるように思います。シ ナイ山の契約は、神様のイスラエルに対する願いとして、聖なる民、祭司の国に なって欲しいというものがあり、イスラエルも願いどおりになっていきますと約 束をする契約でした。もちろん、この約束も程なくイスラエルの側が破ってしま うのですが、約束した時には、少なくとも神様も、すぐに破られるとは想定して いなかったのです。しかし、ここで主イエスがその体を裂き、血を流して誕生さ せようとしておられる「新しいイスラエル」とは、「自分達は約束を破り、愛と 信頼を裏切ってしまう人間であり、神様への愛と信仰を生きることが出来ない罪 人である」ということを深く深く認めた人間たちでなければならないのです。そ して、そういう罪人の罪を赦し、新しく生かすために、神の独り子が自ら犠牲と なり、その体が裂かれ、血を流して死に、その死から復活して下さったことを信 じ、受け入れる人間でなければならない。ですから、弟子たちは皆、イエス様に つまずき、見捨てて逃げてしまい、自分達の言葉を自分達で裏切ってしまうとい う痛切な経験をして後、初めて、彼らの罪を赦し、新しく生かすために十字架に かかって死に、復活して下さった主イエスに本当の意味で出会い、その赦しの中 で信仰の告白をする時、初めて、イエス様との契約を結ぶ当事者となることが出 来たのです。つまり、自分達がどうしようもない罪人であることを嫌と言うほど 知った時に、初めて結ぶことが出来る契約、それがこの食事の中で主イエスが提 供してくださっている契約なのだと思います。  そして、その契約を結んで以降、彼らは弟子から使徒へと、つまり罪の赦しと 新しい命をもたらして下さったキリストの福音を、多くの人に宣べ伝える者と造 り替えられていきました。最早、「あの方のことは知らない」とは言わず、たと えこの証言によって殺されることになるとしても、私は、この方こそキリストで す。私の罪を赦し、あなたの罪を赦し、救ってくださる方です、と証言をする人 間に変えられていったのです。  主イエスはここで、「多くの人のために流されるわたしの血」と仰いました。 「多くの人」とは、例えば、その次のページの下の段に、「多くの者がイエスに 不利な証言をした」と出てきます。これは、実は「すべての人」と内容的には同 じことなのです。主イエスは、ご自分を愛する人のために血を流すのではない。 ご自分に不利な証言をする者たちのために血を流すのです。 主イエスは、ある時、こう仰っています。 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金とし て自分の命を献げるために来たのである。」    弟子たち「皆」がすべてつまずき、見捨てるように、「多くの人」もイエスに 不利な証言をし、十字架の下で罵ります。私たちすべての人間が、そうなのです。 自分にこの世的な利益をもたらさず、むしろ苦しみをもたらすイエス様のことを、 実は愛してはいないし、「愛している」と言っても、実際、自分の身に危険が迫 れば「あの人のことなど知らない」と言って逃げていくのです。しかし、そうい う「多くの人」のために自分の命を捧げるイエス様、血を流してくださるイエス 様が、今日も私たちの中心におり、そして、愛と赦しをもって聖霊と御言を与え、 「信じなさい」と招いてくださっています。そして、さらにこう命じられてもい る。「すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は 救われるが、信じない者は滅びる」(マルコ16章)「すべての民をわたしの弟 子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」(マタイ28 章)です。そして、この命令は、「多くの人」を主の食卓、聖餐の食卓に招きな さいということです。この食卓につくこと。神の家族の一員としてつくこと。そ こに救いがあるからです。その救いへと、すべての人を招きなさい。主イエスの 御心はそこにあります。 私たちは毎回、その救いに与っていることを、聖餐の食卓を通して確認し、主を 賛美しているのです。この罪を赦され、新しく生かされている福音を信じて、主 の愛を賛美する喜び、これにまさる喜びはないからです。そして、私たちはその 喜びを一人でも多くの人と分かち合うために、この世へと派遣されているのです。 それが、祭司の国、聖なる民(出エジプト記一九章)として召された、私たちの 栄えある使命なのです。その使命を生きることが出来ますように祈りましょう。
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