「最期と栄光」
この話をしてから8日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。翌日、一同が山を下りると、大勢の群衆がイエスを出迎えた。 今週と来週の召天者記念礼拝の二回にわたって、ルカ福音書の御言を聴きたいと思っています。最近、必要があってこの箇所の学びをすることがあったのですが、その学びの中で、9月の修養会の主題であった出エジプト記24章に記されている情景と11月の召天者記念礼拝の課題の両方が見えてきました。その9月と11月を結びつけるのは、来週の説教題にしておきましたが、「山の上の出来事」です。山の上で、神と人とが出会うということ。そして、そこには天上の礼拝という私たちにとって最終目標とも言うべき救いの現実の先取りがあると思うのです。その点について、二週をかけて読んでいきたいと願っています。 今日は、この箇所が置かれている前後の文脈を踏まえ、最後に本文の一部に入り、来週は本文そのものに入っていきます。 (一) 福音書の主題 「イエスとは誰か」 すべての福音書に共通することですけれど、ルカによる福音書の主題もまた、「イエスとは誰であるか」ということです。今日の箇所は、「イエスとは誰か」という主題に関して、一つの頂点をなす箇所だと思います。そして、この頂点に至るまでには、それなりの道のりがあります。少し遡って8章19節からご一緒に見ていきたいと思います。 (二) これまでの文脈 そこで主イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言を聞いて行う人たちのことである」と仰っています。これは、間接的な仕方で、ご自分が「神の子」であると仰っていることになるのではないでしょうか。しかし、この段階では、この言葉を聞いた人の誰もそのことに気づくことはなかったでしょう。 その次に出てくる、湖の突風と荒波を鎮める奇跡の場面では、弟子たちが「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と言っています。イエス様が誰であるか、それはイエス様に出会い、イエス様に招かれ、その招きに応答して従っている直弟子達にとって大問題のはずですが、彼らでさえ、この段階で、よく分かっていない。 (二)@ 信仰と理解の関係 私たちも、似たようなものです。イエス様は、そういう弟子たち、また私たちを忍耐強く導き続け、教え続けてくださいます。生涯をかけてイエス様について行き、イエス様が誰であるか、何者であるかを、もっともっと深く知らされていく。私たちの信仰の生涯とは、そういうものです。もちろん、先週のヨハネ福音書の中にもあったように、「私たちが信じるのは、自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったから」です。私たちは、訳も分からずに信仰を告白して洗礼を受けたのではありません。イエス様が救い主だと分かったから、信仰を告白して、洗礼を受けたのです。でも、洗礼を受けて以後、一層深く、イエス様のことを深く知っていくのです。何故なら、イエス様を愛し、信じて生きていこうとする歩みの中でこそ、私たちは様々な挫折や失敗を繰り返し、その都度、イエス様の怒りや悲しみを知り、そして、愛と赦しの凄まじさを深く知っていくことになるからです。 (二)A神の御業 話をルカ福音書の文脈に戻します。湖の場面の次に出てくるのはガリラヤ湖の対岸、異邦人が住むゲラサの地での出来事です。そこには、悪霊に取り付かれた男がおり、彼は墓場がねぐらで、時折大声で喚きつつ、裸で暮らしていたのです。その男から主イエスは悪霊を追い出し、その悪霊が豚の大軍に入って豚が湖に飛び込んで死んでしまったのです。その出来事の異様さに驚いたその地方の人々は、イエス様に早く立ち去って欲しいと願います。けれども、悪霊を追い出してもらった人は、イエス様についていきたいと願うのです。その時イエス様は、「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい」と仰います。ここにも先ほどのイエス様の言葉の中にあったように、「神」という言葉が出てきます。ルカ福音書の一つの特色は、「神」という言葉が頻出することです。 そして、その神様の驚くべき御業がさらに続きます。会堂司ヤイロという人の娘が死んでしまった直後に生き返らせたり、十二年間も婦人病による出血がとまらなかった女性が、イエス様の服の房に触れることで癒されるという奇跡があります。こういった奇跡は、神様ご自身にしか出来ないことです。しかし、そういう御業を、イエス様はなさるし、また神様がイエス様を通してなさるのです。 次に、イエス様は、その御業を行わせるために弟子たちを派遣します。弟子たちは、杖も袋もパンも金も持たずに出かけて行き、「至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやし」ました。神様の御業がイエス様を通して為され、さらに、イエス様の御業がイエス様によって派遣された弟子たちを通して為されていくのです。そのようにして、神様の御業が拡大していくのです。そして、それは同時に「イエス様が誰であるか」という問いが、人々の中に拡散していくことを意味します。 次に新共同訳聖書には「ヘロデ、戸惑う」と、ちょっとユーモラスな小見出しがついていますけれど、ガリラヤ地方の領主ヘロデ(ヘロデ大王の息子)は、「これらの出来事すべてを聞いて戸惑った」のです。何故かと言えば、イエス様について、洗礼者「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」とか昔の偉大な預言者「エリヤが現われたのだ」とか、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」という様々な憶測が、巷に流布するようになっていたからです。彼は、困惑してこう言いました。「ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。」 イエスは一体誰であるか。その問いは、ユダヤ人、異邦人、そして権力者にも拡がっていきます。 (二)B 神の国到来のしるし その後、神の国到来という福音を伝道して帰って来た弟子たちと共に、イエス様は少し休憩をしようとされたのだと思いますけれど、人里離れた地に引きこもろうとします。けれども、群衆が追いかけてくる。そこで、イエス様は神の国の福音を語り、また当時は罪の徴でもあった病気をいやし、さらに男だけで五千人もいた群衆に、五つのパンと二匹の魚を裂いて、弟子たちを通してすべての人に配らせ、すべての人が満腹するという奇跡を行われました。これは、これまでの御業と共に、待ち望まれていた「神の国」の現実を具体的に実現した御業だと言ってよいと思うのです。何故なら、旧約聖書のイザヤ書においては、終末の救いの完成の時には、死人が甦り、障害者や病者が癒されることが記されていますし、神と共なる食事は、来週読むことになる出エジプト記24章にありますように、究極的な救いの情景の暗示です。 (二)C ペトロの「キリスト告白」 こういう一連の御業を通して、いよいよ主イエスが誰であるかに関する、一つのハイライト。ペトロのキリスト告白の場面を迎えることになります。 教会生活の長い方は、この場面を、「フィリポ・カイサリアにおけるペトロのキリスト告白」と記憶しておられるだろうと思います。マタイやマルコ福音書には、そういう地名が記されていますから。でも、ルカには地名は記されておらず、その代わりに、「イエスがひとりで祈っておられたとき」と記されています。その時、イエス様は弟子たちに、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているのか」とお尋ねになりました。これがイエス様にとっても問題なのですし、この時点で是非とも確認しておかなければならないことだったのです。何故なら、今、ルカによれば、イエス様たち一行は、ベトサイダという町の近辺にいることになっています。それは、ユダヤ人たちにしてみれば最北端の地です。イエス様はこれ以後、いよいよ神の都エルサレムに向けての歩みを始めます。ご自分の地上の人生の最期に向けての歩みを始めようとしておられる。その時に、人々が、また弟子たちが、イエス様を誰と言うか、何者だと思っているのかを、確認しておく必要があったのです。 人々は、イエス様のことを、洗礼者ヨハネの生まれ変わりだとか、預言者エリヤの再来だとか、他の預言者が生き返ったのだとか推測しています。彼らがそう推測することはよく理解できることです。しかしもちろん、イエス様はそういうお方ではありません。そこで、イエス様は弟子たちに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問いかけられました。この問いは、今、この福音書を読んでいる私たちキリスト者への問いかけだし、まだイエス様を信じていない方たちに対する問いかけでもあります。「あなたは『信じている』と言うけれど、どういう意味で信じているのか?」と、キリスト者は問われています。そして、「私を信じていないけれど、この礼拝に来ているあなた。今のあなたにとって、私は何者なのか?昔の偉人か?人生の教師の一人か?あなたにとって、私は何者なのだ?」と、いわゆる求道者の方、あるいは新来者の方は問われているのです。 その問いに対して、何と答えるか?あるいは無視して答えないのか?これは、やはり大きなことで、この問いに対して答えるか否か?どのように応答するのかによって、私たちの人生がどういうものであるのか、またどういうものになっていくのかが、決まっていくのだと思います。 弟子を代表する形で、ペトロが答えました。 「神からのメシアです。」 イエス様は神様から遣わされ、その御心を行うために選び立てられた人物であるということです。そして、それはやはり洗礼者ヨハネの生まれ変わりだとか、エリヤだとかいう推測よりも、正しい推測であるに違いないし、正しい告白であることは間違いありません。 (二)Dイエスの「キリスト告白」 けれども、この直後に、イエス様は「神からのメシア」であるということは、誰にも言うなと弟子たちに厳しく命じた上で、ご自身のこれからの道行きに関して、こうお語りになりました。 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」 「メシア」とは、神様の御心を行うために特別に選び立てられた者であり、旧約聖書においては、具体的には「預言者」「大祭司」そして「王」のことです。彼らは、神様から任職を受けるときに聖別のための油を頭から注がれます。その「油注がれた者」を「メシア」というのです。 しかし、主イエスの時代、それはユダヤ人たちがローマ帝国に支配されている時代でしたし、ローマの前はギリシャ、その前はペルシャ、その前はバビロンと、ユダヤ人たちはもう何百年も外国人による支配を受けてきたのです。そういう苦難と屈辱の歴史の中で、人々の中に「メシア待望」と呼ばれる気運が生まれてきました。しかし、その場合の「メシア」とは、外国の支配から自分達を解放し、ユダヤ人の独立国家を樹立してくれるメシアです。出エジプトを指導したモーセのようでもあり、また偉大なるダビデ王のようでもある存在。そういう者を「メシア」と呼ぶ傾向が生じてきたのです。ペトロの言葉の中に出てくる「メシア」、ギリシャ語では「キリスト(クリスト)」とは、そういう意味でのメシアです。ユダヤ人にとっての、民族的な意味での栄光に輝く「救世主」と言っても良いかも知れません。 そうなりますと、「神からのメシア」の「神からの」という部分は、その通りだとしても、「メシア」という言葉の中に込められている意味内容に関しては、イエス様が神様から託されている使命とはずれがある。だから、彼らの理解に基づいて、ご自身が「神からのメシア」だと伝えられることについて、イエス様は非常な警戒感をお持ちになったのだと思います。 もちろん、イエス様は、ご自身が栄光のメシアであることを否定はされません。9章の26節を読めば、そこには、「人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来る」というイエス様の言葉があります。イエス様は、世の終わりに天地の救いを完成させるために、栄光に輝くメシアとして天使たちと共に天からやって来られるのです。また、今日の箇所は、その先取りのように、栄光に輝くイエス様そのものを描いています。しかし、その栄光の裏側に、また天に上げられる前に、イエス様は「必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺されることになっている」のだし、その死から「三日目に復活する」ことになっていると、主イエスは仰います。そして、その上で、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」と、仰るのです。しかし、その言葉の意味を理解した弟子は、当時、一人もいません。 今日と来週にかけて読んでいく「山の上の出来事」は、その受難と復活預言の後に出てくる場面です。ここにはヤイロの娘が甦るという驚くべき神の奇跡を目撃した三人の弟子だけが登場します。そして、彼らはこの時のことを、「当時は、誰にも話さなかった」のです。 (二)E 山の下の出来事 弟子たちの不信仰、無理解 そして、イエス様と三人の弟子たちが山の上にいる時、山の下に残っていた弟子たちが、男の子から悪霊を追い出そうとしたのに、それが出来なかったということがあり、翌日に山を下りてきたイエス様が「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」と仰ることになります。その後は、イエス様が再び、ご自分が苦難を受けることを預言されても、弟子たちにはその意味が「分からなかった」「理解できなかった」「怖くてその言葉について尋ねられなかった」という記述が続き、挙句の果てに、彼らは「自分達の中で誰が一番偉いか」を議論し始めるという体たらくを演じ始めるのです。つまり、彼らは結局、栄光のメシアだけを求めているのだし、そのメシアについていけば、自分達が高い地位につけることを願って、イエス様について来ている。そういう彼らの不信仰、そして無理解が、この9章の半ばのキリスト(メシア)告白と山上の変容(イエス様の姿が山の上で栄光の姿に変わる)の場面を転機として、露呈されていくことになります。つまり、分かっていた弟子たち、少なくとも他の群衆よりは分かっていると思っている弟子たちが、実は少しも分かっていないということ、この時期ではまだ何も分かり得ないことが、明かになっていく。その分岐点が、九章の一八節から三六節の出来事であることが、文脈から分かります。 (三)説教、聖書、キリスト(宝) これはたとえば、説教においても、よく起こることだと思うのです。牧師が、聖書の言葉や話の筋書きの説明をしている時は分かるし、そうだなと思うのだけれど、ある所から、罪だとか赦しだとか、十字架の死と三日目の復活だとか、信仰だとか聖霊だと言い始める。すると、途端に分からなくなる。何で、これまでは論理的にきちんと説明していた人間が、いきなり飛躍してしまうんだと思う。そういうことが、ある人にはあると思います。毎週説教を聴いていた頃の私にも、かつてよくありました。しかし、先週も言いましたが、結局、どんな説教であろうと、その説教を通してキリストの言葉を直接に聴き取ることが出来るか否かなのです、問題は。説教者の側から言えば、説教者自身が、他人が書いたことや言ったことの引用ではなく、聖霊の導きの中で聖書からキリストの言葉を直接聴き取り、その聴き取ったキリストの言葉を自分の言葉で語っているか否か。それだけが問題なのです。 パウロは自分のことを「土の器」と言いましたが、それは本当です。パウロ自身は土の器なのだけれど、その器には最高の宝が入っているのです。そして、パウロの言葉は今は「聖書」に入っているのですから、聖書もまた土の器であるということです。宗教改革者ルターは、「聖書はキリストを宿す飼い葉桶だ」と言ったそうです。つまり、飼い葉桶そのものに価値があるわけではないということでしょう。土の器、飼い葉桶を表面的に見ているだけでは、駄目なのです。その中に生きているキリスト、その中で語っているキリストを見、またその言葉を聴く。そういうことが出来ないと、聖書はただの文字だし、一つの思想とか宗教観を表す文書に過ぎないでしょう。説教もまた土の器に過ぎません。この説教を通して、ある人がキリストの言葉を聴くことが出来る時、十字架のキリスト、復活のキリスト、そして今に生きるキリストの姿を見ることが出来る時、その説教はその人にとって意味があるのであって、その人以外には左程の意味はないと思います。しかし、説教を聴くことにおいてキリストの姿を見、キリストの言葉を聴くためには、聖霊の導きが必要です。これは、人間の能力、資質とは全く関係ありません。ただ、求めているか否かは関係あると思います。イエス様が、聖霊に関して、「求めなさい、そうすれば与えられる」と仰っているのですから。 (三) 山を下りてから 弟子たちは、ペトロのキリスト告白の直後に、イエス様自身から「キリストが苦しみを受けた後に殺される」ことを初めて聴かされました。でも、その時は、聴いたけれど、彼らには何にも分からなかったのです。ここで初めて、キリストの側からのキリスト告白、キリストが何者であるかについての証言があり、これこそが聴くべき言葉、信ずべき言葉なのに、何にも分からない。けれど、イエス様は、そういう弟子たち、私たちを忍耐強く教え導いてくださいますし、いつの日か聖霊を与えてくださいますから、私たちもまた忍耐強く聴き続け、挫折を繰り返しながらでも、従い続けるしかありません。 山の上では、神ご自身が、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と三人の弟子たちに、宣言をされました。しかし、三人の弟子たちは、この山の上で見たこと、聞いたこと、そのすべての意味が、その時には、さっぱり分かりませんでした。だから、彼らは当時、沈黙を守った。沈黙せざるを得なかったのです。 (四) 遂げる 三〇節を見ると、旧約聖書の律法と預言者を代表するモーセとエリヤが栄光に包まれて現われ、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話しておられた」とあります。最後に、この「遂げる」という言葉と「最期」という言葉に耳を傾けて、来週に繋げていきたいと思います。 イエス様は甦られて後、弟子たちに現われて、こう仰いました。 「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」 イエス様についてモーセの律法に記されていること、エリヤを初めとする預言者達が語っていること、詩編に記されていること、そのすべては「必ず実現する」と、イエス様は仰います。この「実現する」が「遂げる」という言葉と同じです。そして、その旧約聖書が、キリスト(メシア)について書いている事柄とは、メシアの苦しみの死と三日目の復活であり、そのことを通して私たち罪人の罪を赦して下さるということです。罪人の罪を赦して、罪人に新しい命を与えるという、神のみが為せる業を、主イエスは神からのメシアとして、受難と栄光のメシアとして実現された、成し遂げられたのです。つまり、あれほど愛してきて、彼らも「あなたのためなら一緒に死にます」と言っていたのに、ものの見事にイエス様を裏切ったペトロを初めとする弟子たちの罪を赦し、彼らを新しい人間に造り替え、彼らを通して罪の赦しを得させる悔い改めを全世界に宣べ伝えさせたのです。その御業に与るために、彼ら弟子たちは主イエスじきじきに聖書の説き明かしをして頂き、さらに「高き所からの力に覆われる」ることになります。つまり聖霊が注がれるのです。その日に、私たちが聖霊降臨日(ペンテコステ)として記念する二千年前のその日に、彼らは主イエスがこれまで仰ったこと、なさったこと、そして今もなさってくださっていることのすべてが分かり、迫害を受けることが決まっており、イエス様と同じように殺されることがほぼ確実であったのですが、全世界に向けて、永遠の救い、永遠の御国の福音を伝道するために生き始めました。その消息は、ルカ福音書の続きである使徒言行録に詳しく書いてありますから、是非、お読みください。 (五) 最期 そして、ペトロは伝道の日々の中で、信徒に向けての手紙の中で、こう書き記すことが出来るようになったのです。少し長いのですが、お聞きください。 「こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります。・・・わたしたちの主イエス・キリストが示してくださったように、自分がこの仮の宿を間もなく離れなければならないことを、わたしはよく承知しているからです。自分が世を去った(エクソダス)後もあなたがたにこれらのことを絶えず思い出してもらうように、わたしは努めます。わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者』というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。」 ここに「自分が世を去った後も」という言葉があります。ペトロが死んだ後という意味ですけれど、この「世を去る」という言葉が、イエス様がエルサレムで遂げようとしておられる「最期」という言葉と同じです。この「最期」はギリシャ語では「エクソダス」という言葉ですが、旧約聖書でエクソダスと言えば、それは「出エジプト記」のことです。エジプトの奴隷だった者たちを神の僕にし、エジプトの国に生きていた者たちを、神の国に生きる者たちとする。強制的に偶像を拝まされていた者が、生ける神を礼拝する者にされる。それこそが罪からの救済であり、新しい命の創造です。その救済と創造のために、過ぎ越しの小羊の血が罪の贖いとして流されたのだし、神とイスラエルとの契約締結の際には動物の犠牲の血が流されなければならなかったのです。そして、ついに私たちの父なる神様は、ご自身の御子イエス・キリストにエルサレムで最期を遂げさせることを通して、あの十字架の上で罪の贖いの小羊として、また新しい救いの契約締結のために捧げられる犠牲として、その尊い血を流させ、三日目に復活させることによって、罪の奴隷として、最期は死の滅びの中に飲み込まれるしかない私たちを、永遠の神の御国へと脱出させる道を開き、その導き手として聖霊を送ってくださっているのです。 (六)ペトロの新しい告白 ペトロは、イエス・キリストの十字架の死と復活、そして聖霊降臨を経て、そのことが分かったのです。彼自身の激しい裏切り、挫折、惨めな失敗を、すべてお赦しくださるイエス様と出会って、分かったのです。そして、かつてあの山の上で見た光景、聞いた言葉の意味が分かったのです。すべては、私たちの最期、エクソダス、罪と死の支配から愛と命の支配としての永遠の御国へ、私たちを導き入れるためのキリストの栄光と最期の姿があそこにはあったのだ、ということが分かった。彼は最早、「あの人のことは知らない」とは言いませんでした。「私たちは、あの方の苦難と栄光を目撃しました。そのすべてのことは、私たちの罪を赦して、私たちを永遠の御国に招き入れるための神様の御業だったのです。旧約聖書以来の神様のご計画が、イエス・キリストにおいてすべて実現したのです。私は、その事実を証言するために生きている証人です。」そう告白する人間に造り替えられました。聖霊が、造り替えたのです。 |