「いと高き所には栄光、地には平和」

及川 信

ルカによる福音書 2章 8節〜20節

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。

「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」
天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。


    歴史と福音

 私が読んでいる新聞には、最近、「歴史と向き合う」という特集記事が掲載されていました。ドイツ、フランス、南アフリカ、日本、チリ・・それぞれに戦争の傷跡があり、人種隔離政策や植民地支配、独裁的恐怖政治などによって、隣国の人々に今もなお癒えない傷を与え、完全な和解に至っていない現実、あるいは国内の人種や民族間の差別と迫害の傷が残っている国、また独裁者による激しい弾圧と暗殺の傷跡が残っている国、それぞれに今もなお加害者と被害者がどう向き合い、和解していったらよいか分からないという問題があります。  私たちの国もまた、植民地支配と侵略戦争をしたという過去があり、また原爆を落とされたという過去もあります。そして、双方と深い所での和解をすることがないまま、また自らの内でも戦後の総括が出来ないままに、「戦後体制の脱却」という言葉が最近はまことしやかに語られています。しかし、「戦後体制の脱却」が「戦争の忘却」であるとすれば、「戦後の後には戦前が来る」ということは、歴史が証明していることです。国の支配者が平和を構築するために、愛国心を高揚させて軍備を増強するという歴史は、古代から現代に至る歴史の中で飽きることなく繰り返されている一つの現実です。
 今日の箇所には歴史が記されています。ルカ福音書は福音書の中で最も歴史感覚が鋭いというか、神様の御業を世界の歴史の中で起こっていることとして描こうとする意識が非常に強い福音書です。今日の箇所では、アウグストゥスがローマ帝国の皇帝で、キリニウスがシリア州の総督であった時代に、「最初の住民登録が行われた」とあります。また、1章5節には「ユダヤの王ヘロデの時代」と出てきます。つまり、ルカは、世界史の次元ではローマ帝国の皇帝とその部下の名前を出し、ユダヤ人の歴史としてはヘロデ王の名前を出して、その時代に、イエス様が救い主として生まれたことを明記したいのです。架空の物語、歴史を超えた空想の物語ではなく、歴史の中の出来事として、イエス・キリストの誕生とその生涯を書き記していく。そういう意図があります。しかし、それはイエス・キリストの出来事が、世界の歴史の中に吸収されてしまうということではなく、むしろ、世界の歴史を外から変えていく、そして、完成させていく出来事であることを証言しているのです。それは、どういうことなのか?今日は、そのことだけに集中します。

    アウグストゥス 平和を作り出す者

「アウグストゥス」とあります。まるで固有名詞であるかのように出てきていますが、これは「畏れるべき方」「崇高なお方」という意味の称号です。彼の本名は、正式にはガイウス・ユリウス・カエサル・オクタビアヌスと言います。しかし、この時の彼は「アウグストゥス」と呼ばれる、あるいは自らをそう呼ばせる存在になっていました。この時既に、彼は「神君」と呼ばれていましたし、「全世界の救い主」と呼ばれていました。彼の誕生日は、神の誕生、また救い主の誕生として「福音」=「喜ばしい知らせ」と呼ばれていたのです。
日本では、近代国家の形成期に入ってからむしろ、天皇個人の意思とは恐らくあまり関係なく、天皇という存在あるいは地位が神格化され始め、ついには天皇個人が現人神とされ、その天皇制という国家体制も神格化されて、皆が、天皇を拝礼することによって国民の一致と平和、そして繁栄を作り出そうとし、その誕生日は国民がこぞって日の丸を立てて祝うべき祝日となっていました。今は、ただの休日の一つのようになっていますが、昨日も天皇誕生日でした。私たちはその日に、イエス・キリストの誕生を祝うキャンドルライト・サービスを捧げたのですけれど、実は、それと似たことが、このルカ福音書において起こっています。
 しかし、それにしても何故、一人の人間に過ぎないオクタビアヌスが、「神」、また「救い主」「主」と呼ばれ、その誕生日は喜ばしい知らせ、「福音」と言われ、「アウグストゥス」と呼ばれて崇拝されるようになったかと言うと、それは、彼が平和を作り出したからなのです。
 日本で言えば、戦乱の世を勝ち抜き、ついに天下泰平をもたらした豊臣秀吉を大明神様と呼んだり、徳川家康を大権現様と呼んだりすることと同じです。私たち罪人である人間が作り出す世というのは、こういう圧倒的に強い人物が出てこない限り常に乱世です。その世は、まことに物騒な世であり、弱い立場の庶民にとっては恐ろしい世です。
最近、イラクの情勢について国連事務総長が、「残忍な独裁者がいても、今よりはましだったと国民が考えることは理解できる」と発言し、物議を醸しました。実際、どんな政府であっても、無政府状態よりはよいのです。人間がすべて賢くて善良な人々であるならば、支配者、統治者はいらず、すべては民衆の話し合いで決着をつければよいのですが、そんなことはあり得ません。そして、私たち人間が、その願望や欲望をそのまま発揮しても罰せられないとすれば、略奪、暴行、レイプ、殺人、無差別テロが横行することは、これまでの歴史が証明していることです。今でも貧しいアフリカでは、様々な要因が複雑にこんがらがった内戦が泥沼化して無政府状態になる国があります。そうなると、武器を持っていない村はやりたい放題の略奪と殺戮の対象となり、子どもは次々と誘拐され、薬物を打たれて恐怖心や倫理観を取り除かれ、殺人兵器として戦場に送り出され、虫けらのように人を殺し、虫けらのように殺されていく。少女も戦場を連れ回され、兵士たちの性的欲望のはけ口にされる。そして、エイズが蔓延する。そういう地獄のような世界になってしまうのです。
そういう世界に、圧倒的な権力と武力を持った人物が現れ、絶対的な支配権を確立し、すべての民衆から武器を取り上げて治安を回復し、さらに経済的繁栄をもたらしてくれれば、人々が「大明神」「大権現」「現人神」「恐るべき方」と言って崇拝することは当然のことです。そういう神格化された人物が、あるいはその国家体制が、次第に独裁国家、思想弾圧をする国家になったとしても、無政府状態よりは、はるかに安全であることに変わりはありません。
今日の箇所の背景には、そういう歴史背景があります。アウグストゥスは、時間をかけて、次第にローマ帝国内の頂点に上り詰めますけれど、それは同時に「アウグストゥスの平和」、後に「ローマの平和」と呼ばれる平和の基礎を作り上げていく過程でもあるのです。しかし、戦争で作り上げた平和は、必ず戦争によって破壊される。それもまた歴史的な事実です。

人間の数を数えるアウグストゥス

それはとにかくとして、アウグストゥスがその権力の絶頂にいた頃、「住民登録をするように命じた」とあります。歴史的には、それが何時だったのか、どれくらいの規模だったかは証明できません。しかし、何時の時代の権力者も、武力をもって作り出した帝国の平和を堅固なものとするために、庶民から税金を取り立て、徴兵をするためにこういう調査をするものです。それが、美しい国つくりの一環だと考えるわけです、
今日、注目したいのは、ヨセフやマリアではなく、羊飼いです。彼らは羊の所有者、オーナーではありません。雇われ人です。放牧期間中、羊たちの草を求めて移動し、狼や羊泥棒から羊を守りつつ野宿を続けなければならない人々です。これはユダヤ人の社会の中でも最下層の労働者階級ですし、ユダヤ教の律法を守って生活できるわけではないので、宗教的には汚れた罪人として卑しめられていた人々だと、言われています。ですから、住民登録の対象にもならない。税金など納めようもない人々です。アウグストゥスからは、人の数にも数えられない人々です。彼らの心の悲しみ、嘆きは深かったと思う。

羊飼いに告げられた大きな喜び

しかし、そういう羊飼いのところに、主の天使が近づいてきて、主の栄光で照らします。当然の事ながら、彼らは非常に恐れました。直訳すれば「大きな恐れを恐れた」と、ギクシャクしたものになります。言葉ではうまく表現できない恐れが、彼らを襲ったということでしょう。
その彼らに、天使がこう告げました。

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

 この「大きな喜びを告げる」という言葉も、喜ばしい知らせを告げる、つまり、「福音を告げる」という言葉にプラスして、わざわざ「大きな喜びを」という言葉がついているのです。羊飼いが捕らわれた恐れが表現できないほど巨大な恐れであったのに比例して、ここで告げられる喜びもまた、ちょっと言葉では表現できない喜びなのです。そして、この「喜び」は、「幸せ」という意味であり、その「幸せ」とは「祝福された者たちの幸せ」という意味でもあります。その喜び、幸せ、祝福を告げるために、天使は名もなき羊飼いたちに現れたのです。
 それはどういう喜びであるかと言えば、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」という喜びです。そして、「この方こそ、主、メシア(キリスト)」だという喜びなのです。アウグストゥスが、「救い主」と呼ばれ、「神」と呼ばれ、「主」と呼ばれ、「恐れるべき方」と呼ばれ、ローマの宮殿に君臨し、彼が作り出した平和と繁栄を人々が喜んで享受している時、ユダヤの荒野で野宿をしながら夜を徹して羊の番をしている貧しい羊飼いに、天使たちから知らされたのは、もう一人の「救い主」「主」「キリスト」(メシア)です。そして、その方は、宮殿の中ではなく家畜小屋の飼い葉桶に寝かされている。それこそが、この方が、救い主、主、キリストであることの「しるし」だと天使は言うのです。

  しるし?

 この「しるし」という言葉は、来週ご一緒に読む2章34節、シメオンという老人が、イエスの母マリアを祝福しつつ語る言葉の中に出てきます。

「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

 救い主、メシア(キリスト)、そして神様を表す「主」としてお生まれになった方は、神の民であるべき「イスラエルの多くの人を倒したり、立ち上がらせたりする」お方であり、最後は、多くの人から「反対される」と言うのです。しかし、そこに「救い主」「主」「キリスト」としての「しるし」がある、とシメオンが言う。そして、母マリアは、「多くの人の心にある思いがあらわにされる」時に、心が剣で刺し貫かれると、言うのです。
 この言葉が意味するところが何であるかについては、来週ご一緒に耳を傾けたいと願っていますけれど、この「しるし」は多くの人の罵声の中で、十字架で殺されて死ぬことの「しるし」であることは、この福音書において明らかなことです。
 母の胎にいる時から、権力者の命令によって苦しい旅を続け、生まれた時も、きれいなベッドではなく、家畜が鼻先を突っ込み、そのよだれがこびり付いているような汚くて、臭い、飼い葉桶に寝かされている赤ん坊、そして、その誕生は野宿をしながら徹夜をして働かざるを得ない羊飼いにだけ知らされるこの赤ん坊は、ひたすらに神の愛を宣べ伝え、枕する所もないという過酷な伝道の生涯を送った挙句に、皆に反対され、排除され、なぶり殺しにされるのです。「だけれども、いや、だからこそ、この方こそがあなたがたの救い主であり、キリスト、主だ。今日、この方が生まれた。あの汚くて、臭い、飼い葉桶に寝かされていることが、十字架の死によるあなたがたの罪の贖い、あなたがたを罪の穢れから清めて下さるしるしなのだ。」天使は、そう告げているのです。

  神をあがめる羊飼い

 天使がそう告げ終わると、突然、天の大群も加わって、神を賛美し始めました。

「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」


 天使たちが離れ去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムに行こう」と言って、出かけました。どれくらいの距離があったのか分かりません。そして、これは夜の出来事です。どこの家畜小屋かも分かりません。ベツレヘムの人々は、家畜小屋で赤ん坊が生まれたなんて知りません。だから、この羊飼いたちは、寝静まった真っ暗な街の中で、この赤ん坊を見つけ出すことに苦労したはずです。けれども、ついに見つけ出した。すると、すべては天使たちが言った通りだったのです。その事実を見て、彼らは、「神をあがめ、賛美しながら帰って」いきました。
 「クリスマス」とは「キリスト礼拝」という意味です。この赤ん坊こそ神の子、キリスト、救い主、主であると信じてキリストを礼拝し、そのことを通して神をあがめ、神に栄光を帰することがクリスマスです。そのクリスマスが、この日、羊飼いたちによって捧げられたのです。これが最初のクリスマス、キリスト礼拝です。

  誰が真実の王・救い主なのか

当時のローマ帝国では、皇帝礼拝が次第に始められつつありました。現人神が崇められるということ、あるいは神格化された独裁者が自らを崇めさせようとするということは、かつての日本、ドイツ、イタリア、旧ソ連だけでなく、最近までのイラクや、今の北朝鮮でも繰り返し起こっていることです。そうやって平和と繁栄を作り出そうとする。それは人間が、この歴史の中で繰り返しやってきたことですが、それは必ず崩壊で終わるのです。ローマ帝国も崩壊しました。永遠の都は、地上には存在しません。そういう人間の歴史の只中に、神が御子を送り、それも飼い葉桶の中に送り、その御子は神のご計画に従って、ついに「ユダヤ人の王」という札をかけられた十字架で処刑されたと、聖書は告げます。そして、この方こそ、この低きに下られた方こそ、キリスト、救い主、主なのだと告げているのです。神の国の王なのだと告げるのです。
何故なら、この方は、私たちすべての人間を支配している最大の王である罪を打ち負かして下さったからです。罪は滅びとしての死を、私たちにもたらします。現人神であれ、独裁者であれ、アウグストゥスであれ、庶民であれ、私たち人間が罪と死の僕であることに変わりはありません。罪に国境はありません。時代もない。何時の時代、どこの国の人間でも、身分の上下、男女の違い、全く関係なく、私たちは皆、罪の中に落ちている罪人であり、皆、滅びるのです。だから私たちは善を行おうと欲しても、そのことがなかなか出来ない。愛そうと思っても、赦そうと思っても、それが出来ません。罪という王に支配された奴隷だからです。奴隷として生き、そして、奴隷として死に、滅んでいくのです。
しかし、神の御心は、私たちの滅びではなく、救いです。神は、その独り子を給うほどに、私たちを愛してくださっているのです。そして、神は、この飼い葉桶に寝かされ、枕するところのない生涯を送り、ついに十字架につけられた方を通して、私たちの罪を赦し、そして、この方を復活させることを通して、罪と死の力を完全に打ち破って下さいました。御子は、肉体をもって地上を生きておられたときになすべき御業をなし終え、今は神の右に座して、私たち一人一人を守り、世界を救いの完成へと導いてくださっています。この方を王、キリストとして、救い主とし、主として信じ受け入れるとき、私たちは誰でもが、罪と死の支配から解放されて、神の国に生きる神の子として新しく誕生させて頂けるのです。

キリスト礼拝(クリスマス)を捧げる者とは

羊飼いは、天使が告げたことを聞いて、恐らく羊をつれて、ベツレヘムの家畜小屋までやって来ました。彼らは、実際にやって来たからイエス様に会うことが出来たし、天使が言っていたことはすべて本当だと知ることが出来たのです。天使が去った後に、「ああーびっくりしたな、もう」と思うだけで、「別に俺たちには関係ないことだ」と思ったり、「飼い葉桶に寝かされた赤ん坊が救い主のわけがないだろう。主であるわけがないだろう」と思って、そのまま野宿を続けていれば、彼らには何も起こりません。彼らがキリスト礼拝を捧げることが出来たのは、彼らが天からの使いの言葉を聞いた時に、「さあ、行こう」と言って腰を上げ、真夜中に、必死になって探し回ったからです。実際に歩いて礼拝に来てみなければ、キリストと出会うことが出来ないことと、それは同じです。
 しかし、彼らは何故、わざわざ真夜中に必死になって飼い葉桶に寝かされている赤ん坊を探したのか?それは、彼らが救いを求めていたからです。人の数にも数えられない悲しみ、汚れた罪人と蔑まれている悲しみ、夜の寒さ、暗さ、動物の臭い匂い、そういうものが体に染み付き、心を支配し、深い孤独と絶望の人生の中で、救いを待ち望んでいたからです。神は、そういう者たちを選んで、救い主の誕生を真っ先に知らせてくださいました。
 今日、伊阪さんがイエスを主と告白して、洗礼を受けられました。イエス様こそ救い主、その十字架の死と復活を通して、私の罪を赦し、罪と死の力から解放し、新しく神の子として生まれさせてくださる主であると信じ、その信仰を告白して、洗礼を授けられました。午後の祝会で伊阪さん自身が仰るかもしれませんが、伊阪さんが、礼拝に熱心に通い始めたきっかけは、四年前に、長年連れ添ってこられたご主人を失われたことにあります。それは伊阪さんにとっては、大変な喪失でしたし、人からの慰めではどうすることも出来ない深い悲しみでした。そういう時に、妹さんである里子和子さんから「礼拝に来てみない?」と誘われて、それからの四年間、毎週欠かすことなく、礼拝を守り続けて今日を迎えられました。その四年間を通して、伊阪さんは、「あなたのために救い主が生まれた」ということを知らされてきたのだし、「その方こそ、主キリストである」ことを知らされてきて、今日、神と会衆の前で信仰を告白し、洗礼を受け、神をあがめ賛美する神の子の一員になったのです。これは、御心に適ったことです。だから今日から、神の家族として私たちと共に主の食卓(聖餐)に着くことが出来るのです。

  神が私たちを数えてくださる

今日、全国の教会でいったい何人が洗礼を授けられているのか、私は知りません。また全世界の教会で、何人が授けられ、新しい命が誕生しているのか、それも知らない。また、何人の人が、礼拝を捧げているのか、それも知りません。そんなことを知っている人は、この地上に誰もいないのです。それを知っているのは、天上の王、私たちの主イエス・キリストだけです。私たちの救い主、主イエス・キリストが、今日、その一人一人を数えていて、天国の帳面に住民登録をしてくださっているのです。一人一人の名前をその帳面に書きながら、「良かった、良かった。本当に良かった。今日、この子が生まれた。神の子として生まれた。救われた。国籍を天に移した。良かった。私が十字架にかかって罪を贖ったことを信じてくれた。私が甦ったことを信じてくれた。そして、いつも共に生きて、愛していることを信じてくれた。良かった、良かった。さあ、お祝いの食卓を囲んでパンを食べ、ぶどう酒を飲みなさい。そして、罪の赦しに与り、新しい命に生きなさい。おめでとう」と言ってくださっているのです。そして、礼拝をする私たち一人一人のことも、神の家族として、一人一人を数えてくださっている。

  御心に適う者たちの平和

 私たち洗礼を受けたキリスト者は、今日この日、この礼拝堂に来ることが出来た者も、病や高齢の故に、この礼拝堂に来られなかった者も、同じ時に、キリストを礼拝し、キリストを送ってくださった神を崇め、栄光を神に帰することを通して、天国に住民登録されている恵みを確認し、真の平和を与えられています。
私たちは、クリスマス、キリスト礼拝を捧げることによって、まさに御心に適っているのです。礼拝を捧げている今、私たちはまさに平和です。世の中に何があっても、その現実がいかに暗く、恐るべきものであっても、この礼拝堂で、あるいはこの主の日にそれぞれの場で、主が生まれ、今も生きておられることを、御言を通して知らされ、御霊を通して信じさせて頂ける時、そして、賛美と感謝を主に捧げることが出来る時、私たちはすべての恐れから解放されて、溢れる喜びを持って平和の君なる主を礼拝できます。そして、聖餐の食卓を囲みつつ、私たちははるかに天上に備えられている食卓の面影を映し偲ぶことが出来ます。こんな平和は世にはありません。
まだ洗礼を受けておられない方たちが、近い将来、御言と聖霊の導きの中で、信仰を与えられ、洗礼を受けて、共にこの食卓につき、神の栄光を称え、神の平和を感謝できますように、心から願っています。そして、その願いは何よりも神とキリストご自身の願いです。
 全世界を、いや天上も地上も地下も、すべてを支配するお方は、私たちのために生まれ、十字架の上に死んで、甦り、今は天上の神の右の座に座したもう私たちの主イエス・キリストです。パウロが言いますように、「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神に栄光を帰する」日が来るのです。その時に、全世界の平和は完成するのです。私たちは、幸いにも、今、そのキリストを主と告白して礼拝し、神の栄光を称えることが出来る。なんと幸いなことでしょう。なんと喜ばしいことでしょうか。神に祝福された私たちキリスト者は。
神をあがめ、賛美する羊飼いたちは、同時に「この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」羊飼いです。
私たちも、深い孤独や悲しみがあるから教会に招かれ、そして、今日もここまで歩いてやってきた羊飼いでしょう。今日の礼拝を通して、賛美と喜びをもって主を証しする羊飼いに造り替えていただきましょう。それが御心に適うこと、この世に平和を作り出すこと、そして、いと高き神の栄光を称えるクリスマスなのです。
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