8日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。
わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
これは万民のために整えてくださった救いで、
異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」
父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
今日の礼拝は、日本的感覚で言うと「歳末礼拝」ですけれど、教会の暦としては降誕節後第一主日です。教会暦はクリスマスを迎える待降節(アドヴェント)が新年です。そして、教会の伝統の中では、クリスマスから8日目に今日の箇所を読み、シメオンの讃歌、ラテン語で「今こそ去らせてください」を意味する「ヌンク・ディミトゥス」という讃美歌を歌う礼拝を捧げることになっているようです。
「歳末礼拝」という名前は、いかにも日本的な命名だと思いますけれど、この季節に来るのは「喪中のお知らせ」の葉書きです。だからと言うわけでもありませんけれど、私が一年の最後の礼拝に備える際にはその年に天に旅立たれた方たちのことを思い起こします。今年は、金澤定一さん、野アミサヲさん、斎藤晃子さん、小泉和子さん、そして明石和子さんが天に旅立たれました。
先週のクリスマスの祝会の時に、「牧師として最も幸せな時は、神様の働き、臨在を目のまで見ることが出来る時だ。たとえば、ある人に信仰が与えられる瞬間を間近にすることが出来る。聖霊が注がれ、祈りの言葉が与えられ、その言葉が出てくる瞬間に立ち会うことが出来る。そのときの喜びは、何物にも換えがたい」ということを言いました。しかし、それと同じく幸いなときは、死を間近にした信徒の方の枕元で御言を読み、共に祈るときです。その時、その場においては、人間の言葉は何の意味も力も持ちません。人間は全く無力なのです。でも、だからこそ、死から甦らされた主イエス・キリストの言葉、また主イエス・キリストを世に送り、十字架の死から復活させ給うた父なる神の言葉だけが力を発揮します。命の言葉として、人を生かす言葉、信じる者に永遠の命を与える言葉として、その力を発揮するのです。そういう神の臨在をなまなましく感じる現場にいることが出来る、いや、いなければならない者とされていることは厳しいことでもありますけれど、しかし、神様に深く感謝し、その御名を褒め称えざるを得ない幸いであり、喜びであることに変わりはありません。死を目前にしている床で読まれる御言を信じることが出来たお一人びとりの顔は和み、微笑み、そしてまさに安らかでした。「その言葉を聞いたから、私は安らかに去ることが出来ます。」人が、心からそう思う瞬間がある。そのことを、私に教えて下さいました。
今日の箇所には、シメオンという男性が登場します。今は読みませんでしたが、36節には84歳のアンナという女性が似たようなシツエイションで登場することから、シメオンもしばしば「老シメオン」と呼ばれてきました。そして、その推測は当たっていると思います。彼の年齢は書かれていませんが、彼は何年も何年も、「主が遣わすメシア(キリスト)」の到来を待ち望んでいた」人ですし、そのメシア(キリスト)に会った時に、その使命を終えて、「安らかに去らせていただける」と感謝しています。この「去る」という言葉は含蓄が深い言葉ですけれど、その一つの意味は、世を去る、死ぬという意味であることは明らかです。彼は、人生の晩年に、ついに主の救いを見ることが出来、安らかに去ることが出来たのです。アンナもまた同様であろうと思います。
シメオン、彼は「正しい人で信仰があつく」「イスラエルの慰められるのを待ち望んで」いた人です。そして、彼には「聖霊がとどまっており」、「主が遣わすメシア(キリスト)に会うまでは、決して死なないとのお告げを聖霊から受けて」いました。
問題は「聖霊」です。この聖霊が彼を神殿に導き入れると、ちょうどヨセフとマリアがイエス様を抱いて神殿に入ってきました。私たちキリスト者は、しばしば「聖霊の導き」という言葉を使います。聖霊の導きがないと、私たちは神様の言葉を聞くことが出来ませんし、神様の御業を見ることが出来ません。シメオンは、その聖霊の注ぎと導きの中に、主のメシアと会う(「見る」)までは死なない(原文では「死を見ることがない」)というお告げを受けていました。つまり、彼は、ただただこのお告げが実現する日を待つために生きている。そして、その日には、神を賛美し、そのメシアに関する預言をするため、ただそのために彼は生きているのです。
そして、彼はこの日、聖霊の導きの中に神殿に上りました。まさにその時に、イエス様は両親に連れてこられたのです。この時のイエス様は、後に画家たちが描くような光り輝くイエス様でも、三位一体を現すべく三本の指を立てていたわけでもないでしょう。ごく普通の赤ん坊であり、その両親もごく普通の夫婦だったに違いありません。でも、聖霊に導かれているシメオンは、ただ彼だけがこの赤ん坊が、「異邦人を照らす啓示の光」「イスラエルの誉れ」であると分かったのです。私たち人間が、高齢になることで失うことは多いに違いありませんが、しかしまた、高齢でなければ分からないことも多いに違いありません。そして、高齢になるまで信仰を生きてきた人々、また高齢になって信仰を生き始めた人に、神様は特別の恵みを与えてくださるのだと、私は私なりのいくつもの経験を通して知らされていますから、私も年をとることは一つの大きな楽しみでもあります。クリスマスの喜びは、何となく若者、それも恋人たちのものであるかのように思っている人がこの国には多いように見受けられますけれど、聖書では、ひたすらに信仰に生きている老人たちの喜びこそがクリスマスの喜びです。彼らこそ、この日生まれた方がどういうお方であるかを知り、賛美することが出来たのです。
シメオンは、赤ん坊を見ると、すぐさま両手を差し出しました。そして、マリアも思わず、見ず知らずのこの老人に大切な長男を渡したのです。普通だったら、警戒すると思いますが、その時は、何故か自然にそういう動作をしてしまったのではないでしょうか。赤ん坊を委ねられたシメオンは、天を見上げて賛美を始めました。
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
この僕を安らかに去らせてくださいます。」
ここに出てくる「主」は、神様とかイエス様を現す「主」(キュリオス)ではなく、専制君主とか奴隷の主人という場合の主君を表す言葉(デスポテース)が使われています。シメオンは、この時まで、何年にも亘って、この主人の命令、何時どのように実現するか分からない命令に拘束されてきたのです。ある面、横暴にして理不尽な主君の命令に拘束されて、毎日毎日、今日なのか、明日なのか、あと何日、あと何年待たねばならぬのか・・・?と煩悶しつつも、いつの日か、神様の言葉は必ず実現すると固く信じて生きてきた。その彼が、赤ん坊のイエス様を見た時、安らかに死ぬことが出来ると思った。何故なら、彼はそこに「救いを見た」からです。
「わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
これは万民のために整えてくださった救いで、
異邦人を照らす啓示の光、
あなたの民イスラエルの誉れです。」
この「救い」の内容と「見る」とはどういうことなのかが、今日の箇所の問題だと思います。その問題に取り組むためには、先を読んでいかねばなりません。
シメオンは、彼の賛美を聞いてよく意味が分からぬままに「驚いて」いる両親を祝福した上で、母マリアに向かって、不思議というか不気味なことを語りかけます。
「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。」
「御覧なさい」は「見る」の命令形です。今日の箇所には「メシアに会う(見る)」、「死なない(死を見ない)」、そして、「救いを見た」とあり、ここに「御覧なさい(見なさい)」とあるのですが、ここでの「見る」は、単に、肉眼で見ること、また肉眼で見えるものに留まらないことは言うまでもありません。聖霊の導きによらないで、一体誰が、この普通の赤ん坊の姿の中に「神が整えた救い」を見ることが出来るでしょうか?また、誰が、この赤ん坊が、イスラエルの多くの人を倒したり、立ち上がらせるために定められた子であり、さらに多くの人の反対を受けるしるしであると分かるでしょうか?
シメオンは、さらに不思議なそして不気味な言葉を続けます。
「――あなた自身も、剣で心を刺し貫かれますーー多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
この言葉は一体何を意味するのか?そのことはじっくりと考えていかなければなりません。
私たちは先週クリスマスを祝いました。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」
という天使の言葉を聞きました。そして、
「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」
という賛美を共にしたのでした。
ここには、「民全体に与えられる大きな喜び」とありますけれど、「地に住む民全体には平和があれ」とは言われていません。「地には平和、御心に適う人にあれ」と言われているのです。私たちはよく「全世界が平和になりますように」と口にしたり、祈ったりします。けれども、聖書における平和とは、「アウグストゥスの平和」とは違います。単に戦争がない状態のことではないのです。それじゃあ、なにか?御心に適う人にだけ与えられる平和とは何か?クリスマスは民全体に与えられる大きな喜びであるに違いありませんが、でも、渋谷の町でどんちゃん騒ぎのクリスマス会をしている人と、この礼拝堂でクリスマス(キリスト礼拝)を捧げている人間と同じ喜びを生きていたわけではないはずです。何がどう違うのかを明らかにしなければなりません。
シメオンは、「イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた」とあります。この言葉の背景に旧約聖書があることは言うまでもありません。特に、この言葉を理解するために、私たちが思い起こさなければならないのは、イザヤ書40章以下の言葉です。そこには、一般に第二イザヤと呼ばれる預言者の言葉が集められているのですが、その冒頭の言葉は、こういうものです。
「慰めよ、わたしの民を慰めよと
あなたたちの神は言われる。
エルサレムの心に語りかけ
彼女に呼びかけよ
苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。
罪のすべてに倍する報いを
主の御手から受けた、と。」
ここにおける「慰め」とは「罪の赦し」のことです。イスラエルの罪に対する裁きが終わって、今こそ、主の赦しの御業が始まる。新しい救いの御業が始まる。この預言者は、罪の赦しによる新しい救いを「慰め」という言葉で表現したのです。
シメオンが「イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた」と言う場合、それは明らかにイスラエルの罪の赦しを待ち望んでいたということです。つまり、彼はイスラエルの民が、罪の中に落ちていることを自覚していたということでもあります。だからこそ、赦しを待ち望んでいたのです。そして、マリアに抱かれていた赤ん坊を見た瞬間に、その赦しという慰め、救いが到来したことをその目で見ることが出来たのです。だから、彼は安らかに去ることが出来る。ここに聖書が言う「平和」があるのです。「地には平和」という言葉と、「安らか」という言葉は、原文では同じですから。
しかし、その「救い」「平和」は、どのようにして、そして誰に与えられるのでしょうか。地に住むすべての人、万人でしょうか?
第二イザヤが、この預言を語った歴史的時点は、イスラエルが七十年あまりに亘ってバビロンに捕囚されていた時代です。イスラエルにとってバビロン捕囚は、捕らえ移された世代は全員が死に絶えたことを意味します。当時の平均寿命から言えば二世代分の長きにわたって、イスラエルは神に背いた罪に対する裁きを受けなければなりませんでした。普通だったら、イスラエル民族はそのまま歴史の中に消えていってもおかしくはないのです。しかし、そのイスラエルの中に、多くの民の罪を身代わりに背負い、裁かれて死ぬ「苦難の僕」が、現れるのです。神は、その僕を通して、イスラエルの罪を赦されました。その結果が、バビロンからの帰還、ユダヤ人はエルサレムに帰ることが許されるという救いだったのです。
しかし、神の赦しを受け入れてエルサレムに帰っていったのは、実際にはすべての民ではありません。エズラ書によれば「神に心を動かされた者」だけが帰っていったのです。その数はわずか42,360人です。つまり、神様によって与えられる新しい救い、苦難の僕の贖いの死を通して与えられた赦し、その慰めを受け取って、新しい歩みを始めたのはイスラエルの民の中でもごく一部なのです。神が与える罪の赦しによる救い、平和は万人に提供されても、万人がそれを受け取るわけではないのです。
第二イザヤは、人々の罪を背負って死ぬことになる「苦難の僕の詩」をこう詠い始めています。
「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。」
この驚き、信じ難さ、それは一人のごく普通の赤ん坊として生まれてきた方が、「神の救い」「異邦人の啓示の光」「イスラエルの誉れ」であることに関しても言えることでしょう。
クリスマスでは、私たちも「救い主が生まれた」と言って大喜びをしましたが、その「救い主」とは、どういう意味で「救い主」かと言えば、私たちの罪を赦すという意味なのです。そのことを本当に知った上で、私たちはその「救い主」の誕生を、喜び迎えているのでしょうか。
牧師はこの季節になると、色々な集会で何度もクリスマスの話をさせていただきますし、原稿もいくつも書かねばなりません。これはこれで大変なのですが、今年は更に東京女子大学のクリスマス礼拝でも説教をさせて頂く機会がありました。秋にそのことを依頼されて以来、私はずっとその説教が気がかりで、原稿を書いては何度も書き直しをし、その途中で、色々な方に読んでもらったり、聞いてもらったりしてきました。その中の一人は、現役の女子学生の方です。その方は、私の原稿を読んで、以下のような感想を送ってくださいました。
「クリスチャンでない人間が、キリスト教に対して『人に勝手に原罪というものをかぶせて、なんて暗い宗教なんだ。悪いことをしなくても、生きているだけで罪なんておかしい。』と言って端から否定するという場面に立ち会ったことがあります。」
日本人にとって「罪」「罪人」という言葉が、とんでもない悪人という意味でだけ伝わっていて、迂闊に使うと、それだけで拒絶反応にあう可能性もあるという指摘です。私の説教は、マタイ福音書の「この子は自分の民を罪から救うからである」という言葉に関するものですから、「罪」と「救い」に関しては慎重に、しかし、キリスト教の筋を曲げずに、若い学生たちにどうやって語るかについて随分苦心しました。
「聖書における救いとは罪の支配からの解放である」と言う時、それは恐らく日本人だけでなく、万人にとって、大きな躓きになると思います。実は、キリスト者も例外ではないのです。何故なら、私たちは誰も心の底では自分ことを罪人だと思っていないし、思いたくはないからです。だから、口では救い主の誕生を喜び賛美していても、現実には、その救い主を心の中に受け入れていないことが多いのです。罪の赦しを必要としていないのですから、当然です。
シメオンは言います。「この子は多くの人を倒すし、反対を受ける。」また、マリアも「剣で心を刺し貫かれる」と。何故なら、この子を通して、「多くの人の心にある思いがあらわにされるからだ」、と。これは、一体どういうことなのでしょうか? 一つ一つの言葉を説明していく時間はもうありません。「多くの人の心にある思い」に絞ります。
ある時、中風を患っている者をなんとかしてイエス様に会わせ、癒してもらおうとした友人たちの信仰を見て、イエス様は「人よ、あなたの罪は赦された」と言われました。しかし、そこにいたファリサイ派の人を初めとするユダヤ教の権威者たちは、心の中で、「イエスという男は神を冒涜している。罪を赦すことが出来るのは神だけだ」と思ったのです。しかし、イエス様は、その「心の中の思い」を見抜かれて、彼らの欺瞞を暴きつつ、中風の者の罪を赦し、その病を癒されるということがありました。あるいは、イエス様が安息日に癒しの業をして律法違反をするかどうか、ファリサイ派の人々が見極めようとしている場面があります。その時も、イエス様は彼らの心の中にある邪な思いを見抜かれます。その他いくつもの例がありますけれども、いずれもイエス様が主から遣わされたメシア、キリストであり、罪の赦しという慰め、新しい救い、神との平和、安らぎを、もたらしてくださるお方であることを疑い、何とかしてイエス様を罪人として捕らえ、処刑しようとする、そういう人間の「心の中の思い」として出てくるのです。
私たちは、現実にイエス様を肉眼で見ているわけではなく、その御業を肉眼で見ているわけではありません。そして、私たちキリスト者は、あからさまにイエス様に反対したり、敵対したりする人間ではないので、ファリサイ派のような人々と自分たちが同じだとは到底思えないのですけれど、実際どうなのでしょうか?イエス様は今も生きておられ、この世界の中で御業をなさっていますし、私たちキリスト者にはその御後に従うことを求めておられます。私たちは、その求めに応じて、信仰を告白し、キリストに従うことを約束したキリスト者です。しかし、イエス様が、私たちに「この人を赦しなさい。わたしがあなたを赦したように赦しなさい。その赦しの中にこそ、私があなたに与えた救いがあるのだ」と命ぜられても、私たちはそのイエス様の声には耳を塞ぐのではないでしょうか。また、そのようにお命じになるイエス様の姿を見ようとしない。無視するのではないでしょうか。つまり、まるでイエス様などここにおられないかのように振舞うのです。無視し、抹殺しているのです。
私たちは、口にこそ出さなくても、イエス様に「反対している」のです。「イエス様、なんでこんな人を赦さなければならないのですか?!私は断じて嫌です。この人が、土下座でもしない限り赦す筋合いはありません」と思って、イエス様に反対しているのです。私たちが好むイエス様は、歓迎するイエス様は、私たちにとって都合の良いことをしてくれるイエス様であって、都合が悪いイエス様、肉の思いとは反することを仰るイエス様など、てんで及びでないのです。
「異邦人を照らす啓示の光」とありましたけれど、光が強い時に実は影もくっきりと見えるのです。イエス様のもたらした愛と赦しの光、救いの光を正面から当てられるとき、私たちの背後には真っ黒な影が浮かび上がります。「啓示」とはアポカルプシスという言葉ですが、その言葉の動詞形が思いが「あらわにされる」アポカルプトウという言葉です。そして、イエス様はある所で、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」と仰いました。イエス様が救い主として啓示される時にこそ、実は、私たちの心の奥底にある思いがあらわにされてくるのです。
私が土曜日の夜に経験することは毎週そのことです。自分では、そんなに悪いことをしてきたつもりはない。少なくとも平均的な善人として生きてきた。悪い人は世の中にたくさんいる。人間関係で多少のトラブルがあっても、大半は、悪いのは相手の方であって、自分が悪い部分があったとしても三分程度で、あとの七分は相手の方が悪い。真剣にそんなことを考えていなくても、大体、そんな感じで生きているのです。私の場合は。だけれども、毎週、聖書を読みつつ説教に備えていく。御言の語りかけに耳を澄まし、聖書の字面に目を凝らし、あちらこちらを開いて読んでいくと、次第に、心がズキズキとし始める。抉られていく。聖霊の導きによって、聖書の御言の中に、今に生きるイエス・キリストの言葉が聞こえてくる、その姿が見えてくるに従って、日ごろ意識していない心の中の様々な思いが、あぶりだされていく。「イエス様に罪を赦していただいて有難い。幸せだ」などと口で言いながら、本心では「自分が罪人だ」などと実は少しも思っていない。罪人は他にいると、思っている。そういう自分の姿、実は、救い主など少しも必要としておらず、むしろ自分が罪人であることをあらわにするような「救い主」など目障りだと思っていることが、分かってくるのです。説教を準備するとか、説教を語るとか、聴くとかという体験は、普段意識をしない、意識したくない「自分の心にある思いがあらわにされる」ことなのです。少なくとも、そのことがない限り、「この目で救いを見る」という体験が出来ないことも確実なのです。
自分の心の中にどんな思いがあるのかあらわにされた後、こんな屈辱的な姿をあらわにする人物をなんとかして抹殺しようとするということは、肉の思いとしては当然のことではないでしょうか。ファリサイ派の人々は、特段悪い人ではなく、その思いに正直に生きているだけだと思います。しかし、その思いに従って生きるだけなら、その人は倒れていくほかにありません。自らの罪の中に倒れていくのです。滅びとしての死の中に落ちていくのです。しかし、心の中の思いがあらわにされた後、だからこそ罪の赦しを求めて、イエス様に縋りつく者は、立ち上がらせて頂けます。罪を赦して頂けるのです。慰められるのです。救われるのです。神との平和を得るからです。私たちは、そのどちらかしか生きることは出来ません。立ってもいない、倒れてもいない状態などありません。
シメオンは、赤ん坊を抱きながら、「わたしはこの目であなたの救いを見た」「これは万民のために整えて下さった(昔から定めてくださっている)救いです」と言いました。彼は、自分の目で、その救いを見ることが出来たのです。もちろん、彼の肉眼には赤ん坊の姿しか見えません。でも、それは「しるし」です。
先週、キリストが飼い葉桶に寝かされていることが「しるし」だと言いました。その「しるし」は、人間から排除され、抹殺され、捨てられることによって、実はすべての人間の罪を贖う救い主の「しるし」なのだと語りました。まさにそこに、「誰が信じ得ようか」という苦難の僕の姿が隠されているのです。その姿を見ることが出来る人がいる。あるいは見ることが出来る瞬間がある。
ルカ福音書は24章で終わりますが、24章はすべてイエス様の復活に関する記事です。弟子たちは当初、誰もイエス様が復活されたことを信じることが出来ませんでした。女たちが墓で、天使たちから聞いた言葉を伝えても信じなかったのです。その中の二人は、イエス様が十字架にかけられて死んでしまった後、何もかも諦めて故郷であるエマオという町に帰ろうと、歩き出してしまうのです。
しかし、その二人と共に復活されたイエス様が歩き始めるのです。けれど、「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」とあります。肉眼でイエス様を見ているのに、それがイエス様だとは分からなかったのです。その後、イエス様が聖書全体を説き明かし、メシアというものは、必ず苦難を受けてから復活の栄光に入るはずではなかったかと説明をして下さいました。つまり、罪の赦しを与える十字架を経て、新しい命を与える復活に至るキリストが到来していることを語り聞かせたのです。その時、彼らは「心が燃える」という経験をしました。でも、心が鈍い彼らには、まだそれがイエス様だとは分からなかった。けれども、その晩、彼ら弟子たちは、それがイエス様だとは分からぬままに、イエス様を自宅にお招きして夕食を共に摂ろうとしたのです。その時、客人であるイエス様が、まるでその家の主人であるかのように「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」のです。あの最後の晩餐の時のようにです。その時です。「二人の目が開け、イエスだと分かった」は。そして、その時、イエス様の「姿は見えなくなった」のです。
今日は残念ながら、聖餐の食卓は用意されていません。十字架と復活の主イエス・キリストから、罪の赦しと新しい命という救いを提供していただく救いの食卓はここにはありませんけれど、でも、今日も主イエスは生きておられ、私たちを礼拝に招き、そして、鈍い私たちに語りかけて下さっているでしょう。私を用いて、旧約聖書、新約聖書を貫いて、救い主キリストとは誰であり、何が救いであるかを説き明かして下さっています。聖霊の導きを受け入れて分かる人には分かるし、見える人には見えるし、耳のある者は、御言を聴くことが出来るでしょう。そして、その人は今「自分の心の中の思いがあらわにされて」いるはずです。
ヘブライ人への手紙にはこうあります。
「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることが出来るからです。更に、神の御前には隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。」
「神様、どうぞ私の罪をお赦しください。神様、あなたの救いを信じます。あなたの御子イエス・キリストだけが、私の罪を贖ってくださるお方です。あなたの御子だけが私の救いです。今日、その救いを見ました。今日、新たに信じます。その信仰のゆえに、私をお赦しください。お救いください。ただ、この方だけが、私を安らかに生かし、そして安らかに去らせて下さるお方です。」
神に対して、自分のことをこう申し述べることが出来る人は幸いです。その人は、今日、新たに立ち上がらされます。
一人でも多くの人が、両刃の剣である神の御言に心を刺し貫かれることによって、罪の赦しを与えてくださる私たちの慰め主、救い主、キリストへの信仰を告白し、安らかに新しい年を迎え、またいつの日か安らかに天国へと旅立っていくことが出来ますように。
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