「主ご自身が建てて下さる教会」

及川 信

詩篇127編 1節〜 2節

主御自身が建ててくださるのでなければ/家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ/町を守る人が目覚めているのもむなしい。
朝早く起き、夜おそく休み/焦慮してパンを食べる人よ/それは、むなしいことではないか/主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。



  説教と御言の朗読

 2007年の最初の主の日、こうして皆さんと一緒に礼拝を捧げることが出来ます幸いを、神様に感謝いたします。
 皆さんは、どのように新年をお迎えになられたでしょうか。日本では「年度」というものもありますし、キリスト者には「教会暦」という暦もありますが、今日は、「新年」を意識して御言を選びました。
 私は、こうやって講壇の上で説教をすることを最大の務めとしている者です。けれども、説教の究極は、聖書朗読だとも思っています。もちろん、初代教会の時から、聖書朗読の後の説き明かしは必要なものでしたし、そのことのために神様によって立てられる説教者はいました。その様にして立てられた説教者は、その使命を果たすために、聖霊の導きを祈りつつ、御言の語り掛けに耳を澄ませ、その世界に目を凝らす以外にありません。そして、最終的に聖書の言葉から神様、またイエス様の語りかけが聞こえてきた時、また聖書の言葉の中に神の国の有様が見えてきた時は、喜びと感謝に満たされ、その言葉を一人でも多くの人に語りたいと心から願うようになります。しかし、説教者がどんなに一生懸命に説き明かしたとしても、その説き明かしの言葉よりも、聖書の言葉そのものの方が重要であることは言うまでもありません。牧師が説教で何を言ったかということは大した問題ではなく、司式者が朗読し、牧師が説教で説き明かした御言が神の言として聞こえたかどうか、その言葉を通して神の世界が見えたかどうかが問題なのです。先週の礼拝における言葉で言えば、御言に心が刺し貫かれた、止めをさされた。その上で、新たに立ち上がらされた。そういうことが起こるか起こらないか、ただそれだけが、説教者においても聴衆においても問題なのです。だから、私はここで聖書を説き明かすことも一生懸命にしますが、ここで聖書を読むことも、本当に一生懸命にします。そして、その時が、私にとって実は最大の喜びの時です。「この言葉は本当の言葉です。確実な言葉です。そのまま信じるに足る唯一の言葉です。こんな言葉を聴けるなんて、私たちはなんと幸せな人間でしょう。」心からそう思って読めるからです。そういう言葉を、皆さんに向かって、またさらに世に向かって読むことが出来る光栄と幸いを思うからです。

  主御自身が建ててくださるのでなければ

 今日、与えられている御言は、こういうものです。

「主御自身が建ててくださるのでなければ
家を建てる人の労苦はむなしい。
主御自身が守ってくださるのでなければ
町を守る人が目覚めているのもむなしい。
朝早く起き、夜おそく休み
焦慮してパンを食べる人よ
それは、むなしいことではないか
主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。」

    主の命令と約束

 6年前に中渋谷教会に着任させていただいてから、元旦には西南支区が主催する新年礼拝に毎年出席しています。昨年までの4年間は、その新年礼拝を整える支区の伝道委員としての仕事がありましたから、出席をするという感じではありませんでしたが、今年は久しぶりに支区の仕事から解放されていましたから、新年礼拝も一礼拝者として出席できました。こういう経験は牧師には非常に大切なもので、その日は「礼拝に行くぞ」という喜びと期待をもって出かけました。
 その日の説教者は、私にとっては幼馴染の牧師であり、いつものように「終わりを目指して」という説教題に相応しいメッセージを淡々と語ってくれました。聖書の箇所は、マタイによる福音書の最後の言葉です。そこで復活の主イエスは、弟子たちに向かって、こう命令を発せられています。それはもちろん、その日の礼拝に出席しているすべての者たちに向かっての主イエスの命令です。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 これは主イエスによる「大伝道命令」と言われる言葉です。この言葉を読んだ後、説教者は、「この命令は主イエスの命令であり約束ですから、主イエスが必ず実現してくださるのです」と語りました。その通りだと思います。主イエスご自身が、私たちを用いて伝道してくださるのです。伝道の主体は私たちではなく、主イエスなのです。主が伝道してくださる。私たちはその主に従い、手となり足となり、主イエスの御業の道具として使っていただくのです。
 その説教を聴いた後、聖餐式がありました。弟子たちによって宣べ伝えられた主イエスの福音を信じる告白を公にして、洗礼を受けた者が与る式です。その時、聖餐式の司式をしたのは会場教会の牧師でしたが、私はその式の間中、これまでに経験したことがない深い感動を覚えました。そして、中渋谷教会の新年礼拝で語ることになっていた詩篇127編が何を語っているかが分かりました。

ヴィジョンとは

 今日は、そのことをお話したいと思いますけれど、そのことのために、私たち中渋谷教会の現状について、少し確認をしておく必要があります。
私たちは今から3年前の2004年2月の全員協議会において、「教会形成10年ヴィジョン」を掲げました。その文章は、毎月発行される「会報」に必ず掲載しています。「ヴィジョン」とは、私たちが頭で考えて立てる計画〔プラン〕とか声明・宣言〔マニフェスト〕とは違います。プランやマニフェストは、私たちがやるべきことであり、明確な数値目標もあります。それに達しなければ失敗だし、達すれば成功と言えるのです。しかし、教会で「ヴィジョン」と言う場合、それは神様が私たちに与えてくださった「幻」です。しかしそれは「儚い夢」のことではなく、神様が必ず実現してくださる幻であり、そうであるが故にこそ、私たちもまたその幻を目指して全力で歩むべきものなのです。
私にとっては、このヴィジョンが見えてくるまでの3年間は、非常にシンドイなと感じる年月でした。着任させて頂いた当時の中渋谷教会は、多くの教会の趨勢と軌を一にして教勢が低下の一途を辿っていました。10年間で礼拝出席者数が20名も減り、そのほとんどが男性であり、その間に平均年齢が10歳上がってしまいました。前任地の松本の教会に着任した当時の礼拝出席者が20人でしたし、長野県には20人に満たない教会はいくつもありますから、私にとっては20人減るというのは教会が1つなくなったということを意味しますから、非常にショックでした。さらにショックだったのは、都会の大きな教会では、そのことがさして大きな痛みとして感じられていなかったことでした。年齢構成で見ると、2003年度の資料では、現住陪餐会員213人中、65才以上の方がなんと109人いるのに、20代は1人です。そして、30代は5名程度。2001年の時には、礼拝に出ているという意味では、やはり1人か2人なのです。幸いなことに、今は少しずつ増えています。何故、こういう状態になってしまったのか?高齢の方が100人200百人いらっしゃってもそれは喜ばしいことですけれど、中年や青年、また少年少女や幼子が何10人いても少しもおかしくないはずです。同じ時代、同じ地域でも、年齢構成的にはバランスが取れている教会もないわけではないし、伝道が進展している教会も数は少ないのですが、ないわけではありません。それなのに何故、多くの教会でこういう現象が起こってしまうのか?
その理由が誰もよく分からず、またどうしたらよいかも分からぬままに、様々な議論をし、いくつもの試みをし、祈っていく中で示されてきたのが5つの項目からなる「10年ヴィジョン」です。その中の三本柱は「神の家族としての教会形成」「礼拝への結集」「顔の見える伝道と牧会」というものです。家族なのにお互いの顔も名前も知らない、関心がないなんてことはあり得ません。そして、家族にとって大切なのは食卓です。食卓を一緒に囲む。同じ物を同じ時に、お互いの顔を見ながら、糧を与えてくださった神様に感謝しながら食べる。この食事を最も大切なこととして重んじなければ、一般の家庭だって崩壊していきます。まして私たちは基本的に、集まるのは週に1回の礼拝の時だけです。この礼拝において聴く御言は命の糧です。人はパンだけで生きる存在ではなく、神の口から出る1つ1つの言葉によって生きる存在として、創造されたからです。礼拝は、人が人として生きるに必要な糧を与えられる食事の時なのです。父なる神様が、「さあ子どもたち、食事の用意が出来た。集まっておいで」と呼んで下さると、お腹をすかせた子どもが集まってくるように、私たちは集まってくる。そして、祈りを合わせて食事を始める。それが礼拝です。年に15回、その食事の中に、さらに主の食卓が用意されます。そこで、私たちの罪の贖いのために裂かれ、流された、主の体と血を、命の息吹である聖霊と共に頂きます。今日はその聖餐礼拝の日です。洗礼式のときに、聖餐を重んじますと誓約した礼拝の日です。この礼拝、この食卓を共にすることで、私たちはイエス・キリストを通して与えられている神の絶大な愛を再確認し、神を愛し、互いに愛し合うべき神の家族としての交わりを生きることが出来るし、一人ひとりは神の子として生きることが出来るのです。つまり、神に生かされている人間として生きることが出来るのです。

洗礼 新生

 2週前のクリスマス礼拝で伊阪浩子さんが洗礼を受けられました。午後には松本美代さん、氏家富貴子さんが信仰50周年の祝福を受けられました。それぞれ本当に幸いなことだったと思います。私もこの1月2日で信仰30周年となり、某長老は昨年のクリスマスで40周年ということでした。人が洗礼を受ける経緯は人によってまったく違います。先日の祝会におけるそれぞれの方のご挨拶や祝辞を伺っていても、その感を深くします。しかし、経緯はどうであれ、洗礼において起こる出来事は誰においても変りません。それは、それまでの自分が死ぬということですし、新しい自分が生き始めるということです。
 私が20歳の正月に洗礼を受ける時の問題も、まさにそれでした。洗礼を受ける前に、学校に行かず、引きこもっていた下宿の部屋で書いた言葉があります。 「新しいことは2つだけ。自分で自分を殺すか、自分が生かされるか。ただそれだけ。」
そう書いたことをよく覚えています。自分を殺すとは、端的に自殺することです。しかし、それも空しいことだと思いました。でも、これまでのように、自分で生きるなんてことも、全く空しいことだと思っていました。大学を出て、社会に出て、それなりに出世して、それがどうした?!だから何なんだ?!そんなことのために生まれてきたわけじゃないだろ?!と痛切に思うのです。詩篇127編の言葉、
「朝早く起き、夜遅く休み、焦慮してパンを食べる人よ、それは空しいことではないか」という言葉はまだ知りませんでしたけれど、少なくとも、当時の私にはいわゆる社会人の生活に少しも意味を見出せなかったことは確かです。と言うか、いわゆる社会に出るまでに、生きるということについて決定的なことを決めておかないと、「生きる」とは言っても、ただただ流されていくしかないという恐怖の方が強かったと思います。移り行く社会の価値観に捕らわれ、パンを食べるために生きるなんて空しい人生は生きたくない。でも、空しくない人生はどういうものであるのか、分からない。そうなれば、引きこもるしかないのは当然です。そういう日々の中で、決定的なことは、自分で自分を殺すか、自分は生かされているという人生に踏み出すか、それ以外にはないと分かったのですが、分かったとしても、どちらにも一歩も足を踏み出すことが出来ない苦しい日々が2ヶ月ほど続きました。最後は、身内の者にも手助けをしてもらって、自分で崖から飛び降りたというより、ちょっとだけ後ろから押してもらったというか、後ろで見てもらいながら、全く惨めこの上ない仕方で、崖から飛び降りて、それまでの自分に死に、新しく生きるための洗礼を受けさせてもらいました。
 その頃の私は、聖書を開いて読むと、書かれていることが非常に素直によく分かりました。イエス様の声が聞こえ、その姿がリアルに目に浮かびました。「父よ、彼らをお赦しください、彼らは何をしているのか分からないのですから」と祈ってくださる姿、「我が神、我が神、何故、私をお見捨てになったのですか」と叫ばれる姿、そして、「わたしはよい羊飼い、よい羊飼いは羊のために命を捨てる」と仰ったときのイエス様の声、その言葉の意味が、イエス様の復活以後に分かった時の弟子たちの爆発するような喜び。そういうものが、ビンビン心に響いてきて、押さえることが難しいという感じでした。だから下宿が同じ友人は、それまで引きこもっていた私が、突然、堰を切ったように熱烈に聖書の話を延々とするものだから、しばしば呆然としていました。そして、下宿で聖書研究会を始めましたし、半ば強制的に友人を教会に連れて行って、そのうちの二人は洗礼を受けました。

  洗礼は受けたけれど

 しかし、その一方で、洗礼は受けたけれど、肉をもってこの世を生きている限り、私たちは罪の誘惑を受けますし、様々な試練に遭います。そして、しばしば誘惑に負け、試練を乗り越えることができず、挫折します。これもまた間違いのない事実です。主の道から遠く外れた道を歩むことしばしばですし、天を目指して生きているのに、足を踏み外して一気に暗い谷底に転げ落ちて、まさに半死半生状態になってしまうこともあります。さらに悪いのは自分が迷っていることすら分からず、正しく美しいと思いながら実はとんでもない迷路に入っていることもある。ずっと、こういう愚かな過ちを繰り返してしまう。これは、私だけの現実ではないでしょう。

  追いかけてくださる主イエス

 でも、私たちは今、こうして礼拝堂に集まっています。これもまた間違いのない事実です。この事実の背後に何があるのか?どんな事実があるのか?それが今日の御言の問題なのだと、私は思います。
 随分回り道をしました。話を元に戻します。今年の新年礼拝には、恐らく400人位集まったと思うのですが、10数人の配餐者がパンを配る間、司式者はルカによる福音書24章の御言を読みました。その御言は、先週の礼拝説教においても、私がかなり力を込めて語った言葉です。そして、その日の礼拝が聖餐式のない礼拝であることが少し寂しいという趣旨のことを言いました。しかし、その翌日の月曜日、元旦、私は礼拝において聖餐に与ることが出来ました。それも、司式者である牧師が、私の特別に愛する御言、まさに読んでいると心が燃えてくる御言を、牧師自身の全存在を傾けて読む朗読を聴きながら与ることが出来ました。私はその御言の朗読を聴きながらパンを食べた時に、なんと恵まれた時だろうかと、感謝と喜びに満たされました。時間にすればほんの数分の間だったと思いますが、その数分間に、私は、洗礼を受ける前に下宿の部屋にこもって聖書を読みつつ、様々な文章を書いては破っていた自分の姿を思い出しましたし、30年前の正月に洗礼を受けた日のことを思い出しました。そして、それからの苦しい日々、激しく自分を傷つけたある人を決して赦せないという思いを抱えながら、イエス・キリストによって与えられる罪の赦しの福音を説くために神学校に通っていた日々を思い出しました。そして、自分自身が決して赦されない罪を犯していった姿をまざまざと思い出しました。罪は罪を生み出します。その連鎖反応、悪循環を繰り返して生きている自分の惨めさ、また人間の哀れさを感じました。そして、突然、そんな自分であっても、いつの日かきっと行かせていただけると信じている天国で、主の食卓を前にして、数え切れない聖徒たちと共に大きな声で讃美歌を歌っているちっぽけな自分の姿を生々しく思い浮かべたというより、そういうヴィジョンが見えました。そのすべての場面に、イエス様がいるのです。ひっそりと寄り添ってくださるイエス様、悲しげにたたずむイエス様、涙を流しながら、振り返りもしない私に熱心に語りかけてくれていたイエス様、そして、天国で私たちが歌う讃美歌を聞きながら満面の笑みをたたえつつパンを裂いてくださるイエス様・・・。私の過去現在未来、世界の過去現在未来、私や世界が、そのことを知っていようといまいと、イエス様は、いつでもそこにおられる。そのことを知りました。

  主イエスは今も生きておられる

 私たちは、不信仰な人間です。イエス様が何度も何度も、私たちの罪のために十字架に掛かって死ぬこと、そして復活することを語ってくださっていても、忘れます。日曜日は礼拝を捧げ、主に生かされる喜びを与えられても、月曜日からは、ただこの世の中に埋没して、自分で生きているのです。でも、そういう私たちを追いかけてきて、一緒に歩いてくださるイエス様がいる。そして、私たちの不信仰を嘆きながら、それでも熱心に聖書を説き明かし、そして、パンを裂いて渡して下さるイエス様がいるのです。このイエス様がいるから、このイエス様が私たちを赦してくださるから、そして今日も私たちを招いてくださっているから、私たちは今日、この礼拝堂にいるのです。主イエスが今も生きておられるから、私たちは今日も、この礼拝堂にいる、いることが出来るのです。これが間違いのない事実なのです。
私は西南支区の新年礼拝で聖餐に与りつつ、今日の礼拝で読むことになっている御言の真意も新たに示されました。神の家族としての教会、これは主ご自身が建ててくださるものです。私たちが建てるのではありません。主が、不信仰な私たちを憐れみ、赦し、追い求め、追いつき、御言を語りかけ、祝福の祈りをもって命の糧を与えてくださる。この主がおられるから、私たちは信仰を新たにし、また勇気を与えられて、弟子としての歩みを始めることが出来るのです。福音を信じ、イエス・キリストを宣べ伝える証しの生活、伝道の生活を始めることが出来るのです。この伝道と牧会の業も、主イエスの業です。伝道しなさいと命じてくださった主イエスが、その命令に応えて、献身する者たちと共に、その御業をなして下さるのです。だから朝から晩までそのために生きることは空しくないし、そういう人生を生きるためにパンを食べることは空しくないし、主のために生きた1日の後には、平安な眠りが与えられるのです。明日の苦労は明日に任せて、今日1日、神の国とその義を求めて生き、後のことは主にお任せをして寝る。そういう人生、そういう教会形成、そういう伝道は空しくありません。

御言の朗読

 今日は、ルカによる福音書24章13節の言葉を、少し長いのですが、読ませていただきたいと思います。自分の目で聖書を読みながらお聴きなってもかまいませんし、目をつぶってお聴きになってもかまいません。聴きながら、読みながら、「かつていまし、いまいまし、とわにいます」主イエスの姿を見、その声を聴くことが出来る方は幸いです。その方は、御言にあるとおり、主イエスの御前に伏し拝み、神様を褒め称えるに至るからです。

ちょうどこの日、2人の弟子が、エルサレムから60スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、2人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。2人は暗い顔をして立ち止まった。その1人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、2人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で3日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。2人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、2人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
2人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、11人とその仲間が集まって、 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。2人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、3日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

ヴィジョンに向かって

神様は、この中渋谷教会を今年も祝福し、ご自身の家としてきっと建て続けて下さいます。ご自身の愛と祝福に満ちた教会として建て続けてくださいます。私たちを今後も神の家族として育て、神への愛と人への愛を深めてくださいます。そして、主イエスは、不信仰の故にさ迷い歩く私たちを見捨てることなく、追いかけ続け、命の言葉を語りかけ続け、そして食卓を提供し、また共にしてくださいます。主イエスご自身の命を、命の御霊と共に、私たちに与えてくださいます。私たちは毎週、この礼拝に結集し、命の糧なる御言、御霊、パンとぶどう酒を、感謝をもって頂きましょう。高齢の故に、また病の故に、この場に来られなくなっても、同じ日、同じ時間に、主の御言を読み、賛美し、祈る礼拝を捧げましょう。御言に飢え乾き、聖餐が必要になったら、電話してください。必ず一週間以内には聖餐をもって伺います。神様の愛を、いつも体いっぱいに頂いて、その愛を分かち合い、心から神を愛し、互いに愛し合い、高らかに主を賛美する礼拝を捧げ続けましょう。そういう礼拝倦まず弛まず継続していくことは空しいことではありません。その礼拝は、天の礼拝に繋がるからです。そして、そういう礼拝を続けていくことで、私たちはイエス様に与えられた大伝道命令に従うことが出来るのです。きっと救いを求める人が、また主イエスに呼ばれた人が、一人また一人と、神の家、神の家族であるこの教会に招き入れられてくるからです。そして、この礼拝を続ける中で、一人また一人と洗礼を受けて、新しくされていく者が出てくるからです。これは確実なことです。それが、今日、私たちに与えられたヴィジョンです。私たちは、このヴィジョンに向かって、主を賛美しつつ一歩また一歩と歩んでいくだけです。主が、その歩みを祝福してくださいます。主ご自身が建ててくださるから、私たちも一生懸命に家を建てるのです。その労苦は、決して空しくありません。空しいどころか、喜ばしいことです。それは、主の栄光の御業に与る労苦であり、御国において栄光の御子主イエス・キリストの食卓に招かれることが約束されている労苦だからです。こんな労苦をさせて頂けるなんて、なんと幸いなことか、と思います。主を賛美し、感謝して祈りましょう。
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