主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」
彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
迷子の経験
私たちは誰でも一回は迷子になった経験があるだろうと思います。私もまだ小学校に上がる前に、誰かから貰った自転車に乗って迷いに迷って大泉学園という所まで行ってしまったことがあります。私の家は吉祥寺の南側にあったので、直線距離でも七キロ位あります。まだ六歳でしたから、随分遠くまで行ったものだと今にして思いますが、迷子というのは、基本的に、自分がいつどこで道を間違ったかが分からないし、分かったとしても、最早その地点にまで帰ることが出来ない所まで来てしまっているのです。その時の私も、あの曲がり角を曲がればきっと知っている道路が見えるはずだと期待しつつ、曲がり角を曲がるのですが、その都度、全く知らない道路なのです。次こそは!と思って曲がるけれど、また違う。そうやって、自分の間違いを正そうとしながら、実は、もっともっと間違っていく。帰らなければならない家から離れて行ってしまう。そして、もう自分ではどうすることも出来ず、その時の私は涙を流しながら、それでも走り続けていました。その様子を見て、変だと思ってくれたおじさんが、「坊や、どうした?」と訊いてくれて、私は交番に連れて行かれました。自分の名前は言えましたが、住所は言えず、でも少し前に自宅に電話というものが入った直後だったので電話番号は記憶していて、お巡りさんがかけてくれました。運良く父がいて、相当な時間をかけて自転車で迎えに来てくれました。そして、自転車で父の後をくっついてようやく家に帰ることが出来ました。
親は、もちろん、自転車を与えてくれる時に、車が通る道を走るときはこうしろとか、道路を横切るときはこうしろと指示をしてくれていたでしょうし、「遠くに行ってはいけない」と言ってくれたはずです。その一つ一つの指示は、私が無事に生きるためのものです。でも、子供は、そういう一つ一つの指示をあまりまともには聞かないものです。自転車に乗れる嬉しさの故に夢中になって乗り回している内に、時には道路に飛び出して車にはねられてしまったりするし、私のようにどこかで道を間違えて迷子になってしまったりもする。
人生における迷子
人生というものも、まさにそういうものです。今日の特別伝道礼拝のご案内のチラシにも書いたことですが、私が若かった頃、「青春時代の真ん中は道に迷っているばかり」という歌が流行りましたけれど、私は恥ずかしいことに、その後も、幾度も道に迷いながら生きています。立派な中年になった今も、何をしているんだか?何を考えているんだか?自分で呆れてしまうことはしばしばですし、気がつけば、進むべき道を踏み外してしまっていることもしばしばです。
迷子。それは帰る所、あるいは行く所があるのに、そこに行き着けない状態のことですが、それはつまり帰る所、行くべき所を失ってしまったということです。そして、自分がどこにいるのか分からないのです。それはつまり、自己喪失、自分が何者であるかが分からなくなるということです。英語で迷子になることを「自分自身を見失う lose oneself」と言いますし、ドイツ語では、その関連でgodlosenという言葉があります。神を失った者、また神に見失われた者という意味ですが、それは罪人を意味します。人間の存在を造り出した神を見失うことは、自分自身を見失うことであり、それこそが迷子であり、罪人とはそういう状態に陥っている人だということです。
エデンの園の物語 @愛
今日の説教題を「あなたはどこにいるのか」としました。それは自分自身を見失い、神を見失った罪人に対する神様からの呼びかけの言葉です。
エデンの園の物語の概略はご存知でしょうが、簡単になぞっておきたいと思います。神様は人間を造り、エデンの園においてこう命ぜられました。
「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
「食べなさい」「決して食べてはならない」。二つの命令があります。でもこれは「生きなさい」という一つの命令なのです。「食べて生きなさい」「食べて死んではならない」という命令だからです。そして、このことをもう少し深く考えると、人は食べ物だけで生きるのではなく、この命令を与えてくださる神様の言葉に従って生きる存在だということが分かります。その命令、その言葉に逆らう時、人は死ぬのです。たとえば、自転車を与えてくれた親が幼い子供に、「これに乗ってどこででも遊びなさい、でも、あの道路にだけは出てはいけない、あそこに出たら死んでしまう」と言ったとします。それは、子供に楽しく安全に遊んで欲しいからこそ与える命令です。でも、子供の心には、何故、あの道路に出てはいけないのか、何故、そこに行くと死んでしまうのか分からないという一抹の不安、あるいは疑問が残るでしょう。でも、親を愛し、信頼する子供は、その言葉に従う。何事もなければ。ところが、人生には必ず何事かがあるものです。
神様は、人間が独りでいるのでは、まだ創造の目的に適っていないとして、人の肋骨から伴侶を造りました。厳密に言うと、この時、つまり、男と女が造られたのです。肋骨とは愛が宿る胸を象徴しています。男と女は愛し合い一体となって歩むべく創造されたのです。果たせるかな、アダムは「これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と呼んで、その出会いを喜び、神さまに感謝したのでした。彼らは、そのエデンの園でお互いに裸であっても恥ずかしいとも思わない、無邪気にして平穏な日々を送っていました。まさにここは彼らにとってパラダイス、楽園だったのです。
A蛇 疑い
そこに、最も賢い動物の蛇が現れます。そして、神様は、本当にあの木から取って食べるな!などと言ったのか?と女に尋ねる。何故蛇か?何故女か?何故、楽園に神に敵対する存在がいるのか?蛇は人間の言葉を話すのか?と色々と疑問を感じられるかもしれませんが、今日は、残念ながらその一つ一つのことを吟味する時間はありません。女は、まんまと蛇の策略にはまって行きます。
女も男も、何故、あの木の実だけは食べてはならないのかその理由を聞かされていません。その理由を蛇はこう告げるのです。「あの木の実を食べたって死ぬなんてことは、ありはしない。それを食べると、なんでもよく見えるようになり、神のようにこの園を支配できるようになるんだ。神は、あなたたちがそうなることを恐れているに過ぎない。」
なーんだ。そういうことだったのか?と女は思った。そして、そう思って見てみると、その木はいかにもおいしそうで、一旦見てしまうと目を離すことが出来ず、これを食べれば賢くなれると訴えているように見えたのです。「善悪を知る知識」とか「賢い」というのは、聖書においては神様だけがもっている知識のことであり、世界を支配する知恵のことで、私たちが通常考えるものではありません。
でも、その知恵を持つことの何が悪いのか、その理由がその時の人間には分かりません。ただ、神様からそう言われているだけです。そして、どうもその神様は自分の地位が奪われることを恐れているらしい。そんな理由なら、どうでもいいや。食べちゃえ!ということになった。そして、こういうことをするには道連れがいたほうがよいし、多分、その場に一緒にいて蛇の言うことを聞いていた男も、遅れてはならじと女に渡されるままに食べた。
神様の命令、「食べなさい」も「食べてはならない」も、「生きなさい。死んではならない」ということです。「この命令の中に私の愛があることを信じて欲しい。」神様は、そう願っているし、きっとこの命令を守ってくれる。神様は、そう信じている、信頼している、と私は思います。この愛を信じ、信頼に応える。そのことによって人間は人間として生きるのです。ただ食物を食べて生きるのが人間ではないからです。
愛も信頼も目に見えるものではないし、手で触れるものではありません。心に感じ、心で応えるものです。その心に疑問や疑いが湧き起こるとき、愛と信頼は壊れていき、愛と信頼が壊れていくとき、私たち人間は一気に崩れていきます。
たとえば、大人から「酒もタバコも二十歳になってからにしなさい。出来れば、両方とも手を出すのを止めなさい」と言われていても、何故、二十歳なのか?何故手を出すのをやめた方がよいのか?分からない。そして、それだけでなく、そういう指図そのものを受けたくないという反抗心もあって、中学、高校時代に手を出していく。酒、タバコ程度ならまだよいのでしょうが、それが合法ドラッグとか違法な麻薬にまで広がることも、またしばしばあるのが現実です。「こんなもの、外国では誰でもやっているんだよ。日本が遅れているだけさ。これを飲めば、もうまるで夢心地。自分が王様になった気分を味わえるよ」とまことしやかに言われたりする。性体験に関しても、性を売り物にすることに関しても、そそのかしの声は至る所から聞こえてきます。そこかしこに蛇はいて、「これを食べれば、これを飲めば、これを体験すれば、あなたはもう立派な大人だし、自由になれるんだよ」と囁くのです。そして、私たちは何らかの意味で、その誘惑に負けたことがあるはずです。そして、神を見失い、自分を見失ったことがある。
B崩壊
その時、それまで愛と信頼の関係を生きていた人の顔をまっすぐには見られなくなりますし、絶えず隠し事をしながら平然と生きていく術を身につけていくことになります。イチジクの葉っぱで腰を巻くことの一つの意味は、そこにあります。
「あなたはどこにいるのか。」「なんということをしたのか。」それは、このようにして、次第に自分自身を見失い、そして神を見失い、人生の迷路に入り込み、落とし穴に落ち、あるいは崖から転げ落ち、自分では脱出できない、這い上がれない。どうやって帰っていったらよいか分からない。そういう私たちに対する神様からの呼びかけなのです。
でも、アダムもエバは、その言葉に対しても、さらに反抗をしました。
「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
悪いのは自分ではないのです。「これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と愛を告白し、このような伴侶与えて下さった神様に感謝した男は、実に冷淡に「この女が悪い」と言い、さらに「こんな女を造って連れて来たあなたが悪い」と言っている。女は「蛇が悪い」と言い、言外に「蛇を造って園に生かしているあなたが悪い」と言っているわけでしょう。
かつて愛し合っていた夫婦、かつて愛し合っていた神と人間、その愛の交わりが、かすかな疑いとかすかな欲望とほんのちょっとした切っ掛けでものの見事に崩れていくのです。かつてお互いに裸であった男と女は、互いに対する恐れと警戒を心の奥底に抱え込み、いちじくの葉っぱで下半身を覆うようになりました。神様の愛を疑い、信頼を裏切った人間は、神様のことも恐れ、警戒し、神様が来ると、全身を葉っぱの影に隠すようになりました。
再度、「あなたは、どこにいるのか」・神への問いとして
「あなたはどこにいるのか。」
「あなたはなんということをしたのか。」
この言葉を聞いて、私たちはどういう印象を受けるのでしょうか。「どこにいるのか見つけ次第、懲らしめてやる。」「なんちゅうことをしてくれた。こんなことをした暁には、どうなるか分かっているんだろうな。」こういう感じでしょうか?わたしはずっと、そういう感じで受け取っていました。そして、何よりも神様は意地悪だと思っていました。何故、食べてはならない木などわざわざ置くんだ。そんなに食べさせたくないなら、有刺鉄線を張り巡らせ、電流でも通しておけばよいだろうに、手を出せばすぐに取れる場所にはやしておいて、さらにご丁寧に蛇なんてものまで造って、園の中を自由に動き回らせ、挙句の果てに、蛇が人間の言葉を喋るってか?!そこまでやっておけば、食べるのは当然だろ!?食べるように仕向けておいて、食べた後に、「あなたはどこにいる」「なんということをしたのか」はないだろう?!「あなたはどこにいたのか」「あなたはなんということをしたのか」は、こっちが言いたいセリフだ!!ずっとそういう思いがありました。今も時折、そういう思いに駆られることがあります。
人生を生きていれば、神様の愛を疑わざるを得ないことなど数え切れないほどあります。日本も次第に格差社会と言われるようになりましたけれど、ありとあらゆるものが不平等に満ちています。容姿容貌は皆生まれながらに違い、知的能力も違い、生まれた環境も違う。さらに不運としか言い様がないこともたくさんある。突然、飲酒運転の車に追突されて、子供三人が自分の目の前で海の中に沈んでしまうというような悲惨な経験をする人もいる。高校生がトイレで子どもを産み、頭を叩いて殺して捨てるなんてことまで起きる。そういうことを毎日毎日報道で知らされながら、目も耳も心も塞ぎたくなりますけれど、そういう現実に神様はどう関り、その現場に神様はおられるのか?そこで何をしておられるのか?そういう一つ一つのことが、私には分かりません。分からないから、説明が出来ない。納得も理解も出来ない。そして、自分がそういう悲劇の現実を経験したら、自分は神様の愛を信じることが出来るのか。そして、毎週礼拝の中で神様の愛を、こうやって説教できるのか?!また、そういう悲惨な体験をしている方に、神様はあなたを愛していると言うことが出来るのか?その神様とは??その愛とは??そういうことを考えては、苦しい思いをすることはしばしばですし、今週は特に、そういう思いを抱えて、説教が全く出来ないという苦しい時を過ごしました。
再度・私たちへの問いとして
でも、ずーーとそのことを考えながらというか祈りながら時間を過ごしているうちに、神様だって苦しいよな、辛いよな・・と思いました。善悪の知識の木を生やしたのも、それを食べることが出来る状態にしてあるのも、蛇を自由に行動させるのも、皆、私たちを愛し、信頼しているからです。神様は、私たちをロボットのように造ったわけではありません。神様に似せて造って下さったのだし、命の息を吹き入れて生きる者として下さったのです。つまり、他の動物にはない、密接な愛の交わりを神様との間にもって生きる者として造ってくださった。意志を持った存在として、そして、自由な決断をする存在として造って下さった。そして、その自由が保障される中で、神様と人間が、また人間同士が互いに愛し合う喜びを分かち合う。それが神様が人間を創造された目的です。
愛は強制されるものではありません。愛するか愛さないかは自由です。そして「食べてはならない」という命令に従うか従わないか、そこに神様に対する絶対的な愛に生きるか生きないかが問われているのです。神様は、私たち人間がその愛に生きることを期待した。そして、信じた。信じていなければ、それこそ有刺鉄線でも張り巡らすでしょう。でも、神様は私たち人間を信じた。完全な自由を保障し、食べる道を選べるし、食べない道も選べる状態を作り出し、蛇が何を言おうが、敢然と神への愛と信頼の告白をしてくれると信じた。それほどに深く強く私たち人間を愛した。そういうことなのではないかと思います。
子を愛する親は、子供が成長するにしたがって自由を与えていきます。門限を遅くし、アルバイトも解禁し、使えるお金の額を増やし、個室を与え、やりたいということをやらせ、家を出る日に備えさせます。それは子供を愛しているからだし、信じているからです。昨年だったか、高校生の息子が家に放火し、継母と自分の妹を殺害してしまった事件がありました。その息子の父親は医者だったようですが、息子にもその職業を継がせようとして勉強を強制し、「ICU(集中勉強室)」と称する部屋に閉じ込めて、暴力をも使いながら勉強させたと言われています。その父親にしてみれば、それも子供への愛だと言いたいのかもしれませんし、子どもは、その親の愛に感謝して、一生懸命に勉強することが当然だということになっていたのかもしれません。しかし、それはまさに大いなる迷妄であったと言わざるを得ないのではないでしょうか。それは、とにかくとして、互いの自由を保障しない愛は、少なくとも聖書においては「愛」とは言いません。
でも、自由というのは両刃の剣です。自由を使いこなすためには、相当な力が必要です。アダムとエバが、あの木の実を食べたのは、神様の愛と信頼を疑い、そして、完全な自由を手にしようとする反抗であり、裏切りです。飢えに苦しんでのことではありません。何でも出来る自由があるから、疑うことも出来るし、裏切ることだって出来る。でも、だからこそ、信じることも出来るし真実に愛を貫くことも出来るし、そのことは尊いのです。
裏切る者、見捨てる者を愛する愛
アダムもエバも、その自由をもって疑い、そして裏切りました。神様を捨てたのです。でも、神様はそういうアダムを見捨てません。探すのです。「あなたは、どこにいったのか」と。また、エバを見捨てず、呼びかけている。「あなたは、なんということをしたのか」と。もちろん、彼らが何処にいるのか、その体を何処に隠しているのかはご存知です。でも、「私が愛していたあなた、そして、私を愛し、信頼してくれていたあなたは、今、どこにいるのか?私にはあなたの姿が見えない。」「私を愛し、信頼し、あのエデンの園を耕し、管理し、私が与える食べ物を感謝して食べていたあなたは、一体、なんということをしてしまったのか?私を見捨てるなんて。」
これは、神様の心の奥底から溢れ出てきた深い嘆きの言葉です。怒りに震えた恫喝や恐喝の言葉ではありません。でも、この深い嘆きの言葉を聞いても、彼らは自分の背信の罪の責任を女や蛇、また神様自身に負わせるという仕打ちをしました。もう完全に我を失っているし、神様を見失っている。Lose oneselfだしGodlosenになっている。私たちを造り、私たちを愛し、信じてくださっている神様の愛と信頼を裏切ってしまったのに、そして、いきなり断罪されるのでもなく、「どこにいるのか」「なんということをしてしまったのか」と問いかけられているのに、「ごめんなさい。赦してください。私はあなたの心をどれだけ痛めてしまったか分かりません。どれだけ悲しませてしまったか分かりません。ごめんなさい。ごめんなさい」と謝れない。神様は、赦すつもりで、探し求め、そして嘆き悲しみながら問いかけてくださっているのに、その心をも踏みにじってしまう私たちの姿がここにあります。もう、与えられた自由をフルに使って、今やどうやって前の自分、本来の自分に帰ったらよいのか分からないまでに迷い道に入り込んでしまった私たち、暗い谷底に落ちてしまった私たち人間の姿が、ここにあります。私たちはこうして神を見失い、そして、自分を見失うのです。そして、最早、自分では帰ることが出来ない。
聖書が描いている人間は、そういう人間です。そして、これはリアルな人間です。物語の中の架空の人間ではない。まさにこれは私だし、私たちです。
でも、聖書が描いている神様は、そういう私を、また私たちを決してお見捨てになる方ではありません。私たちをどこまで探し求め、そして、呼びかけて下さる神様なのです。
自分の愛を裏切った人間を愛するということが、どれほど辛く、そして屈辱的で惨めなことか。それは、経験した人でなければ分からないことでしょう。裏切られた事実は、その肉に深く刻み込まれた傷となり、時の経過の中でかさぶたのようになったとしても、何かの拍子にいつでも血は吹き出てくるものです。そして、心はそれ以上に引き裂かれている。溢れ出てくる悲しみと怒りと恨みと復讐心を抑えることは、ほとんどの人間にとっては不可能です。だから、私たち人間の関係に裏切りがあった場合は、復讐か別離しかありません。
私たちに命を与え、愛し合う相手を与え、食物を与え、そして何よりも私たちを愛して下さっている神様にしてみれば、その神様を信じることなく、愛することなく、「自分の人生どう生きようが私の自由だろうと思って」私たちが生きていること自体が深い悲しみです。どうして私の愛を信じてくれないのか?何故、私の許に帰ってきてくれないのか、と神様は悲しんでおられます。
そして、私たちが本当に深く深く自分の心の奥底を覗くことが出来るとするなら、そこに何が見えると思いますか?「どう生きようが自分の自由だろう」と思っている私たちの心の奥底を覗いてみると、その「自由」によって失ってしまった交わりを求めて止まない寂しく、悲しい自分がいるのではないでしょうか。「この女が悪い」「あなたが悪い」と言ってしまったアダムの心の奥底には、自分の言葉によって一体の交わりを生きてきた愛を壊してしまった淋しさ、悲しみがあると、私は思います。
得意になって自転車をこぎ始めたのはよいのだけれど、気がついたら、随分遠くにきてしまって、ここがどこだかも分からない。自分がどうやってここまで来たかも分からない。だから、どうやって帰っていったらよいかも分からない。あの時の寂しさ、悲しみは今でもよく覚えています。あの時は、助けてくれる人がいて、交番に連れて行かれ、電話が繋がって、父が迎えに来てくれたので、私は家に帰ることが出来ました。自分で帰ることが出来たわけではないのです。
イエス様が語る父の愛
新約聖書には、迷子の羊の話があります。自由を求めて、羊飼いの後についていかず、群れから離れてしまった一匹の羊を探しに探し、見つけ出し、群れに連れ帰ってくれる羊飼いがいることを、イエス様はお話になりました。その時、イエス様は最後にこう言って、その話を結ばれました。
「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
ここにいる私たち中の一人でも、「あなたはどこにいるのか」と呼びながら探し求めてくださるイエス様に向かって、「イエス様、私はここにいます。最初は出来心で、ちょっとだけ離れるつもりだったのに、気がついた時には、もうすっかり迷子になってしまいました。もう疲れました。でも、どうやって帰ってよいか私には分からなかったのです。それなのに、あなたの方が迎えに来てくださるなんて、なんて有り難いことでしょうか。イエス様、有難うございます。どうぞ私を赦してください。そして、群れに連れ帰ってください。」そう声を挙げることが出来る人は、幸いです。その人は、罪を悔い改めることが出来たからです。神様はイエス様の故に、その人の罪を赦して下さいます。それも、大喜びで赦して、ご自身の家に迎え入れてくださいます。
その迷子の羊と羊飼いの話の後には、親の財産をふんだくった上に、食い潰して、ホームレスにまでなった時に、初めて「我に返った」息子の話が出てきます。「我に返る」とは、「自分自身の所に来る」ということです。その時、彼は実際にはどういう行動をとったのか、彼は息子としてはその敷居をまたぐことが出来ない父の家を目指して歩き出したのです。
「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と謝罪するために歩き始めた。その息子を、父はまだ遠くにいる時に既に見つけて、そして、家から飛び出てきて、抱き締めて、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と言って大喜びで、家に迎え入れました。
この父親は、息子が家を出て以来ずっと窓の外を見ながら、「息子よ、お前は今どこにいるのだ。何故、帰ってこない?一体、なにをしているんだ。早く帰っておいで。すべてを赦すから、安心して帰っておいで、私の愛を信じて帰っておいで」と叫び続けていたのです。この父の愛を信じることが出来ない子供というのは、死んでいるのです。善悪の知識の木を食べるなという神様の愛を信じないで背いたアダムとエバが、その最も深いところで死んでおり、神様の前からいなくなってしまったように、父から受け取れるだけの財産を奪い取って、父の家を出て行った息子は、いなくなってしまったのだし、死んでいる。でも、父の心の中では死んでいない。父は帰りを待ち続けて下さっている。父なる神様はそういうお方だ。主イエスは、そうおっしゃる。
イエス様が現す父の愛
そして、迷える羊や、家を出てから身を持ち崩した息子を探し出し、迎え入れるためにこの世に派遣された主イエスが、地上の生涯の最後に発せられた言葉、それはあの十字架の上の言葉です。イエス様は、ご自分を十字架につけて殺そうとする人々について、こう祈られました。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
私たちは、本当に自分で何をしているか分かっていないのです。分かっていないから迷う。分かっているつもりで分かっていないから。
主イエスの隣で十字架につけられている犯罪者は、この主イエスを見て、自分の罪を悔い改め、イエス様に赦しを乞いました。すると、イエス様は、こうおっしゃったのです。
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」
この犯罪者は、死刑になるほどの重罪を重ねてきたわけですから、迷いに迷って、あまりにも遠くに来過ぎた人です。もう地上に帰る場所はありません。迎えてくれる家はありません。もう「時既に遅し」です。あとは死ぬだけです。でも、イエス様は、その時に悔い改めた彼に「もう遅いよ」とはおっしゃらず、彼の罪を赦し、彼をパラダイス、楽園に迎え入れる約束をしてくださるのです。どうしようもないほど重い罪を犯して、死刑になるほかにない者をさえ、イエス様は、楽園に迎え入れるために、父の許から出てきて、十字架に掛かって、迷子になってしまう私たちの救いのために祈りつつ死んで下さったのです。そして、その死から三日目に甦り、天にお帰りになり、今は聖霊において、私たちに呼びかけてくださっています。「どこにいるんだい。心配しなくていいよ。迎えに来たんだから。安心して出ておいで。罪も恥もそのまま、裸になっておいで。私がその罪も恥も洗い清めてあげるから。さあ、一緒に父の家に帰ろう。」
どうぞ、その呼びかけに応えてください。神様の愛を信じて、その胸に帰ってください。
アウグスチヌスという人は、キリスト者の母を持ちながら、神様への反抗を繰り返す人生遍歴を重ねた上で、ついに父の家に帰った後、『告白』という本を書きました。その冒頭で彼は、こう言っています。
「偉大なるかな、主よ。まことに賛美すべきかな。あなたの力は大きく、その知恵は計り知れません。・・喜んであなたを讃えずにはいられない気持ちにかきたてるのもあなたです。なぜなら、あなたは私たちをご自身に向けてお造りなったのです。だから、私たちの心は、あなたの内に憩うまで、決して安らぎを得ることが出来ないのです。」
そうです。私たちは神様によって、神さまに向けて造られた人間です。だから神様の胸の中に抱かれている時が最も安らぐ時なのです。もう迷子は十分やったでしょう。もう、帰りましょう。イエス様が迎えに来ています。呼びかけに応えて平安を得てください。
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