「教会とは何か?」

及川 信

コリントの信徒への手紙T 3章10節〜23節

わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。
この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。「神は、知恵のある者たちをその悪賢さによって捕らえられる」と書いてあり、また、「主は知っておられる、知恵のある者たちの論議がむなしいことを」とも書いてあります。
ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。



 コリント教会の問題

 今日は、中渋谷教会の創立九十周年を記念する礼拝の日です。そこでどの御言を聴くべきか考えましたが、先日の修養会の開会礼拝の時と同じコリントの信徒への手紙一の御言にしました。パウロの神学を体系的に理解するためにはローマの信徒への手紙を読むことがベストですけれど、コリントの信徒への手紙は、教会の中で次から次へと起こってくる具体的な問題をどのように捉え、どのように対処すべきかが書かれた実践的な手紙です。
 一章から三章まででパウロが直面している問題の一つは、人間の「知恵」の問題です。コリントは享楽的な大都市であると同時にやはりなんと言っても哲学の本場であるギリシアの大都市です。当然、知恵が重んじられ、知恵による議論が重んじられるのです。その知恵から見るならば、神の子が十字架に磔にされて、そこで流された血が人間の罪の贖いであることを信じることで救われるなどという教えは、まことにグロテスクであり、かつ「愚か」なものということになります。
 また、コリント教会の創立者はパウロですけれども、その後を継いだのは名説教家でもあったアポロという人物でした。しかし、当時の教会では、イエスの直弟子であるペトロ(ケファ)を初めとする十二弟子たちが重んじられる傾向があり、ペトロも伝道旅行の途中にコリントを通ったようなのですが、教会の中に「わたしはパウロに」「わたしはアポロに」「わたしはケファ(ペトロ)に」と言う者がおり、そういう人間と並べて「わたしはキリストに」と言うものもいた。かつてオウム真理教と名乗った宗教団体が、今は、それぞれに自分たちのグループの正統性を主張しながら、誰を教祖とするかを巡っていくつかのグループに別れるということがあるようです。それと似たようなことが、当時のコリント教会に起こっている。これらはいずれも教会の根幹を揺るがす問題です。

 人間の知恵・神の知恵

 最初に、知恵に関する問題ですが、いつの時代でも自分には知恵があると思っている人はいます。そういう人は、愚かな迷信には騙されないぞと思っているし、それは非常に大事なことだと思います。でも、その一方で、聖書を知恵で読み解こうとする人たちがいますし、私もヨハネ福音書の勉強会に出たりもします。でも、そういう所に人が集まって、ヨハネ福音書の中でイエス様が言っていることを頭で考え、理解しようとしているのですが、そこでのやり取りを聞いていても、私には全く面白くないのです。三章二〇節でパウロが引用している詩編の言葉で言うならば「知恵のある者たちの論議はむなしい」もので、信じるか信じないかという核心的事柄を問題としないで周辺的事柄についていつまでも議論していたって、私には空しいことだと思えてしまうのです。
 パウロはこの手紙の一章で、こう言っています。

この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。

 最近『聖書を読む技法―ポストモダンと聖書の復権』という本を読み始めたのですが、それは一九八〇年代半ばにアメリカで起こった「イエス・セミナー」という運動に対抗した「聖書プロジェクト」という運動の成果を収めた本です。「イエス・セミナー」とは、現代の学者たちがイエスを、教会の信仰や教えから切り離して見ればどう見えるかを探求したセミナーと言ったらよいかもしれませんが、その結果はいくつもの論文となって発表されています。そのセミナーが掲げた命題は二一あるのですけれど、その中のキリストについて三つの命題を読んでみます。

*私たちはイエスを格下げすべきである。イエスを神的な存在と考えることはもはや信じられない。イエスの神性は、神についての古い有神論的な思考法に見合うものに過ぎない。
*初期のキリスト者たちが神的な救済者という姿を描き出そうと創作した筋書きは、その枠組みとなっている神話と同じように古代的なものである。天から降り、人間を罪の力から自由にするある種の魔術的行為を行い、死者の中から復活し、天に戻るイエスというようなものは、単純に言ってもはや信じられないものである。終わりの時に彼が再臨し、宇宙的な裁きの座に座るであろうという考えも、同じように信じられない。私たちは、もっと信じられるイエスを描く新しい筋書きを見出さなければならない。
*イエスの処女降誕は現代の知性を愚弄するものであり、破棄されるべきである。さらに言えば、女性を傷つける有害な教えである。


皆さんは、この三つの命題を聞いて、どうお考えでしょうか?我が意を得たり!とお思いになるのでしょうか?
一年ほど前に、友人の牧師からこんな話を聞いたことがあります。彼が属している教区の集まりで、使徒信条の中の「主はおとめマリアより生まれ」という信仰箇条が問題にされたそうです。私の友人が、「この箇条を私は信じています」と言ったら、ある教会の信徒が「いまどきこんなことを信じている人間がいるなんて信じられないね」と言って鼻でせせら笑ったというのです。そして、ある女性は、「処女を清いものとするような女性差別的な教えが教会にある限り、私たち女性はいつまでも戦い続けなければならない」と涙を流しながら抗議したそうです。この処女降誕の信仰に関しては、今日はこれ以上立ち入りませんが、イエス・セミナーに参加する知的エリートの学者たちに代表されるようなこの世の知恵者は日本にもたくさんいるのです。“聖書に記されていることは、古代人の迷信に満ちた宗教心や思考回路に基づく物語であって、そのまま受け入れる必要はない。だからもっと信じられる筋書きを作らなければならない”と真顔で言っているのです。現代版、和魂洋才と言うか、換骨奪胎っと言うか、要するに大樹に寄り添い、吸い付きながらでしか生きていくことが出来ないくせに、その大樹から、本当に吸収すべき命の栄養分を吸収していない。結局は、枯渇して死んでいくしかない。そういう惨めな歩みを、まるでこれこそが唯一の正しい歩みであるかのように錯覚しつつ継続している。なんと惨めなことかと思います。
 人間は、自分の知恵によって神を知るには至りません。しかし、人間は神を知りたいと願います。それが神に似せて造られた人間の本性なのです。つまり、人間が神を知りたいと願うことは、神様の御心に適っているのです。しかし、この場合のイエス・セミナーの学者たちが考えているような「知る」ではなく、人格的な愛と信頼の交わりの中に生きることです。パウロが他のところで使っている言葉で言えば、神との平和を生きることです。しかし、そういう意味で「神を知る」とは、一体どういうことなのか?それが問題になります。

 神によって示されるキリスト

この手紙の一二章には、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」という言葉があります。「イエスは主である」あるいは「イエスが主である。」これはいずれにしろ、イエスは神であることを信じる告白です。そして、この信仰告白が出来る者は救われる。天の御国に入れられる。それが聖書が記している福音です。しかし、これはまさに神秘、秘められた神のご計画であって、人間がいくら考えても分かるはずのないことです。パウロはこの手紙の二章では、「神秘としての神の知恵」である「十字架につけられたキリスト」については、「神からの霊を受けて」示され、教えられたのだと言っています。そして、「神の霊以外に神のことを知る者はいません」と言っている。まさにそうなのです。神様のことは神様に教えていただく以外にはなく、神様の霊、聖霊によって示される以外にないのです。聖書に関する本をいくら読んで勉強しても、それで神様が分かるわけがないし、交わりを持つことなど出来るわけでもないことは、あまりに当然のことでしょう。もし、勉強によって神様を知ることが出来るのなら、その「神」は、「神は世の知恵を愚かなものとされたではないか」と記されている聖書の神とは全く別物の作り物の神に過ぎません。
私たちは聖書に証しをされている神、キリストにおいてご自身を啓示された神様を、ただ聖霊によってのみ知ることが出来るのです。十字架につけられた方が、私たちの罪を贖ってくださった救い主であり、復活して今も生きてくださっていることは、聖霊によって示され、そして信じることが出来、そして告白することが出来るのです。もし、聖霊が与えられていなければ、私もまた、イエス・セミナーに参加している学者のように、聖書に記されている十字架や復活、また再臨の物語を、多くの古代社会に見られる神話の一つとして理解する以外にはないと思います。しかし、今は幸いにも、恵みによって、聖霊を注がれて、溢れる感謝と喜びをもって、誰に対しても、「イエスは主である」と告白することが出来ます。この点については、皆さんと全く同じなのです。ただ私は、こういう説教の場において、教会を代表して「イエスは主である」と宣言する立場にもあるというだけのことで、この告白そのものはすべてのキリスト者の告白です。

教会の土台

次に、指導者を巡る教会内の分裂や争いに関してですけれど、これは今も様々な教会で見られることです。
私は教会に生まれ育ちましたし、この教会に来る前に合計六つの教会に関ってきましたから、色々と経験をしてきましたが、私の神学校時代の友人が通っていた教会は、この二十五年の間に、恐らく一〇人前後の牧師が交代しているはずです。その教会に古くからいる人々が、創立者の牧師に対する敬慕をあまりに強く持ち、その牧師が隠退した後に来た牧師を次から次へと追い出しているのです。赴任して以後、大人しく信徒の言う通りやっていれば五年は持つようですが、ちょっとでも教会を改革改善しようとすると信徒たちの抵抗にあって二年ともたないようです。
もうかなり前の、ある日の礼拝の中で起こったことが、その教会の実情を端的に表していると思います。ある信徒が、久しぶりに、今は老人ホームに入っている創立者の牧師を訪ねた。その翌週の献金の祈りの中で、その信徒はひたすらに、その牧師と会うことが出来たことを喜び、感謝し、その牧師が教会にいた頃の思い出を縷々語り、最後にその牧師の名を上げて「〜〜先生のお名前によってこの祈りを捧げます。アーメン」と言った。そして、創立者の牧師を知っており、慕っている教会の中心メンバーも「アーメン」と唱和した。
そうなりますと、その牧師を知らない人間は信徒にあらずということになり、またその牧師に対する敬愛の念を示さない牧師もまた牧師にあらずということになる。そのキリスト教会はキリストを伝えることなど出来ようはずもなく、創立者の弟子たちの集団となり下がり、六、七十人いた礼拝も十数人になり、あと一〇年もすれば数人しかいなくなるでしょう。

「神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。
神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」


会報の巻頭言にも書いたことですが、教会の破壊者は外部から襲ってくる敵だけではありません。むしろ内部にいるのです。そして、信徒に敬愛される牧師がしばしば、その信徒からの敬愛を受け続けることをよしとすることによって、結果的には、教会を破壊し続けることがしばしばあります。恐るべきことです。
パウロが三章四節以下で言っているように、創立者もその次の継承者も、神様の御業に与からせて頂いているのであって、神様から十分な報酬を受けているのです。人様から受ける必要ない。そして、教会にとって何よりも大切なのは人ではなく、教会を「成長させてくださる神です。」
 この中渋谷教会の初代牧師は森明(歴史上の人物なので敬称を略します)です。森明が、生涯説き続けたのはただ一点、贖罪のキリスト、十字架のキリストです。これは言うまでもなく、森独自の信仰ではなく、ルター・カルヴァンの信仰であり、宗教改革によって誕生した福音主義教会の正統的な信仰です。そして、その信仰を生きる中渋谷教会とは、二千年前に十字架につけられたキリストに土台を置く原始教会の信仰を受け継ぐ教会なのです。そして、教会の土台は二千年前に据えられましたが、キリストは昔の偉人ではないし、私たちは昔の偉人を毎週記念しているのではありません。私たちは毎週、この礼拝において今生きて語り、また働いておられるキリストの言葉を聴き、その御業に与かっているのです。つまり、神の霊の注ぎの中で、キリストの言葉を聴き、十字架の死の贖いによってキリストのものとされ、神のものとして頂いた喜びに満たされて礼拝をしているのです。

 記念日

 今日はこの教会にとっての記念日ですから、私も私の記念日について語ることを許して頂きたいと思います。私は、二十歳を迎えた直後の一月二日に洗礼を受けました。これが私の人生における最大の記念日であることは言うまでもありません。洗礼を受けなければ、今の妻と結婚することもなく、まして牧師になることはあり得ません。そういう意味で、洗礼を受けたことは、私にとって公私共に決定的な転機です。しかし、私は生まれ育った東京の教会で洗礼を受けた翌日には、大学がある京都に帰ってしまい、それから四月まで一回も教会の礼拝に出ませんでした。京都では、二−三度行ったことのある教会が二つ三つありましたけれど、どこもピンと来るものが少しもなかったということもあるし、洗礼を受けて以後素直に教会に通い始めると、自分の人生がとんでもない方向に行ってしまう、つまり自分がコントロールできない方向に行ってしまうのではないかという恐怖があったからです。こうやっていつも、神様に従いますと口では言いながら、頑強に抵抗し、反抗する傾向が昔からずっと続いていて困ったものなのですが、しかし、四月になると、私の一日前、つまり元旦礼拝で洗礼を受けた親しい友人が、京都大学に合格して京都にやって来ました。私もそこでは観念して、さて明日はどこの教会に行こうか?と相談した時に名前が挙がったのが、北白川教会という教会でした。当時は、森明の息子である森有正という哲学者が日本の教会で語った説教とか講演を収録した本がよく読まれていたのですが、その本の中で最初に出ていた説教が京都の北白川教会の礼拝で語られたものだったのです。なんでも、その北白川教会の牧師は森有正の父、森明の弟子だから、その牧師から説教しろといわれたら断るわけにはいかないんだとかなんとか最初に書いてありましたが、そんなことは当時の私には関係のないことですけれど、とにかくオートバイに二人乗りしてやっとの思いで探し当てた北白川教会は、いかにも京都らしい古い木造家屋でした。これが教会かよ?と相当怪しんだのですけれど、ヘルメットを片手に玄関に入るとニコニコしたお婆さんが挨拶してくださって、さりげなく一番後ろの席に座らせてくださいました。その部屋は、ただの畳の部屋で仕切りとなるべきふすまが全部取り払われていて、畳の上にパイプ椅子がびっしりと並べられており、満員の人でした。始まる前から熱気が立ちこめた感じでしたけれど、その日の礼拝が、今にして思えば、私にとっては決定的なことであり、そして、今私が中渋谷教会の牧師になっていることも、その日の礼拝がなければ考えられないことです。
 その日の説教題は「あなたがたが神の宮なのである」というものです。そして、説教が始まってから知ったことですが、実は、その日の礼拝が、その日本家屋で捧げる最後の礼拝で、翌週からは四、五百メートル離れた別の建物(それも木造モルタルのただの家ですけれど)で礼拝を捧げるということです。これまで何十年も礼拝堂として使われてきたのは、その教会の牧師さんの自宅の一階部分なのです。そのことにも驚きましたけれど、その日の説教は時間にすれば一時間を越える説教だったはずですが、私には最初から最後まで、その白髪の小柄な老牧師が甲高い声で読み上げるパウロの言葉が響き続けたのです。私にとっては、そんなことは初めての経験だったので、そのことに深く驚きました。その日の牧師の姿もその声もその言葉もまざまざと覚えているので、私としては、どうしてもこの時のことを語る場合は、以前使っていた口語訳聖書で読まないわけにはいきません。

「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。」

 その牧師は、繰り返しこの言葉を読んだように思いますし、徹底的にこの言葉を語っていました。要するに教会は建物ではない。来週から礼拝をする場所が変わるけれど、そんなことは教会にとっては何の問題でもない。問題なのは、私たち一人一人が、そして私たちのこの礼拝が神の宮として生きているか、真実な礼拝を捧げているのか、ただそれだけが問題なのであって、あとのことはどうでもいいことだ。そういうことを語っていました。少なくとも二〇歳の私、洗礼を受けてから四ヶ月経って初めて礼拝に出席した私にはそう聞こえました。そして、その言葉は、三十年を経た今の私の心の奥底に響いている言葉です。
私は、心の奥底に抱いていた悪い予感の通り、この礼拝体験以後、自分の人生をコントロールすることが出来ず、嫌だ嫌だと言っているのに、腰に縄をつけられて刑務所に引きずり込まれるようにして神学校に入り、結局、牧師になってしまいました。そして、二年間の伝道師時代を経て、主任牧師として初めて遣わされた松本の単立教会の前任牧師は北白川教会出身であり、既に亡くなっていた夫人は中渋谷教会の会員でした。その教会の人間が東京に出てくる場合は、教会は中渋谷教会に行くことになっていましたし、実際、現在も二人の方が、そういう形で中渋谷教会の会員になっています。そして、「あなたがたが神の宮なのである。・・・もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである」という御言を震える思いで聴いてから三十年の月日を経て、私は今、この中渋谷教会の創立九十周年礼拝において説教をしています。今の私は、この宮を壊すのは、この宮の中にいる人間であること、しばしば牧師自身であることを自分自身の経験として知っており、そういう人間を神は滅ぼすことも知っています。でも、神は、そういう人間を滅ぼすとは言っても、やはり救って下さるということを経験として知っているのです。

神の懐に帰る平和

 先日、人づてに、ある若い牧師さんが中渋谷教会のホームページに掲載されている私の説教を時折読んで参考にしていると聞きました。その牧師さんが現在仕えている教会にもホームページがあるかなと思ってみたら、その方は今年の春にその教会に赴任をして、ヨハネ福音書の説教を始めたようです。そういうこともあって、私のヨハネ説教の原稿を読んでおられるのだと思います。第一回目の説教をホームページで読むことが出来ました。とてもよい説教で嬉しかったです。でも収穫だったのはそれだけではなくて、その牧師さんがお書きになった教会への「招きの言葉」に心打たれました。そこにはレンブラントの絵が載っています。放蕩息子を赦して家に迎え入れる父親の絵です。ボロボロになって帰ってきて、跪いて泣き崩れている息子を、父親が優しく抱いている絵です。
 その絵の隣に、こういう文章が書かれていました。

すべての人間は本来「神さまの子供」です。

しかし人間は心に抱える罪のために、
父なる神さまの懐という帰るべき故郷を
         見失ってしまいました。
この罪こそがこの世の全ての悲惨、
人間一人一人が抱える不安と孤独、
         そして死の根本的な原因です。
神さまはそのような私たち人間を尚も憐れみ、
愛する御子イエス・キリストを世に送られました。

ここに神さまの愛があります。

十字架上で捧げられた御子イエスの命は、
         私たち全ての罪を赦します。
そしてその三日後の復活は、信じる者全ての希望、
         神さまとの平和のしるしとなったのです。

主イエス・キリストは今も生きておられます。

そして教会の様々な宣教活動を通して、
人々を礼拝する民の中へと招いておられます。

神さまの平和の中にぜひおいでください。

 この招きに応える人が一人でも多くいることを祈らざるを得ませんが、ここには私たち人間の罪の本質とその罪を赦し、罪人を新しく神の子として生かしてくださるイエス・キリストの十字架と復活の福音が鮮明に語られています。いわゆる知恵のある者も、知恵のない者も、皆例外なく罪の中に生きており、そのことの故に神の子としての本来の姿を失ってしまっている。それは事実です。人生は、私たち人間が本来いるべき神の懐を目指す旅なのです。そのことを自覚していようといまいと、神に造られた被造物として、私たちは、神を求め、その愛を求めているのです。しかし、私がまさにそうですけれど、求めながら壊している。求めながら背いている。求めながら遠ざかっている。それが罪の本質、本性です。私たちはその罪に支配されて生きている限り、平和を得ることが出来ません。神の懐に抱かれるまで、平和を得ることが出来ません。希望もなく、この世を漂う、死に向かって漂うだけなのです。そのことに気づかせる、そして、この惨めな人生を根本的に造り替えてくださるキリストと父なる神が今生きておられることを告げ知らせ、真の平和を与える。それが私たちの礼拝、神の宮、神の霊が住んでいる神の神殿である私たちの礼拝です。

 神殿の礼拝で起こること

 この手紙の一四章は、この度再版になった松永希久夫先生の『新約聖書における教会形成』において強調されている所なのですけれど、そこでパウロはこう言っています。

「皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう。」

 イエス・セミナーに象徴される人々は、結局、自分の非とか、罪が明らかにされることを拒む人たちなのです。創立者をいつまでも敬愛し、神の神殿である教会を私物化する人たちもその根っこは同じなのです。私だって同じです。私たち人間は誰だって「非を悟らされ、罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出される」なんてことを好きなわけがないでしょう。しかし、教会の土台であるイエス・キリストの前に立つということは、このこと抜きにあり得ないことです。だから、礼拝は怖いのです。礼拝するとは怖いことです。毎週毎週、この礼拝がなければ生きていけませんけれど、これがなければどんなに楽かと思います。でも、これがなければ神の懐に帰るという平和を得ることが出来ません。
 私たちは十字架のキリストを見る時に、ちゃんと見ることが出来る時に初めて、自分の罪を知るのです。それも聖霊の導きによることです。自分で自分の罪を見つめても、それは自分で見える程度のことしか見えません。そもそも見たくないのだし、肉の目で見えることは限られたことです。しかし、自分の罪のために、身代わりに裁かれたキリストの姿を聖霊の導きの中で見ることを通して、私たちは自分の罪の根深さ、奥深さ、醜さ、恐ろしさを知るのです。そして、その罪を自分ではどうすることもできないことを知る。そのどうすることも出来ない罪を、キリストが全部その身に負って身代わりになって神に見捨てられるという恐るべき裁きを受けてくださった。そして、そのキリストが十字架の死後三日目の日曜日の朝甦ってくださり、罪と死の闇の中に絶望して沈み込んでいる弟子たちに現れてくださった。そして、聖霊を注いで下さった。その事実がなければ、彼ら命が惜しくてイエス様を裏切って逃げた弟子たちが、命をかけてキリストを宣べ伝えて教会が誕生するなどということも起こり得ないことです。
 私たちは、知恵ある者の作り話に耳を傾けるのではなく、この二千年間、一字も書き換えられることなく書き続けられ、語り続けられてきた十字架のキリストを聖霊の導きの中で堅く信じ、告白し続けることにおいて一つである教会として今立っているし、これからも立ち続けて行くのです。十字架のキリストを土台とし、神の霊が住んでいる神の神殿である私たちの教会の礼拝に来る者は、その最初から最後まで貫かれている霊的な時間の中で、そしてそこで読まれ、説き明かされる神の言葉に触れ、会衆の説教としての讃美の言葉に心打たれ、次第に自分の罪を示され、イエス・キリストによる赦しを示され、「たしかに、神はあなた方の内におられます」「イエスが主であることを信じます」と告白するようになる。そういう神の神殿として、私たちは毎週毎週、些かも気を緩めることなく、この礼拝に結集する教会でありたいし、あらねばなりません。その思いにおいて私たちが一つであるなら、神様はこれからもこの教会を成長させてくださいますし、壮大な神殿として建て続けて下さるのです。祈ります。
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