「死者の復活がなければ」

及川 信

コリントの信徒への手紙一 15章12節〜19節
キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。

 あの人のように話した人は


 今日は教会の暦で言いますと、「聖徒の日」であり、全国の多くの教会で、信仰をもって天に召された召天者を記念する礼拝を捧げています。今日は、中渋谷教会の召天者のご遺族の方もたくさん来られて、こうして礼拝を共に出来ますことを感謝します。
 そういう礼拝において、先週の礼拝のことを言うのも少し気がひけますけれども、先週私たちはヨハネによる福音書七章から御言を聴きました。そこには、イエス様のことを社会を惑わす危険人物として見做す権力者から、イエス様を逮捕するために派遣された役人たちの言葉がありました。彼らは、イエス様を逮捕しに行ったのに、結局、捕えて、連行してくることが出来なかったのです。イエス様が抵抗したとか、弟子たちが武力をもって逮捕を阻止したとか、そんなことではない。イエス様は逃げも隠れもせずに神殿の中で語られている。しかし、役人は捕えることが出来なかった。何故か。彼らは、こう言いました。

「今まで、あの人のように話した人はいません。」

 イエス・キリストの言葉を聴く。間近で聴く。それは、やはり驚愕の経験なのです。こんな人は他にいない。こんな言葉は聴いたことがない。こんな言葉を言える人と会ったことはない。これはただの人ではない。そういう人、より正確に言えば、人となった神と出会った経験です。
 こういう経験は、しかし、二千年前にエルサレム神殿の中で、肉体をもって生きていたイエス様の言葉を直接その耳で聞いた人間だけが持っている経験かと言うと、決して、そんなことはありません。ついでに言っておきますと、その時、その場でイエスから直接話を聴いた人間が、皆、同じ経験をしているわけでもない。同じ現場にいても、受け止め方は人それぞれです。ただ、イエスを逮捕するために派遣された役人たちは、この時、自分たちでは理解できない、把握できない言葉を聴いた、理解も把握も出来ない人物に出会ったという驚きに満たされて、任務を遂行できなかったということです。  この役人たちの経験は、その本質において私の経験ですし、今日、記念されるべき召天者、つまり、イエスをキリストと信じて生き、「キリストを信じて眠りについた人々」にとっての経験であり、キリストへの信仰を告白したすべてのキリスト者の経験なのです。
 今に生きる私たちは、肉眼でイエス様を見たこともないし、鼓膜が震える形でイエス様の言葉を聞いたことがあるわけでもありません。でも、私たちキリスト者は、“あの人のように話す人はいない、こんな言葉は他の所では聴けない。この人以外からは聴くことが出来ない。この人の言葉を聴いて信じて生きる以外に、私の人生は最早あり得ない。この人と出会うために、この人と共に生きるために、私は生まれてきたんだ。この人と出会って、私は救われた。”そういう経験をしている者たちなのです。イエス・キリストと出会い、その語りかけの声を聴きながら生きている。それが私たちキリスト者です。

 キリストの言葉を聴くとは

 以前も少しご紹介しましたが、アメリカの神学者たちの論文と説教が集められた『聖書を読む技法』という本があります。今月半ばに計画されているブックフェアーにおける牧師の推薦図書にも入れておきますが、分厚い、読みでのある本です。その中で、ある神学者は、こういうことを書いています。すべて私の言葉に直して引用します。

「聖書という書物は、文学的、宗教的、文化的、神学的に見て、実に多岐にわたる様々な文書が集められた書物である。古代近東、また地中海世界の政治的、宗教的な歴史の長い期間の出来事が、その中には入っている。しかし、そういう多種多様な文書が、神はイエスを死人の中から甦らせたというただ一つのメッセージを告げるためにだけ一つになっている。このイエスの復活という出来事がなければ、すべての文書はバラバラに解体してしまうだろう。」

 これは全くその通りだと思います。聖書は、イエスという人間の死(これは十字架に磔にされた死ですが)と復活を告げるためにだけ一つになっている書物である。私もそう思います。そして、この神学者は、その論文の最後の方で、こういうことも言っているのです。これもすべて私の言葉に直しますが。

「聖書は、物語の推移について客観的な知識を与えるだけではない。人間は語りかけ、応答することでその歴史を生きているのだから。そして、聖書は生きている神の声そのものなのである。教会の礼拝で聖書が読まれるときは、肉となって現れた神の言そのものであるキリスト・イエスが語りかけているのである。神が十字架で死に甦らせたキリスト・イエスとして語りかけているのである。 あのアテネにおけるパウロのように、復活について語る人の周りには、僅かな人しか集まらないとしても、まさにそこで語られている世界こそ、リアルな世界なのだ。」

 たとえば、先ほど読んで頂いた箇所は、パウロという人が自分で伝道して建てたコリントというギリシアの町の教会に向けて書いた手紙の一部です。人から人への手紙です。そのことは動かし難い事実です。文献学的には古代地中海世界の一つの宗教思想を研究する資料と言って少しもおかしくない。けれど、紀元前千年以上も前から千数百年にわたって書かれ続けてきた六十七巻にもなる様々な文書を『聖書』という一つの書物に纏めた教会、あるいは人々は、その文書のすべてにおいて神が語っていると受け止めたのです。より正確に言うと、イエス・キリストの十字架と復活においてご自身を表した神が、あるいは神であるイエス・キリストその方が語りかけてくる言葉として受け止めたのだし、私たちもまた、同じです。だから、私たちは聖書を神の言、「御言」として読んでいる。いや、聴いているのです。表面を読めば、ここではパウロがキリストを宣べ伝えており、キリストへの信仰を告白しているのですけれども、その内実、リアルな現実としては、キリストご自身が信仰への招きの言葉を語りかけてきている。そういう所まで読んでいかないと、聖書を読んだことにはなりません。しかし、そのように聖書を読む次元は、人間の知恵とか努力とかを超えた次元です。この神の霊、聖霊が注がれた時に、この紙に印刷された文字を通しても、キリストご自身の言葉、いまだかつてあのように話した人はいないと言わざるを得ない方の言葉、こんな言葉を語れる人は他にいないという方の言葉を聴くことが出来るのです。今日の礼拝でも、そういう現実が起こる人には起こるのだし、そのことを祈り願いつつ、御言に聴いて参りたいと思います。

 アテネにおけるパウロ

 先ほど読んだ神学者の文章の中に、「アテネにおけるパウロ」という言葉がありました。それは、パウロがギリシアの首都アテネに伝道に入った時のことを言っているのです。ギリシアは、神々を拝む宗教と同時に哲学の盛んな所でした。非常に宗教的であり哲学的な人々が住んでいる。アテネはその中心です。そのアテネの中心にパルテノン神殿があります。その真下にアレオパゴスの丘という高台があり、哲学者たちは、そこで人々に向かって自説を演説したそうです。パウロもその高台に立って、天地創造の時からの神の業を語り始めた。しかし、その話がついにキリストの復活に及ぶと、「ある者はあざ笑い、ある者は『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言って」立ち去って行ったのです。つまり、丁重に、あるいは冷笑しながら拒絶した。これはあまりにも当然の話です。初対面の人の演説を通して、神が一人の人間を死者の中から復活させたと聞いて、それを信じるなどということは、哲学者でなくたって、あり得ないし、あってはならないことだとも言えると思います。非常に知的な人物でもあるパウロは、そんなことは分かっています。でも、彼はそのことを語るほかなかった、語るしかなかったのです。何故なら、彼にとってそれは否定できない現実だからです。彼は、復活したキリストが今も霊において生きておられるから生きている、その現実を否定しようがないのです。この方を信じて共に生きるということこそが、生きていることのリアルな現実なのであり、復活のキリストを知らずに、ただ食べて飲んでこの世を生きているということは、その時の彼にとっては、まやかしであり、虚構に満ちたものだからです。そこに、本来の人間の生はない。もし、人生がそんなものであれば、一五章三二節に当時の人々の言葉が引用されていますけれど、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになってしまいます。キリストの復活を知らない、復活のキリストと出会っていない人生というのは、そういうものです。生きている時に何をやったとしても、最後は死ぬ。そして、終わり。地上にある時に何をやったかも、所詮は、自分で自分に意義付けをしているだけであり、人々が賞賛しようがけなそうが、それは「だからどうした!」という話です。そんなものが救いに関して何の力にもならないことは、誰だって分かっています。しかし、救いが何であるかが分からない限り、そして、どのようにして与えられるのかが分からない限り、せめてこの世で楽しく、自分なりに有意義な人生を生きるほかにありません。そして、多くの人が、救いなどというものは、所詮、人間が作り上げた虚構の世界だと思っている。私もそう思っていました。
 その当時の、私にしてみれば、キリストが復活しただとか、キリストを信じて死ぬ自分たちも復活するなんて言っている人々は、パウロが言う如く、まさに「すべての人の中で最も惨めな者」だと言う他にありませんでした。まともな知性を持っている人間が、あんな作り話をよく信じることが出来るもんだ、現実が苦しいと人は誰でも夢見たいな虚構の世界に逃げたがる。信仰とはそういうものだ。俺はあんな惨めな生き方はしない・・。そう思っていました。そういう思いは、今考えても、真っ当だと思います。
 人間の思いは人間の思いとして今だって存在しますけれど、しかし、先ほどの役人のような体験、社会にとっての危険人物だと思って捕まえに行ったのに、直接にその言葉を聴いてしまうと、逮捕するとかしないとか、そんな次元の人物ではないということが、体のどこか深いところで分かってしまう。そういう現実があります。私もある時に、聖書を読んでいて、直接、イエス様の言葉を聴くということがあり、その経験が一体どういうことなんだと追求している内に牧師になってしまい、今は毎週毎週、この聖書を通してキリストの言葉を聴くことに集中している。そういう人生を生きることになってしまったのです。私の場合は、その聴いた言葉を語るという点で、皆さんとは違う立場に立っているということでしょうけれども、聴いてもいないこと、そして、信じてもいないことを語りはしません。そして、聖書の言葉を通して、また聖書の説き明かしである説教の言葉を通して、キリストの言葉を聴いて信じているという点では、些かも変わらないのです。

 最も大切なこと

 先ほどは、一五章一二節から一九節までを読んでいただきました。でも、この手紙の一五章は全体を読まないと正しく理解できません。しかし、すべてを読むことは時間的には無理なので、三節から読みます。そこでパウロはこう言っています。

「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」

パウロにとって「聖書」とは、私たちにとっての旧約聖書ですけれど、その聖書には、キリストの死と復活について書いてある。そこで書かれていることが現実に起こった。そのことが宣べ伝えられており、そしてそれがまた書かれ、それが新約聖書となり、旧約聖書と合わさって「聖書」となり、今に至るまで神の言として読まれ、また語られているのですけれど、その中心にあることは、キリストの死と復活なのです。
しかし、その「キリストの死」に関して、彼自身が告げられ、そして彼も告げていることは、キリストは「わたしたちの罪のために死んだ」という事実です。一七節でも「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」とあります。キリストの復活だとか、死者の復活だとか言いますと、自然科学的にはあり得ないことを神様が起こした、そういう奇跡と考えがちであり、その奇跡を信じるのが信仰だと一般には思われているかもしれません。しかし、実際に読んでみると、聖書はそういうことを語っているわけではない。神様の語りかけの中心はそこにあるわけではないのです。
問題の中心にあるのは、私たちの罪です。この問題が分からなければ、今日の箇所は何にも分かりません。そして、罪の問題は、単なる知識の問題ではありません。これもまたリアルな現実です。人間存在を規定している現実なのです。それはその現実に気づこうが気づくまいが存在するものです。そして、ある時、突然、気づかされる人には気づかされる現実です。気づかされた方が幸せなのか、気づかないままの方が幸せなのか、それはその罪のために死んだ人と出会うことが出来るか否かに掛かっていると言うしかないのだろうと思います。

罪とは

私たちは誰でも「罪」と聞けば、悪のことだと思ったり、犯罪だと思ったりします。しかし、そういう問題とも関係はあるとは思いますが、聖書に出てくる罪という言葉の意味は、悪だとか犯罪だとか、そういうものに限定されたことではなく、もっと根源的なことです。
たとえば、聖書の一番初めに置かれているのは「創世記」と呼ばれる書物です。その冒頭に、天地創造や最初の人類アダムとエヴァの物語があり、罪の初めが出てきます。神の被造物の中で、最も賢い動物とされていた蛇が登場し、神様が「これだけは食べてはならない、これを食べたら死ぬ」と言っていた木の実を食べるようにアダムとエヴァを唆すという出来事が記されています。エヴァは蛇の言葉に聴き従い、アダムはエヴァの言葉に聴き従う。その時、神と人の愛と信頼の関係は壊れ、また人間同士の愛と信頼の関係が壊れていくのです。彼らはそれまでのようにお互いに裸ではいられず葉っぱで腰を隠し、神様がエデンの園を歩いてこられると葉っぱの陰に全身を隠します。その時、神様がアダムやエヴァに問いかけた言葉は、こういうものです。

「あなたはどこにいるのか。」
「あなたは何ということをしたのか。」


  神の前に立つことが出来なくなった人間は、自分が何処にいるのか分からなくなります。何故生まれてきたのか、どこに向かって生きているのか分からない。そして、自分が何故こんなことをしてしまったのか分からない。そういう経験は、誰にだってあるはずです。私たちは生まれたくて生まれてきたわけではないし、死にたくて死ぬわけでもなく、命の由来も行きつく先も分からないままに生きています。そして、何故、あんなことをしてしまったのか分からないということをして、信頼と愛の関係を壊し、どんどん孤独になっていく。
何故なら、私たちが神様以外の言葉を聴きながらやることは、エゴイズムの業でしかないからです。蛇が言ったように、神のようになりたいという思いで動くからです。神様の愛を源として生きるのではなく、自分の欲望を源にして生きるからです。そのように生きることで、実は、自分にとって最も必要な、命の源である神様との関係を破壊し、愛し合うべき人との関係を破壊してしまう。そして、夫婦・親子の関係が崩壊し、友人同士の関係が崩壊し、そして、どんどん孤独の中に落ちていく。そして、最後の孤独は死です。これは、ある面でリアルな現実です。大人になるということは、その現実を経験し、認めるということであるのかもしれません。子供じみた夢みたいな理想を目指して生きるということは、最早出来ないからです。

聖書が語るリアルな現実

 しかし、聖書は、さらに奥底にあるリアルな現実を語ります。それは、蛇の言葉、自らの内なる言葉に従い、ご自身との関係を破壊し、互いに裸で一心同体になって愛し合えない人間関係に陥ってしまった者たちに語りかける神がいるという現実です。いや、その神の語りかけそのものが、私たちにとっては聖書なのです。私たちは、この聖書によって神様の声を聴き、そうすることで、アダムとエヴァのように、恥部を隠しながらでしか生き得ない自分、神の前では葉っぱの陰に隠れざるを得ない自分の姿を知らされるのです。
 パウロは、かつては教会の迫害者でした。キリストへの信仰を敵視し、この信仰を徹底的に叩き潰すことこそ神が自分に与えた使命だと考えていた人物です。それでは、当時のパウロが敵視していたキリスト信仰とはどういうものであったか?それもまた聖書に記されています。
聖書に記録されているキリストを告知する最初の説教は、聖霊に満たされた弟子のペトロが語ったものです。その説教の中で、ペトロはこう語りました。三箇所だけ抜粋します。
「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」
「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。」
「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」


 これがキリスト教会の最初の説教、あるいはキリスト教会を誕生させた説教です。その中で、彼が繰り返し繰り返し語っていることは、イエスの十字架の死であり復活です。ただこの事実だけをペトロは語っている。何故なら、彼はその事実を目撃したからです。復活のイエスに出会い、直接語りかけられたからです。
「イエス様、あなたのためなら死ぬ」と言いながら、その舌の根も乾かぬ内に「あの人のことは知らない」と三度も言ってしまった自分。もはや自分のことを如何なる意味でも肯定できず、愛することも出来ずに、ただ暗い部屋の中でうずくまっていることしか出来なかった時に、復活されたイエス様が現れて、十字架の釘跡が残る掌を見せつつ、「平和があるように」と語りかけてくださったのです。そして、「この部屋から出て行きなさい。いつまでも葉っぱの陰に隠れている必要はない。あなたの罪は赦された。私があなたの罪のために死に、あなたを新しく生かすために復活した。この事実を、信じなさい。そして、語りなさい。すべての人々に、私の十字架の死と復活によってもたらされた救いの現実を語りなさい。」ペトロが、イエス様にそう語りかけられ、そして、命の息である聖霊を注がれた時、「あの人のことは知らない」と言った彼の口が、「神は、このイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です」と語り始めたのです。この説教を聴くことによってイエス様からの語りかけを聴き、心を打たれて、洗礼を受けた者たちによってこの地上に教会が誕生したのです。復活のイエス・キリストとキリストが注いでくださる聖霊が、キリスト者という新しい命、キリスト教会という新しい共同体を生み出したのです。

パウロにとってのリアルな現実

 パウロは、神は人間にはなり得ず、呪われた十字架につけられた者がメシア、救い主であるはずがないではないかと堅く信じるユダヤ教徒でしたから、この人々を許すことが出来ないのです。彼は神の名を語りながら、神を冒?するキリスト者を捕えて死刑にし、キリスト教会を破壊することにその人生を賭けました。しかし、そのパウロに、復活のイエス・キリストが突然現れた。彼は、天からの光に照らされる中で、復活のイエス・キリストに「サウル、サウル(パウロの別名)なぜ、わたしを迫害するのか?」と問いかけられました。それは、「あなたは、どこにいるのか?あなたは何をしているのか」という問いかけと同じです。彼が、「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねると、主イエスは、こうお答えになった。

「わたしはあなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」

 このイエス・キリストの言葉は、「わたしはあなたの罪を赦す。私を信じなさい。そうすれば、新しい命を生きることが出来る」という意味です。彼は、目も見えず、食事も咽喉を通らないほどの衝撃を受けつつ、キリスト者を迫害するために入ろうとしたダマスコという町に入りました。そこで彼が知らされたことは、彼の今後の人生は、十字架の死から甦らされたキリストを信じる者はそれまでのすべての罪が赦されて新しく生きることが出来、その命は肉体の死をもって終わることなく、復活の体を与えられるという福音を宣べ伝えるためにあるということでした。それは、それまでの彼の人生の終わり、死を意味し、そして、全く正反対の、そして全く新しい人生が始まることを意味します。彼は、その町の中で、捕まえた上に死刑にしてやろうと思っていたアナニアという人から洗礼を受けました。殺そうとした者から、新たな命を与えられる洗礼を受けたのです。この時、彼は迫害者から伝道者という大転換を遂げたのです。以来、彼はケファと呼ばれたペトロ同様に、口を開けば、「キリストは私たちの罪のために死に、そして復活された」と宣言し、キリストの福音を宣べ伝えることになったのです。
 その宣言あるいは告知、まともに聞けば、あざ笑い、精々「その話はまた聞かせてもらうよ」と丁重に断わられて当然の宣言あるいは告知を聞いて信じる者が、僅かではあっても生まれてきたのです。コリント教会の人々もまた、そういう人々です。私たちもそうです。

 受洗志願者が生まれる過程

 今日の午後の長老会で、クリスマスに信仰を告白して洗礼を受けることを志願している一人の方の試問会を致します。その方は、去年の特別伝道礼拝における私の説教、「あなたはどこにいるのですか」という、アダムに語りかける神の言を語った説教を聞いて、それ以来、礼拝に出席し続けた方です。その方が、生まれて初めて礼拝に来ることになった切っ掛けは、中渋谷教会の教会員のお一人が、「もし、本当に生まれ変わりたいのなら、私たちは毎週、生まれ変わることを願って礼拝に行きます」という手紙と共に伝道礼拝のチラシを送ってくださったことにあります。その教会員の招きの言葉は、まさにその方を通して与えられた神の招きの言葉だとしか言い様がないと思います。そして、招きに応え続けた人は、必ず、ある時、生けるキリストから直接語りかけられる経験をします。そして、自分が何処にいるのかも分からぬ、そして何をしているのかも分からぬまま、神との関係を壊し、人との関係を壊し続けていた罪人であったことを知る。そして、その罪の赦しのためにキリストが十字架にかかって死んでくださったことを知り、そのキリストが復活して自分に全く新しい人生を与えてくださり、これから後、永遠に共に生きてくださることを知るのです。そして、いつの日か、私たちはキリストの復活にあやかって天国において新しい霊の体を与えられる救いを確信出来るのです。

 聖餐の食卓 神の家(ベテル)

 私たちは今日、これから聖餐の食卓に与かります。この食卓は、信仰を告白し、洗礼を受けた者が与かるものです。何故なら、そこで配られるパンとぶどう酒は、私たちの罪のために十字架の上で裂かれたキリストの肉と流された血のしるしだからです。そして、そのパンとぶどう酒を配るのは、目に見える形では牧師であり長老たちですけれど、目に見えないリアルな現実としては今生きておられるキリストご自身だからです。そのキリストが配ってくださる肉と血を食べ、また飲んで、新たな命に生きるためには聖霊によって与えられた信仰が必要です。信仰抜きにはただのパンでありぶどう酒に過ぎません。しかし、私たち信仰者はそのパンとぶどう酒を頂く時に、主において一つにされます。そしてそれは、ここに集っている者たちが一つにされるということだけではなく、今は天にある人々、キリストを信じて眠りについた召天者とも一つにされるのです。私たちは、あとで讃美しますように、この主の食卓を神の家族として囲みつつ、はるかに天の面影を写し偲んでいるのです。
 主の食卓を共にする教会のことを、しばしばベテルと言います。それは族長のヤコブが自分の家族との愛と信頼の関係を破壊して、たった一人で逃亡して野宿をしていたとき、天から梯子が下りてきて、天と地を天使が上り下りする光景を見たことに由来します。ヤコブは、その場所を「神の家」ベテルと呼びました。そして、そこで神を礼拝した。
地上に建てられた教会はすべてそういう意味でベテルなのです。中渋谷教会もまたそのベテルの一つです。この教会の礼拝を通してキリストと出会い、その言葉を信じ、罪の赦しと新しい命を与えられた者たちは、この教会を通して天に上げられました。そして、そこで神の御顔を直接拝しつつ、今日も命の食卓を囲み、礼拝を捧げている。私たちもまた、その救いの確かさを、礼拝の度ごとに確認して、主を讃美できるのです。塵灰に過ぎず、ただ滅びに向かって生きるしか仕方の無かった罪人であった私たちが、ただキリストの恵みによって、かくも大いなる、そして確かな希望を与えられて生きることが出来る。キリストは私たちのために復活されました。だから、私たちも復活させられ、救いの完成の中に、キリストと父なる神を讃美できる。それこそ、リアルな現実なのです。そのことを確信し、今日も心を合わせて、ただただ主を讃美したいと思います。
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