「彼らには泊まる場所がなかった」

及川 信

ルカによる福音書2章 1節〜 7節

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。



 受胎告知と誕生の現実のギャップ

 今日からクリスマスを待ち望む季節、アドヴェントに入ります。十二月は五回の主日礼拝はすべてルカによる福音書二章一節〜三五節までの御言に聴いて行きたいと思っています。今日は、「住民登録」と「場所」に関して御言の語りかけを聴いていきます。
 今年の四月から水曜日の聖書研究・祈会ではルカによる福音書を読んでおり漸くクリスマス物語が終わろうとしています。クリスマス物語りの最初は、マリアに対する受胎告知です。その時の御使いの言葉は、こういうものです。

「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

 「偉大な人」「いと高き方の子」父ダビデの王座につき、「その支配は終わることがない」。こういう方が誕生すると告げられているのです。私たちは、既にその先を知っていますから今日の場面にきても新鮮な驚きがないのですけれど、私は今年の四月から、初めてこの福音書を読む読者の気持ちになって少しずつ読み進めてきて、漸くイエス様の誕生の場面に辿り着いた時、そのギャップに驚きました。今日の箇所に登場するマリアとイエス様、それは受胎告知の中にある言葉に比すれば、あまりに小さく惨めな存在です。二章の冒頭で「偉大な人」「いと高き方の子」「その支配は終わることがない」という形で登場しているのは、イエス様ではなくむしろローマの皇帝アウグストゥスです。彼は、当時「神の子」と呼ばれていましたし、「救い主」と自称もしていた。そして、彼の誕生日は「福音」=「よい知らせ」として、地中海世界全域を覆うローマ帝国の全領土で祝われていたのです。アウグストゥス(崇高なる者、本名はオクタビアヌス)と呼ばれた皇帝は、後に「ローマの平和」(パックス・ロマーナ)と呼ばれることになった平和の基礎を築いた世界史に名前が残る偉大な皇帝です。その皇帝が、領民から税金を取り、自身の支配をさらに確固としたものにするために住民登録をさせる。人口調査あるいは国勢調査をする。イエス様は、そういうローマ帝国史上最大最強とも言われる皇帝が世界を支配する時代にお生まれになりました。それも、聖書以外には登場するはずもないヨセフとマリアという庶民の息子として、です。彼らは、マリアが身重であるにもかかわらず、権力者の鶴の一声に従って百キロ以上になる徒歩の旅をせざるを得ない庶民でした。自分たちを支配し、抑圧、搾取する外国の権力者に税金を取られるために、はるばる旅をしなければならない。そして、旅先の宿で、それも客間ではない場所、つまり荷物を運んできたロバだとか山羊だとかが休む場所で、初めての子どもを産まなければならない貧しい庶民なのです。イエス様は、そういう庶民の子として、家畜が休む所で産声を上げることになる。それが、天使に「いと高き方の子」として誕生が予告されていた方の出生なのです。
 その事実を地上に生きる人間として最初に知らされたのは、住民登録からも外されている最底辺の羊飼いたちです。動物と共に野宿をしつつ辛うじて生計を立てている彼らが、ダビデの町で生まれた救い主誕生を最初に知らされ、その方に会いに行くことが出来たのです。
 天使が羊飼いに告げた言葉は、こういうものです。

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」

 これは、皇帝アウグストゥスの支配と真っ向から対立する王、あるいは全く異なる王の誕生を告げる言葉です。ここで「告げる」と訳された言葉は、実は先ほど言った「福音を告げる」、つまり、王の誕生、王の到来を告げるという言葉です。
私たちは誰もが真の王、絶対的な王の存在を求めているものです。古今東西を問わず、権力者の大半は最初から腐敗しているか、途中から腐敗するものです。しかし、どんなに腐敗していても戦乱が続くのでは困るのです。戦乱の世では庶民は安心して暮せない。だから、腐敗していようが何であろうが、とにかく平和、安定と秩序、さらに繁栄をもたらしてくれる王(支配者)が欲しいと誰もが願います。そういう意味では、アウグストゥスは見事な王でした。強大な権力を手中にした後の彼に逆らう人物は、国の内外を問わずもはやいませんでした。だからこそ、彼の誕生は当時の人々にとっては「福音」であったのです。
しかし、聖書は、そういう王とは全く逆の、正反対の一人の子どもの誕生を「福音」と呼んでいるのです。そして、その方こそ、救い主、主、メシアであると告げている。ルカ福音書は、この後、じっくりじっくりとその理由を語り続けていくことになります。

「場」に関して

 私はこの半年あまり、説教はではヨハネ福音書を読み、聖研ではルカ福音書を読んできて、この二つの福音書は全く異なる特色を持っているなとつくづく思いますけれど、両者ともイエス様が主であり、メシア、救い主であることを告げており、そのイエス様が地上に肉体をもってお生まれになり、今も生きておられることを福音として宣言し、宣べ伝えている点では同じです。そして、今日の主題の一つである「場所」に関して、同じ消息を語っているのだと思います。
 先週、私たちはヨハネ福音書八章の御言を聴きました。その中で、主イエスは、「わたしは自分がどこから来て、どこへ行くのかを知っている」とおっしゃった。そして、それは主イエスが何者であるかと深く関係した言葉であり、主イエスが何者であるかを知ることが、実は、私たち自身が何者であるかを知ることと深い関係があると言いました。その説教の中で、長くなるので引用することを断念した箇所があります。それは、一章一〇節以下です。そこにはこうあります。

「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」

 万物は言であるキリストによって成った。つまり、言によって造られ、保たれているのですから、その言が世に来たということは、自分の民のところに王(キリスト)として来られたということです。本来なら、皆が、「主の名によって来るキリスト万歳(ホサナ)」と言って褒め称えて迎えるべきなのです。しかし、現実には、キリストの民であるべき人間はキリストを受け入れない。そして、神の言であるキリストは世に居場所がない。ヨハネ福音書は、そう告げています。
 ルカによる福音書も、「いと高き方の子」「民全体に与えられる大きな喜び」として王の誕生を告げているのですけれど、その王は生まれたその時から人間の世界に居場所がないことを告げているのです。
 世界には圧倒的な武力を背景にアウグストゥスが君臨し、ユダヤ王国には残忍なヘロデが君臨し、ユダヤ人の間で預言されていた王が誕生したと東方の占星術者らに告げられると、即座にベツレヘムの二歳以下の男の子を皆殺しにするのです。イエス様の居場所、安全に生きる場所は、その最初からない。地上を我が物としようとするこの世の支配者たちのお陰で、イエス様はその生まれた当初から生きる場がないのです。そして、イエス様を人の世界から追いやるのは、なにもこの世の王に限りません。宿屋の主人も客たちも皆同じなのです。私たち、真実の王、支配者を求めつつ、実は拒絶するものです。何故なら、腹の底で思っていることは、自分こそが王でありたい、支配者でありたいということだからです。すべてのものを自分のものにしたいという願望を持っているのです。

 「福音」と「場」の関係

 このルカ福音書では何回か「福音を告げる」という言葉が出てきます。その最後は、二〇章一節です。神殿で民衆に教え、「福音を告げ知らせている」イエス様に向かって祭司長や律法学者たちが「何の権威でこのようなことをしているのか」と問いただし、イエス様が逆に「洗礼者ヨハネの権威は天からのものか、人からのものか」と問い返すあの場面です。その問答の後に、イエス様は民衆に向かってぶどう園の譬話を語られます。
 ぶどう園の主人が農夫たちに収穫を納めさせる為に、僕を遣わしたら、農夫たちはその僕を袋叩きにして追い返した。そんなことが三回も続いたので、主人は、「どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう」と言って愛する息子を遣わす。そうすると、農夫たちは「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」と言って、「息子をぶどう園の外にほうり出して、殺して」しまう。
そういう譬話を語った後、イエス様は問いかけます。
「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」
民衆が、「そんなことがあってはなりません」と言うと、イエス様は、こうおっしゃいました。
「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。
『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』」


ぶどう園の主人は、もちろん父なる神様です。ぶどう園に譬えられたものはイスラエルであり世界でもある。それは、神様のものなのです。そこで収穫できるものも神様のものです。しかし、あのアダムとエバが蛇に唆されて以来、神のようになりたいと願い、すべてを自分のものにしようとする人間は、与えてくれる神様は大歓迎ですが、求める神様は大嫌いなのです。そして、ついに神様からすべてのものを奪いつくし、自分のものにしようとする。そのために、神の独り子を「ぶどう園の外にほうり出して、殺してしまう」のです。言は自分の民のところへ来たが、民は受け入れない。客間にはいる場所がない。神の独り子は、ぶどう園に生きる場所がなかったのです。

新しい場を造る福音

主イエスは、この悲惨な譬話を「福音」として語られている。何故、なんでしょうか?こんな悲惨な話が、なぜグッドニュース、よい知らせなのか?いと高き子が、永遠の王になるべきお方がこの世界に送られてきたのに、私たち人間によって無残に殺されてしまうのです。それは独り子なる王を送られた神様にとって許し難い暴挙です。だから、本来であるならば、神様は私たち人間を裁いて当然なのです。しかし、主イエスは、詩編一一八編の言葉を引用して、こうおっしゃいました。

「家を建てる者の捨てた石、
これが隅の親石となった。」


捨てられた者が土台になる。地上の世界から捨てられた者、私たち人間の社会の中に生きる場所がなかった者、私たち人間の心の中に居場所がなかった者、その捨てられた石が、世界を、人間社会を、人間の心を支える土台となる。
この親石とは、人間が建てる家の親石ではなく、神様がお建てになる家の親石、具体的には神の教会の親石、土台という意味です。その親石の上に建てられるものは、地上で目に見える形で建てられる神殿ではなく、天と地を繋ぐ形で建てられる神殿、神の教会のことです。イエス様は、地上で捨てられることによって、実は、その神殿、神の教会の親石となるのです。そして、それが「福音」という言葉が意味することです。それがどういうことなのかは、さらに読み進めていかねば分かりません。
この福音書を読み進めていくと、当然のことながら、十字架の場面になります。そこには、三人の男が登場します。二人の犯罪人とイエス様です。イエス様が真ん中の十字架に磔にされます。手にぶっとい釘を打たれて、足の甲にも打たれて、木に磔にされるのです。犯罪者の一人として。この世にいてはならない犯罪者の一人としてです。自らの行為によって、この世に居場所をなくしてしまった犯罪者の一人として、イエス様はこの世の裁判で裁かれて、処刑される。人々の嘲りの中で殺されて、ぶどう園の外に放り投げられるのです。

「そのとき、イエスは言われた。
『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』」


イエス様は、こう祈られる。ぶどう園に御自分を送られた父に向かって、「彼らをお赦しください」と。「どうぞ、彼らを皆殺しにしないでください。どうぞ、赦して下さい。」「死ぬのは私です。捨てられるのは私です。罪人の一人に数えられるのは私です。だから、父よ、彼らを赦して下さい。」
生まれてすぐ、家畜が口を突っ込んで草を食べ、よだれがこびり付いた飼い葉桶に寝かされた神の独り子、王(メシア)なるお方の地上における王座はこの十字架にあるのです。民全体に与えられる大きな喜びとして告げられる福音とは、実はこの祈りを捧げつつこの世から捨てられる王の到来のことだったのです。
この王の到来を最初に告げられたのは、社会の最底辺を生きており、律法も守れぬゆえに神に見捨てられた罪人と蔑まれていた羊飼いたちでした。そして、この王が「父よ、彼らをお赦しください」と祈りつつ死んでいく姿を目の前で見たのは、社会の最底辺で生きるどころか、社会には居場所が最早なく、殺されて社会の外に放り出されていく犯罪者でした。
そのうちの一人は、イエス様を罵りつつ、こう言いました。
「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
しかし、もう一人はこう言いました。

「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」


この世から捨てられて当然の者が、この十字架の上で自分自身死に行くときに、主イエスの祈りを聴き、自分が何をしたのかを初めて知ったのです。先週も言いましたように、姦通の罪を犯した女は主イエスの赦しの中で、初めて自分の罪を知り、そのことにおいて裁きを受け、そして悔い改めることが出来ました。この男もまた、目の前で主イエスの赦しを求める祈りを聴き、その死に行く姿を見つめつつ、この方が赦しを求めている「彼ら」の中に、こんな自分も入っているのだと信じることが出来たのだと思います。
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」
 「御国」とは「王国」という意味です。この十字架に磔にされた方が統治される国です。だからこの男の願いとは、「あなたが王であられる国の住民に私を登録してください」というものです。
 イエス様は、こうおっしゃいました。
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」

「あなたを今日、私の王国の住民として登録する。自分の罪を知り、わたしの父がわたしの十字架の死の故にあなたを赦して新しい命を与えてくださることを信じたあなたは幸いだ。天では、今、神の子が誕生した喜びで賛美が沸き起こっている。」
 主イエスは、こうおっしゃったのだと思います。

 悲劇と賛美 天と地

 クリスマス・シーズンは喜びと賛美の季節です。キリスト教国でもない日本の街は、もうどこもかしこもクリスマス・ソングが空しく鳴り響いています。でも、イエス様は生まれた時から命を狙われ、そして、実際に殺されてしまった。その悲劇の出来事の最初がイエス様の誕生なのに、何故、賛美など出来るのか。苦難に満ちた人生を送り、最後は処刑される方の誕生を喜び、賛美するとは一体どういうことなのかと、考えざるを得ません。愛する独り子をこの暗黒の世に送られた神様の心を思う時、どうして喜んでなどいられようかとも思う。
 しかし、ルカ福音書は、最初から最後まで読んでみると「賛美する」「ほめたたえる」「崇める」「喜ぶ」という言葉がたくさん出てくるのですけれど、その「賛美」とか「喜び」が、何よりも天上にあるのだと告げていることが大きな特色なのです。何故なのか?何故、この福音書は喜びの賛美に満ち溢れているのだろうか。
 明日も行きますけれども、青学の短大の授業では毎回、神の愛を語り続けています。福音書を読み、創世記を読みつつ、その愛がどれほど痛ましい愛であるかを語り続けています。そして、愛するとは信じることであり、愛するとは赦すことでもあると語っています。裏切る人間をそれでも信じ、それでも赦す愛なのだと語りかけている。その神の心の苦しみ、悲しみを語っているのです。でも、一人の学生が、「神の心は人を愛することで喜びに満たされているんじゃないか」と授業の感想レポートに書いてきてくれました。私は、その感想文を読んだ時に、「ああ、そうだったんだ」と逆に教えられて、何だか心の底から嬉しくなりました。
"神様は私のような人間を愛することで苦しんでいるだけじゃないんだ。私のような人間を愛することで、喜んでくださっている。喜んで愛してくださっているんだ。いや、愛して下さっているから喜んでおられるんだ。"
そういうことを知らされて、私が神の愛、その喜びの中に包まれる感じがしたのです。今日の説教の準備をしながら、心に去来した一つのことはそのことです。
そこで、この福音書に出てくる有名な譬話を思い出しました。一五章に記されている百匹の群れから迷い出てしまった一匹の羊の譬話です。その一匹は、一見すれば、この世界から外れてしまった、居場所を失ってしまった羊です。でも、実際には天国、楽園から迷い出てしまった罪人のことです。イエス様は、この世界にはいない羊飼いの話をします。人間の世界では、愚かな一匹のことは見捨てます。そんな愚かな落伍者一匹を捜し求めている間に九十九匹が危険な目にあったり、さらに迷い出る者が出たりしたら困るからです。それは当然の判断です。でも、羊飼いであるイエス様は、迷い出てしまったその一匹を捜し求める。そしてついに見つけ出し、喜びに満たされつつ、群れに連れ帰る。そこがこの羊が生きる本来の場所、住民登録してある場所だからです。その譬話をなさった後、主イエスはこうおっしゃいました。

「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

喜びは天に、そして地に

   喜びは天にある。裏を返せば、地上にないということです。この後に続く親の財産を娼婦たちとの遊びで食いつぶした弟が家に帰ってきたという譬話において、忠実に親の許にいた兄は、弟が帰ってきたことを決して喜びませんでした。そして、財産を食い潰した弟が帰ってきたことを喜んでいる父親に腹を立てて、家に入ろうとしませんでした。当然です。でも、神様でありイエス様の象徴でもある父親は、「この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」のだから喜び祝うのは当然だと言って、歌と踊りで満ちた喜びの大宴会を開いたのでした。
 罪人を愛することは悲しいことです。自ら迷い出た者を捜し求め、また帰るのを待ち続けることは悲しいことです。苦しいことです。でも、愛しているから捜し求めるのだし、待ち続けるのです。愛していなければ、そんなことはしません。信じているから、赦しているから、捜し求め、また待ち続ける。その心の中には、裏切られても、背かれても、殺されても、消えることのない愛がある。そして、ここまで愛することが出来ることは、実は喜びなのです。
 神様が、独り子をすべての民の救い主として生まれさせたという喜びの知らせ、福音。それは、ヨハネ福音書の言葉で言えば、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」ということです。これはギリシア語の順序で言うと、「このように愛した、神は、この世を」となります。「愛した」が強く強調されている。そして、「この世」とは「罪人」ということです。御国、楽園を自分のものにしようとして、実は迷い出てしまった罪人です。そして、「独り子」とは神様ご自身の命です。神様は罪人を愛した、その愛は命を与える愛だ、とヨハネは告げる。それが福音だ、と。この愛は悲惨な愛です。でも、命を与えるほどに愛することが出来るということは、喜びです。神様は二千年前のある日、ベツレヘムの飼い葉桶にその独り子を誕生させることによって、私たちを「命を与える愛で愛する」という決意を表明されたのです。そこには私たちの言葉では表現しようもない悲しみがありつつ、しかし、それをはるかに上回る喜びがある。爆発しそうな喜びがある。とめどもなく溢れてくる喜びがある。神様に最も近い天使はそのことを知って、声の限りに賛美しているのだと思います。イエス様の悲惨な誕生から始まる一連の神の御業を通して、この世から、一人また一人と天国に住民登録される罪人が生まれてくるからです。

 「今日、生まれたよ」

 前任地にいた頃、小指を落としているヤクザだった人たちが、イエス様に救われた証しを直接何度か聴いたことがあります。そのうちのお一人が教会の礼拝で語って下さった証しを、私は忘れることはありません。その方は、覚せい剤をも使用していたし、生きることが辛くて何度も自殺未遂を繰り返していた人ですけれど、一人の女性と知り合うことを通してイエス様に出会い、信仰を与えられたのです。その方が、洗礼を受けるために目を閉じて牧師の前に跪いていると、自分の所から天使が天に上っていって、天国にいる天使たちに向かって、「今、生まれたよ!」と告げる。そうすると、天上の天使たちが「わーーーーよかった」と歓声を上げて、神様を賛美する姿が見える。目を開けてみると、洗礼式が続いているのだけれど、また目をつぶると、天使が天に上がって行き、「今、生まれたよ」と叫ぶ。すると、また天上で大歓声があがる・・・。
 私が洗礼を受けた時もそうだったに違いないし、皆さんが洗礼を受けた時だって、そうだったのです。私たちが喜ぶ以前に、そして喜ぶ以上に、天に大きな喜びがあり、賛美があったのです。

天地を貫く喜び

これから聖餐の食卓に与かります。この聖餐に与かるということは、天上の喜び、賛美に連なるということです。私たちを捜し出して見つけ、群れに連れ帰ることが出来た主イエスの喜び、死ぬ前に家に帰ってきた息子や娘を迎え入れることが出来た主イエスの喜びが、この食卓にはあります。そして、もちろん、私たちには見つけ出され、連れ帰っていただいた喜びと賛美があり、追い返されず、迎え入れていただいた喜びと賛美がある。主イエスを通して現された爆発するような神の愛を信じ、洗礼を受けることによって神の国の住民登録をしていただいた私たちの喜びと賛美、そして私たちを救ったイエス様の喜びが、満ち溢れる。そういう喜びと賛美が天上と地上で満ち溢れるのが私たちの礼拝であり、聖餐なのです。そして、その礼拝と聖餐はクリスマスの出来事に始まったのです。だから、私たちは今、天使たちと声を合わせて、喜びの知らせを告げつつ、賛美が出来るのです。
「私たちのために救い主がお生まれになりました。
この方こそ、主、キリストです。」
「いと高きところに栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」

 祈ります。
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