「最低と最高の逆転」

及川 信

ルカによる福音書 2章 1節〜20節

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」
天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

 

 ルカ福音書の特徴 逆転

先週も言いましたように、今月はすべてルカによる福音書の御言に聴いてまいります。この福音書を読んでいて気がつくことは、この福音書には様々な上下関係、あるいは正反対の関係が出てくるということです。そして、それらのものが主イエスにおいて、あるいは主イエスによって逆転させられていく。そういう感じがします。
 その一つ一つの具体例を挙げればきりがないのですが、この福音書はその書き出しからして変わっています。なぜなら、ルカ福音書だけは、テオフィロという、恐らくローマ帝国において高い地位についているにもかかわらずキリスト教に共感を覚えている個人に向けて書かれたという体裁を取っています。この福音書を書いたルカと呼ばれている人物がどういう人であったかは諸説あって正確には分かりませんが、テオフィロとは比較にもならない身分の者であることは間違いありません。そのルカが、ローマ史上最大最強とも言われる皇帝アウグストゥスの時代に、またユダヤでは暴君として人々に恐れられていたヘロデ大王が君臨していた時代に、家畜小屋で一人の子どもが生まれたことを告げる。その子の親が、貧しく惨めな庶民の階級であることは明白です。しかし、その庶民の子供のことを、「いと高き方の子」であると言い、「その支配は終わることがない」と告げるのです。これは大変なことです。この世の支配秩序、その上下関係を逆転させる方が、社会の最底辺でひっそりと生まれた。しかし、この子は、たまに出てくる成り上がり者のように皇帝に逆らうことは何一つなさいませんでした。その生涯の最後もまた、皇帝の名による裁判にかけられて、そこで死刑を宣告されて処刑されたのです。しかし、ローマ帝国の軍人である百人隊長は、この方が「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と叫びつつ息を引き取られる姿を見た時に、「『本当にこの人は正しい人だった』と言って、神を賛美した」と記されている。ローマ皇帝こそ現人神として崇め、賛美し、従うことを本文とするローマの軍人が、またその名による法廷の判決は正しいと信じて従うべき軍人が、自ら手にかけて処刑した犯罪者を、「この人こそ正しい」と言って神を賛美するという大逆転が起こった。
さらに、この方は埋葬された後に、死の中から甦り、弟子たちに現れ、彼らを勇気付け、(以後は、ルカ福音書の続編である使徒言行録に記されていることですが)復活から五十日を経たペンテコステの日に聖霊を降すことを通してついにご自分の王国である教会を地上に打ち建て、その王国はローマ帝国全域に広がり、いつの日かローマ帝国そのものがキリストの支配に服する日が来るのではないかという予想をもたせる形で使徒言行録は終わります。そして、現実の歴史は、実際にそのようになったのです。さらに言えば、キリストが支配する王国は、ローマ帝国が崩壊して以後も確実に広がり、いつしか七つの海を越えて、ついに私たちの国にまで及んで現在に至っている。二千年前に、主の天使が、社会の最底辺に生きている羊飼いに告げた「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」という言葉は、今も現在進行形の形で実現し続けているのです。私たちが、今日もこうして、この礼拝堂で、大きな喜びをもって主でありメシア(キリスト)であるイエス様を礼拝しているとは、そういうことです。ルカによる福音書が伝えている福音の真理は、そこにあると思います。

望むということ

 今、『マリア』という映画が公開されています。原題は“THE NAITIVITY STORY”ですから、そのものずばり『降誕物語』です。マタイによる福音書やルカ福音書に記されている降誕物語を、素直に、忠実に再現している映画で、私は好感を持ちました。特に、最初のシーンや最後のエンディングシーンでは、先週の説教題のように、イエス様が地上では居場所がないということが切実に分かります。今日の箇所について色々と思い巡らしていた時に、その映画のある場面を思い出しました。それは、ヨセフとマリアがベツレヘムへ向かって苦しい旅を続け、夕闇が次第に色濃くなる直前、ベツレヘムの手前で一人の羊飼いに出会う場面です。その場面の前に、羊の群れと共に歩く羊飼いを見ているマリアに向かって、ヨセフが「羊飼いは生涯一人で暮すんだ」(つまり、独身のまま生きる)と言います。私はそんなことは初めて聞きましたが、この時代の羊飼いはそうなのかもしれません。それだけで、羊飼いの寂しさ、その生活の厳しさを思わされます。そして、いよいよベツレヘムが近づいた時、岩肌がそこら中に露出している荒地で、小羊を膝の間に抱きながら焚き火で暖をとっている羊飼いが、ヨセフに向かって、「花嫁さんが寒そうだ」と声をかける。すると、ヨセフも、それじゃあ、少しだけ、という感じでマリアをロバから降ろして三人で焚き火を囲むのです。羊飼いは身重のマリアに向かって、「神様は生涯に一つだけ願い事を叶えてくださるんじゃ」と言います。それは彼女の胎に宿っている子どもがまさにその願いの実現であることを暗示した言葉かもしれません。それを聞いてマリアは、老いさらばえ、小羊を膝に抱いてお互いに暖め合っている髭もじゃの羊飼いに向かって、「それじゃあ、あなたには、神様は何を叶えてくださったの?」と訊く。羊飼いは、愕然とした表情になって、「なにも」と答える。そして、「望むということのほかは何も」と言うのです。その時の彼の顔は、希望に燃えているというようなものではありません。輝いている顔ではない。そうではなくて、もう望みも何もない、涙も涸れ果てたという絶望を漂わせた顔です。でも、その彼が、「望むということのほか何も」とつぶやくように言う。その時の彼の顔を見た時に、私は「望む」ということの深い意味を知らされたように思いました。
 神様に向かって抱いた望みが何も実現せず、望んだものが何も与えられない人生。それは、悲惨なものです。幼い頃には、庶民ではあってもそれなりの富と幸せな家庭を持つことを望んでいたかもしれない。でも、色々と不如意なことが起こり、気がついたら他人の羊の世話をする最底辺の日雇い労働者になっていた。もう家庭を持つことも富を手にすることも望み得ない。人の数にも数えられない。しかし、そうではあっても、望むということ、何も実現せず、何も与えられなくとも、望み続けることそのものが与えられている。望みに生きる人生が与えられている。そういう意味が、その言葉には込められているでしょう。そして、人はその望みによって生きることが出来るのだと思います。望み得ない望みを持つことで人は生きることが出来る。その望みは、自分の中から出てきた望みではなく、神様が与えてくださるものです。

 死に至る病・絶望

 先日も(「先日も」と言わねばならぬことが尚更悲しいことですが)、アメリカで十代半ばの少年がショッピングモールでライフル銃を乱射して八人を殺して、自殺するという痛ましい事件がありました。その国には、十代で銃を持つことが出来る社会を肯定する人々がたくさんいるのです。そして、そういう人々の支持がなければその国の大統領にもなれないらしい。少年は、そういう社会の中で生まれ、家庭の事情で四年間も施設に預けられていた。最近、付き合っていた彼女とも別れてしまい、アルバイトも首になった。そういうまさに絶望的な状況に追い込まれたのです。その彼の手書きの遺書が残されていたようです。そこには「無意味な自分の存在に耐えることが出来ない。皆の重荷になることにも耐えることが出来ない、もう切れてしまった」という趣旨のことが書かれていたと、昨日報道されていました。すべての望みが奪われるとき、人はまさに自分を棄てる。自暴自棄になる。そして、人をも巻き込む形で死の闇に呑み込まれて行ってしまう。
このケースの場合、絶望がもたらした結果は悲劇的なものですが、こういう絶望、深い闇に支配されてしまう。それは境遇的に恵まれない人特有のものではありません。これもまた極端な例ですが、主イエスが誕生した当時のユダヤ人の王であるヘロデ大王は、ユダヤ人の王が誕生するという聖書の預言に怯え続け、東方の占星術者によって「ユダヤ人の王が生まれた」と聞くと、ベツレヘム地方の二歳以下の男児を皆殺しにしてしまいました。また、自分の王位を奪おうとする少しでも不穏な動きがあれば、あるいは彼がそのことを疑えば、自分の妻も、義理の母も、そして二人の息子までも殺したのです。皇帝アウグストゥスに取り入って、あらゆる策略をもってすべてを手にした時に、彼の心は不安と恐怖に支配され、まさに絶望の闇に支配されて、狂気へと向かう他になかったのです。
目の前の羊すら自分の所有ではない羊飼いは、ヘロデやアウグストゥスの対極に位置する人々です。彼らは何も持っていない。そして、何かを持とうという望みすら最早持ち得ない。けれども、望むということだけを持っている。いや、与えられているが故に、見知らぬ旅人に暖を取らせ、まだ幼さの残る若妻に望みに生きる大切さを語ることが出来る。その最底辺の人々に、いと高き天から主の使いがやってきて、彼らに近づいてきたのです。そして、「民全体に与えられる大きな喜び」が告げられた。最も低い人間に最も高い存在から告げ知らされた事実は、民全体(これはユダヤ人か世界中の人々かで議論のあるところですが、私たちを含めてすべての人間と解釈してよいと思います)に与えられる大きな喜びです。そして、彼らは、この地上の民の中で最初に、主イエスのお姿を見、神を崇め、賛美することが出来る人間、天使たちの賛美の大合唱に声を合わせることが出来る人間にされたのです。
こういう逆転を示す箇所を読んでいると、思い起こす言葉がいくつもあります。その一つは六章二〇節以下の主イエスの言葉です。

「貧しい人々は、幸いである、
神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は、幸いである、
あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、
あなたがたは笑うようになる。」

 貧しさ、悲しみ、そういう状況の中にいる者たちは幸いである、と主イエスはおっしゃいます。ある哲学者は、「死に至る病がある。それは絶望である」と言いました。絶望が人を死に至らせる。ここで主イエスが上げておられる貧しさ、飢え、泣きたいほどの悲しみ、それらは人に絶望をもたらすものです。しかし、その絶望に陥っている人こそ、幸いだ、と主イエスはおっしゃる。だから、喜びなさい、と。「幸いだ」とは神様の祝福が与えられる、ということです。それは一体、どういうことなのでしょうか。

 「泣く」ことと幸い(ナインのやもめ)

 「泣く」という言葉がこの福音書のどこに出てくるかを調べてみると、いずれの箇所も死と深い関係のある場所で出てくることが分かります。  七章には、やもめのひとり息子が死んでしまったという悲しみの場面があります。夫に先立たれた妻というだけで十分に悲しむべきことです。その女に、たった一人残された息子が死んでしまうという悲劇が襲う。町中の人々が、その悲劇を知って、母親を慰めるために付き添っていた。
私は仕事柄、人の死に直面し、悲しみにくれる家族の方の前にいなければならないことがあります。その時に、私に言葉もあるはずもありません。ただ、聖書の言葉を読んで祈る以外にはありません。夫に先立たれた上に、たったひとり残された息子すら失ってしまうという母親に寄り添うということがあったとして、そこで一体、何を語ることが出来るのか、想像しただけで途方に暮れるばかりです。実際、この母親と似た状況に陥っている方から、二−三ヶ月に一回程度、ひたすらに泣きながらの電話が掛かってくることがあります。また、悲惨な家庭環境の中で生まれて、親からも絶えず否定されて育ってきて、仕事も出来ず、「もう生きていくことが出来ない。死のうと思っている」とため息をつき続ける青年からも時折電話が掛かってくる。その電話の向こう側で止め処なく流れる涙と、涙も枯れ果てたような顔を想像しながら、ただ相槌を打ちながら聴きつけることしか出来ない。そして、その方たちと共に、神様が何を考えていらっしゃるか分からないという思いに押しつぶされていく。そういうことがあります。
 イエス様は、やもめのひとり息子の葬儀の現場に来たとき、母親に向かって、こうおっしゃいました。

「もう泣かなくてもよい。」
「そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。」


   たったひとりの息子を失ったやもめに向かって語りかけることが出来るお方がいる。そして、死人に向かって語りかけることが出来るお方がいる。そして、その言葉は、死人を生き返らせることが出来る言葉なのです。そこには恐れと賛美が沸き起こりました。それは、あの羊飼いに与えられたものと同じです。

 (会堂司ヤイロと十二年間の長血の女)

 さらにこの先に、会堂司という高い地位にあったヤイロという人物のたったひとりの娘が死にそうになり、イエス様が出かけるという場面があります。その途中で、十二年間も病に苦しみ、治療のために全財産を使い果たしてしまった女が、せめてイエス様の衣に触りたいと願い、触ったら、イエス様から力が抜けていって、病が癒されるという出来事がありました。その時、イエス様は女に「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃいました。でも、この女の信仰とは、もう何にも望みを持てなくなった時に、何も言わずにイエス様の衣に触れる、必死になって群衆を掻き分け、後ろからそっと人目につかぬように、イエス様にも気付かれぬように、衣の裾に触るというだけのことです。ただそのことにすべてをかける、そこにだけ望みを持つ。それだけのことです。いくつもの聖書の言葉を諳んじることが出来るという類の信仰の熱心さとは正反対のものです。
 この女との関りで時間を取ってしまったせいもあるかもしれませんが、その間にヤイロの娘は死んでしまいました。しかし、イエス様はヤイロにこうおっしゃった。

「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば娘は救われる。」

 そして、人々が泣き悲しんでいる家の中に入り、「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」と言って、その娘の手を取り、こう言われました。

「娘よ、起きなさい。」
「すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。」


 両親は神の臨在を感じて、驚きに打ちのめされるほかありませんでした。

 (エルサレムのために泣くイエス)

 以後、イエス様はエルサレムに向けての歩みをなさっていきます。つまり、十字架の死に向かっての歩みをなさるのです。そして、いよいよエルサレムに近づいたとき、イエス様がその「都のために泣いた」とあります。そして、泣きながら、こうおっしゃった。

「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」

   これはエルサレムがローマの軍隊に滅ぼされ、ユダヤ人の大人も子供も皆殺しにされるという大惨事の預言です。このような大惨事がもたらされる原因を、人々が、「神の訪れの時をわきまえなかったからである」とイエス様はおっしゃる。飼い葉桶に寝かされているみどり児を通して神が地に平和をもたらそうとして下さっているのに、この方を礼拝するところに平和の道があるのに、今は、それが見えない。それが見えない限り、人間は敵意と憎しみしか生み出せず、絶望の中に死の滅びに向かっていくしかない。その冷徹な事実を、イエス様は泣きながら預言しておられる。

   (激しく泣くペトロ)

そして、その後に「泣く」という言葉が出てくるのは、あのペトロの裏切りの場面です。これもまた絶望的な場面です。主イエスは、十字架につけられる前の晩にペトロにこう言いました。

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。
イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」


 そして、その日の明け方までにペトロは三度、主イエスを知らないと言ってしまった。

主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

 私たち人間には、望みがなくなるときもあるし、信仰がなくなる時だってあります。サタンにふるいにかけられて、もみ殻のように吹き飛ばされてしまうことがある。人間が自分の中に持っているものなんて、望みであれ、信仰であれ、そんなものです。「ただそれを持っているということだけで私は生きている」と自分では思っている望みも信仰も、サタンの手にかかればもみ殻のように儚いものなのです。そのことを知らされる時がある。自分の根底が根こそぎ取り払われてしまうような絶望の時がある。それは事実です。そういう私たちの事実を、イエス様は、でも、見つめておられる。そして、そういう惨めな私たちのために祈ってくださる。これもまた、動かし難い事実です。何よりも強い、決して動かされることのない事実です。

 わたしのために泣くな

 最後に「泣く」という言葉が出てくるのは十字架の場面です。そこで主イエスは、嘆き悲しむ婦人たちの方を振り向いてこう言われたのです。

「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分の子供たちのために泣け。人々が『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』という日が来る。」

 これもまた人間の望みがすべてふっとんでしまうような現実がくることを預言している言葉です。この場合の「エルサレム」とは、ただ単に一つの都を表すのではなく、世界を表す言葉でしょう。エルサレム、「神の平和」という意味を持つこの言葉は、羊飼いに現れた天使たちの賛美の中に出てくる「地の平和」という言葉に通じるものだからです。
 生まれたときには客間に居場所がなく、すぐに命を狙われ、そして、ついに神の平和が満ちているはずのエルサレムで十字架に磔にされて絶望の内に死ぬ以外に道がないイエス様は、しかし、この時に、十字架を見上げながら嘆き悲しむ女たちに向かって、「わたしのために泣くな」とおっしゃる。むしろ、サタンにふるいにかけられて殺し合いを続けてしまい、一切の平和を造りだせない人間の現実にこそ目を止めて泣け。自分たちの中には何の望みもないという人間の現実にこそ目を止めて泣け、とおっしゃっている。何故か?ただ、その現実を知って泣く人にしか、実は、喜びが、まことの平和、平安が与えられることはなく、賛美が与えられることもないからです。望みも信仰も、平和も賛美も、実は私たちの内にはないのです。それは絶えず外から来る。その現実を知ることが出来るのは、実は泣いている人間、涙も枯れ果てた人間なのです。だから、その人々は「幸い」なのです。主イエスと出会うのは、そういう人々だからです。

 悲しみの中の平安

 昨日、東京神学大学から学報が届きました。その中で、ある牧師が「21世紀の日本伝道を担う青年の集い」という集会で語った証しが掲載されています。その文章を少し引用します。

「教会には大きな試練を与えられている方たちがおられます。実家から小学四年生の少女が行方不明になっている方がおられます。四年前の五月、遠足から帰宅途中で消息が途絶えたままなのです。家出でも誘拐でも事故でもない。その少女はかき消されるようにこの世界の悪意の中に飲み込まれてしまい、ご家族の時間はその日から止まっています。その教会員は実家からの連絡を受けながらいつも祈っておられます。家族の中でクリスチャンはこの方だけなので、家族を代表して祈りの手をあげておられます。しかし、悲しみの大きさに、苦しさに精も根も尽き果てると、先生、祈ってくださいと教会に来られます。それからどうなりましたかと話を聴き、共に祈ります。詩編を読んで祈ることが多かった。わたしの内には言葉がないのです。身じろぎも出来ない。手を握って私が祈り、彼女が祈り、そうしたことを何回繰り返したでしょうか。ある日、祈りを終えたその方が、私を見つめて言いました。先生、わたしは悲しいけれども、平安です、と。悲しいけれども、平安!この言葉を耳にしたとき、わたしは膝が震えました。ああ、主は生きておられる。この姉妹を捉えておられる。そのことが分かりました。この状況の中で、平安ですと語ることの出来たことを、人間業ではなく、神業だと思いました。『たとえ死の陰の谷を歩むとも災いを恐れません。あなたが共にいてくださるからです。』という御言の真実を共に味わったのです。『いかに幸いなことか。主を避けどころとする者はすべて!』そう叫びたくなりました。こういう喜びは涙の味がします。しかし、艱難や労苦のない信仰の喜びはありません。
 すぐに解決するような問題は少なく、途方にくれ、自分の無力さを幾度知らされようとも、このように神の臨在に触れ、生かされる喜び、神の真実を間近に味わうのが伝道者の幸いではないでしょうか。」

 「神の臨在に触れ、生かされる喜び、神の真実を間近に味わう」のは、勿論、伝道者だけではありません。御心に適う人、すべてに平和が与えられる、平安が与えられると天使たちは大合唱しているのですから。主イエスが生まれたという事実、十字架に磔にされて殺された主イエスが甦って今も生きておられるという事実こそが、「民全体に与えられる大きな喜び」なのですから。そして、この喜びは、既に告げられているのです。涙の祈りの中に、その告知を聴くことが出来る人は幸いです。その人には平和が与えられます。

 最低と最高の逆転

 主イエスは、涙を流しつつ、死の陰の谷を歩み通されたお方です。だから、「もう泣かなくてもよい」と言うことが出来るのです。「恐れるな、ただ信じなさい。少女よ、起きなさい」と言うことが出来るのです。主イエスは復活される方だからです。人間の望みがなくなってしまう現実、信仰もなくなってしまう現実、ただ泣くしかない現実、涙も枯れ果てるような現実のすべてを味わい尽くして死に、甦られた方なのです。だから、今、泣いている者は幸いだ、と言える唯一のお方なのです。十二年間という長きに亘る絶望的な悲しみの中に衣の裾を触ることしか出来ない女も、このお方の力によって新たな力を得ることが出来ました。そして、自分に絶望して激しく泣くしかなかったペトロは、復活の主イエスに出会い、主イエスが天に上げられた時、祝福を受けました。その時、彼の涙は拭われて、彼は他の弟子たちと共に「大喜びで、エルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえた」のです。そして、この言葉がルカ福音書の最後の言葉なのです。そして、ペンテコステに聖霊を与えられた時には、「神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、あり得なかったのです。・・神はこのイエスを復活させられました。わたしたちは皆、そのことの証人です」と言って、神を賛美する人間に変えられました。
 主イエスと出会うとは、最低最悪の現実の中で起こることです。罪の闇に押しつぶされ、サタンにふるいにかけられ、自分の中にあった望みも信仰もなくなった時、実は、初めて私たちのために生まれ、私たちのために死に、私たちのために甦り、今も生きてくださっている救い主と出会う。そういう大逆転が起こる。その時、初めて、神が与えてくださる望み、神が与えてくださる信仰、神が与えてくださる喜び、その平和に生かされるのです。

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである。」

 私たちは今日、この御言を聴きました。本当に聴いた者は、大いなる喜びをもってこの御言を語り、生きる者に造り替えていただけるのです。なんと幸いなことでしょうか。ただただ主を賛美する以外にないことです。
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