「天に栄光 地に平和」

及川 信

ルカによる福音書 2章 8節〜14節

「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」



  「出来事となる言葉」

 先日、前回の「出来事となる言葉」という説教を読んでくださった方から、こういうお便りをいただきました。

「肉としては,悪意や(もっとつらいことに)善意による様々な言葉に不信を抱き,人を傷つけ,人に傷つけられている僕にも,“必ず出来事として実現する言”が与えられている事に今更のように気が付きました。“必ず出来事として実現する言!”,何と力強く,雄々しく望みに満ちていることでしょうか!
イエス様が来てくださったクリスマス,喜びで一杯です.“必ず出来事として実現する言”を未だ知らない人達とも,この喜びを分かち合いたい。」


 私たちは、本当に惨めな人間で、つまらないことで傷つけあって生きています。司式者の祈りにもありましたように、戦争がこの地上からなくなることはありません。多くの人間がこの世に平和と正義を確立するのだと言って、結果として争いになる。時にそれは殺し合いにもなる。ある人々にとっての平和は他の人々にとっては抑圧だし、ある人々にとっての正義は他の人々にとっての悪だからです。それは、私たちの職場や家庭や様々なサークルでも見られることです。もちろん、教会もその例外ではありません。様々な善意と悪意によって私たちは互いに傷つけあい、顔を見るのも嫌だと思い、顔を見ても挨拶すらしないこともあります。つまり、平和に暮らすことが出来ない。そういう現実が、地上には幾らでもある。本当に悲しく辛いことです。しかし、そういう惨めな現実、惨めな私たちの只中に、神の御子イエス・キリストが来てくださった。それは、古の預言者が語った言葉の実現です。神の言が出来事となったのです。

天使の讃美・説教

その出来事を、天使たちはこの世で最も惨めな境遇にあり、差別されていた羊飼いたちに向かって真っ先に告げ報せました。そして、その告知が終わった時に、天使の大軍が加わって、こう讃美しました。

「いと高き所には栄光、神にあれ、
地には平和、御心にかなう人にあれ。」


 今日は、この言葉に集中します。

 私はしばしば「これが分かればもう後はなにもいらない。しかし、これが分からなければ、その他のことの何を知っていても意味がない」ということを言います。宗教改革者のルターは、「この天使の歌がよく分かった者は、もうすべてが分かったのだ」と言ったそうです。私なりによく分かる気がします。これは天使の讃美です。ルターは、「牧師は説教を通して神を讃美し、会衆は神に讃美を捧げることを通して説教している」とも言いました。これもまた至言です。説教にしろ、讃美にしろ、神様の御心を知った時の喜びがなければ生まれてはきません。そして、天使とは神様のみそばで神に仕えつつ讃美を捧げている存在です。彼らこそ、神様の御心を最もよく知っているのです。その天使が、薄汚い家畜小屋の飼い葉桶に寝かされている赤ん坊の姿を指さしながら、喜びに満たされて「いと高き所には栄光、神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ」と讃美した。それは、同時に御言の説教でもあります。その言葉を聴いて、即座にベツレヘムに行き、すべてが天使の語った言葉どおりであったことを目撃した羊飼いたちは、天使と同じように、出来事となった神の言を人々に説教し、また神を讃美したのでした。

「御心にかなう」とは?

 しかし、この天使の讃美、あるいは説教は、実に単純なように見えて、実は不可解というか、どういう意味なんだろうかと考えざるを得ないこともまた事実です。
 皆さんは、どうお思いになるでしょうか?「いと高き所には栄光、神にあれ」は、まあ言葉の意味として分かるような気がしますけれど、「地には平和、御心に適う人にあれ」となりますと、御心に適わない人には平和がなくてもよいということになりはしないか?そういうことを天使は言っているのか?そもそも「御心」とは何か、「適う」とはどういうことか?「平和」とは?色々な問いが出てきます。今日は洗礼式があり、多くの方と聖餐も祝うので、時間が限られていますから、聖書の写本の違い、翻訳の違い、解釈の多様性などを紹介しつつの細かい議論は出来ません。
しかし、原文ではどうなっているかを見ないわけにはいきません。見てみると、この文章には実は動詞がありません。単語順に並べれば「栄光、いと高き所で、神に、地の上に平和、人々に、御心の」とある。ですから「あれ」とか「適う」とかいうのは意味のある文章にするために入れられたものです。先週も語りましたように、「あれ」「あるように」とは、「これからもあるように」という願望を意味すると同時に、「今既にあるのだ」という断言としても解釈できます。それは現在と未来という時間の中での出来事ですけれど、今日の箇所においては、それだけでなく、天と地という空間においても、天にある栄光が地にも到来しつつあることを意味していると私は思います。つまり、現在と未来が重なるように、天と地という空間も重なっている。そういう感じがします。
 そこで問題になることの一つは「御心に適う」と訳された言葉の意味です。この言葉はユードキアスというギリシャ語で、この言葉自体がユー「良い」「美しい」「幸いな」という意味の言葉と、ドキア「思い」「心」という二つの言葉から成り立っています。辞書を見ると、これまた面白いことに「善意」「喜び」「好意」「願望」「目的」「選択」と、色々な意味があるのです。これを「善意」と訳すとしても、その「善意」を人のものと解釈するか、神のものと解釈するかという問題があり、さらに「善意が」と主語として訳すのか、「善意の」と所有格で訳すのかという問題もあります。つまり、「神の善意が人々にあるように」とするか、「善意ある人々に平和があるように」とするかという問題です。また、ユードキアスを「善意」と訳すか、「喜び」「好意」と訳すか、それとも神に「選ばれた人」と訳すかなどなどの問題がある。
 私たちが礼拝で使用している新共同訳聖書では、「地には平和、御心に適う人にあれ」となっていますけれど、これまた微妙な訳です。新共同訳の場合は、ユードキアスを神のものとしていることは明らかだとは思います。しかし、その「御心」とは何かが分からないし、「神様の御心が人にあるように」なのか、「御心に適う人に平和があるように」なのか、その点がはっきりしない。そして、「御心に適う」とはどういうことか、また「平和」とは何であるか。

  『プレイス イン ザ ハート』

 こういう疑問を一つずつ解決するために議論を重ねていくことは、今日は出来ませんが、この問題について思い巡らしていた時に、随分前にビデオで観た映画を思い出しましたので、今日はその映画について少し語ります。もう二十年以上前に作られた『プレイス イン ザ ハート』(「心の中の場所」)という映画です。その映画の舞台は、一九三五年のアメリカ南部テキサス州の貧しい小さな村です。つまり、黒人差別の激しかった時代であり地域です。
礼拝を終えた人々が教会から出てくる場面から始まり、折々に礼拝堂と鐘楼で打たれる鐘の音が聞こえるショットが入るのですけれど、物語はこういうものです。
その村の保安官の一家が主人公です。彼らは敬虔なクリスチャンです。祈りをもって始まる家庭の食事中に、黒人が酒を飲んで暴れているので一緒に来て欲しいと同僚が呼びに来る。彼は、「すぐ帰るから」と妻に言い残して出かけます。現場に着いて見ると、彼にとっては顔見知りの黒人少年が、恐らく日常的な差別と貧困の憂さを晴らすために酒を飲んでへべれけになりながら宙に向かって銃を撃っている。保安官は、親しげに、「もう気が済んだだろ。さあ、こっちへおいで」と言いながら近づく。すると、「これで最後」と言って少年が酒瓶を放り投げて銃を二連発で撃とうとすると、二発目はカチっと音がするだけでした。保安官は、ああ弾がなくなったんだなと安心して近づく。少年もそう思っているので、ふざけて保安官の方に銃を向けて撃つふりをすると、もう一発だけ銃創に弾が入っていて、保安官の胸に命中してしまい、彼は死んでしまう。後には、幼い子供二人と家庭の主婦以外はなにもしたことがない母親が残される。そういう所から、この物語が始まります。
恐ろしいことに、その黒人少年は即座に白人たちによって殺されて、彼らが運転するトラックでその死体が引きずり回され、遺族の家の前にやってくるのです。その時代のアメリカでは、法の裁きの前に白人は黒人を殺すことが出来たということです。そして、その死体は木に吊り下げられてしまう。妻は、夫が死んで初めて家のローンがたくさん残っていることを知らされ、同じ教会の会員である銀行員から「家を売って、子供も親戚に預けて借金を返して欲しい」と言われてしまう。しかし、彼女は断固として、その提案を拒否して、自力でなんとかしようとするのですが、どうにもならない。そこに、物乞いや綿花作りなどの日雇いをしながら生活をしているモーセという名前の流れ者の黒人が住み込むことになり、彼が「裏の土地で綿を作れば金になる」と言うので、全く農業の経験がないのですけれど、放っておいた広大な土地を耕すことから始めます。また銀行員の弟で目の見えない男を下宿人として迎えて、家賃収入を得たりもする。そういう話と同時進行で、未亡人になった彼女の姉の夫が近所付き合いのある人妻と不倫をしているという話が絡まりますけれども、流れ者の黒人による指導と一家総出の死に物狂いの労働によって、その年の収穫一番乗りで賞金を得るまでになったのです。しかし、白人の未亡人が黒人を雇い、その黒人の指導で賞金まで得たことを面白く思っていない人々がいる。それは、普段は善良な市民であり教会員でもある白人たちです。彼らは、ある夜に、白頭巾と白いローブを着て(クークラックスクランという白人至上主義を唱える団体のしるし)をかぶって、黒人にリンチを加えに来る。しかし、目の見えない下宿人によって正体が暴かれてしまい、その日は立ち去っていくのですが、黒人に対しては「これで済んだと思うなよ」と言い残す。今度来た時には、リンチをした上で殺すということです。それが単なる脅しではないことを知っている彼は、悲しみの内にその日の夜のうちに去っていくことになります。未亡人は、引き止めることが出来ません。引き止めることは、彼が殺されることを意味するからです。また、姉の夫の不倫相手であり、そのことに悩んでいた人妻も、結局、妻の不倫を知らぬ夫がヒューストンに新たな職を得たことを契機にて、街を去っていくことになる。残されたのは夫が不倫をしていたことを知って、激しく傷つき、夫への愛も冷め切ってしまった妻と、自分のやったことを後悔しつつも、どうすることも出来ない夫です。
つまり、この映画に登場する人々は、人間社会の中で生きる様々な人々です。突然の不幸に打ちひしがれながら、子供への愛に必死に生きる人がおり、差別と貧困の中に絶えざる恐怖に脅えつつホームレスにならざるを得ない人がおり、障害をもって困難な生活をしている人がおり、善良な市民でありつつ妻を裏切っている人がおり、そのことで苦しむ人がおり、夜になると敵意と憎しみをむき出しにする人がいる。皆、普通の人間です。誰も彼もが精一杯に生きつつ、真実の愛で結ばれることが出来ない。皆が愛を求めつつ、自分でも知らない心の中のある場所に存在する暗闇に支配されて憎み合い、騙し合い、傷つけ合ってしまい、その傷を癒し合うことが出来ない。そういう人間、私たちと同じ人間です。
映画の最後の場面は、教会。それも礼拝の場面です。そこで、牧師が聖書を読みます。コリントの信徒への手紙一の十三章です。一般に「愛の讃歌」と呼ばれる箇所です。

「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。・・全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。・・・自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。・・信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」

 この言葉を夫の不倫によって崩壊寸前の夫婦が並んで座って聴いているのですが、妻が夫の手をしずかに握ります。そして、説教の後に聖餐式が始まり、皿に乗ったパンが配られます。牧師がイエス様の言葉を読みます。「取って、食べなさい。これはあなたがたのために裂かれたキリストの体です。」そして、ぶどう酒が配られる。「取って、飲みなさい。これはあなたがたのために流されたキリストの血潮です。」この言葉を聴きながら、会衆は皿からパンとぶどう酒を取り、隣に座る人に、その皿を渡していきます。その時、人々は隣の人に向かって「ピース オブ ゴット」「神の平和」と言う。不倫の夫が「神の平和」と言いながら、パンとぶどう酒を妻に渡す。そして、妻が食べ、飲むとまた隣の人に「ピース オブ ゴット」と言って皿を渡す。すると、不思議なことに、もうとっくに村を去ったはずの黒人が礼拝堂の中に座っている。そして、彼が、しばらく同居していた盲人にわたし、彼が父を失った子どもたちに、子どもたちが母に、そして彼女の隣には、銃で撃たれて死んでしまった保安官の夫が座っている。そしてその保安官の隣には、彼を銃で撃ってしまい、リンチで殺された少年が座っている。そして、恐らく夜になると白頭巾をかぶって黒人にリンチを加える善良な市民であり、教会員でもある人々も座っているのです。決して赦し合い、愛し合うことが出来ない彼らが、互いに「神の平和」と言いながら、主イエス・キリストの肉と血を分け合うのです。その時、天使の役回りである聖歌隊がこう歌っている。
「人知れず、神の子と分かち合うこの喜び。
その人の声のやさしさは心の中に響く。
その人を主と仰ぎ、私たちは共に喜びを分かち合う。
人知れず、この園で。」

 「この園」とはエデンの園の暗示であり、それは天国を象徴しています。その歌が地上の教会で歌われる。  

 地上の現実と十字架

現実には、「地に平和」などないのです。誰も神様の御心に適う生活なんてしていない。地上には不幸が満ち満ちており、争いや敵意、裏切りや恨みが満ち満ちている。悲しみがあり、涙があり、偽善がある。誰も善意なんてないし、喜びもない。このどこに神の御心が現れているのか分からない。そういう現実がある。
 しかし、けれども、だからこそ、神の御子はこの地上に生まれ、十字架の上で体が引き裂かれたんでしょう。この世の敵意、憎しみ、無関心の冷たい風にさらされつつ家畜小屋の飼い葉桶に布に包まって寝かされるほかなかった神の御子は、生涯、枕するところがない旅を続けつつ、神の愛を説き続け、人々から愛されなくても人々を愛し、憎まれても愛し、裏切られても愛し、そして、すべての人間の罪が赦されることを父なる神に祈り願いつつ、その体が引き裂かれつつ死んだのです。ここに「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える愛」、決して滅びることのない愛があるのです。この愛に生き抜く方が生まれた。天使は、そう告げている。この方が生まれ、そして、十字架で死に、甦って、こんな惨めな人間たちと一緒に生きてくださる。人間の心に語りかけ、その体と血を与えつつ生きてくださる。神の御心を行き抜く方が生まれた。ここに神の栄光、地の平和がある。そこに神の御心、喜びがある。そう讃美し、説教しているのです。
 私たちの心の中には、臭くて、醜くて、不潔な場所があります。あるいは、寂しくて、悲しくて、どうしようもない孤独の場所がある。真っ暗で臭くて不潔な家畜小屋の飼い葉桶のような場所が、心の中にある。だけれど、神様は、そういう場所を心の中に持っている私たちを愛してくださるのです。「汚いな、醜いな、臭いな、お前なんて嫌いだ!」とはおっしゃらない。「お前といるとこっちまで穢れる。あっちに行け」とはおっしゃらない。そうではなくて、「悲しいね、寂しいね、自分でも自分が嫌になるね。自分でも自分の心の中にあるその場所をどうすることも出来ないんだね。清めることも出来ないし、暖めることも出来ない。でも、喜びなさい。私はあなたのその心の中の醜い場所、寂しい場所に、私の独り子を送ったから。その子が、あなたの醜さ、汚れ、悲しみ、嘆き、そのすべてを私に伝えてくれる。そして、あなたと一緒に生きてくれる。清めてくれる。励ましてくれる。慰めてくれる。力づけてくれる。その子を信じて受け入れてくれれば、あなたは喜びと希望をもって生きていける。その信仰に生きることこそ、私の心、私の願いにかなうことなんだ。」そう語りかけてくださっているのです。

  洗礼

 今日、小池さんが洗礼を受けました。洗礼を受けるための資格は一つだけです。飼い葉桶の中に寝かされた方が、十字架にかかって死んだ方であり、その方が今も私たちと共に生きてくださる方であることを信じることです。人柄がよくなるとか、人格的に成長するとか、まして聖書やキリスト教に関する知識を身につけるなんてことはどうでもよいことです。私たちのための救い主が生まれた。今も生きてくださっている。そのことを信じて、喜びをもって天使と一緒に讃美できるかどうか、ただそれだけが問われる。小池さんは、去年の伝道礼拝に誘われ、溺れる者が藁をもすがるような思いで礼拝に来て、「あなたはどこにいるのか」というエデンの園で神がアダムに問いかけた御言を聴きました。それ以来、その問いかけから隠れることなく、欠かすことなく礼拝を守り続け、ついに、飼い葉桶のイエス様、十字架のイエス様、復活のイエス様が、自分の心の中の最も寂しい場所に来てくださったことを信じる信仰が与えられたのです。そして、ただその信仰の故に洗礼を受けて、今日、新しく天国の住民として登録されたのです。だから、小池さんは、今日から聖餐の食卓に与かります。

  聖餐

  この食卓こそ、平和の食卓です。私たちもまた映画に出てきた「善良な市民」です。そして、「教会員」です。不倫をし、偽善を繰り返し、夜には別人になり、傷つけ、傷つけられつつ生きる自分をどうすることも出来ない人間です。しかし、そういう私たちをどこまでもどこまでも愛し、赦し、「さあ、一緒に生きよう。私の命を捧げた愛を信じなさい」と語りかけてくださる主イエスがおられるのです。ただ、この方においてだけ、私たちは神様との交わりを持てます。そして、互いに愛し合えない私たちもまた、ただ主イエス・キリストを仲介として愛し合うことが出来る、赦しあうことが出来る。そして、そこにしか平和などありません。そして、その平和をもたらすことがお出来になるのは、独り子をさえ惜しまずにこの世に送り給うた神様以外にない。神様の栄光は、この食卓に現れるのだし、私たちが悔い改めと信仰と感謝をもってこの食卓に与かるときに現れるのです。だから、天におられる神の栄光はここに現れ、神の栄光を讃美する私たちには平和があるのです。そして、そこに御心が、私たちを愛して救おうとする神の御心が現れるのです。ただただ感謝し、御名を褒め称える以外にはありません。
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