「出来事となる言葉 U 」

及川 信

ルカによる福音書 2章21節〜24節

八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。



 「聖書を読む」ということ

 聖書を読む、それは神の言を読むということです。「神の言を読む」とは、その言葉に応答するかしないか、あるいは従うか背くかという態度決定が迫られるということです。今、「読む」と言いましたけれど、「聖書を読む」とは、実際には「神の言を聴く」「その語りかけを聴く」ということです。目の前の人から何かを語りかけられれば、応答するか無視するか拒絶するかしかありません。無視や拒絶もまた、一つの応答です。聖書を読むとは、目の前におられる神様が、またイエス様が今、自分に語りかけてくる。その語りかけに対してどう応えるのか、拒絶するのか、それとも従うのか、そういうことが問われるのです。よく「聖書を勉強する」という言葉が教会の中でも使われますし、聖書研究会というものもあるのですけれど、勉強であれ研究であれ、結局、そこで読んでいる言葉から神の言を聴き取り、その言葉にどう応答するのかに行き着かないとすれば、それは信仰とは無縁のことです。そして、教会で問われるべきことは、信仰だけです。

 神の言 人間との関り

 私は今日の説教を「出来事となる言葉(二)」と題しました。一回目は、クリスマスの前の週に語りましたが、その中で、神の言は必ず実現することを語りました。創世記に記されている神様の最初の言葉は「光あれ」です。神が「光あれ」とお語りになった。すると「光があった」。つまり、神の言=出来事なのです。
 しかし、創世記は天地創造の六日目に人間の創造に関して語ります。つまり、それ以前の御業は、すべて神様の独占的行為であり、神様はその言葉だけで御業をなしていかれるのですが、人間の創造以降は、ある面で、人間の業がそこに入ってくることになります。その点について長く語る時間はありませんが、神様はご自身に似せて人間を造り、その人間に被造物を支配し、従わせるという御業を託されたのです。それは、神に似せて造られた人間だけが、神との人格的な愛と信頼の関係を生き得る存在であることを意味しています。しかし、その人間は、神に似せて造られているが故に、自由意志をも持っており、その意志に従って行動することが出来ます。つまり、神の語りかけに従うことも出来るし、従わないことも出来るのです。その自由意志によって、人間は蛇の言葉に従うということをした。つまり、自らを神の位に押し上げようとし、結果として、神様との愛と信頼の関係を破壊し、自分自身の尊厳を破壊してしまい、神様の前には立つことが出来ず、人の前では隠し事をしながらでしか生きることが出来なくなってしまった。神に栄光を帰さず、自らに栄光を帰そうとする人間は、現実には栄光とは逆の、罪と死の滅びに堕ちてしまう。そういう現実を、創世記はその冒頭の物語は語っているのです。そして、「あなたは、どう思うか?」と問いかけている。以後の、旧約聖書の記述は、その人間がいかにすれば救われるか、神様との平和を得て、神に似たものとしての栄光の姿をいかにして取り戻すことが出来るかに関するものです。

 人間の服従

 今日の箇所は、マリアから生まれた子に対する命名とその子を主に献げる聖別の儀式が記されている箇所です。今日、最初に注目したいことは、ヨセフとマリアの服従という事柄です。ここで二人は天使から示されたとおりに、出産から八日目に子供に割礼を授け、イエスと名付けました。また、二二節から二四節までに、実に三回も出てくる「律法」に従って、彼らにとっての初めての子を主に献げる聖別の儀式をしたのです。天使の言葉も律法も神の言、その語りかけであることは言うまでもありません。ですから、ここでヨセフとマリアは、ひたすらに神の言に従っている。神に言われたとおりに生きている。その語りかけに服従をもって応答している。そのことによって、神の言が出来事となっているのです。つまり、神の言は、人間の服従とは無関係に実現する言葉であると同時に、人間の服従を通して実現していくものでもある。そういうことがここから知らされる一つのことです。そして、ここが最も深い問題なのですけれど、イエス様は、その人間の一人でありつつ、神であるお方です。この方を通してこそ、神の言は完全な形で実現していくのです。今日は、ルカ福音書の文脈に沿って、神の言の実現に関するメッセージを聴きとっていきたいと願っていますし、聴き取ったメッセージに応える者にされたいと願っています。それは、私たちの願いであるより先に、神様ご自身の願いです。

 割礼 聖別

 今日の箇所で問題になっているのは、「割礼」であり「聖別の儀式」です。この二つとも旧約聖書に記されていることですが、両者に共通することは「主に献げる」ということです。「割礼」を最初に受けたのはイスラエルの父祖であるアブラハムです。割礼は、神様と彼、また彼の子孫との永遠の契約のしるしです。割礼を受けることを通して、アブラハムの子孫は聖なる神の民として登録されるのです。そのことが、私たち新しいイスラエルである教会の洗礼に繋がっていることは言うまでもありません。
 聖別の儀式については、「律法の書」である出エジプト記や民数記の中に記されていますけれど、人間の子供に限らず、家畜であれ、農産物であれ、初めて生まれるもの、その年の初物は、すべて主に献げることになっています。つまり、命は主のものであることを承認する。それは、出エジプトの際に、神に逆らうエジプトの家に生まれたすべての初子が、神の裁きにあって死ぬという出来事が背景にあります。その恐るべき出来事を経て、イスラエルの民はエジプトを脱出するのですけれど、その時に、神はモーセにこうおっしゃいました。
「すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである。」
また、モーセは聖別の儀式に関して、子どもが質問してきたら、親はこう答えよ、と教えました。
「主はエジプトの国中の初子を、人の初子から家畜の初子まで、ことごとく撃たれた。それゆえわたしは、初めに胎を開く雄をすべて主に犠牲としてささげ、また、自分の息子のうち初子は、必ず贖うのである。」
 「贖う」とは他の動物を犠牲として捧げて、子どもの命は救うということです。これらの律法は何を言っているかと言うと、罪の値は死であり、同時に、神は罪を悔い改め、赦しを希いながら犠牲を捧げるならば、その罪を赦し、聖なる神の民として生かしてくださるということです。そして、犠牲を捧げるとは、自分自身を捧げることに他なりません。私たちが献げる献金もまた、献身の徴なのであって、会費納入とか聴講料というものとは本質的に違います。私たちの献金は、週報にも「奉献」と記されていますように、自らを神に捧げる献身の信仰の表明なのです。そして、その献身は、イエス様ご自身が、私たち聖なる者を聖別するために自らを十字架の上に犠牲として捧げて下さった献身に対する応答です。
 先ほども言いましたように、今日の箇所でヨセフとマリアは、すべて天使に言われたとおりに、また律法に記されている通りに、生まれた子をイエス(主は救い)と名付け、また初子を主に献げるために、贖いの犠牲をもってエルサレムの神殿にやって来ました。それは、初子を神に献げることですし、同時に自分自身を神に献げることです。マリアに関して言うならば、「お言葉通り、この身になりますように」という信仰の応答がここにあります。彼女は、その信仰において、イエス様をその体に受け入れ、そして、今は神に献げている。

 刺し貫く言葉

 そして、いよいよエルサレム神殿の境内に入って来た時に、「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」と聖霊によって告げられていたシメオンが、幼子のイエス様を見たとたんに、この子こそメシア(救い主)であることを直観し、神を賛美した上で、マリアにこう言ったのです。
「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

 前回の説教の中で、私は『プレイス イン ザ ハート』という映画の話をしました。「心の中の場所」という意味です。含蓄のある言葉です。私たちの心の中には様々な思いがあります。美しいものもあれば、醜いものもある。それは、光に照らされた時、白日の下にさらされた時、まさに「あらわにされる」ものです。聖書を読むということ、神の前に立つということ、それは光に照らされるという経験をすることです。そして、私たちの誰もが禁断の木の実を食べた罪人であり、心の中に、神のようになりたい、支配者になりたい、なんでもかんでも意のままにしたいという思いを持っている。その思いが、神を前にし、その語りかけを聴くときに、一気にあらわになってくる。そういう時があります。
 私たちの誰が、主イエスから「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」との語りかけに対して、完全なる服従をもって応えることが出来るのでしょうか?私たちは誰だって、「主よ、それは困ります。なにもそんなことまでしなくたってよいでしょう。礼拝は守ります。人を大切にします。それで充分でしょう?」と答えるに違いないと思うのです。「なんで命を捨てろなんておっしゃるんですか?あなたは、『私はあなたを愛している』とだけ言ってくれればいいんですよ。」これが、私たちの心の中にある思いです。敬虔なクリスチャンとは、大体がそういうものなのです。「主を愛して生きていく」と言っても、「主のためなら死ねる」と言っても、その言葉が出来事となることは滅多にありません。
 そういう私たちのような弟子や群衆に囲まれて、イエス様は、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」と嘆きつつも、弟子たちと共にエルサレムに向かっていかれます。生まれて八日目に割礼を受け、母の清めの期間が過ぎた時に、神に献げられるために両親に抱かれて行ったエルサレムに、自らを罪の贖いのために犠牲として献げるために向かって行かれるのです。そして、いよいよエルサレムにお入りになる時に、こうおっしゃいました。

「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」

そして、エルサレムの中で、最後の晩餐を弟子たちと共にした直後に、ペトロが「あなたと一緒なら死んでもよいと覚悟しています」と言ったことに対して、「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」とおっしゃり、その言葉は実現しました。そして、ペトロを初めとする弟子たちに、「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしに関ることは実現するからである」とおっしゃったのです。
主イエスは繰り返し、旧約聖書に記されている言葉、つまり、神の言はすべてご自身において「実現する」と、おっしゃっている。しかし、弟子たちには、「その言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解出来なかった」のです。

復活のイエスの言葉

 彼らの無理解と不信仰は続きます。彼らはイエス様が語られたとおりイエス様が十字架につけられる時には一人残らず逃げ去ってしまいました。さらに、その三日目の日曜日の朝、墓に行った婦人たちに天使たちが「イエスは生きておられる」と告げたのに、その言葉を信じることもなく、二人の弟子たちはエルサレムを離れ、彼らの故郷であると思うのですがエマオという村に帰ろうとした。しかし、本当に復活された主イエスは、彼らを追いかけて一緒に歩き始めて下さいました。しかし、彼らの「目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」。そういう彼らに、イエス様は「ああ、物分りが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」とおっしゃり、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された」のです。そして、エマオの村に入り、彼らの家で食卓についたとき、「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて」二人の弟子たちにお渡しになりました。その時、彼らの目が開けて、そこにおられるのがイエス様だと分かった。すると、その途端に、イエス様の姿が見えなくなりました。けれども、二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合い、再びエルサレムに帰り、復活の主イエスに出会ったペトロを初めとする弟子たちと熱く語り合っていた。
 そこに主イエスが現れ、彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と語りかけられました。そして、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
 こう言われてから、イエス様は弟子たちを祝福しつつ天に上げられていきました。弟子たちは喜びに満たされて、神殿の境内で絶えず「神をほめたたえていた。」これがこの福音書の最後の言葉です。

 言葉を理解するためには

このルカ福音書は、使徒言行録に続きます。使徒言行録にはエルサレムから始まってあらゆる国々にイエス様こそが罪の赦しを与えてくださるメシア、救い主であることが弟子たちや、復活の主イエスと出会ったパウロによって宣べ伝えられていく消息が書かれています。その「使徒言行録」はしばしば「聖霊言行録」とも呼ばれます。何故なら、弟子たちは、高い所からの力、聖霊に覆われなければ、イエス様こそメシア、罪の赦しを与えてくださる救い主であることを信じることも、宣べ伝えることも出来なかったからです。そして、そのことは、現代に生きる弟子であり、また世に遣わされる使徒でもある私たちにおいても全く同じです。
 私たちは、聖書を幾ら読んでも、心の目が閉じている限り、何にも分かりませんし、分からないのだから、信仰をもって応答しようもありません。まして、宣べ伝えることなど出来ない。しかし、聖書に記されている神の言が分かるということは、人間業ではなく、神の業、聖霊の業なのです。
 イエス様は、メシアは苦しみを経て「栄光に入る」、それが神の言の実現だとおっしゃいました。つまり、復活して天に上げられるということです。そして、地上に生きている弟子たちには「あなたがたに平和があるように」とおっしゃった。例によって動詞はなく、直訳すれば「平和、あなたがたに」です。「あなたがたに平和がある」とも訳せる。となると、先週の礼拝で聴いた天使の賛美あるいは説教、「天に栄光、神に。地に平和、御心にかなう人に」が、ここで実現していることになります。神は、その独り子を罪の贖いの犠牲として十字架につけて殺した上で復活させ、天に上げることを通してご自身の栄光を現し、また御子は、旧約聖書の律法と預言書に書かれている通り、犯罪人の一人として殺され、復活されることを通して栄光をお受けになり、その父と子の御業を信じる者に平和をお与えくださっているのです。それが福音です。しかし、その福音は聖霊を与えられることによって初めて信じることができ、聖霊を与えられることによって初めて宣べ伝えることが出来るようになるのです。

 聖霊による開示

 些か個人的なことになるのかもしれませんが、私は、ルカ福音書の二四章、エマオ途上の記事が大好きです。神様が許し、また命令されるならば、いつの日か、いずこの教会でか分かりませんが、ルカ福音書の説教をしたいと願っていますけれど、それはこの箇所の説教をしたいからです。しかし、この箇所は、説教をするというよりはひたすら読みたい、声に出して読みつつ聴きたいのです。そして、この箇所を本当に聴くためには、「モーセと預言者から始めて、聖書全体にわたり」イエス様について書かれていることをよく知っている必要があります。ですから、大変なことですし、それこそある意味では不可能なことなのですが、でも、そういうことを目指して歩んで行きたいと願っています。そして、この二四章で特に好きなのは、イエス様がパンを裂いて弟子たちにお渡しになった時に、彼らの目が開けて、目の前にいるのがイエス様だと分かった。すると、イエス様が見えなくなった。けれども、彼らがこう言うところです。

「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心が燃えていたではないか。」

 大学生になって信仰を与えられる前後に、この言葉を読んだときの感動を今でも忘れません。その時、聖書の言葉を読んで「心が燃える」とは、こういうことなのかと思いました。ここで「説明してくださった」とあります。これはディアノイゴウというギリシャ語で「完全に開く」という意味があります。「二人の目が開け」も、イエス様が聖書を悟らせるために彼らの「心の目を開き」も同じ言葉が使われています。聖書を読んでいても、心の目が開かれていなければ、そして、聖書が解き明かされていても、その解き明かしが主イエスご自身による解き明かしでないならば、心が燃えるということはありません。説教をする者として聖書を読んでいて、何が一番苦しいかと言うと、心が燃えないということです。勉強し、研究して、色々なことが分かってきても、一向に心が燃えない。そういう時があると言うか、毎週毎週、そういう時を過ごすのです。聖書を読み、色々なことが分かってきても、「それが、どうした。それが何だって言うんだ」という思いの中で悶々として何日も過ごす。そういう長い長い時間の中で、ある時に、突然主イエスがやってきて下さって(いやずっとそば近くにいて、語りかけてくださっていたのでしょうが、目が遮られ、心が閉じていて、主イエスを受け入れていないものだから気がつかなかったのでしょうけれど)、「ああ、物分りが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者よ」と言って、聖書全体から主イエスの十字架の姿と復活の姿を見せてくださる。そういう瞬間があります。その時に、御言が何を語っているのか分かる。畏怖と賛美が心の中で沸き起こってくる。そういう瞬間があります。
説教とは、その瞬間を捉えているか、いや、捉われているか否かにすべてが掛かっていると言ってもよいのだと思います。その瞬間が、説教を生み出し、そして、説教を聴く者にも、その瞬間がある時、その人の心は燃えるはずです。その時、肉眼で主の姿を見ることが出来なくても、心の目で、今生きておられる主がパンを裂いて渡してくださる姿を見ることが出来るし、私たちの真ん中に立って「平和があなたがたにある」とおっしゃってくださる姿とその言葉を聴くことが出来るのです。そして、それこそが神の業、聖霊の業です。だから、私たちは絶えず聖霊を求めるのです。説教前に捧げられる祈りに欠かすことが出来ないのは、聖霊の注ぎを求める祈りです。いと高い所からの力が、御言を語る者と聴く者を覆ってくださるようにという祈りです。この祈りこそ、御心にかなった祈りであり、この祈りが真実に献げられ、そして神に聞かれる時にのみ、つまり、聖霊が私たちを覆う時にのみ、「お言葉通りこの身になる」という出来事が起こるのだし、主のために生き、主のために死ぬという献身をすることが出来るのだし、その生と死を通して主の栄光を賛美し、私たちもまた御子の栄光に与かることが出来るのです。

神の言

私たちは、肉において生きていますから、「自分の欲する善を行わず、かえって悪を行ってしまう」という苦しみを抱えています。けれども、聖霊の導きを祈り求め、霊に従って歩むことが出来る時に、神はこの私たちを用いて全世界の救いのご計画を遂行してくださるのです。
パウロはローマの信徒に向けて、こう語りかけています。些か長いのですが、私は今日、この神の言をそのまま聴くことで、今年最後の礼拝としたいと願っていますので、読ませていただきます。

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。
 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。
しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。


これが、神の言です。祈ります。
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