「神がすべてにおいてすべてとなられるため 」
しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。 今日は、イースター礼拝です。イエス・キリストの復活を祝う礼拝です。キリスト教会はこの日に誕生したとも言えるのですから、私たちは自分たちの誕生祝をしているとも言えます。また、今日は幸いにも二人の方が洗礼を受けられました。キリストの十字架の死と復活が自分の罪の赦し、救いのためであることを信じる信仰を与えられ洗礼を受けるということは、イエス様の言葉にある通りに「水と霊とによって新たに生まれる」ことですから、今日の礼拝は、二人の方がキリスト者として誕生する礼拝でもあります。古代教会においては、イースター礼拝で洗礼式を執行することが慣わしでした。今日は、この二人を招き続けてきた主イエスがおられる天上の喜びは実に大きなものですし、それはまた地上の教会に生きる私たちにとっても真に大きな喜びです。そして、今日は聖餐の食卓に与る聖餐礼拝の日でもあります。私たちは、この聖餐に与ることを通して、主の十字架の死と復活の恵みを新たにされ、罪の赦しと新しい命を与えられます。そして、洗礼を授けることと聖餐を守り祝うことの二つは、主イエス・キリストご自身が弟子たちに、つまり教会に託された業です。私たちはこの二つのことをサクラメント、聖礼典と呼んで最も大事なものとして受け止めています。復活の主イエスは、弟子たちに「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と命ぜられましたし、最後の晩餐の時は「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と命ぜられました。福音の宣教によって洗礼者を生み出すこと、そして、それは聖餐の食卓に共につく者を生み出すことです。それこそが、教会に託された使命なのです。今日、私たちはその主イエス・キリストの命令によって与えられた使命を果たすことが出来ますことを心から主に感謝したいと思います。 今日の礼拝の開会において讃美歌461番、「主我を愛す」を歌いました。私は大好きな歌ですが、教会学校に通った経験のある方なら誰もが幼い頃から口に馴染んだ歌だと思います。讃美歌五四年版には「児童」という分類になっているもので、どうも礼拝の中で歌いにくいなと思いつつ、私は年に一回幼児祝福式の時には歌うようにしてきました。しかし、今日洗礼を受けた村田恵美さんが「幼稚園の時から、あの讃美歌が大好きだ。出来たら自分が洗礼を受ける礼拝で歌いたい」とおっしゃったので、喜んで選ばせて頂きました。そして、改めてこの讃美歌の歌詞を読んでみますと、イースター礼拝にも実に相応しいことがよく分かって、これまた嬉しくなりました。また、森西利会さんも先日「わたしの信仰と生活」を提出してくださって、その中に愛唱讃美歌として546番を上げておられました。これもまた私には嬉しいことでした。この歌は、私たちは礼拝を捧げるたびに歌っている「讃詠」です。これは神様の具体的な御業を感謝し讃美するというよりも、「昔いまし、今いまし、永久にいます父子聖霊なる三位一体の神」を、神が神であられるが故に、神がすべてにおいてすべてであるが故に讃美する。そういう歌です。何々をしてくれたから感謝するではなく、神が神様として生きてくださっている。そのことを感謝し、讃美するのです。森西さんは、受洗志願者試問会の中で、中渋谷教会の礼拝に通うようになってから知らされた大事なことをいくつかあげ、その一番目にあげられたのが、「神様は、天地創造以来、イエス・キリスト様が地上にいらっしゃった時代からずっといらっしゃり、今もいらっしゃり、永遠にいらっしゃる。そういう神様を誉め讃えること」です。まさにその通りなのです。教会は、この讃美を、天上の教会と共に讃美しつつ歩む信仰者の群れなのです。その群れに今日二人の姉妹が加わったのです。 洗礼を受けるとは、他の言い方をすると、「キリストの体に結ばれる」ことです。キリストの体の一部になることです。キリストの体に属するということ。あるいは、キリストという葡萄の木の一本の枝になることです。体とか木と言っても死体もあれば枯れ木もあるのですけれど、洗礼を受けて連なる体、あるいは木は、永久に生きてい給うイエス・キリストご自身です。我が罪のため、栄を捨てて、天よりくだり、十字架についてくださったイエス・キリスト、そのようにまでして私たちを愛してくださったイエス様が、死の力を打ち破って甦り、今も生きておられ、御国の門を開いて、私たちを招いていて下さっているのです。地上の教会はまさに天国への門です。狭い門です。私たちは恵みによって、キリストの体なる教会の礼拝に招かれて、礼拝の中で読まれ、また説き明かされる御言を通して、今に生きるキリストの招きを聞くことが出来、そして、聖霊の導きの中で信じることが出来、「イエスは主である」と告白をして、洗礼を授けて頂き、キリストに属する者として頂いたキリスト者です。「イエスは主である」とは、「イエス様は、私たちの罪のために十字架に掛かって死に、三日目に甦り、天に昇り、今もすべての支配、すべての権威や勢力と戦い続け、終わりの日には最後の敵である死を滅ぼしてキリストに属する私たちを復活させてくださるお方です」という意味です。信仰を持たない人間にとっては、今言ったようなことは、まさに絵空事、空想に過ぎないことです。信仰を持たなかった時の私たちもそう思っていました。しかし、聖霊によって信仰を与えられている今は、聖書に記されていることこそが、実はリアルな現実であることを知っているのです。 アダムの時から、肉体の死はあります。アダムは永遠に肉体をもって生きる存在として創造されたと聖書に記されているわけではありません。塵から造られたから塵に帰るという面は最初から持っているのです。パウロが、「アダムによってすべての人が死ぬことになった」と言う場合、それは神に背く罪による死のことを言っているのです。そして、「アダムによって」とありますけれど、これは「アダムにあって」と訳したほうがあるいはよいかもしれません。アダムに属する者は罪に属し、肉体が生きている時も罪に対する死が約束されている。死に覆われている。それが「アダムにある」とうことです。しかし、キリストにある者、キリストに属する者は命に属し、肉体が生きている今既に永遠の命が与えられ、復活が約束されていることを意味するからです。問題は、誰に属するかなのです。誰と繋がっているか、誰と結ばれているかです。時代の流れの中ですべては移り変わり滅んでいくほかにないこの世に属するのか、昔いまし、今いまし、永久にいます主イエス・キリストに属するのかです。それが問題なのです。 最初の人類アダム(これは固有名詞ではなく、男でも女でもない最初の人類という意味でのアダムですけれど)、彼は土の塵から造られました。しかし、神様によって鼻から息を吹きいれられた時に「生きた者となった」と記されています。つまり、神様からの命の息、聖霊を吹き入れられ、その霊において神様との交わりの中に生きる時に、人は神様から与えられている霊的な命を生きる者とされるのです。しかし、私たちは誰でもアダムであり、その背きの罪によって、神との交わりを自ら破壊してしまいます。その時、霊的な命は死に、肉体の命もまた裁きの中に死ぬことになってしまった。それが「死が一人の人によって来た」ということであり、その一人の人であるアダムとの繋がりの中に生きている限り、人は誰でも霊の命において死んでいるということです。肉体の命が生きていても、既に死んでいるのです。 私たちが現在読み進めているヨハネ福音書に記されているように、イエス様の言葉を信じることが出来なかった弟子たちは、まさに生ける屍のようになりました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」という言葉を理解も出来ず、信じることも出来ず、結局、肉体の死を恐れてイエス様を裏切り、背いてしまった時の弟子たちは、まさにただ肉体が生きているだけでした。そして、生きていると言っても、そこにあるのは死の恐怖だけなのです。既に死の闇に覆われている、裁きとしての死が待っているだけなのです。そういう弟子たちが集まっている真っ暗な部屋に、復活のイエス様が現れ、「平和があるように」との言葉と共に与えてくださったのが聖霊です。その聖霊こそ、彼らの罪の赦しを与える聖霊であり、それは同時に彼らに新しい命を与える命の息でした。この息を注がれる、その息を吸い込むことを通して、彼らは新たな命を与えられ、最早死を恐れることなく、イエス・キリストは主であることを大胆に告白し、その生と死を通して、主を讃美するようになったのです。ここに教会の誕生があるのです。死を打ち破って復活し、永久に生き、そして御国を完成してくださる主イエス・キリストに信仰によって属する者たちは、この聖霊の注ぎの中で、信仰の告白と讃美を、喜びをもって捧げつつ永遠に生きることが出来る者なのです。 パウロが、この先の一五章五〇節以下で語っていますように、私たちの肉体は朽ちるものです。しかし、終わりの日に、私たち主イエス・キリストに結ばれている者たちとして、朽ちないものに変えられます。肉体が肉体としてもう一度蘇生するのではなく、キリストの復活に、その栄光に与るのです。五四節以下には、こうあります。 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。 「死は勝利にのみ込まれた。 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。 死よ、お前のとげはどこにあるのか。」 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。 主に結ばれているならば、自分たちの苦労は決して無駄にならない。問題は、主に結ばれていることです。十字架の主イエス・キリスト、復活の主イエス・キリストへの愛と信仰に生きているかどうか、それだけが問題なのです。その愛と信仰において、私たちは主が私たちを愛してくださっていること、主我を愛すことを知ることが出来るのだし、その主は万物を支配下において、ついに神がすべてにおいてすべてとなられる救いの完成をもたらしてくださる全能の主であることを知ることが出来るのだし、その主が私たちを御国へと招いてくださっていることを知ることが出来ます。そのことを知ることが出来る時、私たちはまさに弱い者ですけれど、「我弱くとも、主は強ければ」恐れることはないし、いつも罪の汚れからの清めを祈りつつ、主の業に励むことが出来るのです。信仰に生きることが出来る、讃美に生きることが出来る。そしてそれは、決して無駄になることはないのです。 これから、私たちは賛美歌154番を歌います。 「地よ声たかく 告げ知らせよ 今日イエス君は よみがえれり いのちの君は あまつ国に われらを召して 入れたまえり とこよのひかり てりかがやく みくらにいます 君をあおがん あめより洩るる かちうたにぞ 地なるわれらも 声をあわせん あめよ 喜べ 土よ うたえ ものみなともに ほめたたえよ イエス君今日ぞ よみがえれる ああかぎりなき さかえの日よ」 「神がすべてにおいてすべてとなられる」とは究極の出来事です。その究極の出来事が起こると宣言することは、究極の讃美です。「ものみな共にほめたたえる」べき神とは、主イエスを復活させ、死に勝利をされた神です。その勝利はもう既に天上では讃美されているのです。天には主イエス・キリストと父なる神様に捧げる勝ち歌が既に天においては満ち溢れているのです。私たちキリストに結ばれた者たちは、その天から洩れてくる勝ち歌に声をあわせて讃美できるのです。これから聖餐に与ります。その時、私たちは毎回讃美歌205番を歌います。その4節はこういう詞です。「おもかげ映し偲ぶ、今日だに、かくもあるを、御国にて祝う日の、その幸や、いかにあらん」。私たちは今や天の面影、御救いに入れられる情景をはるかに望み見ることが出来るキリスト者です。そして、大いなる望みを持って生きることが出来る。こんなことは信仰を与えられていなかった時には考えられないことです。少なくとも私にとっては、生きることは本当に空しいものでしたから。本当に有り難いことです。今は、神様がすべてにおいてすべてとなられることが明らかになる日を確信して讃美できるのです。これがイースターの喜び、洗礼を受けた喜び、新しく生まれ変わり、永遠の命に生かされている者たちの喜びなのです。 パウロは、ローマの信徒への手紙の中では同じことをこのように言っています。これもまた実に美しく力強い讃美です。 ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。 「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。 だれが主の相談相手であっただろうか。 だれがまず主に与えて、 その報いを受けるであろうか。」 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。 私たち一人一人は、この「すべてのもの」の中の一人一人です。神から出て、神によって保たれ、神に向かっている一人一人です。そして、今はまだそのことを知らずに生きている一人一人も、いつの日か、必ず、そのことを知り「栄光が神に永遠にありますように、アーメン」と主を讃美する日が来るのです。私たちは、その主の勝利の日を確信して、今日からの歩みを讃美をもって始めて行きたいと思います。 |