「明日のことまで思い悩むな 」

及川 信

マタイによる福音書6章25節〜34節
「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

人間にとっての幸せ?必要?


 今日の礼拝は、特別伝道礼拝として捧げています。チラシや葉書きに礼拝へのお招きの言葉を書きましたが、それはこういうものです。
「今の日本の社会は様々な不安を抱えています。経済的格差が広がり、年金、保険の点でも将来への不安を抱えています。しかし、たとえ有り余る富があったとしても、それが人間にとって本当の必要なのか、また富が幸せの源なのか?という問題もあります。人間にとって本当に必要なもの、人間の本当の幸せ、それは何なのか。イエス・キリストの言葉に耳を傾けたいと思います。どなたでもご出席ください。お待ちしています。」
 この文章を書いたのは五月の初めでした。その時は、派遣社員の不安定な労働条件やガソリンを初めとする物価の高騰とか、経済の先行きが見えない状況の中に生きる私たちにとって、本当の「必要」と「幸せ」は何かについてイエス様の御言に耳を傾けたいと思っていました。

予想を越える出来事

しかし、先週、秋葉原でまさに格差社会の中で「世の中が嫌になった」という一人の青年が悲惨な事件を起こしました。ちょうど私たちがこの礼拝堂で礼拝を捧げている時刻に、彼は渋谷駅の脇を通る国道二四六号線を通っていたわけです。私たちは、今、毎週ヨハネ福音書に記されているイエス様の言葉を読んでいます。そこでイエス様が「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。わたしにはこの囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」とおっしゃっています。そして、私たちイエス・キリスト者は命を捨てるほど愛してくださる羊飼いがいることを信じているのです。つまり、十字架に磔にされて死に、三日後に甦り今も天地を貫く神の国の王として生きておられるイエス・キリストに愛されていることを信じている。イエス・キリストに、そのような愛で愛されていると信じることが出来る時、私たちはどんな境遇にあっても喜びをもって生きていくことができます。「その喜びを一人でも多くの人に伝えるために、一五日の特別伝道礼拝に向けて祈りつつ準備しましょう。」私が、そういうことを語っているまさにその時に、事件の容疑者は、殺伐たる思いを秘めつつ、この教会のすぐ側を通り過ぎていったのです。
皆さんも同様だと思いますが、私は、先週の午後に報道によってそのことを知らされて以来、ずっとその事件のことで心が重くなっています。この人に「良い羊飼い」の愛を伝える人がいなかったという事実、私たち牧師を初めキリストを信じる誰もこの人に出会わず、その心の声を聞かず、その心にキリストの声を聞かせる人がいなかったという事実があると思います。それは、イエス様に対して何とも申し訳ないことです。そして、この人によって殺されてしまった人々とその家族や親しい方々の悲しみ、嘆き、怒り、憎しみを思う時、まさに言葉を失います。

何があったのか?

 こういう問題について語ることには慎重でありたいと思いますし、そうであるべきだと思います。しかし、やはりこの事件とその背景にある人間の問題、あるいは社会の問題を抜きに、下手をすると、そこから逃避するために「明日のことまで思い悩むな」という御言を聴くことは出来ないと思います。そこで、新聞テレビで報道されている範囲で知り得ることに関して、思うことを少し語らせていただきたいと思います。
 彼は、携帯電話の掲示板に毎日何度も言葉を書き記していました。そして、そのこと自体はネット社会に生きる今の若い人たちの間では必ずしも珍しいことではないようです。しかし、やはり「『友達できない』不細工に人権なし『彼女できない』」という表題に込められた彼の悲しみと怒りの深さは尋常ではないと思います。若者に限らず、多くの人が心の奥底に孤独の悲しみを抱えている。それは事実です。そして、その孤独が悲しみや怒りを培っていく。そういうことがあります。
彼の場合は、幼い頃から教育熱心な親の下で育てられ、親が書いた作文で賞を取り、親が描いた絵で賞を取るという虚栄で塗り固められ、親の操り人形として「よい子」を演じさせられ、親の能力が及ばなくなった時には、親から捨てられる。そして、それと時を同じくして、エリートの中で平凡な人間でしかない自分を知らされていく。そのやり切れない挫折感を親への暴力として訴えていくけれども、親そのものがその頃から不和になり、別居状態も始まる。そうなると、自分自身を受け止めてくれる存在がいないまま、挫折感を抱えつつ、激しい競争と格差が剥き出しになっている社会の中に出て行くしかありません。そして、家庭の中でも、学校の中でも、社会の中でも、弱く寂しい自分を表現することが出来なくなり、時折表現しても「死ぬ気になればなんだって出来る。お前が出来ないのは、死ぬ気になっていないからだ」と言われて、結局、「すべて悪いのは自分だ!」という気分になる。友達も彼女も出来ず、自分を肯定してくれる存在がいない。自分の内面を本当に深い所で知っていてくれる存在がいない。親も能力だけを求め、社会は誰でも出来る単純作業だけを求め、その報酬は低賃金であり、景気次第でいつでも解雇される。自分の命は「ゴミ以下」だとしか思えない。そういう屈辱、恥辱の中で、次第に他人の命もゴミのようにしか見えなくなる。そして、他人を自分の命を抹殺する巻き添えにしたいという欲求が抑えられなくなる。そして、死ぬ前に一瞬だけでも、世の注目を一身に浴びる汚れたヒーローを演じてみたい。それが夢となる。

彼は特別なのか?

 彼が残した書き込みの文章を読み、報道される範囲での経歴や境遇を見ていると、今言ったようなことが彼の中に起こっていたのかもしれないと、私は思いました。そして、私自身は、もちろん、彼とは全く違う環境で生まれ育ちましたし、全く違う生き方をしているとは思いますけれど、なんだか他人事ではない感じをもっています。「自分のことを知って欲しい、受け容れて欲しい。惨めな自分、裸のままで蹲っているような惨めな幼子のような自分、どう生きていったらよいかも分からず、死ねないから生きているだけのこの自分の状態を、誰かに知ってもらいたい。そうでないと、自分は生きていけない。」そういう思いを抱えつつ、自暴自棄になったり、妙に破壊的、破滅的な思考に囚われてしまう。そういうことは、レベルは全く違うにせよ、私にもよくあったからです。そして、イエス様との出会いがなければ、その言葉を読み、あるいはその声を聴くことがなければ、人間は誰だって何らかの意味で自暴自棄、投げやりになって、死ねないから生きているということになると思います。
 私たちの社会には、そういう悲しみや怒りを内に秘めた人々がたくさん生きているのでしょうし、そのことに対して、私たちは何ら有効な手を打つことが出来ません。ナイフの販売に対する規制強化とかネットを監視する態勢を強化するということも大事なことに違いないと思います。しかし、人間が心の中に抱え持つ悲しみや怒り、そして絶望がどうにかされない限り、人間は何らかの意味で、自己破壊か他者破壊に向かわざるを得ないのですから、そういう規正や監視を強化することが根本的な対策になるはずもありません。

人の世の不条理、理不尽

 また、その一方で、事件の被害者の方々のことを考えざるを得ません。加害者も、世の中は不条理だと思い、理不尽なものだと思っているでしょう。自分以外の人間は皆幸せで、将来に希望を持って生きていると独りで勝手に思い込んでいる。そして、それが悔しくて仕方ないのかもしれません。そして、今回犠牲になった人たちの多くは正に将来に希望をもった青年たちです。葬儀にもたくさんの友人たちが集まり、その死に涙してくれる人がたくさんいるのです。そして、一瞬にしてわが子を殺された親や兄弟姉妹たちがいる。その人たちにとって、今の現実は、どう受け止めたらよいのか分からぬ苦しみと悲しみ、絶望に満ちたものだと思います。まさに不条理であり、理不尽な現実がここにあります。
この世における不条理、理不尽な現実を人間はどのように受け止め、理解することが出来るのか?神はあまりに不公平なのではないか?これは私たち人間にとって永遠の問いだと思います。
もう何年も前に『五体不満足』という本を乙武洋匡(おとたけひろただ)という人が書きました。先天性四肢切断(生まれながらに両手両足がない障害)という重い障害を持って生まれた方です。その方の本で多くの人が非常な驚きをもって読んだのが、生後一ヶ月にして初めて母親が両手両足がない自分の息子と対面した時に一言、「かわいい」と言ったということです。これは状況を考えれば、奇跡のような一言です。ある評者は、「そこには一種の神話がある」と書いています。「生後一ヶ月の男の子が、その言葉を聞いて覚えているはずもなく、この時の出来事は、この後ずっと乙武さんに語られ続けてきたのだから」と。そして、「乙武さんの強い自己肯定感は、この母親を初めとする周囲の肯定に支えられている」と言った上で最後にこう締め括っています。
「しかし、と考える。『かわいい』と言ってくれる両親がいなかったらどうなるのか。世の中には、むしろそんな人の方が多いのではないかと。この問題の解決は、むろんこの著者の課題ではないにしても。」
こうなりますと、障害をもって生まれたことそのものが不条理、理不尽なのではなく、そういう重い障害をもって生まれてきた子どもの存在を丸ごと愛すべき存在として受け容れてくれる存在がいるのかどうかが、障害が不条理と理不尽さを表す現実なのかどうかを分けていくということになります。
ある障害者の方が、「障害者は『五体不満足』に満足するか」という文章の中で「私は満足できない」と書いています。何故なら、乙武さんが持っている自己肯定感は、家庭環境が経済的にも人柄的にも恵まれているから持てるものであって、もしそうでなければ、彼はこんなにも自分を肯定することなど出来るはずがない。現実の社会は差別に満ちていて、とても障害者が自分を肯定など出来るはずないのだというのです。
 徹底的に自己否定感を持っている秋葉原の事件の加害者のことを含めて考えても一つ言えることは、人はそれが健常者であれ、障害者であれ、他者との関りの中で生きているということです。その関り、交わりの中で、自分の存在が他者から受け容れられる時、人は自分の存在を肯定することが出来る。しかし、他者から受け容れられない時、「かわいい」と言ってもらえない時、「私はあなたが生まれてきてくれて嬉しい。あなたが生きていてくれて嬉しい。あなたを愛している」と言ってもらえない時、人は誰であっても自分の存在を受け容れることが出来ない、肯定出来ない、否定せざるを得ないということです。人は否定されながら生きることは出来ないのです。

神は何をしているのか?

 先週の事件が起こる前に、私はたまたま目にした一冊の本を少しだけ読み始めていました。まだ読み終わっていませんが、それは『なぜ、私だけが苦しむのか』という題の本です。これはクシュナーという名前のユダヤ教のシナゴーグのラビ、キリスト教で言うならば教会の牧師が書いた本です。この方のお子さんは、生まれながらに早老症という病気にかかっており、幼くして老人のような顔立ちになって行き、少年時代に老化によって死ぬことが決まっているという恐るべき病です。世の中には、こういう運命を担って生まれてくる人がいます。
 少し、この本の引用をします。
「なぜ、善良な人が不幸に見舞われるのか?・・・
もし神が存在するのなら、愛だの赦しだのという以前に、ほんの僅かでも公平を弁える神が存在するのならば、なぜ、私をこんな目にあわせるのでしょうか。もし仮に、私自身が気付いていないだけで、怠惰や高慢の罪が私にあり、それに対する罰だとしても、なぜそれをアーロン(息子)が受けなければならないのでしょうか。彼は無邪気で、幸福で活発な三歳の子供でした。その彼がどうして、毎日毎日、肉体的にも精神的にも苦しみ続けなければならないのでしょうか。なぜ、行く先々でじろじろ見られたり、指をさされたりしなければならないのでしょう?同じ年頃の少年少女たちがデートをしはじめる頃になれば、自分は決して結婚することも父親になることもないという現実を突きつけられる。そのような運命をどうして背負わなければならないのでしょうか?とても納得できません。」

 この方は、その後旧約聖書に出てくるヨブという人物について論じて行きます。彼もまた謂れのない苦難を受けて、神の正義を激しく問う人物だからです。神は公平なのか、神は正義なのか、そして愛の神なのか?もし、そうであるとすれば、この現実をどう理解したらよいのか?あまりに不公平な、そして理不尽なこの現実を。  つまり、ここでの問題は、自分の存在を受け容れてくれる他者は、人だけではない。人だけでは十分ではないということです。人の命を造り、生かしている神が、その人の全存在をどのような意味で受け容れ、そして肯定してくださるのかが分からない時、人は自分の境遇を受け容れることが出来ず、自分を肯定することが出来ないのです。神と出会い、その神を信じている人間にとっては、そういうことが起こります。しかし、その神が、病にしろ、障害にしろ、殺人にしろ、貧困にしろ、この世に蔓延する様々な現実に対して、一体、どういう関りを持っているのか、それが分からない。そこに私たちの苛立ちがあります。「明日のことまで思い悩むな。神の国とその義を求めよ」と言われても、その神の国と義とは何なのか。それが分からない。

憎しみは当然だが・・・

 私は先週の事件の報道の中で、被害者のご家族の言葉、「犯人を絶対に許せない」「憎しみが深まっている」という極めて当たり前の言葉を聞く度に、数年前に親しくしている娘さんが言った言葉を思い出します。
たまたま家で一緒にテレビのニュースを見ていたら、やはり殺人事件の報道があって、被害者のご家族が、犯人への激しい憎しみを口にしていました。その時、その娘さんは、突然、ボロボロと涙をこぼしながらこう言ったのです。
「わたしが、こんな風に殺されても、わたしの親がこんな憎しみをもって生きて欲しくない。わたしが死んだことを悲しんでくれるのは嬉しいけれど、わたしが死んだことで、親が憎しみを抱えて生きているなんて悲しすぎる。わたしは神様に天国に入れていただけるんだし、残った家族は、人を憎んで生きて欲しくない。」

 私は、茫然とする思いでその言葉を聞きました。そして、その時も言葉を失いました。そして、やはり読むたびに茫然とする思いになる聖書の言葉を思い出しました。

神の国と神の義とは?

 それは、ルカによる福音書に出てくるイエス・キリストの言葉です。イエス様は、人々を愛して生きた方です。本当に心から愛して来られたのです。でも、その愛は、すべての人を愛する愛でした。世の中で嫌われ、排除される人々をも愛する愛でした。犯罪者、売春婦、民族の裏切り者、道徳的宗教的な意味での罪人たちをも愛して来られたのです。世間の立派な人たち、いわゆるエリートや勝ち組の庶民からはゴミのように扱われていた人々のことも、イエス様は公平に愛して来られたのです。「この人々もまた神様がその命を造った神の子なんだから、父なる神様が愛しておられる。その愛を、私は伝えに来たのだ」とおっしゃって、実際にそういう人々を訪ね歩いて、「わたしはあなたを愛しているよ。あなたが生きていてくれて私は嬉しいよ。野の花を見なさい。空の鳥を見なさい。彼らは、この世的な意味で価値のある働きなんかなにもしていない。だけれど、この世の最大の勝ち組であるソロモン王よりも、神様は大事にしているじゃないか。あなたたちのことは尚更だ。あなたたちは人間なんだから。元々、神様に似せて造られた人間なんだ。神様の愛があなたたちには与えられている。神様の命があなたたちには与えられているんだ。そのことに気付いて欲しい。わたしは、あなたたちのためなら、自分の命を捨ててもよいと思っている。いや、実際に捨てるんだ。あなたたちが、神様に愛されていることを知るために。この私の愛を信じて欲しい。そうすれば、あなたはどんな境遇、どんな状況の中にあっても、喜びをもって生きていけるはずだ」と語りかけ続けてくださったのです。そして、誰も手を触れない伝染病の人の患部に手で触れて癒してくださったし、足が悪くて立てない人を立たせ、目の見えない人の目を見えるようにしてくださったのです。そして、誰からも相手にされない人々と食事を共にしてくださったのです。それはすべて、当時の社会にあっては、神に見捨てられた罪人として社会の最底辺に捨てられていた人々を、神に愛されている神の子として引き上げる神の業でした。そこに神の国の義が現れているのです。でも、神の国とその義は、この世の国の正義とは、実は真っ向から対立するものなのです。その結果、イエス様は犯罪者として処刑されることになったのです。
 その十字架の場面を読みます。

ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」


 自分を殺す人を憎まない人がここにいる。憎まないどころか、その罪の赦しを願っている人がいる。自分が殺されることが、殺す人々に対する神の裁きなのだから、私が代わりに裁きを受けるのだから、どうぞ彼らを赦してあげてください。そう祈りつつ死んでいく人がいる。そして、そこにイエス・キリストの父なる神の愛が現れている。この父親は、自分の子供が無残にも殺される被害者です。でも、自分の子供を殺す人間を、それでも愛している。いや、自分の子の死を通して、その愛を与えようとしている。私は、この言葉の意味が初めて分かった時、まさに言葉を失いました。茫然として沈黙するしかありませんでした。

人の裁きと神の裁き

 そして、このイエス・キリストの隣には強盗とか殺人とかテロを実行した犯罪者が処刑されているのです。彼らはまさに「自分のやったことの報いを受けている」のです。彼らによって殺された人の家族はもちろん、世の中の誰も彼もが、彼らの死刑を望んでおり、恐らく家族でさえも、「この恥さらし者が、さっさと死んでお詫びをしろ」と思っている。そういう人々です。その犯罪者の一人は、十字架の下にいる人々と同じくイエス様を嘲り、罵りました。しかし、もう一人は、イエス様の姿を見、その言葉を聞いて、ここに罪がないのに罪人として処刑されている人、そして、自分を嘲りつつ処刑している人々を憎むことも呪うこともなく、すべての罪の赦しを祈りつつ死んでいく人がいることを知りました。そして、その死を通して人々に神の国に生きる道を開こうとしてくださっている人がいることを信じたのです。そして、こう言った。

「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、わたしを思い出してください。」

 イエス様が御自分の死を通して、生死を貫いた神の国の王となるその日には、人を殺すという犯罪を犯してこうやって報いを受けているこの自分を思い出して欲しい、そう願った。人を殺した自分には最早、この世には居場所がない。それは、当然の報いだ。しかし、どうかあなたの国の中に、私をおいてください。この惨めな私を愛し、その罪を赦してください。そう叫んだのです。
 イエス様は、彼に言われました。

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」

 イエス様は、彼の心の叫びを聴き、その言葉を聞き入れました。人間の中で最初に楽園に招き入れられたのは、神の国に招き入れられたのは、この犯罪人なのです。
 その言葉を聞いた人々は、ますます怒りを募らせたのではないでしょうか。私たちは、どうなのでしょう?人を殺した犯罪者は、憎まれて当然だし、裁かれた上で死刑にされなければなりません。それは聖書の中でも当然のこととされています。しかし、その裁きをする人間たちが、裁きをする権限を、本当の意味で持っているのか、それは疑問なのです。本当に裁くことが出来るのは誰なのか、です。
 イエス様は、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」とおっしゃった後、何と言われたかと言うと、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」とおっしゃったのです。
 「裁き」とは裁判のことだけ言っているのではありません。私たちの評価とか判断のことを言っているのです。たとえば、人間を学歴だとか能力で評価する。姿形で評価する。障害の有無で評価する。そして、ある人を無価値と評価し、ある人を価値ある人間と評価する。つまらぬことで勝ち負けを判断する。そして、使い捨てをしてもよいと判断する。使い捨てされたと思った人間は、世の中が嫌になり、誰でも殺してよいと判断する。そして、その判断に基づいて人を殺した人間は憎まれて当然だと思い、処刑して当然だと判断する。一つ一つ、人間的には理由がないわけではないでしょう。でもその判断は、すべて自分に返って来るのです。私たちはそういう評価と判断をする関係性の中で生きています。そして、その関係性の中に、自分の心と体の居場所を持てないことがあります。そして、そこに明日のことへの思い煩いが生じると思います。
 問題は、私たちを造って下さった神様が私たちをどう評価しており、どう判断してくださっているかなのです。そして、私たちがその神様の評価をどう受け止め、そして、その評価や判断に基づいて生きることが出来るかどうか、だと思います。
 イエス様は、空の鳥や野の花は、栄華を極めたソロモン王よりも美しいと、言います。何も着飾っておらず、何も生産していない鳥や花は、神様に与えられた命を感謝しながら、その日その日精一杯生きている。その彼らを、神様もその命が尽きるまで生かしてくださっている。その事実を覚え、感謝して、今日一日を生きる。そこに命の美しさがある。尊さがある。そうおっしゃっていると思います。

神の目には

 私たちの教会の仲間にESさんという方がいます。もう八十八歳を越えた方で、これまでに幾度も命の危険にさらされる病気をしてこられました。そして、八十歳を越えた頃から、キリスト者である奥様の姿を見て、自分も信仰を求め始められたのです。そして、今から五年前に信仰を告白し洗礼を受けられました。その遠藤さんは、今、老衰によって意識不明の状態です。点滴や呼吸器などのいくつもの管が、その体につけられています。もう話すことも出来ない、食べることも出来ない、何も出来ないのです。仕事をしてナンボという価値判断から言えば、そういう状態は無価値な存在ということになるかもしれません。しかし、奥さんのEEさんにとっては掛け替えのない夫であり、こうして夫が生きているということだけで、自分が生きている価値があるのです。夫のために生きる。そこに自分の存在をかけている。そして、実はEEさんも、その意識不明の夫が今、生きていることによって、生かされてもいるのです。しかし、その関係性はいつか終わります。けれども、この二人を支えているものがあるのです。それは、私たちは神様に愛されているという事実です。神様が何もかもご存知であり、受け容れてくださっている。イエス様によって、すべての罪を赦して下さっており、必ず神の国へ招き入れてくださる。そのイエス・キリストに受け容れられていることを信じることが出来る。その事実が、お二人を支えているのだし、そのイエス・キリストが二人の関係を、生死を貫いて結び付けているのです。
 先日、お見舞いに行きました。その時私は、ESさんの耳元で旧約聖書のイザヤという預言者の言葉を読みました。

「ヤコブよ、あなたを創造された主は
イスラエルよ、あなたを造られた主は
今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。
あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。
水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。
大河の中を通っても、あなたは押し流されない。
火の中を歩いても、焼かれず
炎はあなたに燃えつかない。
わたしは主、あなたの神
イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。・・・・
わたしの目にあなたは価高く、貴く
わたしはあなたを愛している。・・・・
恐れるな、わたしはあなたと共にいる。」

 私たちを造って下さった主なる神は、御自身の御子イエス・キリストを通して私たちのすべての罪を贖ってくださり、そしてすべての苦しみ、悲しみ、嘆きをご存知であり、火の中を通る時も、水の中を通る時も、私たちと共に生き、そして、私たちの名を呼んでくださるのです。「お前は、わたしの子だ。お前を愛している。誰の手にも渡さない。お前は、私から見れば、本当に価値のある人間だ。尊い存在だ。私は死を越えて、いつもあなたと共にいる。」

信じることが出来る幸い

 この語りかけを聴くことが出来る。信じることが出来る。経済的な困窮の中にいようと、身体的な悩みの中にいようと、人には言えない過ちをして絶望の中にいる時も、死を目前にしようと、誰からも相手にされない状況の中でも、この神様の言葉を聞いて、その愛を信じることが出来る。その時、私たちは一切の思い悩みから解放されます。そして、愛に生きる人生に一歩を踏み出すことが出来るのです。そして、そこにしか希望はありません。
 神様が私たち一人一人を見て下さるように、私たちもお互いに見る。神様が評価し、判断するように、私たちが互いを評価し、判断していく。つまり、人の存在をいとおしみ、その人のために生きる。そういう関係を誰か一人とでもきちんともって生きる。ついにイエス様が自分のしていることが何であるかを知らぬ人のために生き、そして命を捧げて下さった。そのイエス・キリストを互いの交わりの中心において、互いに赦し合い、愛し合って生きていく。それは、この世にはない交わりです。しかし、それこそが神の国なのであり、その中に神の義、この世の正義とはまったく異質な神の義があるのです。
私たちは、イエス様の愛を信じ、求めることを通して、この神の国と神の義の中に生きることが出来ます。そして、イエス様は、今日、この礼拝に来られたすべての方に、この神の国とその義の中に入ってきて欲しいと招いておられるのです。一人でもその招きに応えることが出来ますように。そして、私たち一人一人が、この世の中で悲しみ、怒り、憎しみ、恨みつつ苦しんで生きている一人一人に、イエス・キリストの愛を伝えて生きることが出来ますように。それこそが、「御国を来たらせたまえ、御心が天に行われる如く、地にもなさせたまえ」と祈りを捧げて生きる者たちの道なのです。
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