「救済の物語に生きる共同体 」

及川 信

マルコによる福音書14章 1節〜21節
さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。
イエスがベタニアでらい病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。 はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。
除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」

物語とは


先日読んだある本の中に、こういうことが書かれていました。
「現代社会の危機の原因は『物語の喪失』にある。物語を失った共同体は危機にさらされる。自分たちの物語を失うことによって共同体としてのアイデンティティを失うからである。それは現代社会に限らない。教会もまた同じである。聖書が聖書として、つまり神の言として聞かれなくなっている。説教者たちが、共同体の物語の担い手であることを止めている。キリストの教会のアイデンティティの危機、それは共同体の言葉、共同体の物語を回復することによってのみ脱出が可能となる。」
 また、こういうことも記されていました。
「説教とは、神の歴史、あるいは神の物語を、人間の歴史、あるいは人間の物語の中へと読み込み、また人間の物語を神の物語の中に読み込むことであり、それは説教にしか出来ない。説教者は、人間の物語の中へ神の物語を読み込む道を発見しなければならない。」

 この指摘は正しいと私は思います。物語、ストーリーは同時にヒストリーであり、歴史です。私たちは、個人の人生、歴史と同時に家族の歴史を生きています。そして、それは民族の歴史や国家の歴史と重なるものでもあります。その歴史を語る言葉を失う時、私たちは自分が何者であるか、自分たちが何者であるかを見失うのです。アイデンティティを喪失する。その時、人は未来に向かって生きていく目標を見失います。そして、無気力、無責任、無感動になり引き篭もってしまったり、逆に自暴自棄になり、「世の中が嫌になった」と言って破滅的行動を取る場合もあります。自分を語る言葉、自分たちの共通のストーリーを持っているかどうか、それはその共同体にとって、そして共同体に属する個人にとって決定的なことなのです。そして、礼拝において説教者に求められていることは、人間の歴史と神の歴史、人間の物語と神の物語の双方が互いに緊密に結び合っていることを、聖書の中に発見し、それを取り出して語ることなのだと思います。私たちキリスト者の、そしてキリスト教会の物語を、聖書の中に発見し、語ることです。  明治以降の日本は、天皇を中心とした国家形成をするために『皇国史観』という物語を作り上げました。すべてをお国のために、天皇のために捧げる。天皇を父とする大家族としての神国日本。国民は天皇の臣下として生きるというアイデンティティを与えられ、神国日本が未来永劫栄えるために耐え難きを耐え、忍び難きを忍びつつ人を殺し、また人から殺されたのです。そのことの是非は今問いませんが、その時代には国家、あるいは民族のアイデンティティを形成する物語を国家が作った。それは事実だと思います。(そして、そういう物語は古今東西を問わず、様々な民族や国家にあります。)しかし、現代はいわゆるグローバル化の影響もあるでしょうが、民族固有のあるいは国家固有の物語が次第に意味をなさなくなってきています。
 私たちの国の場合は、戦後、自由主義社会の中で経済的繁栄こそ人間の幸福をもたらすという価値観が共通の物語になって走り続けた感がありますが、現代は国民の間で経済的格差も広がり、国民の八割が自分は中流階級だと思えていた時代の共通の物語は最早意味をなしていません。そして、共同体のアイデンティティを形成する物語の喪失の故に社会は次第に解体し、家庭も崩壊し始めています。そして、多くの人が過去の歴史と現在の繋がりを見失い、未来への希望を見失っているように思います。家族や国家という共同体が自己のアイデンティティを喪失することによって、共同体に属する個人が、自分が何者であるかを見失い、不安や恐れに捕らわれ、社会に出ることが出来なくなったり、社会への復讐をしたり、自分自身を傷つけたり、殺したりしてしまう。そういう現実が、今、拡大しています。
 私たちの国では、総理大臣が二人続けて在任一年程度で突然辞任するということがありました。ある新聞の論説の中に、「辞任する総理大臣が語ったこの一年の物語と、国民が生きている物語の間には乖離がある。“国民目線”を強調した総理だが、彼にとっては、国民のことはどこか他人事であったのではないか」という意見が書かれていました。この意見への賛否は別として、私が面白いなと思ったのは「物語」という言葉と「他人事」という言葉が使われていたことです。

聖書の物語

 私たちは夏の間、ずっと創世記のヤコブ物語を読んできました。そして、私はその物語を極めて現実的であり、極めて身近な物語であると言ってきました。つまり、この神の言である聖書に記されている物語は私たちの物語、つまり、一人の人間であり日本人でありつつ、同時にアブラハム・イサク・ヤコブの子孫として新しいイスラエルと呼ばれるキリスト教会に属する「私たちの物語」であると言ってきたのです。他人事ではないのです。しかし、このヤコブ物語は、実は天地創造に始まる原初物語に続く族長物語の一つですし、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記に続き、その後のヨシュア記、士師記、ルツ記、サムエル記(上下)列王記(上下)に繋がる壮大な物語の一部です。つまり、天地創造、人間や民族の創造から、アブラハムという個人の選び、家族の選び、イスラエルという民族の選び、試練、国家形成、国家の滅亡、バビロン捕囚・・。そういうとてつもなく長い歴史(物語)がそこにはあります。そして、聖書には、その歴史の中で生まれた讃美や嘆きの歌が集められた詩編があり、王国時代、捕囚時代に登場した幾人もの預言者たちの言葉も収録されています。さらに、バビロン捕囚後の国家再建の物語であるエズラ記、ネヘミヤ記とその時代に活躍した預言者の言葉があり、文学もあります。こういう物凄い物語(歴史)を何百年に亘って語り続け、書き続け、読み継いで来たのが神の民イスラエルです。
そして、そのイスラエルに終わりをもたらし、新しいイスラエルを創造したのがイエス・キリストであり、そのイエス・キリストの物語が新約聖書の四つの福音書です。これは一人の人物の伝記物語のようでありつつ、実は神ご自身の歴史を描く物語です。そして、その物語に続くのが、イエス・キリストを宣べ伝えた教会の伝道物語としての使徒言行録であり、使徒たちが残したキリスト証言としての手紙が続き、最後に世の終わりの様を告げるヨハネ黙示録によって閉じられているのです。
 つまり、聖書とは、天地創造から天地の終わり、新しい天と地の創造に至るまでの壮大な物語なのです。国とか民族の歴史よりも、はるかに長い人類の歴史、さらに宇宙の歴史が記されている物語です。これは、私たちの一生をかけても読み通すことは出来ない物語です。通読することは出来ても、聖書を読むとは、ただ単に読んで考えることを意味するものではなく、その言葉を味わい、経験し、生きることですから、それは生涯続くのだし、聖書には肉体の死後に復活して神様と御顔を拝しつつ食卓を囲むことまで記されているのですから、私たちが地上に生きている間に、聖書の全てを経験し、味わうことなど出来ようもない書物です。そういう物語を、私たちは読んでおり、その物語を「他人事」ではなく自分の物語として読んでいる。それが私たちキリスト教会であり、そこに属するキリスト者なのです。
 裏を返せば、この物語を読まなくなる、目で読んでも、頭で考えても、神の言として読まない、信じて読まなくなる時、そしてその言葉を生きなくなる時、キリスト教会は解体していきますし、キリスト者はそのアイデンティティを失っていく以外にはないのです。最近のキリスト教会の危機は、そこにあります。聖書を一つの宗教文学として読んだり、学問的な解析をして事の真相を掴んだと思ったり、単なる道徳的お題目として読んで事足れりとする傾向があるのです。しかし、聖書はそんなものではないし、そんな読み方をして分かるはずもないし、そんな読み方で救われるはずもありません。何故なら、聖書とは一方から言えば、明らかに人間の罪の歴史、罪の物語であり、他方から言えば、人間の罪を赦して下さる神の物語なのですから。その罪人としての自分を見ないままに、大昔に起こった他人事のように読む限り、聖書の真相は決して見えてこないし、自分自身の現実、その真相も見えてこない。「私は自分を客観的に見ることが出来るのだ」とある人は言いましたが、私たちにおいてそれは「神の目から見た自分の姿を知ることが出来る」ということです。それは、聖書を通して恵みによって知らされる自分の姿なのであって、社会の情勢とか、自分の力量とか立場とかを分析して見える姿のことではありません。

神の家族 契約共同体としての教会

 私たちは今日、来週の修養会の備えとしてこの礼拝を守っています。私たちは、四年前から「十年ヴィジョン」を掲げて歩んでいます。そのヴィジョンの冒頭に掲げられていることは「神の家族としての教会形成」です。「私たちは神の家族である。」それが私たちのアイデンティティなのです。しかし、同時に私たちは「会員」という言葉を使います。そこには「契約」という意味があります。神様と契約を結ぶことを通して私たちは教会の会員になるのですから。聖書は旧約(旧い契約)と新約(新しい契約)の書物であり、律法はその契約の内容を記しています。それは神を愛し、隣人を愛するということに要約される律法です。神はイスラエルをご自分の目の瞳のように大切にし、愛してくださる。イスラエルは、その神を信じ、愛し、神に愛されている者同士、互いに愛し合い、そして神の被造物である世界に神の愛を証ししていく共同体です。その共同体が誕生する契約締結の際に「血」が使われます。つまりそれは、命をかけた契約、命をかけた愛なのです。神は遂にご自身の独り子イエス・キリストを十字架につけて血を流させるほどに私たちを愛してくださった。そして、神に背き、離れ去った罪人である私たちを神の家族として迎え入れようとしてくださった。その恵みを信じ、その信仰を公に告白し、洗礼を受けて、私たちは新しいイスラエルの一員とされたのです。新しい神の家族の一員とされた。それが聖書が語る救済の物語です。

家族=食卓共同体

 家族の中心は何よりも食卓です。共に命の糧を分かち合って食べ、かつ飲む食卓、それこそが家族を家族として作り上げていくために必須のものです。家族の中の誰かが、毎日食事の時間になっても帰ってこない、あるいは部屋から出てこなくなれば、それは一つの徴です。夫婦の仲が上手くいっていない、親子関係が険悪になっている。家庭内がギクシャクしている。一緒に食事をすることが楽しくなくなっているわけです。そして、その食卓の崩壊から家族の崩壊は始まってくるでしょう。
 私たちの毎週の礼拝、それは命の糧である神の言を共に頂く食事の時です。神様が毎週ちゃんと時間通りに食卓を用意し、子供たちによびかけているのです。「さあ、ご飯が出来たよ。子供たち、集まってきてしっかり食べなさい」と。そして、今日一緒に囲む聖餐の食卓はまさに私たちの主イエス・キリストの命を分かち合う食卓です。この礼拝において、私たちは毎週毎週神の家族とされている喜びを分かち合っているのです。そして、新しい命を頂いているのです。家族だから、新たに子供が与えられる人もいれば死ぬ人もいるし、元気な人もいれば、病気の人もいるわけですが、その一人一人が他人ではないわけで、その人に起こることは他人事ではありません。何故なら、神様が、私たちの一人一人のことを家族として愛して下さっているからです。一人一人の心の状態、体の状態、その歩みを気にかけてくださっているからです。神様にとって、私たち一人一人が、どうなっても関係がない他人ではなく、掛け替えのない子どもだからです。

人間の物語と神の物語

 聖書を読んでいて、その愛に気付かされる時、私はやはり胸が熱くなります。夏に読んでいたヤコブ物語のヤコブを初めとする登場人物たち、彼らは本当にごく普通の人々です。嫉妬や妬みを持ち、策略をめぐらせ、なんとかして人よりも上に立ちたい、自分の利益を確保したいと願って生きているごく普通の人々です。だから読んでいると、彼らが考えていること、心に感じていることが、よく分かります。そういう人間の物語がそこにはあります。しかし、そういう何処にでもいる人間のことを、神様がどれ程深く考えてくださっているか、実はそのことが聖書には記されています。主はヤコブに現れた、主はレアを心に留めた、主はラケルを心に留めた・・そういう記述が時折出てきます。そして、その時に物語が転換するのです。孤独と不安のどん底にいるヤコブ、愛されない悲しみの中に沈み込んでいるレア、子どもが生まれない恥辱にまみれているラケル、それぞれに策略をめぐらし、自分の力で未来を確保しようとしつつ、それが出来ない無力感と絶望感の中に沈んでいる時に、主が介入して来て下さっている。地上の歴史に、人の人生に、一つの家族の歩みの中に、天地の造り主なる神が介入してくださっている。そして、人間の歴史、その物語を神の歴史に造り替えていって下さる。聖書は、そういう神の物語なのです。そして、その物語の中に、私たちは生きている、生かされている。そして、そのことを知っている、知らされている。何と幸いなことかと思います。私たちは神に愛されている神の子である、そのことを私たちが知っているということは、本当に幸いなことです。

過越祭(過越の食事)

 今日お読みした箇所、これは言うまでもなく、主イエスと弟子たちが最後の晩餐をとる直前の出来事が記されている所です。新約聖書は、旧約聖書の上に成り立っているものなので、直接引用されていようといまいと、その多くの記述の背後に旧約聖書があります。今日の箇所も同様なのですけれど、その一つ一つを見ることは出来ません。来週の修養会の講演の中で、少し触れることになると思います。
 ただ一つ「過越祭」に関しては、来週の説教とも関連しますし、非常に重要なことなので触れておきます。過越祭とは、創世記の続きである出エジプト記一二章に出てくる故事を記念する祭りです。創世記はヤコブが難民として家族共々エジプトに下り、そこで死ぬ場面で終わります。それからヤコブの家族は四百年の長きに亘ってエジプトの地に住むことになるのです。その間に子孫の数は数え切れないほど増えたのですけれども、その身分はエジプトの王の奴隷となっていきました。過酷な労働に苦しめられ、ついに奴隷が増えすぎたことを恐れる王が、男の子が生まれた場合、即座にナイル川に放り投げて殺すことが命ぜられたりします。そういう苦しみ、民族絶滅の危機の時に、神が「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こし」、神が「イスラエルの人々を顧み」「御心に留める」というヤコブ物語においても重要な言葉がここにも出てきます。そして、このことによって、エジプトからの脱出という大逆転が起こってくる。それが出エジプト記の書き出しです。その脱出のために選ばれたのがモーセという人物ですけれど、彼が主なる神から「イスラエルの共同体全体に次のように告げなさい」と命ぜられたことは、家族ごとに小羊を屠って、その血を家の鴨居に塗り、その小羊の肉と酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べることです。食事をしなさい、と命ぜられたのです。その食事の間に、死の使いが小羊の血が鴨居に塗られていない家に入り、その家で生まれた最初の子、初子が神様の裁きにあって殺されるのです。そして、鴨居に血が塗られている家の前を、死の使いは過ぎ越していく。もちろん、いきなりそういうことが起こったのではなく、様々なことがありますけれど、とにかく、この日の晩に、神様から離反し、抵抗する人間の罪に対する神の裁きが貫徹され、生と死が分けられたのです。それを分けたのが小羊の血であり肉です。
 この出来事を、イスラエルの民は年に一度同じ食卓を囲む祭りを守ることによって、決して忘れずに生きてきたのです。それは過去の出来事を記念するだけではなく、今も、生と死を分ける裁きをなさる神を信じ、礼拝し続けたということです。その信仰と礼拝によって、神の民イスラエルは生きてきたのです。そして、その祭りの度に、この出エジプトに続く神の歴史を自分たち共同体の物語として子々孫々に語り聞かせてきた。それがイスラエルです。そして、そのイスラエルの誕生の起源は、この過越の食事にあります。

マルコによる福音書の受難物語

 マルコによる福音書一四章は、その過越の祭りを二日後に控えた時からの出来事を書いています。そこには神の民イスラエルの代表者である祭司長や律法学者という人々が登場します。彼らこそ、イスラエルの礼拝を司り、民に神の愛を伝えるべきリーダーたちなのです。祭政一致社会ですから、宗教的リーダーは即そのまま政治的リーダーです。その彼らは、今、自分たちの権威を脅かすイエス様を恐れている。今で言う世論調査の結果、民衆の多くがイエス様こそ神様が送ってくれたリーダーではないかと思っていることが分かって恐れているのです。神をこそ恐れ、神を礼拝し、神の御心を民衆に伝えるべき人々が、神のことはむしろ他人事であり、自分たちの世俗における地位を守ることだけが彼らの関心事になっているのです。民衆は民衆で、いつの時代も同じことですが、自分たちの日毎の生活だけが関心事であり、イエス様に期待することも、ローマ帝国の支配から脱出させてくれないか、そしてローマに納める税金を撤廃してくれないかというものであり、自分の罪の現実については他人事なのです。
 そういう世にあって、一人の女だけは、イエス様が何のためにこの世に来られたのかを鋭く感じていました。そして、イエス様がこれから自分の罪が赦されるために身代わりになって死んでくださることを感じ取ったのだと思います。そして、恐らく彼女の全財産を売り払って買い求めたかのような「非常に高価なナルドの香油の入った壷を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた」のです。注ぎ口から少し注ぐのではなく、壷そのものを壊して全部注ぐ。そういうことをした。それは、自分の全存在を捧げて、主イエスを愛したということです。彼女にとって、主イエスはそういう存在でした。主イエスご自身が、今、ご自分の命を過越の小羊として十字架に捧げようとしておられることをこの女は察知して、もう居ても立ってもいられず、自分の全てを捧げて、主イエスの愛に応えたのです。主イエスは死ぬ前に、たった一人、ご自分のことを理解し、愛してくれる人と出会いました。
 しかし、主イエスがこれからなにをなさろうとしているか分からぬ人々にとっては、その女の行為は理解できないものでした。彼らは、彼らにとっては所詮他人に過ぎない貧しい人々を引き合いに出して、女を責めているのです。現代の政治家の多くが口を開けば「国民のため」と言っているのと同じです。貧しい国民のことなど、所詮他人事にしか過ぎないのに、口ではそういうことを言っている。そういう場合は、少なくないでしょう。
 事ここに至っても、主イエスの周りにはそういう人々ばかりがいるのです。そして、主イエスが選んだ十二人の弟子の一人ユダは、主イエスを祭司長たちに金で売ろうとしているのです。これが人間の物語です。
 そういう十二弟子と、それでも主イエスは過越の食事を共にしようとされるのです。これが神の物語です。そういう十二弟子だからこそ、主イエスは家族としての食事を共にして下さるのです。その食事の席で、イエス様はこう言われます。

「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」

 この言葉を聞いて、弟子たちは、心を痛めて、こう言いました。

「まさかわたしのことでは。」

 誰も、自分が裏切り者だとは思っていない。ここではもちろんユダのことが言われているわけで、そういう意味ではユダ以外の人間が、このように言ってもおかしくはないとも言えます。彼らは、裏切るつもりはないし、客観的に見ても自分が裏切る人間だとは思っていない。でも、この食事の後に、主イエスは「あなたがたは皆わたしにつまずく」とおっしゃった。羊飼いが死んでしまえば羊たちが逃げるのと同じように、あなたがたは皆逃げるのだ、と。さらに、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言うペトロに向かっては、「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が三度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」ともおっしゃった。ペトロは、一緒に死ぬことになっても、イエス様を知らないなんて決して言いませんと言い、他の弟子たちも口々に同じことを言いました。でも、すべては主イエスがおっしゃった通りになったのです。
 それが人間なのです。人間の罪の現実なのです。これが人間のストーリー、物語です。人間は、自分で自分をどう見ていようが、自分で自分をどう思おうが、こういう現実を抱えている。その事実を見つめ、認めることをしないで、「自分のことを客観的に見ることが出来る」と言った所で、それは所詮、水平的な次元の話に過ぎません。そして、水平レベルだけでは、人間の真相、自分の真相は見えてきません。そして、それが見えてこなければ、聖書の物語、つまり、人間の物語でありつつ神の物語である聖書を自分のものとして読むことも出来ません。
 私たちは、今日の箇所に出てくる祭司長や律法学者なのか、女なのか、ユダなのかペトロなのか・・・それは人それぞれでしょう。でも、すべての人間が客観的な意味で罪人であることに変わりありません。唯一違うこと、それは女は自分の罪を知り、主イエスがその罪の赦しのために死んでくださることを知り、命をかけて主イエスを愛したのに対して、他のすべての人間は主観的には自分の罪を知らず、主イエスが自分の罪のために死ぬなどとは思いもよらないということです。だから、彼らは皆、「まさかわたしのことでは」とまるで他人事のように応えているのです。呑気なものです。主観的には幸せでしょう。  そういう人々と共に主イエスは食事をします。そして、「聖書に書いてあるとおりに去っていく」とおっしゃる。主イエスにとって、創世記も出エジプト記も、それに続く、すべての物語、預言者の言葉、詩編、そのすべてのことは昔の出来事ではありません。すべてがご自身の物語なのです。神から離反し、罪に支配され、滅びとしての死に自ら向かっていくすべての罪人を顧み、心に留め、なんとかして救い出そうとして呼びかけ、介入する神様の御業が旧約聖書には記されています。そのすべての歴史を主イエスは今、ご自身の身に引き受けておられるのです。そして、ご自身を過越の小羊として差し出そうとしておられる。肉を裂かれ、血を流しつつ、罪に対する裁きを受け、ご自身の肉を食べ、血を飲む者たちの罪を赦し、神の家族として生きる命を与える小羊として、ご自分を差し出そうとしておられるのです。そのようにして、主イエスは神の物語を自分の物語として引き受け、私たちを神の家族へと招き、神の物語の中に生きるように招いてくださっているのです。

聖餐への招きと応答

 キリスト者である私たちは、これからその招きに応えて聖餐の食卓に与ります。私たちは、この聖書に記されている物語、歴史を、自分たちの物語、歴史として受け止めている民であり、神の家族なのです。その神の民、神の家族は、繰り返し繰り返し、自分たちに共通の物語を聞き続け、語り続け、そしてその物語を生きていきます。この食事を分かち合いながら。そして、この物語は世の終わりまで続き、そして天に繋がっているのです。
 私たちは聖餐に与るたびに讃美歌二〇五番を歌いますが、そこにあるように、私たちはこの食卓に与る時、世の終わりに完成する天の御国の情景をはるかに望み見ています。最早、死もなく、涙もない天の御国です。そこで私たちは主イエスを頭とする神の家族の食卓を囲む。主イエスの十字架の贖いと復活を信じ、洗礼を授けられたすべての人々と共に食卓を囲み、神様の栄光を称える。ユダヤ人もギリシャ人も、日本人も外国人も、男も女も、白人も黒人も黄色人も、この世では金持ちであった人も貧しかった人も、罪赦されたすべての人々が、この主イエスの食卓を囲む日が来るのです。それが、聖書という壮大な物語が私たちに告げていることです。私たちは、その物語の中に生きている神の民、神の家族です。その家族の食卓への招きが、今日も主イエスによって与えられています。「取りなさい。これはわたしの体である」と。私たちは、この招きに応えることを通して、今から三千年以上も前に記念され始めた過越の出来事に与るのだし、二千年前の主イエスの十字架の死と復活を記念し、今生きておられる主イエスの贖いの恵みに与り、世の終わりに再び来られて生ける者と死ねる者を裁き、救いを完成してくださる主イエス・キリストを讃美するのです。本当に、有り難いことです。普段はまるで信仰とは無関係、聖書のことなど他人事のように生きてしまうことがある私たちを、それでも主イエスは愛し、赦し、「さあ食べなさい。わたしの赦しを受け入れなさい。そして、キリスト者として生きなさい。わたしが共にいるから、私とあなたは他人ではない、兄弟姉妹なのだ・・」と言って下さる。その招きに、今日も新たに悔い改めと感謝をもって応え、新たな週に歩み始めたいと思います。
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