「取りなさい、これはわたしの体である」

及川 信

マルコによる福音書14章22節〜26節
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

説教・洗礼・聖餐


 今日の午後は信仰修養会です。私たちはこの四年間、「聖餐の食卓を囲む共同体」としての教会について学びつつ、その教会生活をしています。先週の説教の中で何度か使った言葉を用いれば、食卓共同体としての教会の物語、大いなる救済の物語を学び続け、また実際にその物語を生きているのです。私たちの場合で言えば、年に十五回(朝・夕合わせれば三十回)、聖餐の食卓を囲みつつ生きている。現実に聖餐を守らない礼拝の時も、こうして聖餐卓はいつも礼拝堂の中心に置かれているのです。説教壇と聖餐卓、そして、ここに置かれている台は洗礼盤として用いています。この三つは礼拝堂における大事な三要素であることは言うまでもありません。説教を通して神の言が語られ、その言葉を聞いてキリストにおける神の愛を信じた人が洗礼を受けて神の家族の一員になり、そして家族の食卓(聖餐)を囲むようになる。それが教会の礼拝において起こることです。そこに救済の物語があるのです。ですから、食卓を囲むというのは、何よりも喜びと感謝の時です。

喜び、賛美、感謝の祈りを伴う食事

ユダヤ人はもちろんそうでしたし、キリスト者の家庭においても、食前に家族全員が感謝の祈りを献げ、讃美を歌い、そして、食後もまた感謝の祈りと讃美を捧げる。これは美徳と言って良いと思うのですが、そういう美しい習慣がありました。現代では、私も含めて、食後の感謝の祈りまでするという習慣を守っている家庭は少ないと思います。しかし、教会の食事としての聖餐の時、私たちは感謝の祈りと讃美を、その前と後の両方に守っています。そのこと抜きに、聖餐に与ることはないし、聖餐を終えることは出来ないからです。讃美歌二〇五番を一節二節と三節四節に分けて聖餐の前後に歌うことは、多くの教会ではやっていないことですが、私はそういう意味で相応しいことだと思っています。そして、キリスト者の家族が、その食前食後に感謝の祈りと讃美を捧げるという習慣は、明らかに、今日の礼拝で読まれ、午後の講演でも語ることになる、主イエスと弟子たちとの「最後の晩餐」から始まったものだと思います。
ここで主イエスは「パンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与え」たのですし、杯の時も「感謝の祈りを唱えて」から渡されました。そして、その食事が終わった時、「一同は賛美の歌をうたってから」、オリーブ山に行ったのです。賛美、感謝、祈りに満ち満ちているのです。

最後の晩餐が置かれた文脈は?

それはそれとしてよく分かる話なのですが、私はこの箇所を前後の文脈の中で読む時に、いつも何とも言えない違和感を持ってきました。学者たちの中には、この場面は福音書記者マルコによってこの場面に挿入されたのだと言う人もいるようなのですが、そうかもしれないとも思います。何故、そう思うのかと言うと、この食卓はあまりに明るいのです。賛美の歌、感謝の祈りに満ち満ちている。私は、この時の主イエスの表情、声の調子をしばしば想像します。でも、掴めないのです。
聖書を読む時に、何処を読んでも耳を澄まし、目を凝らし、そこで語られていること、起こっていることはどういうことなのか、その本質を知るだけではなく、情景が目でも見えるように、声が耳でも聞こえるように集中して読むことが大事だと思います。そして、様々な箇所で、私なりにイエス様の表情や声の調子や、イエス様の周囲にいる人々の表情や仕草、あるいは心の動きなどが見えてきたり、聞こえてきたりすると、私自身もその出来事の中に、あるいは物語の中に入っていくことが出来ます。あるいは、その出来事が聖書から飛び出してきて、今ここで起こっていることとして実感できたりする。しかし、私たちの聖餐に繋がる肝心要の最後の晩餐の場面に関しては、どうしても想像することが出来ません。
一つの部屋の中にイエス様と十二人の弟子たちが集まって、当時のこととして寝そべりながら食事をしている。その情景は思い浮かべることが出来ます。そして、イエス様はその食事の途中で、「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」とおっしゃった。その時のイエス様のお顔や声の感じも、こんな感じかなと想像は出来ます。そして、弟子たちが驚き恐れつつ「まさかわたしのことでは」と口にする時の表情や動作も分かる気がします。しかし、その後くらいから、次第に分からなくなってくるのです。イエス様は、こうおっしゃいました。
「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
これは婉曲にユダの裏切りについて語った言葉です。この言葉の意味の深さ、不思議さは、到底、私の理解を越えるものですし、この時のイエス様の表情や声の調子はどういうものだったのか、よく分かりません。
しかし、この場面の後で、すぐに二七節の「あなたがたは皆わたしにつまずく」という言葉に繋がっていくならば、ユダに関する言葉の調子も分かるような気がするのです。もちろん、「分かる」と言ったって、イエス様の経験は人間の誰も経験したことがないわけで、人間の想像など所詮的外れな他人事に過ぎないのだと思います。でも、この時のイエス様は、愛する弟子たちに裏切られ、見捨てられる悲しみや嘆きが湛えられた表情であり、その声ではなかったか、と思います。
しかし、その前後の場面に挟まれている「最後の晩餐」には、そういう悲しみや嘆きが感じられないのです。弟子たちの裏切りと離反を予告する出来事に挟まれたこの食卓において、賛美、感謝が溢れている。イエス様は、賛美したり、感謝の祈りを捧げることが習慣であり、しきたりだったから、無表情に、ただ身についた習慣どおり、歌ったり祈ったりしたのでしょうか?心の中には、神様への賛美も感謝もないのに、むしろ神様への疑問が満ち満ちており、弟子たちへの怒りが沸々と沸き立っているのだけれど、この場では、それらの思いを抑えて、型どおりの過越の食事の儀式を守っておられるのだろうか?どうなんでしょう?皆様は、どうお感じになるのでしょうか?
 くどいようですが、もう一度、状況の確認をしておきます。先週の説教でも語りましたように、主イエスは今、十字架に磔にされて殺されようとしているのです。イエス様は、そのことを感知しておられました。一四章の初めにありますように、祭司長や律法学者たちは、イエス様を捕えて殺すことだけを考えています。しかし、彼らの関心事は自己保身であり、群衆が騒ぐと困るので過越の祭りの間はやめておこうと思っているだけです。しかし、その時、弟子の一人であるユダが、祭司長たちには全く思いがけないことでしたが、イエス様を彼らに引き渡す取引をしたのです。そういう状況の中で、イエス様は、ユダをも含めた十二人の弟子たちと、過越の食事をしている。この食事はその昔にイスラエルを神の民として誕生させた食事です。小羊の肉と血によって、イスラエルがエジプトの奴隷状態から解放されたことを想起し、今も尚、その神様の愛を確信しつつ小羊の肉とパンを分かち合う喜ばしい家族の食事、信仰を同じくする神の家族の食事なのです。しかし、その家族であるはずの一人ユダは、既に「どうすれば折りよくイエスを引き渡すことが出来るか」と考え始めているのだし、他の弟子たちは、死ぬまで主イエスと一緒だと自分では思いつつも、実際には死を恐れて逃げていくことが、主イエスにだけは分かっている、そういう人々なのです。そういう人々と食事をする。それも一年で一番大事な食事、互いに愛し合い、信仰を同じくする家族の食事をする。その時、主イエスは、どういうお気持ちで、どんな表情で、どんな声で、神を賛美し、神に感謝し、祈られたのか?

契約の食事としての最後の晩餐

 これまで学び続けてきたことですし、今日の午後もう一度確認することですが、この最後の晩餐に流れ込んできているものは、「過越の食事」だけではありません。イエス様の言葉の中にも「契約の血」という言葉がありますように、この食事には、契約を結ぶことに伴う「契約の食事」、神様と共に、あるいは神様を見ながらの食事の要素が入っています。そして、その食卓の主が、主イエス・キリストである場合、その食事は過去の過越の食事の単なる再現でもなく、過去の契約締結の想起でもありません。新しい過越の食事であり、新しい契約の食事なのです。それはどういうことかといえば、出エジプト記に記されている過越の食事は、エジプトの奴隷であったイスラエルを解放して神の僕とするために必要な食事でした。しかし、今ここで主イエスが食卓の主として持っている食事、それは過去の救済の出来事を想起し、これからも神様が同様の救済をもたらしてくださることを願う食事ではないのです。この同じ日、ユダヤ人のすべてが過越の食事を持っていたわけですが、彼らは過去の出エジプトを想起しつつ、現在彼らが苦しめられているローマ帝国による抑圧からの脱出を願いつつ食事をしているのです。しかし、主イエスが、ここで過越の食卓を弟子たちと囲み、パンを裂いて「取りなさい。これはわたしの体である」と言う時、また杯を渡してから「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」とおっしゃる場合、それは脱ローマという救済の宣言をしておられるわけではない。そういう次元の救済、解放が問題になっているわけではなく、主イエスは今、すべての人を抑圧している罪の支配から人間を脱出させる、解放するための食事を弟子たちに提供しておられるのです。そして、ただ単にエジプトから解放された神の民の契約を想起するのではなく、罪から解放された新しいイスラエルを造り出し、その民と新しい契約を結ぶための食事をしておられるのです。

愛しているから悲しい

 先週の説教における一つのキーワードは「他人事」という言葉でした。私たちはなんやかんや言っても、自分のことが大事で、他人のことは二の次です。しかし、イエス様にとっては、すべてのことが他人事ではないのです。目の前で苦しんでいる人がいれば、それはイエス様にとって他人事ではないし、どこか遠くで苦しんでいる人がいると聞けば、それもまた他人事ではない。あるいは自覚的に苦しんでいようがいまいが、神から離れて生きているすべての罪人の現実、またその未来が、イエス様にとっては他人事ではない。「彼らは彼ら、自己責任で滅びに向かっているのだから、私とは関係ない」とは思われないのです。主イエスは、すべての人を愛しているからです。だから、すべての人が陥っている罪の支配から解放してあげたいと願われるのです。
人が人を愛する、それは最早その人が他人ではなくなるということです。自分の分身のようになるのです。愛する人が、病で苦しんでいれば、自分も苦しいのです。子供が不治の病に苦しむ時、親は、その子に代わってやりたいと願う。出来ることなら、自分がその病を身に受け、この子を病から解放して欲しい。そう願う。それが愛です。主イエスは、そのようにすべての人を愛している。だから、ご自分を裏切ることによって結局自分自身を滅ぼしていくことになるユダのことも、敵とか裏切り者と見下したり、見捨てたりするのではなく、むしろ「生まれないほうがよかったのに」と彼の不幸を我が身に負いつつ嘆かれるのです。ペトロ達のことだって同じことです。彼らの裏切りや離反を予告する時、主イエスの心は悲しみで満たされていたでしょう。それは、愛する者に裏切られるという悲しみです。人間が抱く悲しみの中で最も大きなものは、この悲しみだと思います。しかし、自分を愛してくれた者を裏切ってしまい、最早その人との関係を修復出来なくなってしまった悲しみ、それもまた大きなものです。その悲しみを経験した人の人生は、それ以前とは全く違うものになります。そういう裏切りと離反に伴う悲しみが満ち満ちているのが、この場面です。そして、主イエスは、裏切られる悲しみと、同時に、ご自分を裏切ることによって弟子たちが感じるであろう絶望的な悲しみを既に知っている。そして、その弟子たちのために、既に悲しんでいると思います。彼らのことを案じている。彼らを愛しているから。私は、そう思います。

愛しているから嬉しい

 そういう悲しみの中で、主イエスは弟子たちと食卓を囲んでいる。当然、そこには沈鬱な気分が満ちているはずだと思う。しかし、そういう沈鬱な気分が、私には感じられないのです。たしかに、ここには厳かな雰囲気が漂っています。主イエスの言葉の一つ一つに、物凄い厳粛さがある。それは確かです。

「取りなさい。これはわたしの体である。」
「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」


 これは極めて厳粛な物言いです。弟子たちが、その時その場で、イエス様が何をおっしゃったのかは分からなかったと思います。しかし、彼らはこの不思議な言葉を覚えていたのです。そして、後になって、復活の主イエスと出会うことを通して、この言葉の意味が分かった。だから、こうして聖書に記録されていて、現代も尚、こうして私たちが読んでいる、いや聴いているのです。
 この意味不明な、そして、不可思議な力を持ったこの言葉を語るイエス様は、その前後に神様を称える讃美歌を歌い、また神様に感謝を捧げる祈りを捧げています。イスラエルの民が、この食事の時に讃美を歌い、感謝の祈りを捧げる時、それは何度も言っていますように、過去の救済の出来事を想起し、また未来の救済を確信して歌い、祈るのです。謂わば、それだけが彼らが出来ることなのです。
 しかし、イエス様が歌い、祈る時、それは歌い、祈るだけではありません。ご自分をもっと根源的な救済のために捧げることなのです。イスラエルの民、つまりユダヤ人だけでなく、すべての人間を愛しているからです。愛している時、そこにあるのは喜びです。愛している人のために、自分が持てるものを捧げる。それは喜びです。愛してもいない相手にはちょっとの時間も手間も捧げることは苦痛ですし、大事なものをあげることなど勿体なくて出来ません。が、愛している相手にだったら、様々なやりくりをして時間をつくり、労力をかけ、資力をかけて、その人のために、その人が喜ぶことを、私たちは一所懸命にするし、大事なものだってあげます。それは喜びだからです。
 主イエスは、この時、弟子たちを愛している。それがこの場面に溢れている喜び、明るさなんだと思います。主イエスは、ご自分を裏切ることを既に決意している者をも愛している。そして、自分は裏切るなんてことはしないと思ってはいても、結局、裏切ることになる者たちのことも愛している。さらに、主イエスを殺そうと狙っている祭司長や律法学者、また、自分の利益だけを求めているだけの群衆、あるいは、これから主イエスを十字架につけることになるローマの総督ピラトのことも、主イエスは愛している。その愛は、主イエスにおいて、無理矢理に愛するとか、仕方なく愛するとか、そういうことではなく、裏切られる悲しみの中でも、憎まれ殺される悲しみの中でも、沸き起こってくる愛なのだと思うのです。天の父なる神からほとばしり出てくる愛が、主イエスの全身に満ち溢れてしまって、人としての主イエス自身にもどうすることも出来ない思いで愛している。そういう神の愛に満たされている主イエスは、悲しみの中にあっても、むしろその悲しみの大きさに比例し、それを上回る愛をもって、この時を過ごしているのだと思います。そして、そのような愛をご自身に注ぎ入れてくださる神様を愛し、賛美し、感謝している。そういうことなのではないか。

献身の愛(親子の場合)

 だいぶ前のことですが、ある婦人に、「男の人はかわいそうだ」と言われて、どうしてかと思ったら、こんな話をされました。その方のお子さんが大変な手術をしなければいけなくなって、輸血の必要があったそうです。父親の血液型とそのお子さんがマッチするということで、手術中に血液を抜きながらお子さんに輸血をしたそうです。その手術の後、父親にあたるご主人が、「ああ、これでやっと自分の子と血が繋がったと思った」と言ったそうです。母親である婦人は、「私たちは子供を産んでいるから、血が繋がっているのは当たり前で、そんなこと考えたこともない。男というのは本当に気の毒だ」とおっしゃいました。私はその言葉を聞きながら、やはり親の愛を感じました。このお話を伺ったのは、私も親になったばかりの頃のことでしたから、尚更そう感じたのかもしれませんが、親にとって子供はやはり自分の分身です。そして、当然のことながら、自分よりもはるかに長生きしてもらわねばならぬ存在です。そのことのためであれば、自分の血を差し出すことも喜びだし、もし目が必要ならどうぞこの目を使ってくださいと思うし、腎臓が必要なら私の腎臓を取ってくださいと思う。それはもちろん、悲壮な覚悟を伴う思いに違いありません。大きな不安や恐れがあるでしょう。でも、そのことで自分の子供が健康になるなら、長生きするなら、そのことために自分の血や体が役立つのなら、それは嬉しい。そういう思いが勝っているのではないか。そう思うのです。

献身の愛(主イエスの場合)

 イエス様が、ここで弟子たちを愛している。それは親の子に対する愛とは違います。子は親に愛され、そして親を愛している。どの親子でもそうだと言う気はありませんが、今言った親子においては、その愛が前提です。しかし、イエス様にとって弟子とは、ご自身の愛を受け止めてくれない人間です。愛しても愛し返してくれない人間です。これは弟子に限らない話です。先週登場した一人の女のような例外的な人間がいますが、すべての人間がそうなのです。愛しても、それを理解されず、愛をもって応答してもらえない。応答してもらえないどころか裏切り、見捨てようとしている。それが弟子であり、それが人間です。でも、イエス様の愛は、むしろそうであるが故に燃えている。人々の裏切りや離反が明らかになるに連れて愛が萎えていくのではなく、むしろ強まっていく。

「わたしは、あなたたちのために肉が裂かれ、血を流す。わたしを裏切り、見捨てていくあなたたちのために。さあ、取りなさい。これはわたしのからだ。さあ、飲みなさい。これはあなたたちのために流す契約の血。わたしはあなたたちにすべてを差し出す。わたしの体、わたしの血のすべてを。さあ、これをあなたの体の養いとし、あなたの血と入れ替えなさい。そして、新しく生きなさい。そのためにわたしは死ぬ。わたしはあなたを愛しているから、喜んでわたし自身を献げる。どうか受け取って欲しい。わたしの愛を、わたしの命を。そして、新しく生きて欲しい、神の子として。」

   なんだか分かりませんが、そういう愛、愛する喜びが、この時の主イエスを満たしているのではないか。そんな気がします。そして、その主イエスを天の父はじっと見つめている。そして、「これこそわたしの子、わたしの心に適う者。これに聞け」と、やはり心張り裂けんばかりの喜びをもって宣言しておられる。そんな気がします。その神様を、また主イエスは全身全霊を傾けて愛しておられる。
 この愛に命をかける。存在のすべてをかけて愛に生きる。そこにある解放、そこにある喜び。それがこの時の主イエスにはある。共にいる弟子たちの誰一人、そのことが分からなくても、主イエスはその愛の喜びの中にいる。愛することを通して経験する悲しみ、苦しみに押し潰されそうになりながら、しかし、それでも尽きることのない愛が父なる神から注がれ続け、裏切られようが、見捨てられようが、弟子たちを愛していく。すべての罪人を愛していく。死の恐れを越えて、そして肉体の死を越えて、愛していく。その愛が、この時の食卓にはあるのだと思います。そして、その愛は主イエスの復活を通して弟子たちを捕え、弟子たちを罪と死から解放し、新しいイスラエルの民として立たせ、そして命をかけた伝道へと旅立たせたのです。そこに教会の出発があり、その教会の中心にはいつもこの食卓があったのだし、今もあるのです。

  愛に生かされ、愛に生きる

私たちが聖餐を受ける度毎に、私はこう祈ります。
「慈愛の神、あなたは限りなき憐れみをもってわたしたちを招き、主の晩餐にあずからせてくださいました。深く感謝いたします。あなたはこれによって、御子イエス・キリストの贖いの恵みを、わたしたちのうちに確かめ、わたしたちの罪を赦し、汚れを潔め、とこしえの命を与え、御国の世継ぎとしての望みを堅くしてくださいました。今、聖霊の助けにより、感謝をもって、この体を生きた供え物として御前にささげます。わたしたち、主の体の枝である自覚がいよいよ深くなり、ますます励んで主に仕えることが出来ますように。」

  この祈りのルーツが、十二弟子たちの祈りであることは疑いの余地がありません。主イエスのことを三度も「知らない」と言って逃げたペトロは、復活の主イエスと出会い、聖霊を注がれた後、まさに命をかけて、「十字架に磔にされた主イエスは復活され、今も生きているキリストである」と、命がけで証しをしたのだし、以後、十字架と復活の主イエス・キリストの証人として自分自身を生きた供え物として捧げたのです。その時の彼の心にあるのはイエス様に命がけで愛されている喜びであり、イエス様を命がけで愛する喜びです。罪と死の支配から解放された喜び、その喜びが、迫害や死に対する恐れや不安をはるかに上回っているのです。自分のために喜んで献身してくださった主イエスに、自分の身を献げることが出来る喜び、その喜びが、彼を初めとするすべての弟子たちに与えられたのです。
 使徒言行録には、聖霊に満たされたペトロの説教によって誕生した教会の姿が記されています。

「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」

 説教、洗礼、聖餐、教え、交わり、祈り。私たちの教会の基礎、礼拝の内容がこの時に既にあります。説教は、今に生きるイエス・キリストを証しする言葉であると同時に、聖霊の注ぎの中で、キリストご自身の言葉でもあります。洗礼、それは説教を通して示されるキリストの十字架の死と復活を、愛と信仰において我が身のこととして体験することです。キリストとの愛の契約を結ぶことを通して、古き自分に死に、新たにキリスト者として誕生することを意味するからです。そして、聖餐、これはキリストの死を記念し、同時にそれは今に生きるキリストへの感謝と賛美であり、さらに世の終わりに完成する神の国をはるかに仰ぎ望む食卓です。私たちは、この食卓を通して、いつも新たに主イエスの体と血を頂く。つまり、命の糧を頂くのです。主イエスの命をかけた愛を頂くのです。そして、私たちもまた、自分自身を捧げるのです。主イエスの、「取りなさい。これはわたしの体である」との愛に応えて、「主よ、どうぞこの体を潔め、御用のために用いてください。わたしはわたし自身をあなたに捧げます。あなたのために生きます。どうぞわたしを受け入れ、わたしを用いて、あなたの愛を証しする者として下さい」と告白をする。献身の愛に献身の愛で応える。それが聖餐の喜び、悲しみを越えた喜びであり、賛美なのです。だから、私たちはイエス・キリストの死を記念しつつ、喜びと感謝の捧げることが出来るのです。
主題説教目次へ戻る
礼拝案内へ戻る