「はっきり言っておく」

及川 信

マルコによる福音書14章27節〜31節
イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』/と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。
イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。
一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」


 九月は、「聖餐の食卓を囲む共同体」を主題とする修養会や創立記念礼拝があるのでマルコ福音書の最後の晩餐を中心とする箇所を読んでいます。神様の救済の物語を、神様に救済された民として、自分たちの物語として読んでいるのです。

  生と死、賛美と嘆き

今日の箇所は、先週の続きです。主イエスと十二弟子との「最後の晩餐」、それは、イスラエルの民がエジプトを脱出する前夜の「過越の食事」でもありました。それは小羊の血と肉が、決定的な意味を持つ食事です。その血が家の鴨居に塗られている家には神から送られた死の使いが過ぎ越す、通り過ぎる。しかし、血が塗られていない家には入って行き、その家で最初に生まれた子が死ぬという裁きを受ける。それが食事中に起こっていることです。この生と死という相反する現実が同時に起こっているのです。それは救われた喜びと滅ぼされる嘆きの両方が起こっているということです。そして両者の分離が起こっている。
 数年前に水耀会やオリーブの会、信友会で、昔の映画である『十戒』をDVDで観たことがあります。その映画の一場面は、この過越の食事の場面ですが、外では子どもが死んだことを嘆き悲しむ悲痛な叫びが満ちている一方で、モーセがいる家の中では厳かな雰囲気の中で讃美歌の声が響くという場面でした。神様の決定的な裁きが下される時に起こる嘆きと賛美、それがこの食卓にはあります。
 先週は、その二つのこと、嘆きと賛美が、この最後の晩餐とその前後の物語の中にあるということを語りました。主イエスは、食事中にユダの裏切りを予告されます。ご自分が招き、選び、立てた十二弟子、新しいイスラエル、世界に新たな祝福をもたらすべき民、その民の中に主イエスを裏切る者がいる。共に食卓を囲んでいる仲間に、いや家族に、裏切りの心を抱えているものがいる。そのことを知っている主イエスの嘆き、悲しみは深いのです。その食卓は、「はっきり言っておくが、あなたがたの内の一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」と主イエスがおっしゃった時から、激しい混乱と沈鬱な雰囲気で満たされていたはずです。神の救済を祝う祝祭としての食事であるべき過越の食事は、この一言で一転したはずです。そして、「まさかわたしのことでは」と呑気なことを言っている弟子たちを見て、主イエスはますます沈鬱な悲しみを心に抱いたはずだと、私は思います。
 しかし、それなのに最後の晩餐の場面は、感謝の祈りと賛美が満ち溢れている。それは一体どうしてか?その問題について、示されたことを先週は語りました。今日はその続きなのですが、もう一度、二六節の言葉を読んでおきたいと思います。食事が終わってから、「一同は賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた。」

賛美する主イエス


 この時歌われた「賛美の歌」、それは詩編百十五編から百十八編だと言われています。それは「ハレルヤ」と主を賛美する詩が集められている箇所です。後でご自分でその一つ一つを、この過越の食事、最後の晩餐、ゲツセマネの祈りに至る文脈を思い浮かべつつお読みになったらよいかと思いますが、少し抜粋してご紹介します。

わたしたちではなく、主よ/わたしたちではなく/あなたの御名こそ、栄え輝きますように/あなたの慈しみとまことによって。

わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き
わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。
死の綱がわたしにからみつき/陰府の脅威にさらされ/苦しみと嘆きを前にして
主の御名をわたしは呼ぶ。「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」

あなたに感謝のいけにえをささげよう/主の御名を呼び
主に満願の献げ物をささげよう/主の民すべての見守る前で
主の家の庭で、エルサレムのただ中で。ハレルヤ。

主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなしえよう。人間に頼らず、主を避けどころとしよう。
家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。
これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。
今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。


 自分の栄光ではなく、ただ主なる神の栄光が現れることを願う賛美、死の綱がからみつき、陰府の脅威にさらされ、苦しみと嘆きの中で、主の名を呼び、魂の救いを叫び求める賛美、エルサレムの只中で感謝のいけにえを捧げようと歌う賛美、人間に頼らずただ主だけを避け所として歩もうとする賛美、捨てられる石が実は親石となる驚くべき御業を称える賛美。そういう讃美を、今、主イエスは弟子たちと共に主なる神様に捧げているのです。そして、その上で、いつもの祈りの場所であるオリーブ山に向かわれました。それは、エルサレムの丘と谷を挟んだ向かい側にある山です。

誰が羊飼いを打つのか

 真っ暗な夜道、もちろん、外灯はありません。そして、舗装されているわけでもない岩や石がごろごろしている道を、主イエスと弟子たちは足元に注意しながら歩いて行ったでしょう。この時、ユダは既にいなかったと思います。ですから、残った弟子たちは、自分は主イエスを裏切らない弟子としてイエス様に認めていただいていると思っていただろうと思います。でも、主イエスはこうおっしゃったのです。

「あなたがたは皆わたしにつまずく。」

 ある種の思想とか信仰を捨てることを「転向」と言い、それを俗な表現では「転ぶ」と言いますが、「つまずく」とは、そういうことです。主イエスは、ユダだけではなく「皆つまずく」とおっしゃった。主イエスの歩みにはこれ以上ついて来られない。皆、主イエスを捨ててそれぞれの道に行ってしまう。そうおっしゃった。
 何故か。
「『わたしは羊飼いを打つ。
すると、羊は散ってしまう』と書いてあるから」

 です。何処に書いてあるのかと言えば、旧約聖書のゼカリア書に書いてあるのです。マルコの説教をし始めてから何度も言っていることですが、主イエスにとって旧約聖書は遠い昔の物語でもなければ、他人事でもありません。詩編であれ、預言書であれ、それはすべてご自身の父なる神様の言葉であり、そこには主イエスの歩みがどういうものであるかが示されているのです。主イエスは、その言葉に生かされ、そして、その言葉によって十字架への道を歩まされる。自分ではなく、ただ主なる神の栄光が称えられるために、自らをいけにえとしてエルサレムの真ん中で捧げるために。人々に捨てられるためにです。そのすべての言葉が、旧約聖書に書いてあるのです。
 このゼカリアの預言で注目すべきは、「羊飼いを打つ」のは主なる神ご自身だということです。主イエスは、単に人に見捨てられるのではありません。弟子に裏切られ、見捨てられ、ユダヤ人に断罪され、ローマの総督ピラトによって十字架につけられて惨めに殺されるのではなく、主イエスにとって味方であるべきはずの父なる神ご自身に打たれて殺されるのです。人間に頼らず、主だけを避け所としようとしたその主なる神ご自身によって打たれるのです。そのために、今、主イエスは真っ暗な夜道を弟子たちと歩いておられるのだし、弟子たちは闇の中でつまずくとおっしゃっているのです。

惨めなペトロ

 しかし、ペトロは、言います。
「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません。」
 通常だったら、「ペトロよ、お前は偉い。わたしは嬉しい」としか言い様がない言葉です。でも、主イエスは、はっきりとこう言われました。

「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。


 私は、二十歳前後の頃から「聖書」を自発的に読むようになりました。その頃、このペトロの場面が最も心に残ったと言うか、心に剣が突き刺さってくる思いで読みました。そして、それから三十年余の人生を生きていますが、その思いはますます深くなっています。
 聖書を読み始めた頃、通っていた教会でパスカルの『パンセ』を読む読書会があり、それにも出るようになって、今もって忘れない言葉に出会いました。それは、こういう言葉です。

「ところで自分の惨めさを知るのは、惨めなことである。しかし、自分が惨めだと知るのは偉大なことである。」
「一言で言えば、人間は自分の惨めなことを知っている。だから、人間は惨めである。本当に惨めなのだから。それでも、人間は偉大なのだ。自分の惨めさを知っているのだから。」
「木は自分の惨めさを知らない。」

 しかし、木のような人間もいると思います。つまり、自分の惨めさを知らない人間です。パスカル流に言えば、「その人はまだ人間ではない」ということになるのかもしれません。そして、人間ではない方が主観的には幸せだろうと思います。だって、自分の惨めさを知らないで済んでいるのですから。この時のペトロは幸せです。自分の愛を、その真実を信じることが出来るのですから。彼は惨めではない。少なくとも主観的には。でも、惨めです。自分が本当は惨めな人間であることを知らないからです。そして、彼の惨めさをすべて承知の上で、それでも彼を愛するお方がいることを知らないからです。
 やはり若い頃読んだ本の中で忘れ得ない言葉があるのですが、それは「人を見れば失望し、自分を見れば絶望する。ただ神を見た時にだけ希望がある」という言葉です。当時の私は、まさに失望と絶望の中にいて、どうしても希望を持つことが出来ない苦しみがあったので、この言葉も忘れませんでした。  この時のペトロ、彼は「他の連中はいざ知らず、自分だけは、主イエスを裏切ったり、見捨てたりはしない」と信じていたし、そう豪語しています。彼は、主イエスの言葉に傷つき、腹を立てさえしているでしょうが、ここで全身全霊を傾けて主イエスへの愛を告白しているのです。そういう時の人間の心の中には喜びがあるはずです。自分の命をかけて愛する対象がいる。その人に愛を告白できる。その瞬間、人間の心には喜びがあります。しかし、その愛の告白は、必ずと言って良いほど何らかの意味で告白したもの自身が破るものです。それが人間だからです。結婚の約束であれ、信仰の告白であれ、その時の高揚感は薄れて行き、愛していたこともあった、信じていた時もあった、今はもうあのような愛はない、惰性に流れているだけ、今はもう顔を見るのも嫌、他の人に愛は移った。信じる対象が変わった。いや、何も信じなくても生きていける。信仰生活なんて面倒臭い。そういう思いを一度も抱かない人はいないし、その思いに従って行動する人は多いのです。それが人間だからです。失望せざるを得ない人間、絶望せざるを得ない人間です。「私は違う」と思うことが出来る人が、この場にもいらっしゃるかもしれませんが、それは本当に惨めな人間ではないのか、自分では惨めだとは思っていないのかどちらかでしょうが、自らよく検証したほうがよいと思います。しかし、自分で幾ら自分を見ても自分のことは分からないものでもあります。

死の中の生 十字架の死と復活

 私はいつも自分のことがよく分からないし、さらに主イエスのことが分かりません。そもそも「主」とは「神」の意味だし、「イエス」とは「人間」の名前です。「主イエス」とは神なのか人間なのか、神にして人間なのか。神学的正解は主イエスは「神にして人間」なのですが、その正解に頷いたとしても、その内実はよく分かりません。
 私は今月になりマルコによる福音書の受難物語を読み始めてからずっと、悲嘆と賛美という相反することが共存している現実に直面しつつ困惑しています。嘆き悲しみに満ちているはずの主イエスの心の中に、しかし、賛美と感謝がある。それは何なのか。何故なのか。ここで何が起こっているのか。主イエスはそれをどう受け止めておられるのか・・・・。それが問題です。
 この箇所についてのある説教を読んでいたら、私たちプロテスタント教会を生み出した宗教改革者マルティン・ルターは、主イエスが弟子たちともった「過越の食事」のことをドイツ語でオーステルンと訳しているとありました。英語で言えばイースター、復活の食事という意味です。小羊が屠られ、その血を流す。その食事の最中、死の使いは、その食事をしている家を通り過ぎ、その家の中の者には新しい命が与えられる。そう理解したのです。モーセの時代の過越の食事の時、そこに起こったのは、イスラエルの民とエジプトの王や民との分離です。家の外には死があり、中には新しい命がありました。
でも、主イエスと弟子たちとの過越の食事においてはどうなんでしょうか?
 主イエスは、こう言われました。

「取りなさい。これはわたしの体である。」
「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」


 主イエスが死ぬのです。食事をしている家の中に死があるのです。この食卓がイエス様の死の食卓、肉が裂かれ、血が流される悲痛な死の食卓なのです。でも、それが同時に、その家の中にいる者たちにとって死が過ぎ越すためのものになっている。主イエスはそれを知っている。主イエスだけがそのことを知っている。そこに主イエスの賛美、感謝があるのでしょう。

聖餐の中の死と命

 先週の修養会は実り多いものでした。毎年私は、講演、分団討議、そして二日目の全体協議をセットとして考えています。そして、「聖餐の食卓を囲む共同体」を主題とする修養会は最低でもあと二回は持ちますから全部で六回いたします。そして、一年をかけて講演録の読み合わせをし、丸々六年をかけた修養会を一つの修養会と考えています。先日の講演の後の分団協議において、こういう趣旨の質問が出ました。そして、その質問を全体協議で取り上げて、私が思うことを語らせていただいたのです。質問は、こういう内容です。 「旧約の時代に契約締結の際に動物の血が流され、主イエスが私たちの罪の贖いとして血を流されたことの意味も理解できた。しかし、先生は、私たちの聖餐は最後の晩餐の再現だけではなく、復活の主イエスとの食事だと言われる。復活の主はもはや血を流されることはないはずだから、その主イエスとの交わりの中に、肉と血の徴であるパンとぶどう酒が用いられる理由はどういうところにあるのか。」
 私は、こういう答をしました。
「復活という限り、そこには死が前提とされている。しかし、イエス様は病気や老衰で死んだわけではない。十字架で肉を裂かれ、血を流して死んだ。その十字架の死を忘れてはいけない。その死にこそ私たちの命の根拠があるのだから。その十字架の死こそ、私たちの罪の贖いのための死、罪に対する愛の勝利の徴であり、その勝利の結果が復活なのだから。復活の主イエスが、私たちのために肉を裂かれ、血を流された主イエスであることを忘れて、ただ復活の主イエスと交わりを持つことは出来ない。」
 イエス様の十字架の死、そこにイエス様の復活の根拠があるのです。単に死ぬことが復活に繋がるわけではありません。イエス様は十字架の死を死なれたからこそ復活させられたのです。私たちもまた死ねば自動的に天において復活することが約束されているわけではありません。イエス様の十字架の死が私たちの罪の贖いのためであることを信じ、主が神様の力によって復活されたことを信じる信仰において、十字架の主イエスと結ばれ、そのことの故に、復活の命を約束されるのです。それが洗礼の意味です。そして、聖餐に与るということは、いつも新たに主イエスの十字架を通して示された神の愛を信じ、主の十字架と一体となることを通して新たな命を与えられ、復活の希望を固くすることなのです。そのことのために、洗礼を受けた私たちは信仰をもってパンを頂き、ぶどう酒を頂くのです。
 十字架の死の中に既に復活がある。肉が裂かれ、血が流される過越の食事としての最後の晩餐は、その意味で既にオーステルン、イースターを祝う食事である。ルターの解釈は、そういうものだと思います。そして、それは正しいと思います。

復活 ガリラヤ

 私は先程、敢えて読まないまま先に進んだ箇所があります。言うまでもなく、ゼカリアの預言に続く言葉です。主イエスは、羊飼いが打たれた後、羊が散らされるとおっしゃった後で、こうおっしゃっています。

「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」

 主イエスは、ご自身の十字架の死の先に、いやその死の中に既に復活が用意されていることを信じておられました。主なる神に打たれて殺されること、主なる神に見捨てられて殺されること、それは弟子たちに裏切られ、見捨てられることなど比較にならぬほどの悲しみであり、恐怖だったと思います。主イエスはこの後、三人の弟子たちを前に「ひどく恐れてもだえ始め、『死ぬばかりに悲しい』」と呻かれるのです。すべての人間の罪に対する神の怒りの裁きを一身に受けて十字架に磔にされて殺されることの恐怖、神なき陰府の世界に神様によって叩き落される絶望、その恐れと悲しみの中で、それでも、主イエスは「わたしではなく、あなたの栄光が現れるように」と祈り通されていきます。人を裁くことが出来る唯一のお方は、人を復活させる力をもお持ちであることを信じ、そのお方の御心にだけ従う信仰において、主イエスは死の恐怖、悲しみに耐え、その悲嘆の中にも賛美と感謝を抱くことがお出来になったのではないか?よく分かりませんが、そんな気がします。
 そして、主イエスは、弟子たちに「あなたがたより先にガリラヤへ行く」とおっしゃる。なんと慰めに満ちた言葉かと思います。この時の弟子たちは誰もこの言葉をちゃんと聞いていません。「それはどういう意味ですか」と尋ねてもいない。その前の「皆わたしにつまずく」という言葉にショックを受けて、自分の愛が真実なものであることを必死に訴えようとしているからです。しかし、主イエスは確信をもって、「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」とおっしゃる。
 「ガリラヤ」、それは主イエスと弟子たちが最初に出会った場所です。主イエスがペトロ達に「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と言って招き、ペトロたちが「すぐに網を捨てて従う」という応答をした地です。主イエスと弟子たちの間で、最初の愛の約束、信仰の応答がなされた地です。その時から何年経ったのか?一年半なのか三年なのか、それはよく分かりません。しかし、今、ペトロ達は、自分の思いとは裏腹に、最早、主イエスについていくことは出来ない所にまで来ているのです。今日の箇所の数時間後には、主イエスは捕えられ、弟子たちはパニックになった羊が散り散りに逃げていくように、逃げていくのです。しかし、この時の彼らはまだ主イエスの身に何が起こるか分からず、自分たちが何をするかも分からない。そういう彼らに、すべてが分かっている主イエスが語りかけるのです。「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」

先に行く


 この「先に行く」という言葉は含蓄が深いと思います。つまり、「時間的に先に行く」という意味と同時に「先頭に立って行く」、そういう意味があると思うのです。弟子たちは、これからつまずいてしまう。もう主イエスについてくることは出来ない。当然です。人間は誰も十字架の死を経て復活に至る道など歩めようはずもないのです。もし歩めるのだったら、逆に、主イエスが歩む必要などありません。この道は、神の子イエス・キリストがたった一人で歩み通してくださった道です。この道は、いつも主イエスが私たちの先に行かれる道です。そして、今、主イエスは、その道を弟子たちと最初から歩み直そうとしてくださっている。そのために、主イエスは先回りしてガリラヤへ行かれるのです。そのガリラヤで主イエスと会う時の弟子たちは、この時の弟子たちとは違う人間です。彼らは、惨めな人間、自分の惨めさを知った人間、嫌というほど知らされた人間だからです。真実な愛を貫くことなど出来ない自分を、痛切に知らされた人間なのです。だからこそ、主イエスはその彼らと再び出会い、彼らに「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と全く新たな思いで語りかけてくださるのです。その恵みの事実がなければ、私が今ここに立っているなどということは全くあり得ないことですし、皆さんが今この礼拝堂にいるということもあり得ないのではないでしょうか。

残りの民と火の精錬

主イエスがここで引用しておられるゼカリアが語った神の言には、実は続きがあります。羊飼いが打たれた後、羊たちの「三分の二は死に絶え、三分の一が残る」というのです。そして、こういう預言が続きます。

この三分の一をわたしは火に入れ/銀を精錬するように精錬し/金を試すように試す。彼がわが名を呼べば、わたしは彼に答え/「彼こそわたしの民」と言い/彼は、「主こそわたしの神」と答えるであろう。

 「十二弟子」とは、「新しいイスラエル」だということは再三語ってきたことです。イスラエルとは、主なる神様から「わたしの民」と呼ばれる民ですし、「主こそわたしの神」と信仰を告白する民のことです。しかし、その民は残りの民であり、さらに火で精錬されるような試練を通して「主こそが神である」ことを告白する存在とされる民なのです。十二弟子の内、ユダは、マタイによる福音書によれば、その試練に耐えることが出来ずに自殺してしまいました。残りの弟子たちは、どうかと言うと、結局、何も出来なかったのです。自殺も出来ないし、かと言って、悔い改めて、「イエス様こそ主である」と自ら告白することも出来ませんでした。主イエスは、そのことを既によくご存知でした。彼らの惨めさを嫌というほどご存知だったのです。その上で、主イエスは彼らを愛し、そして招き続けるのです。
主イエスが十字架に磔にされる時、十二弟子はその場にはおらず、ガリラヤから付き従ってきた女たちだけがいました。その女の中の二人が、主イエスの葬られた墓に出向いた時、そこにいた天使は彼女らにこう告げました。

「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

   マルコによる福音書は、女たちは恐ろしくて誰にも言わなかったという不思議な終わり方をしますが、主イエスが、もう一度弟子たちを招き、新しいイスラエルとして立たせようとしておられることは確実なことだと思います。火による精錬、不純物がすべて溶けて無くなってしまうような試練を通して、彼らの愛を、信仰を、真実なものに造り替え、新たにご自身の民として招いて下さる。それが主イエスなのです。この真実な愛、死を超えた愛に刺し貫かれた時、ペトロ達は、「イエス様こそ主です。私たちの救い主です。信じて洗礼を受けてください」と命をかけて証しする者とされたのです。

はっきり言っておく

 主イエスは「はっきり言っておく」と言いつつ、ペトロがまだ知らぬ惨めさを通告されました。「はっきり言っておく。あなたは、わたしを知らないと言う。あなたは、そういう人間なのだ。」
 でも、それはペトロを罪人として断罪する言葉なのでしょうか。「あなたが、わたしのことを知らないと言うのと同じように、わたしもあなたのことを、神の前で知らないと言う」という意味なのでしょうか。違うのです。主イエスは、主イエスのことなど知らないと言ってしまうペトロのために、これから死ぬのです。そして、彼のために復活して下さる。そして、彼よりも先にガリラヤに行くのです。「そこでまた会おう」とおっしゃっているのです。
「はっきり言っておく。私はあなたを愛している。その愛は変わらない。永遠に変わらない。あなたはこれから自分の惨めさを知って自分に絶望するだろう。また他の弟子たちを見て失望するだろう。でも、あなたはガリラヤでわたしを見ることになる。そして、初めて希望を得るだろう。わたしが惨めなあなたを、また他の弟子たちも愛していることを知るから。そして、あなたたちだけではない。すべての人間を愛していることを知ることになる。そのことを知ったら、わたしのことを、わたしを通して現された神の愛を宣べ伝えなさい。そのことにおいて、人間をとる漁師になりなさい。」 主イエスは、実は、そうおっしゃっているのだと思います。そして、それは言うまでもなく、今日ここに招かれた私たちへの主イエスの言葉なのです。私たちは自分でどう思おうが、また人がどう思おうが、主イエスによって招かれ、選び立てられている新しいイスラエルだからです。
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