「アッバ、父よ」

及川 信

マルコによる福音書14章32節〜42節
一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。
誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

教会・神秘(神の秘められた計画)


 今日は中渋谷教会の創立記念礼拝としてこの礼拝を捧げています。そもそも教会を成り立たせているものは何なのか?あるいは教会とは何なのか?そういうことをしばしば考えさせられています。そして、そのことに関して多くの言葉を使って説明することも出来ます。しかし、私はその一方で、たった一言「教会とは神秘だ」と言いたい気持ちがあります。「神秘」とは、まさに「神様の秘密」のことであり、私たちには窺い知る事が出来ない、かすかに感じる、しかし、時に鋭く感じることが出来るものであり、それを感じた時には畏れと感謝、賛美と喜びに満たされる。教会とは、そういう「神秘」だと思うのです。
パウロは、コリントの信徒への手紙の中でこう言っています。
「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」
「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。」


 「神の秘められた計画」「神秘」、ギリシャ語ではムステーリオンと言い、英語ではミステリーです。福音の説教とは、神秘を語るものですが、それは神秘の種明かしをすることではなく、神秘を神秘として語ることなのです。誰にでも分かる言葉にすることではなく、分かる人には分かる、信じる人は信じる、しかし、分からない人には分からない、信じない人は信じない、そういう言葉として語る、いやそういう言葉としてしか語り得ない。そういうものだと思います。それは裏を返せば、突然分からせることがある、突然信じさせられることがあるということです。何故なら、神秘は知性によって知ることではなく、霊によって知らされることだからです。そして、教会とは、その福音の説教が聖霊の導きの中で語られ、その霊の導きの中で福音を信じた人々の神秘的な共同体です。ただの人間集団ではなく、ただ神がいます聖所でもない。神と人が神秘的な交わりを持つ共同体。それが教会であると言ってもよいのではないか。そう思います。

神秘としてのイエス・キリスト

 九月に入って今日まで、マルコ福音書を読んできて、私は絶えずある種の困惑を感じ続けていました。それは理性では捉え切れない神秘がここにあることを感じ続けてきたということです。ここには通常なら両立とか並立とか共存とかしようがないものが同時に存在していると思うのです。「嘆き悲しみ」と「賛美、感謝」とか、「死」と「命」とかです。嘆き悲しみから賛美と感謝に変わっていく、死から命へと移っていくというのなら分からないでもないのですが、嘆き悲しみの中に既に賛美と感謝がある、死の中に命がある、またその逆でもある。そういう現実が、この場面にはあると思うのです。そして、その神秘は結局、イエス・キリストの神秘に行き着くと言わざるを得ないと思います。先週の説教の中でも語ったことですが、「真の人にして真の神」、神と人の両方の性質を持っておられるお方、父・子・聖霊なる三位一体の神としてのイエス・キリスト。このイエス・キリストの不思議さ、まさに言葉の真正な意味における「有り難さ」。こういうお方は他にはいない。他の何者とも比較も対照も出来ない。そういうお方が、教会の頭、教会の主として、私たちの只中に生きておられる。私たちと共に生きておられる。しかし、私たちとは隔絶したお方として生きておられる。その神秘、それが教会の命だと思います。この神秘に対する感覚、畏れと感謝の感覚を失うと、教会はすぐさま異臭芬々たる人間集団に成り下がる他ありません。

ここに座っていなさい

 今日の箇所、「ゲツセマネの祈り」と呼ばれる箇所は、非常に有名な箇所ですけれど、この箇所で起こっていることは何か、ここで何が起こっているのか?それもまた神秘に属することだと思います。しかし、その神秘に目を凝らし、耳を澄ませていかなければなりません。
 主イエスは弟子たちと共に、過越の食事としての、また契約の食事としての最後の晩餐を囲んだ後、暗い夜道をオリーブ山に向かわれました。そして、その途中で、ペトロを初めとする弟子たち全員が今夜中に主イエスにつまずいて逃げることを予告されたのです。誰も一緒にいることはないと予告された。
 そしてオリーブ山の麓にあるゲツセマネという所に来たとき、イエス様は弟子たちにこうおっしゃいました。

「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」

   「ここに座っていなさい。」
これは単に座る、あるいは座って休憩するということではないと思います。たとえば、「大臣の椅子に座る」と言えば、大臣の職位に着任することを意味します。ここでも、そういう意味が含まれていると思います。前後の文脈を見れば、主イエスの祈りを妨げないようにということであり、また遠からずユダが連れてくるであろう祭司長や群衆が来るのを見張るという意味もあるかもしれません。しかし、「これ以上は私に近づくな」。そういう意味もあるのではないか。そんな気がします。「ここからは、あなたがたが入ることが出来ない領域である。」主イエスは、そうおっしゃっている。

三人の弟子たち

 しかし、ペトロとヤコブとヨハネという三人の弟子は、ここでも例外的な扱いを受けます。彼らは、他の弟子たちよりももう少し先まで主イエスに伴われていきます。こういうことは、これまでも二回ありました。一回目は、五章に記されていることです。ヤイロという会堂長の娘が死んでしまい、人々が泣きわめいている時、主イエスは「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」とおっしゃいました。人々は嘲笑います。しかし、主イエスは子どもの両親とペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人だけを連れて、死んだ娘が横たわっている部屋に入って行き、少女の手を取って「タリタ、クム」(少女よ、起きなさい)と声をかけられたのです。すると、少女はすぐに起き上がって歩き始めた。その時、人々は、「驚きのあまり我を忘れた」とあります。イエス様が、死の支配を打ち破る力をもったお方であること、神の力を授けられたお方であること、この出来事はそのことを示しています。そして、その事実を知った人々の驚愕、神の臨在に触れた時の驚きが記されています。主イエスは、その時、このことは誰にも知らせないようにと口止めをされました。そして、この場に、三人の弟子はいたのです。
 次は九章です。それは、ペトロがイエス様に「あなたはメシア(キリスト)です」と信仰告白をした直後のことであり、同時に、イエス様が弟子たちに受難の死と三日目の復活を予告された直後のことです。イエス様はペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて山に登られました。その時、彼らの前でイエス様の服が真っ白に輝き、旧約聖書を代表するモーセとエリヤが現れ、主イエスと語らい始めたのです。そして、雲が彼らを覆う中、「これはわたしの愛する子、これに聞け」という神の声が響いた。主イエスは、先ほどと同じように、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことを誰にも話してはいけない」と三人の弟子に命ぜられました。そして、イエス様が山から下りると、イエス様を見た群衆が「非常に驚いた」と記されています。その時のイエス様の顔やお姿は、いつもとは全く違うものだったのでしょう。まさに神の栄光を体現しておられたのだと思います。
 このようにペトロ、ヤコブ、ヨハネという三人の弟子たちは、主イエスが神の力を授けられた神の子であることを間近で見た目撃者であり、同時にそれは証言者として立てられた人々であると言って良いのです。しかし、その彼らの内の二人、ヤコブとヨハネという兄弟は、主イエスが栄光を受ける時には、右と左に座らせて欲しい、つまり重要閣僚の席に座らせて欲しいという頓珍漢な願いを吐露する人々であり、ペトロはペトロで信仰告白をした直後に、イエス様から「サタン、引き下がれ」と言われてしまう人物であり、先週の箇所にあるように、イエス様のことを三度も「知らない」と言ってしまう人物でもある。そういう三人を、主イエスは、この時もご自身の祈りの目撃者とすべく連れ出すのです。

恐れともだえ

 しかし、これまでの箇所とは全く違うことがここで起こり始めます。

「イエスはひどく恐れてもだえ始めた。」

 こんなことはこれまで一回もありません。「ひどく恐れる。」こう訳された言葉は、この福音書の中でここを含めて四回しか出てきませんが、その内の一回は、先ほど挙げた山から下りてこられた主イエスを見た時の群衆の驚きです。その時は既に、イエス様の服が真っ白に輝いていたわけではないでしょう。しかし、主イエスのお姿に、人々は、近寄り難い神々しさを感じ取ったのです。あとの二回は、女たちが主イエスの葬られた墓に行った時に、真っ白な服を着た若者を見た時の人間の驚きです。これもまた、地上に現れた神の使いを間近にした時の驚愕を意味します。いずれも、地上では見ることが出来ない現実、そこに神が臨在することを体感した時の人間の恐怖、そういうものを表す言葉として使われているのです。ですから、主語は常に人間です。しかし、その人間が味わう恐怖、驚愕を、死人を甦らせ、またご自身も甦ることになる神の権威を身に帯びた主イエスご自身が、ここで味わっておられる。それがまず第一の不思議です。
 次に「もだえる」です。この言葉は、聖書の中でここにしか出て来ない言葉ですが、ギリシャ語ではアデーモスと言って、アという言葉とデーモスという言葉からなっています。ある辞書によると、「故郷から離れた不安」という意味があるとありますが、デーモスとは民衆とか国民の意味があります。そして、アはこの場合、否定を表すので、人々から完全に拒絶された恐れということになるのかもしれません。聖書の中に他の用例がないので推測する以外にないのですが、私はここにも二つの意味が重なっているように思えるのです。
主イエスの「故郷」、それは地上的な意味ではガリラヤです。生まれはユダヤのベツレヘムですが、育ちはガリラヤです。しかし、今いるのは遠く離れたユダヤ地方のエルサレムです。そして、周りにいる弟子たち、彼らはガリラヤからずっと一緒だった弟子たちです。でもこの時既に、主イエスは彼らにも完全に拒絶されているのです。主イエスは今、実はたった一人である。そして、これから逮捕され、裁判にかけられ、あっと言う間に、処刑されてしまう。そのことを主イエスだけは知っている。そういう不安、恐れがあると思います。
しかしまた同時に、主イエスの真の故郷は天です。天の父なる神の住まい、その懐が、主イエスの故郷なのです。その故郷である天、あるいは父なる神様から、主イエスは遠く離れ、そして今、完全に拒絶されようとしている。翌日には「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか」と叫びつつ死ななければならないのです。そういう不安と恐れ。地上の故郷、そこに生きる人々、天上の故郷、そこにおられる父なる神、その両者から完全に拒絶される。どこにも自分の居場所がない。心の置き所がない。そういう悲しみ、不安、恐れ、そういうものが主イエスを捕えているのではないか。それこそ、神秘なのであって、私たちには知り得ようはずもないことですが、今の私にはそんな感じがします。
 だから、主イエスは「わたしは死ぬばかりに悲しい」と呻かれる。「わたし」とは、「私の魂」「私の心の奥底」と訳してよい言葉です。そして、そう呻かれてから、三人の弟子に「ここを離れず、目を覚ましていなさい」と命ぜられます。「ここに留まれ、そして、起きていなさい」と。ここでも、主イエスは境界線を引いていらっしゃると思います。この先は、主イエスだけが進むことが出来る場所なのです。人は近づけない。
 主イエスは地面に「ひれ伏して」祈ります。これは倒れ込む、くず折れるとも訳し得る言葉です。そして、苦しみの時が「過ぎ去るように」と祈る。「過ぎ去る」とは「滅びる」とも訳されます。

アッバ、父よ

 その祈りの第一声は、こういうものです。

「アッバ、父よ。」

 「アッバ」とは当時のユダヤ人が使っていたアラム語で、それは小さな子どもが父親を呼ぶときの言葉です。幼児はまだ舌が回りませんから、唇を使っての発音をします。アブアブだとか、ンマンマとか、パパとかママとか、そういった言葉、それがアッバです。主イエスが神様に向かって、かくも親しい、幼児が全幅の信頼をもって父を慕い求める言葉で呼びかける。その姿は、この時だけでなく、いつものことだったのでしょう。それが弟子たちの記憶に残り、弟子たちもまた、使徒として伝道を開始した時、神様を「アッバ」と呼びつつ、主イエスのことを宣べ伝えたのだと思います。だからこそ、マルコはわざわざ「父よ」を現すパーテールという言葉の前に「アッバ」と書いたのだと思います。

「あなたは何でもお出来になります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

 子は父の力を完全に信頼しているものです。だから安心してその腕に抱かれるのです。そして、信頼しているのは力だけではありません。その愛です。父が自分を愛している。その愛を信頼しているのです。だから、父の腕にすべてを委ねるのです。しかし、その「父」が、「アッバ」が、今、子である自分を恐るべき裁きに遭わせようとしている。十字架の上で肉が裂かれ、血が流されるという裁きの杯を飲ませようとしておられる。子を見捨てようとしておられる。その厳然たる事実、ただ主イエスだけが知っているその事実を前にして、主イエスは「ひどく恐れ」「もだえ」苦しみ、「死ぬばかりの悲しみ」を心に抱いておられるのです。
 この時の主イエスのことを、私たちは理解も共感も出来ません。こんな経験は、誰もしたことがないし、これからもすることがないからです。「恐れ」とか「悶え」とか「悲しみ」とか、私たち人間が経験する言葉で書かれていますし、そう書くしかない面があることは確かですけれど、でも、ここに記されていることは、私たちの経験とは全く異質なものです。この経験は神にして人であるお方だけの経験だからです。

   神にして人のキリストとは

 そのお方が、今、何故に、このような苦しみを経験しなければならないのか?それは、愛の故です。フィリビの信徒への手紙の中で、パウロは当時の讃美歌の言葉を引用してこう言っています。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた。へりくだり、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順だった。」
何故、キリストは神の身分から「イエス」という名を持つ人間となられたのか?それは、人間を愛するからです。何故、そのイエス・キリストは死に至るまで従順に父なる神の御心に従われたのか?何故、その死は十字架の死なのか?それは、神を愛し、人を愛する愛の故なのです。この愛こそ神秘なのです。
 私たちはこの九月にもたれた修養会を通して、イエス様と弟子たちとの最後の晩餐は、「過越の食事」であり、同時に「契約の食事」であることを学びました。また終末の救いの食事の先取りであることも学んだのです。そして、「過越の食事」においても、「契約の食事」においても、犠牲の動物の血と肉が必須であることを知らされました。罪に対する裁き、また新しい命の創造という神の御業は、肉が裂かれ、血が流される死という現実を抜きに、口約束だけでなされるものではありません。神の民イスラエルは、その動物の犠牲、肉と血を通して、その罪が赦され、新しい命を与えられてきた民です。しかし、その彼らが今、そのようにして与えられてきた命を無にする罪を犯し続けている。「神様、神様」と口にし、形としては礼拝を守りつつ、実は自分自身を神の位に座らせ、異邦人を神に見捨てられた民として軽蔑し、異臭芬々たる人間集団に堕している。その現実を前にして、主イエス・キリストは、またその父なる神は、彼らを捨て去るのではなく、罪の裁きを通して新しい民を創造することに決められたのです。主イエスが十二人の弟子を選ばれたことに、その計画の端緒があります。しかし、彼らを初穂として新しい民を創造するために必要なのは動物の犠牲ではない、罪人としての人間の犠牲でもない。罪なき神の独り子が、罪がないというその事実の故に、イスラエルのみならずすべての罪人の罪をその身に背負って裁かれる。そこに神の秘められたご計画がある。新約聖書とは、その事実を証言している書物だと思います。私たちは、ただ聖霊によってのみ、その事実の証言に対して「アーメン」と言えるのです。
 しかし、人となられた主イエスはこの時、人の願いをお持ちです。すべての人間の罪を背負って裁かれる。「アッバ」と呼ぶ神に拒絶されて・・・。そんな理不尽なことはない。神様なら何でもお出来になるのだから、他に方法があるはずなのではないか。そう思われたのだと思います。主イエスがこれから身代わりになって裁かれる人々とは、主イエスのことを拒絶する人々です。罪を自覚し、赦しを求め、「どうか私たちの代わりに死の裁きを受けてください」と主イエスに願っている人々ではないのです。そんな人々は何処を捜したっていない。側近中の側近である三人の弟子たちですら、「目を覚ましていなさい」と言われてもほどなく眠ってしまうのです。食事を食べ、酒も飲み、一日の疲れもあったでしょうが、主イエスの「死ぬほどに悲しい」という言葉を聞いても眠ってしまうのだし、目が覚めたときには逃げ出し、そして主イエスのことを「知らない」と三度も言う弟子たちなのです。そして、主イエスを裁判にかけて断罪するのは、自分たちこそ神の民だと自負する神の民なのです。ただひたすらに神の御心を生き抜いてきた主イエスを、「神を冒?する罪人」と断罪するのは神の民イスラエルです。そして、実際に処刑を執行するのは法と秩序を重んじるローマ人です。法的にはなんら罪を見出せない人間を、自分の地位の安泰のために殺すのです。皆、誰も彼も、自分の安泰を考え、そのために主イエスを殺すことに邁進していく。主イエスが犠牲となって死ぬのは、そういう人々のためなのです。それはあまりといえばあまりに理不尽なことです。主イエスは人として、その理不尽さに耐えることは出来ないのだと思います。
 しかし、主イエスは神の子であり、神とその本性を同じくする方です。道理にしたがって生きてこられたわけではなく、神の愛に従って生きてこられた方であり、その神を愛し、神が人を愛するように人を愛して来られた方です。その愛とは、赦し難き人間を愛する、捨て去るべき人間を慈しむ、そういう愛なのです。ご自身を抹殺しようとする者たちを愛し、赦し、生かそうとする。そういう愛なのです。その神の愛を、神秘を、主イエスはここでも失うことがない。それ故に、ここでも「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られる。そして、主イエスは、「祈り求めるものは、既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」と弟子たちにおっしゃっていました。主イエスの祈りは、そのとおりになりました。神様の御心は十字架の死であり、主イエスはその十字架の死に至るまで、その御心に従順に従われたのです。
 先程引用したフィリピの信徒への手紙の言葉には続きがあり、それはこういうものです。

「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」

   十字架の死という最低最悪の死を経験された方を、神は最高最上の地位に引き上げ、「主」というご自身の名前を与えられたと、聖書は告げます。そして、天上、地上、地下の者たち、つまり神の被造物である人間が、生死を越えて、イエスの御名にひざまずき、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、つまり信仰の告白と伝道を開始して、父である神を褒め称えることになった。

教会の誕生

 ここに教会が誕生したのです。教会とは、主イエス・キリストの十字架の死と復活、そして昇天という神の秘められた救いのご計画を、御言と聖霊によって知らされて、主イエス・キリストの前に跪き、主を礼拝し、神を父と呼ぶ者たちの共同体であり、それは天地を貫くものなのです。
 私たちは、恵みによってその「教会」に加えられている者たちです。その私たちは、毎主日、この礼拝の中で「主の祈り」を祈ります。主イエスが教えてくださった祈りであり、このように祈れと命じてくださった祈りです。その祈りは、古代教会においては洗礼を受けた信徒だけが祈ることが許されたものです。祈りとは、まさに神秘であり、秘儀だからです。人間が、その言葉を通して神様との交わりを持つ。これが神秘でなくてなんでしょうか。だから、神を信じていない人は、禁じられなくても、そもそも祈るということは出来ません。祈りは信仰が前提となった神秘的な行為です。それ故に、古代教会においては、主が献身してくださったことの徴である聖餐と私たちの献身の徴である献金、そして、主の祈りは一つのセットでした。未信者を含む礼拝を終えた後に洗礼を受けた信者だけで聖餐礼拝を守り、そこで「主の祈り」は祈られたのです。今、長老会で礼拝式次第に関して学びを始め、来年の二月の全員協議会で皆さんに新たな礼拝式順序をご提案するための準備をしていますが、その柱の一つは聖書朗読と説教を一つのものと考えるということであり、もう一つは聖餐、献金、主の祈りを一つのものと考えるということです。これは古代教会と宗教改革者カルヴァンの伝統に帰ることも意味しますが、その点については、時期が来たらお話をします。

「父よ」と呼べる救い

 何故、私が今、「主の祈り」や礼拝に関して触れるのかと言うと、その祈りの冒頭にあるのは「父よ」という呼びかけだからです。私たちは現在、マタイによる福音書に記されている「主の祈り」を基にして祈っています。そこには「天におられるわたしたちの父よ」とあります。しかし、ルカによる福音書の方では、ただ「父よ」と呼びかける形になっています。明らかにルカの方がイエス様の言葉を伝えていると考えられています。神様を、それも天におられる神様を、「父よ」と呼ぶことが出来る。そこに救いがあるのです。
ルカによる福音書一五章に出てくる「放蕩息子」の譬話を見るまでもなく、聖書で言う「罪人」とは何であるかと言えば、父を失った人間のことなのです。真の故郷を失ってしまったと言っても良い。父がいたのに、そしてその家の中で暮していたのに、自分の人生は好き勝手に生きる、自分の思い通り生きる、親なんていなくたって生きていける、金さえあれば楽しく生きることが出来ると思い込み、貰えるものは全部貰って家を飛び出し、浪費に浪費を重ねて父への感謝を忘れ、その交わりを捨ててしまった子ども。自分の命を自分で造った訳でもないのに、「自分の命は自分のもの」と勝手に思い込み好き勝手に生きておきながら、死にそうになると神頼みをしたりする哀れな人間。最早、故郷に帰って「お父ちゃん」と呼ぶことも出来ないほどに不義理を尽くしてしまった人間、そういう人間を、聖書では罪人というのです。犯罪者のことではありません。
 しかし、そういう人間、父から見れば、いなくなってしまった息子、死んでしまった息子の帰りをひたすら待っている父がいる。待つだけではない。捜しに出かける父がいる。最終的には、そういう親不孝者のためにご自分の命を捨てる方がいる。主イエスは、ひたすらにその神秘を語り続け、そして、その父なる神の神秘の愛を体現されるのです。 「私だ。どうしようもない親不孝者を新たに子どもとして抱き締めるために、捜し出し、ついに命を捨てる父の愛を体現しているのは私だ。私こそ、父を失った子であるあなた方を父の許に連れ戻すために人となった神なのだ。あなたがたは、ただ私を通して、神を『父よ』、『お父ちゃん』と呼ぶことが出来る。」
主イエスの生涯、その十字架の死と復活と昇天は、その喜ばしい知らせ、「秘められた計画」としての「福音」を証しするものなのです。その主イエスが、弟子たちに教えてくださった祈り、祈るように命じ、また招いてくださっている祈り、それが「父よ」という呼びかけに始まる「主の祈り」なのです。この祈りを祈れる、信仰をもって祈れること自体が、救われている証拠、父の家である教会に迎え入れられている証拠なのです。
 だからパウロは、ローマの信徒への手紙の中でこう言っているのです。

「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし、子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」

 私たちは神の霊、聖霊によってイエス・キリストにおいて現れる神秘、秘められた救いのご計画を知り、その救いの中に招き入れられた者たちです。だから、私たちキリスト者は神の子イエス・キリストに倣って、神を「アッバ」と呼ぶことが出来る神の子なのです。「お父さん、感謝します」と感謝を捧げることが出来る。「お父さん、ごめんなさい」と謝ることが出来る。そして、「お父さん、赦して下さい、どうぞ私たちを救ってください」とお願いすることができるのです。そして、その信仰をもって祈られる祈りは、御子主イエス・キリストを通して神に聞き届けられるのです。

神の秘められた計画

 パウロは、その先でこう言っています。

「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」

   私たちは、御子主イエス・キリストと共に「アッバ、父よ」と神様を呼ぶことが出来る者たちです。その私たちを、神様は今もその神秘のご計画の中で、御子の姿に似たものにしようと導き続けてくださっているのです。その行き着く先は、罪の結果としての死の滅びではなく、御子の贖いによる義と復活の栄光なのです。これは恵みとして与えられた神様の秘められたご計画、神秘であり、私たちの功績とか人格とは一切関係ありません。だから、私たちは今日も「アッバ、父よ、あなたの御子イエス・キリストは私たちの主です」と告白をして、神様の栄光を称える礼拝を捧げるのです。そして、そこに教会があるのです。創立記念日の今日、そのことを深く覚えたいと願います。
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