「霊の言葉」

及川 信

       コリントの信徒への手紙1 12章1節〜3節
    ヨハネの黙示録 14章6節〜13節
  兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。(コリントの信徒への手紙I 12章1節〜3節)

わたしはまた、別の天使が空高く飛ぶのを見た。この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携えて来て、大声で言った。「神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。」また、別の第二の天使が続いて来て、こう言った。「倒れた。大バビロンが倒れた。怒りを招くみだらな行いのぶどう酒を、諸国の民に飲ませたこの都が。」また、別の第三の天使も続いて来て、大声でこう言った。「だれでも、獣とその像を拝み、額や手にこの獣の刻印を受ける者があれば、その者自身も、神の怒りの杯に混ぜものなしに注がれた、神の怒りのぶどう酒を飲むことになり、また、聖なる天使たちと小羊の前で、火と硫黄で苦しめられることになる。その苦しみの煙は、世々限りなく立ち上り、獣とその像を拝む者たち、また、だれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も安らぐことはない。」ここに、神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐が必要である。
また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」“霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」
(ヨハネの黙示録 14章6節〜13節)

 ペンテコステに起こったこと

 今日はペンテコステ礼拝です。ペンテコステとはギリシア語で五十を表す言葉で、ユダヤ人にとっては過越祭から五十日目の五旬祭という祭りの日であり、私たちキリスト者にとっては、主イエスの復活から五十日目に天から聖霊が降り、彼らが一斉に信仰の証言を始めたことを記念する日となります。
この日、かつて「あの人のことは知らない」と言って逃げ去ったペトロ達は、炎のような舌が頭上に留まる中、「聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」のです。群衆がその様を見て驚き怪しむ中、ペトロが代表してユダヤ人に語り始めました。彼はこう言ったのです。

「神はこの(十字架につけられて死んだ)イエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。・・・だからイスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

   この告白あるいは証言は、ペトロに対する迫害と将来の殉教を決定付ける言葉です。そのことを彼は承知の上で、また覚悟して語っている。それは明らかなことですし、実際にその通りになりました。かつて命が惜しくて、イエス様のことを知らないと言った男が、今、その命を投げだすようにして、神は、十字架につけられて殺されたイエスを、主としメシア(キリスト・救い主)となさったのだと宣言するようになったのです。それは、その言葉を聞いて信じる人々が救われるからです。そのことのために、彼は自分の命を投げ出して語っているのです。自分のために命をかけて語っているのではありません。聞いた人が信仰を与えられて救われるために、自分の死を覚悟して語っているのです。
 ここに出てくる「主」とは、「主人」を表す言葉ですけれど、旧約聖書においては神様のことです。神を主とするとは、自分は主のもの、主の僕、主のために生き、主のために死ぬ。そういう者であることの表明です。ペトロは聖霊に満たされて、「自分はかつて自分の命を自分で守り、生かそうとする人間だった。しかし、主に生かされていることを知った今、最早そのような人間ではない。私は主のために生き、主のために死ぬ。そこにこそ真の人生があり、そこにこそ復活の命に生かされる救いがある」と告白しているのです。彼に、このような告白をさせているのは、言葉を発するために不可欠の舌としての聖霊が、彼の上に留まっているからです。その天から降って来た舌としての霊が語る言葉を、彼は語っているのです。この時の彼は、50日前の彼とは全くの別人です。新しい人間になったと言って、少しも過言ではありません。肉に従って肉の言葉を語って生きていた人間が、聖霊に従って霊の言葉を語りつつ生きる人間になるとは、そういうことです。
 その彼が語る霊の言葉によって己が罪を知り、悔い改め、主イエスを信じて洗礼を受けた人が、その日だけで3千人もいたと、聖書は記しています。今日、私たちの教会でも、礼拝に出席し続ける中で霊の言葉を聴き、信仰を与えられ、その信仰を告白し、洗礼を受ける姉妹が誕生したことを神様に感謝し、御名を賛美したいと思います。その信仰の告白もまた、聖霊によって与えられた言葉であることは言うまでもありません。

 パウロに起こったこと

 初代教会でペトロと並んで大きな働きをしたのは、パウロという人です。彼が書いたいくつもの手紙が、新約聖書の中に採用されたことからも、その働きの大きさは分かります。しかし彼は、ペトロのように主イエスの弟子として活動していた人物ではありません。生まれも育ちもユダヤとかガリラヤではなく現在の国名で言えばトルコの地中海沿岸の町ですし、元来、キリスト教を迫害する熱心なユダヤ教徒だったのです。あらゆる意味で、イエス様とは最も遠い存在だった人です。しかし、その彼を主イエスは選ばれました。彼は、ダマスコという町にいるキリスト者を迫害するために出かけたその途上で、突然、天からの光に照らされ、復活の主イエスの言葉を聞いたのです。そして、その言葉に叩きのめされ、3日間目も見えず、食事も出来ないほどの衝撃を受けた後、洗礼を授けられてキリスト者にされたのです。彼の場合、キリスト者になることは伝道者になることでした。それは、彼がこれまでキリスト者にやってきたことを、今度はやられることを意味しました。つまり、逮捕され、鞭打たれ、牢獄に入れられ、石を投げられ、リンチを受ける。そういう苦しみの末に、殉教する。そのことが約束された人生を生きるようになったのです。
 その彼が「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」と言っているのです。こういう言葉は、人間の知恵による認識だとか、ただの決断だとかで、言えることではないからです。「イエスは主である」とは、人から人への教育で伝えることが出来るものではありません。これはただの知的な認識ではなく、この信仰によって生きるという現実を表す言葉であり、その言葉は主イエスを通して与えられる聖霊によってしか与えられず、聖霊によってしか発することは出来ないのです。真実にこの言葉を言うとは、そういうことです。
そして、真実に「イエスは主である」と言う場合、それは、肉に従って生きていた時の次元とは全く異なる次元の人生が始まったということです。彼は、その現実をフィリピの信徒への手紙においてはこう表現しています。

「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然と崇められるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」

また、ローマの信徒への手紙ではこう言っています。
「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のためです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」

 ペトロがペンテコステの日に聖霊に満たされて語った言葉と全く同じ内容の言葉を、パウロは語っているのです。彼らはそれぞれ別の仕方で聖霊に捕えられ、聖霊の中で新たに生まれ変わらされ、そして聖霊によって語らされているので、そういうことが起こります。聖霊によって引き起こされる現実というものが、ここにあります。そして、教会は今もその霊によって引き起こされる現実を生きているのです。
 キリストが私たちのために肉体を取り、そしてあの恐るべき十字架で死ぬことを通して私たちの罪に対する赦しを与え、復活して今も生きて下さっている。そして、「わたしの主」として命を注ぎ出すようにして愛し続けてくださっている。その事実を知らせてくれるのは聖霊によって書かれた聖書の言葉を、聖霊の導きの中で読むことが出来た時であり、御言葉の説教を聞けた時です。その時、私たちは溢れるばかりの感謝と賛美を捧げざるを得なくなり、それが礼拝を生み出すのです。教会とは何よりも霊の言葉によって生み出された礼拝共同体です。

 神なき世界の現実

 近代は「科学の時代」「知性の時代」と言われます。それはつまり、「神の時代は終わった」「迷信に支配された時代は終わった」ということです。人間の知性、あるいは理性こそが世界を支配し、自分の人生を導くものであると多くの人が思っている。特に、特定の宗教を持たない人が多い日本ではそうです。現代の日本の社会は、イスラム社会とかユダヤ人社会とかヒンズー社会とか、その宗教なくして家族関係も近所付き合いもないという宗教社会ではありません。しかし、仏教にしろ神道にしろキリスト教にしろ、何かの時にはやはり利用する人は実に多いのだし、星占い、姓名判断、血液型占いなどが、これほど一般に浸透している国も珍しいでしょう。テレビのワイドショーや週刊誌で、そういう占いがないものはないと思います。理性で迷信を馬鹿にしつつ、実は迷信の虜になっている。そういう現実がある。そして、悪徳宗教の霊感商法の被害は後を絶ちません。
 先日、ある神学書を読んでいたら、こういう言葉がありました。ヨーロッパのことを前提とした言葉ですけれども、日本においても同じ面があると思うので、少し引用します。

「中世は世界を、神によって書かれた一冊の書物と見做してきた。その筋書きは神のもう一つの書物、聖書によって明らかにされる。ところが今や事情が変わってしまった。世界は今、様々な物語によって筋書きが与えられている。その筋書きを個別に与える者は、神に代わる別の著者である人間である。本当の著者(author)を失った世界は、本当の権威(authority)を失ってしまった。人間は、今や自分が自分に正当性を与える自分自身の著者である。」

 現代の人間は、神を排除することを通して、自らの正当性を自分で与えなければなりません。そのように自らを追い込むというか、買いかぶることによって、自分で自分が分からなくなっているのではないでしょうか。何故この時代に、この国に、この性別で、この親の下に生まれなければならなかったのか、何のために生まれたのか、何故生きているのか、何をしたらよいのか、何が求められているのか、何故死ぬのか、死んだらどうなるのか・・・・こういう存在の根底に関る事柄に関して、神を抹殺し得た気分で生きている私たちは、自分で考え、自分で暫定的な結論を強引に導き出し、自分で導き出した結論に必死になって縋りついているだけの場合はいくらでもあります。それはつまり、自らを権威(オーソリティ)にしていることなのですが、実はその権威の内実は不安だらけの自分、何も分かっていない自分なのです。現代は真の権威を喪失し、不確かでおぼつかない権威らしきものが乱立していると言って良いと思います。そういう中で、多くの人々は目に見える現象に翻弄されながら生きるしかない。それこそが、幻想とか仮想に満ちた世界、まさにバーチャルリアリティの世界なのに、そこに現実があると思い、宗教は迷信だと思っている。そうでありつつ、宗教を利用し、また利用されたりしている。

 教会の使命

 現代社会とそこに生きる人間の現実についてどう考えるかは様々な視点がありますし、私が今言ったことも一つの視点からの一つの評価に過ぎません。しかし、それがある意味で当たっているとすれば、その社会の中で生きる教会の使命は何なのでしょうか。それは、目に見える現象よりもはるかに現実的な霊の世界を証しすることだと思います。理性にも訴えかけつつ、理性によってだけでは理解し得ない現実があることを、聖霊の言葉を聴き、聖霊の言葉を語り、聖霊に従って生きることを通して証しすることだと思います。
つまり、天地創造から世界の終末に至る壮大な神の歴史、あるいは神の救済の物語の中に世界を位置づけ、自分を位置づけていくことを通して、何故生まれ、何故生き、何故死に、その後どうなるのかという根源的な問いに関っていくのです。その神ご自身がその独り子イエス・キリストを人として生まれさせ、十字架の死を味あわせ、復活させ、神の右に上げる一連の御業を通して世界の歴史、一人一人の人生に関り、そして聖霊を与えることを通して、私たち一人一人を主イエス・キリストに結び付けて下さっているという現実を証しするのです。その主に結ばれる時に、私たちは生の意味、苦難の意味、死の意味をその根底から教えられます。そして、独り子をさえ惜しまずに十字架につけ給うた神様、さらに御子を復活させて、私たちと共に生かしてくださる神様によって、私たちの存在、また人生が正当化される、受け入れられていることを知る時に、私たちは初めてまことの平安、安心をもってこの地上を生き、そして死ぬことが出来るのです。それは、生死を貫く永遠の愛で愛されていることを知る喜びを与えられるということだからです。

 信仰と忍耐

 先程、ヨハネの黙示録14章6節以下の言葉を読みました。今日、皆様のお手元に配られている会報の巻頭言に、14章5節までの御言に関して語った説教の要約を載せておきました。そのことを踏まえて今日の説教箇所を選んだという面もありますから、後でよくお読みいただければ幸いです。
簡単に言うと、そこに記されていることは、ローマ帝国内の厳しい迫害状況の中でキリストへの信仰を守って生きることの厳しさです。「獣とその像を拝み、額や手にこの獣の刻印を受ける者」とは、迫害に負け、皇帝崇拝に陥り、この世の富、地位、名誉、平和を求めて、「イエスは主である」という信仰告白を捨てる者たちのことです。そういう者たちには神の怒りが降り、昼も夜も安らぐことはないという厳しい言葉が、天使によって語られるのです。その天使の言葉を伝えた後、ヨハネは「ここに、神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐が必要である」と言います。主イエスも「最後まで堪え忍ぶものは救われる」とおっしゃっていました。信仰に必要なことは忍耐です。その忍耐を貫く人々に関して、ヨハネはこう語るのです。

また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」“霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」

 葬儀で読む言葉


 私は、牧師として葬儀をするようになって2年か3年目の頃から、葬儀の冒頭には必ずこの言葉を読むようになりました。それにはあるきっかけがあります。私の神学校の恩師の一人から頂いたある年の年賀状にこの言葉が書かれていたのです。私たち日本人は、親とか伴侶とかが亡くなると、喪中を知らせる葉書きを出して年賀状のやり取りを控える習慣があります。それはそれで一定の意味があると思います。しかし、この恩師は、自分の伴侶の父親が召されたことを年賀状で告げた上で、この黙示録の言葉を書いて、この言葉を信じることが出来る幸いを感謝していました。召された方も熱心なキリスト者だったのです。その年賀状を見た時から、私は葬儀の時は必ず、この言葉を読むことにしました。

また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」“霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」

 霊の言葉


 この世には様々な声が満ち溢れています。私たちを不安や恐怖に陥れる声も聞こえてきますし、ぬか喜びさせる声も聞こえて来る。この世を生きていれば、それらは嫌でも聞こえてきます。でも、それらはすべて肉なる人間が語っている言葉です。すべて一時的にして表面的な現象を伝える言葉に過ぎません。ヨハネの生きた時代だって、基本的には同じです。しかし、この時代は獣に例えられる独裁者が激しい脅迫の言葉を語り、自分に服従しない者たちに対して、実際に厳しい迫害をしていた時代です。その獣の声と暴虐の現実を毎日見聞きしながら当時の人々は生きていました。そして、多くの人々は「寄らば大樹の陰」「長いものには巻かれろ」ということで独裁者に従っていったのです。キリスト者の中からも脱落する人が何人もいました。しかし、ヨハネには聞こえて来る声がもう一つあるのです。また見える現実がもう一つある。彼は天使の言葉、そして霊の言葉が聞こえるのです。そして、天国の姿が見えるのです。天使は言います。「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」と。霊も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」
 いつの時代だって信仰に生きることには労苦が伴います。特に独裁者がいる時代、その労苦は極みに達します。その労苦の中で信仰を捨ててしまう人もたくさん出ます。でも、聖霊によって「イエスは主である」との信仰と告白を与えられた者は、信仰を捨てることは出来ないのです。それは自分のものではないからです。信仰は自分の所有物ではありません。神様から与えられる賜物です。信仰を絶えず新たに与えられる神様の賜物として受け止める者は、信仰を捨てるということ自体が不可能です。絶えず新たに聖霊が信仰を与え、聖霊がその告白を与えるからです。その聖霊に捕えられて、生涯、信仰の道を生きる者は主に結ばれた者です。そういう者が死ぬことは幸いなことです。パウロの言葉で言えば、利益ですらある。もちろん、地上に残される者と天上に召される者との間の別離の悲しみはあります。愛する者と共に生きることが出来ないという痛切な空虚感もある。様々な後悔、自責の念に苛まれることもある。人々の慰めが何の役に立たないことがあります。でも、霊の言葉を聞くことが出来るなら、その霊が語る現実を見ることが出来るなら、そこに何にも替え難い慰めと望みを持つことが出来るでしょう。私たちの主であるキリストは、生きた者と死んだ者との主となるために死に、そして復活して今も生きておられるのですから。洗礼を受けた私たちは今や生きるも死ぬも主のためであり、主のものとされているのです。

 主の食卓

 今日はこれから主の食卓を共にします。この食卓は地上と天上の教会を繋ぐ食卓です。洗礼を授けられた私たちは、今日新たに与えられた信仰をもってこの食卓に与ることを通して、主にあって一つとされます。それはここにいる私たちのことに留まりません。天にいるすべての信徒たちを含むのです。そして、私たちはこの食卓に与ることを通して、世の終わりの救いの完成をはるかに望み見ることが出来、天上の情景をうつし偲ぶことが出来ます。そして、天上において主に結ばれて死んだ愛する家族が、愛する先達が、愛する友が、主にあって安らいでいるという現実、仮想でも幻想でもない、神が造り出して下さっている現実を見ることが出来るのです。そして、私たちは今既に主のもとのされている喜ばしい現実を確認し、確信することが出来るのです。これはすべて霊の言葉を聴き、信じることが出来る者にとっての幸いです。この幸いを感謝し、この幸いを一人でも多くの人々と分かち合うために、これからも「イエスは主である」という霊の言葉を聴き、語りつつ生かされる者でありたいと願います。
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