「神を見て、食べ、また飲んだ。」

及川 信

       出エジプト記24章1節〜11節    
主はモーセに言われた。「あなたは、アロン、ナダブ、アビフ、およびイスラエルの七十人の長老と一緒に主のもとに登りなさい。あなたたちは遠く離れて、ひれ伏さねばならない。しかし、モーセだけは主に近づくことができる。その他の者は近づいてはならない。民は彼と共に登ることはできない。」
モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」
モーセはアロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの七十人の長老と一緒に登って行った。彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のような物があり、それはまさに大空のように澄んでいた。神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。

 契約の民 アブラハムの召命


 先週から9月の修養会に備えて、私たちが祝い、また守っている聖餐の食卓の背景を学び始めています。先週は、イスラエルの民がエジプトを脱出する前夜の「過越の食事」に関して御言に聴きました。今週は、エジプト脱出後のシナイ山で神様と契約を結ぶ場面とその後の食事に関してです。9月に入ってからはルカによる福音書の最後の晩餐と主イエスの復活に関する御言を共に読んでいく予定です。
 神様とイスラエルの契約の土台に、イスラエルの先祖であるアブラハムとの契約があることは言うまでもありません。
アダムとエバの堕罪による楽園追放があり、ノアの洪水を通して世界の再創造があったにも拘らず、人類は再び自らを神の地位に上げようとバベルの塔を建設しました。その結果、再び罪の呪いに落ち、分裂してしまったのです。神様は、そういう世界を再び祝福に満ちた世界とするために、アブラハムを選び出したのです。

主はアブラムに言われた。 「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。 わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。 あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。 地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。

 ここは、アブラハムに対する召命と呼ばれる場面です。「召命」とは、神様によって命が召し出されることです。つまり、神様によって新しい命を与えられて、その命を生き始めることです。私たちが洗礼を受けてキリスト者になるためには、神様から召命がなければなりません。キリスト者とは、人間がなりたいと思ってなるものではなく、神様の選びがあり、神様が召し出したからなる。誤解を恐れずに言うならば、仕方なくなると言ってもよいと思います。少なくとも、神様が召し出す目的をちゃんと知り、その目的にかなって生きるとはどういうことであるかを知っているならば、誰だって尻込みしたくなることだと、私は思います。
牧師になることも、召命がなければ本来はあり得ないことです。神様から召しを受けた召命感が曖昧であると、牧師の仕事を続けることは難しいと思います。どんな仕事もそういう面があるのだろうと思いますけれど、牧師とは能力とか資質よりもむしろ召命感が問われるものです。神様の召しがある限り、そして、それに応えなければならないと思う限り、さして能力がなくても、資質としてはあまり向いていなくても、この仕事を続けるしかありませんし、何とか用いられて続けていくでしょう。しかし、召命感が希薄であったりぐらついたりすれば、いかに能力があり資質があったとしても、続けることは無理です。キリスト者として社会を生きることも、能力や資質とは関係なく、神様の召命を受け、その召しに応えるか否か、ただそれだけが問われていると思います。召命感が確かでなければ、この誘惑多き、また試練の連続であるこの世の歩みを、勝ったり負けたりしながらであっても、最後まで礼拝を守る信仰生活を続けることなど、到底出来るものではありません。
 そして、キリスト者にしろ牧師にしろ、神様は何のためにその命を召し出すのかが絶えず明確になっていなければ、どうにもなりません。私たちがキリスト者として召されたのは、私たち自身が呪いの支配から脱出させられ、神様の祝福の内に入れられるためです。さらに私たちを通して、地上の氏族がすべて、全世界の人々が祝福に入れられる。つまり、新たなキリスト者が誕生していく。そういう明確な目的をもって、神様は私たち一人一人の人間を召し出しておられるのです。それは「使命」と言い換えてもよいと思います。
私たちキリスト者には、神様から与えられた明確な使命があります。私たちは毎週の礼拝で、その使命を新たに示され、また使命を生きる力を与えられるのです。あるいは礼拝を捧げることによって使命そのものを果たしているのです。礼拝を通して、私たちは神様への信仰をもって生きていることは決して無意味なことではなく、少し大袈裟に聞こえるかもしれませんけれど、世界の祝福のために生きているのだと知らさるのです。そして、礼拝によって信仰に生きる力を与えられる。そして、イエス・キリストを伝えている。それが私たちの礼拝、先週の言葉で言えば「祭り」であり「永遠に守るべき儀式」です。

契約の儀式 血と言葉

 アブラハムは、このような使命を与えられた最初の人物であり、「主の言葉に従って旅立った」最初の人物です。創世記12章では、明確な形で契約締結がなされたわけではありませんが、15章では動物が切り裂かれる契約の儀式が出てきます。アブラハムは、神様に言われた言葉にただ黙々と従っています。そういう形で神様とアブラハムの間に契約が交わされていくのです。
しかし、今日の箇所では、アブラハムの子孫であるイスラエルの民が、神様の言葉に対してきちんと自分の言葉で応答することによって契約が結ばれています。3節と7節に、モーセが読み聞かせた言葉に応えて、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」、また、「守ります」と民がしっかりと応答していますが、その応答によって契約が成立するのです。
しかし実は、この言葉はここが初めてではなく、19章に既に1回出てきています。19章は、エジプトを脱出して三月目のイスラエルの民が、シナイ山の麓でモーセを介して神様からの言葉を受ける場面です。まさに礼拝が始まろうとする緊迫感がそこにはあります。民はシナイ山に向かって天幕を張り、モーセが代表して山に登る。すると、主が彼にこう語りかけます。

「ヤコブの家にこのように語り、イスラエルの人々に告げなさい。 あなたたちは見た
わたしがエジプト人にしたこと
また、あなたたちを鷲の翼に乗せて
わたしのもとに連れて来たことを。
今、もしわたしの声に聞き従い
わたしの契約を守るならば
あなたたちはすべての民の間にあって
わたしの宝となる。
世界はすべてわたしのものである。
あなたたちは、わたしにとって
祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」
モーセは戻って、民の長老たちを呼び集め、主が命じられた言葉をすべて彼らの前で語った。
民は皆、一斉に答えて、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と言った。

   神様がイスラエルをエジプトから脱出させた目的、それは、彼らを祭司の国、聖なる国民とするためなのです。アブラハムと同じく、その信仰の故に、世界の祝福の源にするためです。そして、アブラハムが約束の地カナンに入って真っ先にしたことが、主を礼拝することであったように、イスラエルの民も世界の中で祭司として主を礼拝するのです。主を礼拝することによって、世界が神のものであることの証しをし、主の言葉を守って生きることを通して、主の支配を世界に広めていく。そこに、神の民イスラエルの、つまり私たちが召し出された目的、つまり使命があるのです。
 ここで民は、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と告白しています。守るべき契約の言葉は、これから語られようとしている。それなのに何故、まだ言葉も聞いていないのに、つまり語られてもいないのに、「主が語られたことをすべて、行います」などと言うのか。それは、彼らがすべてを見てきたからです。主が、エジプト人に何をして来られたか、そして水も食べ物もない荒れ野でどのようにして自分たちを養ってきてくださったかを見てきた。身をもって経験して来たのです。主の愛が、どれ程深く、そして峻厳なものであるかを痛切に知らされてきたのです。
それ故に、神様は十戒の一番最初に、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」とご自身を現しておられるのです。この自己紹介の言葉の中に、神様がどれ程深く、強く、そして具体的に、イスラエルの民を愛して来られたかが現れています。ここに神様の愛の証し、プロポーズがあると言って良いのです。そのプロポーズを受けて、イスラエルがどのようにして神様を愛するのか、また神に愛されている者同士として互いに愛し合うとはどういうことであるかが、十の戒め(十戒)の中で語られることになります。その十戒に続く「契約の書」は、十戒の精神が具体的な事例においてどのような形をとるかが記されていると言って良いでしょう。つまり、神様との愛の交わり、また人間同士の愛の交わりの「こころと形」が記されているのです。
 24章は、そのすべての言葉(十戒)とすべての法(契約の書)が、モーセによって民に語り伝えられる場面です。まず初めにモーセが神様から聞いた言葉を語り、民が応答し、さらにそれが書かれ、祭壇が築かれ、動物が屠られ、その血の半分が十二部族の祭壇に振り掛けられ、再び契約の書が読み聞かせられるのです。それに対して再び民が「わたしたちは、主が語られたことをすべて行い、また守ります」と応答をすると、残りの半分の血が民に振り掛けられる。そして、モーセが、「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」と宣言することによって、契約が締結されるのです。
 契約締結の際に動物の体が引き裂かれることは、アブラハム契約においても同様です。そこには、契約を破った時の裁きが死であることが告げられているのです。血は命なのであり、その命が契約に掛かっているからです。この神様との契約を守る時、イスラエルは神の宝であり、祭司の国であり、聖なる民として生き、守らなければ、その意味では死にますし、さらに肉体の死という裁きが下される場合もあるのです。
 ルカによる福音書の「最後の晩餐」において、主イエスは杯を弟子たちに渡しつつ、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」と告げておられます。その言葉の背景に、出エジプト記二四章の契約締結の儀式、つまり、血が注がれる礼拝があることは言うまでもありません。主イエスが十字架で流される血は、新しい契約、罪の赦しと永遠の命を与える契約の血なのです。私たちが毎週捧げている礼拝は、主イエスが十字架で流された「血による新しい契約」を新たに確認し、自分たちに与えられている使命を確認し、塵灰に過ぎない者に祭司としての働きを与えてくださった主なる神を讃美することに他なりません。特に聖餐の食卓を囲む礼拝においては、主イエス・キリストが十字架で裂かれた体と流された血を、心新たに信仰をもって頂くのですけれど、それは、誓約をもって受けた洗礼という契約を更新する礼拝なのです。

 聖なる場所と罪人

 そのことを踏まえつつ、出エジプト記24章に帰りたいと思います。1節から2節は、モーセ、アロン、ナダブ、アビフ、および七十人の長老がシナイ山に登るという9節に繋がります。この1節、2節で強調され、確認されていることは、民の中で選ばれた者だけが、主に近づくことが出来るということです。人は皆罪人であって、罪人が主に近づくことなど出来ようはずもないからです。人間の社会だって、犯罪者は自分を裁く存在には近づくことは出来ません。裁きを恐れて、見えない所に隠れている他にないのです。弁護者が共に立ってくれなければ、裁き主の前には立てません。しかし、イスラエルの民は今、主の召し出しによって主の山であるシナイ山の麓におり、モーセを介して、主の言葉を聞き、そして、その言葉を行う神の民とされようとしています。そこには、焼き尽くす献げ物とか和解の献げ物が必要でした。裁き主である神様の前に立つためには、罪に対する死の裁きを身代わりに受けて犠牲となる動物の死、その流される血が必要であり、神の言葉を行うという信仰が必要なのです。そのこと抜きに、彼らはこの山の麓にいることすら出来ません。まして、神の言葉を聴くことなど出来ようもない。主を見ることなど、考えられもしないことです。 19章の先を読めば分かりますが、民はシナイ山に雷鳴と稲妻が轟いた時に、神様の臨在に触れて、恐ろしさの余り震え上がりました。20章で、同じことが起こった時には、モーセに向かってこう言っています。

「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます。」

  人間と神、罪なる者と聖なる者とは、かくまで隔絶しているのです。しかし、その神が今、その愛をもって人間と契約を結び、交わりを持とうとして下さっているのです。そのために必要なことが犠牲の血と信仰告白(誓約)による契約です。そして、その契約が確かなものであることを確認する食事なのです。その食事をするために選ばれたのが、モーセを初めとする七十人の長老たちです。彼らは、契約を通して罪を赦された民の代表としてシナイ山に登っていきました。そこで彼らは「神を見た」と記されています。それがいかにとんでもないことであるかは、先に挙げた例によってもお分かり頂けると思います。でも、もう一箇所挙げておきたいと思います。
モーセが、神様に初めて出会ったのは、彼がエジプトから一人逃亡して、異邦人の世話になりながら、シナイ山の麓で羊を飼っていた時です。その時、柴が燃える炎の中に「主の御使い」が現れたとあります。しかし、それは姿かたちとして現れたのかどうかは分かりません。その柴は、燃えているのに燃え尽きないのです。不思議に思ったモーセが近づいていくと、柴の間から神様が「モーセよ、モーセよ」と呼びかける。彼が「はい」と答えると、神様は、こうおっしゃいました。

「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」 「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。

 つい先日もそういうことがありましたが、建築関係の業者の方と打ち合わせをしたりする時に、何人かの方は、礼拝堂でなくても、ベランダの階段から中に入る時に、ちょっとびっくりして「土足でいいんですか?」とお尋ねくださる時があります。まして礼拝堂の中や、講壇の上に上がるときは尚更、「このままでいいんですか?」と聞いて下さるのです。それはお寺にしろ、神社にしろ「土足厳禁」の場所があることを知っているからでしょう。聖なる場所に土足のままあがるとか、頭をたれたり、柏手も打たずに上がるとか、そういうことは恐ろしいことである。罰当たりなことである。そういう宗教的感覚は日本人の中に生きているし、大事なことだと思います。私たちプロテスタント教会、特に改革派とかバプテスト派とか組合派とか言われる教派の礼拝堂は、いわゆる祭壇というものがありません。つまり、神様がそこに居ますという特定の空間がないのです。今、私が立っている場所は講壇であり、説教卓です。聖なる場所ではなく、多くの方に話すときに顔が見えた方がよいから高い段になっているだけです。それはそれで尊い伝統だと言って良いだろうと思います。しかし、そのことで私たちが聖なる空間という感覚を忘れるとすれば、それは大きな損失です。その感覚抜きに聖書を読んでもよく分からないのです。神社などでも、入り口には水で身を清める洗い場がありますけれど、私たちが礼拝堂に入るときも、やはりそういう感覚を持たねばならないと思います。特に礼拝が始まる前は聖なる時間が始まる前なのですから、礼拝堂の中では、隣の人と挨拶したり、話したりして時間を過ごすべきではありません。神様の言葉を聞き、それに応答するという恐るべきことに対する心備えをすべき時なのです。

 神を見る

 とにかく、この時のモーセは、靴を脱ぐことを命ぜられましたし、また顔を上げることを恐れました。神の前に立つときの罪人とは、そういうものです。このことがよく踏まえられていなければ、9節以下に記されていることがいかに衝撃的なものであるかは分かりません。
 ここには二度も、「神を見る」という言葉が出てきます。もちろん、その姿形の描写はありません。大空のように澄んでいるサファイアの敷石の上に神がおられるという言い方です。一切の偶像を彫ることを禁止するのが十戒の二番目に出てくる戒めですし、神様はあらゆる意味で人間の手によって具象化されるものではありません。ユダヤ教の会堂には絵画も立像もありません。キリスト教会も本来はそういうものであったはずです。しかし、カトリック教会の礼拝堂の中には、イエス・キリストの像とかマリア像とかヨセフ像とかがありますし、様々な聖画が飾ってあります。ギリシア正教の会堂にはイコンと呼ばれる様々な聖画が飾ってあり、それは崇敬の対象でもあると思います。(文盲率の高かった時代の伝道の必要性がありますけれど。)しかし、私たち宗教改革によって誕生したプロテスタント教会、特に改革派の教会には像はもちろん絵画も礼拝堂の中にはありません。あるのは説教卓、聖餐卓、洗礼盤だけです。肉眼の目で見える形で神を表すことに関して禁欲したのです。人間が作る具体的なイメージの中に、神を押し込めることを禁じたのです。それは極めて聖書的な信仰です。
 しかし、その聖書の中にただ一度、多くの人が同時に「神を見た」と完了形の形で出てくる。私は、ここにこそ救いの究極の姿の先取り、予型があるのだと思っています。神を見たのに、神は手を伸ばされない。つまり、死という裁きを下さない。裁きを下さないどころか、食卓を共にして下さる。神が共にいて、食卓を共にしてくださる。もちろん、そこで神様も食べたり飲んだりしたということではありません。聖なる山の上で、神様の前でイスラエルの代表者が食卓を囲んだということです。彼らは皆、神様に選び立てられた者であり、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物の血によって、その罪を赦され、「わたしたちは、主が語られたことをすべて行い、また守ります」という信仰を告白し、神様との契約を結んだばかりの者たちの代表です。生まれたばかりの穢れなき赤ん坊のような時と言って良いのかもしれません。その者たちが、この時、この時だけ、主なる神の御顔を拝しつつ食卓を囲むことが許されている。ここに究極の救いの先取りがあるのだと、私は思います。
 何故、そうなのかと言えば、人々が同時に「神を見る」ことは、旧約聖書の中では今後一切出てきません。そして、新約聖書においても、それは究極的な希望として記されることだからです。
神を見ることに関して、私たちが考えるべき一つは、ユダを除く十一人の弟子たちは、復活された主イエスをその目で見ましたし、復活の主イエスと食卓を囲むことが出来たのです。この出来事が新しいイスラエルの民の出発にあるのです。モーセを初めとする七十人の長老が、契約締結を終えた直後に、シナイ山で神を見ながら食事をしたことが契約の民イスラエルの出発にあるように、十字架で血を流してくださったイエス様が甦り、弟子たちの目の前に現れ、共に食卓を囲んでくださったところ新しいイスラエル、教会の出発があるのです。
ヨハネ福音書においては「平和があるように」、「神があなたがたと共にいる」(シャローム)と語りかけてくださったり、ティベリアス湖の畔で食事を共にしてくださったのです。またルカによる福音書では、故郷エマオに帰る弟子たちに聖書の説き証しをしてくださったイエス様が、食卓でパンを裂いてお渡しになった途端に、弟子たちの目が開け、それがイエス様であると分かり、分かった途端にイエス様の姿が見えなくなるという出来事がありました。さらに、その弟子たちの目の前で魚を食べるということもあった。その出来事が、新しい契約の民キリスト教会の出発にあり、教会の土台なのです。イエス・キリストの十字架の犠牲の死と復活を通して、神様は罪の赦しと新しい命という契約を地上のすべての民に向かって差し出してくださり、信仰を告白した者を洗礼を通して受け容れてくださったのです。そして、その者たちは、絶えず新たに主の食卓を囲むことを通して、聖霊において主との交わりに生かされているのです。しかし、天に上げられた主イエスをその肉眼で見ることはありません。信仰の目をもってはるかに望み見ているのです。

マラナタ

 パウロは、その点で、私たちと同じです。彼は肉眼でイエス様の肉体を見たわけでもありませんし、復活のイエス様を肉眼で見たわけでもありません。彼は聖霊によってイエス様と出会ったキリスト者です。そして、以後、十二弟子が語り伝えた食卓を大切にして来たのです。コリントの信徒への手紙10章から11章を読めば、そのことは良く分かります。そして、その食卓の時に、初代のキリスト者が必ず祈った言葉が、「マラナタ」です。「主よ、来てください」という意味です。パウロは、その言葉を手紙の最後に書いています。そして、新約聖書の最後に置かれているヨハネの黙示録の最後に繰り返されている言葉も、「主よ、来てください」(当時のユダヤ人の言葉でマラナタ)です。
中渋谷教会の聖餐式では讃美歌205番を歌うことが現在の慣習となっています。これは個人的には真に有り難い慣習です。大好きな歌ですから。しかし、中渋谷教会でも愛餐会の時などは、讃美歌21に収められている「主の食卓を囲み」をよく歌います。多くの教会では礼拝の聖餐式で歌われますし、まことに相応しい歌です。この歌の最後に繰り返される言葉は、「マラナタ、マラナタ、主の御国が来ますように」という言葉です。聖餐式を守る時、私が必ず「式文」の序詞の最後はこういう言葉です。「いま、聖霊の神に支えられて、この聖餐に与り、ひたすら主に仕え、その戒めを守り、互いに愛し合いながら主の再び来たりたもう日を待ち望みたいと思います。」
聖書に記され、讃美に歌われ、そして「式文」として読まれるこれらの言葉は、世の終わりの究極的な救いを待ち望む祈りの言葉です。そこで待ち望まれている事態とは、端的に言うと、世の終わりに再臨する主イエス・キリストを見るということなのです。また神を見ることです。そして、神の前で食卓を囲むことなのです。讃美歌205番の4節にあるように、私たちは今、聖餐の食卓を囲む度に、天の食卓の面影を「うつし偲び」つつ、御国にて祝う日の幸いを待ち望んでいるのです。
パウロは、その時のことをコリントの信徒への手紙の中でこう表現しています。

「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」

 神を見る。神に見られているように神を見ることが出来る。それが救いの完成です。私たちは今、その完成をはるかに望み見つつ、主イエス・キリストを礼拝し、神を礼拝しているのです。主の食卓を囲みながら。神を愛し、互いに愛し合いながらです。その礼拝の姿、信仰と希望と愛に生きるその姿を通して、私たちは世界の祝福の源となっているのだし、祝福を広げる使命を生きているのです。そして、来週は全体交流会を通して豊かな愛餐の時をもち、再来週は礼拝の中で聖餐の食卓を囲み、主を讃美します。主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、契約の民として信仰をもって食卓を囲む時、私たちはおぼろに映った神の御姿を見ることが出来ますし、そのことにおいて罪が赦されているのです。そして、その食卓こそが、世界の祝福の源なのです。神様は、この食卓にすべての罪人を招くために働いておられるのです。私たちは、そういう食卓を囲む共同体に召し出されているということを、心深く覚え、感謝し、主を讃美しましょう。そして、その使命を生きることが出来ますように。
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