「新しい契約の食事」

及川 信

       ルカによる福音書22章14節〜23節    
時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。

礼拝と聖書


 こうして皆さんと共に毎週聖書を読み、その御言に耳を傾けていると、聖書の面白さ、その深さ、広さ、高さに気付かされて圧倒されるというか、改めて主を讃美したくなります。こういう書物と出会えたことの喜び、感謝が年月を経るごとに増してくるというのは、本当に有り難いことです。若い時は夢中になって読んだけれど、この歳になって読んでみると、なんだかとても薄っぺらいものに感動していたんだなと幻滅してしまうことはよくあると思います。でも、聖書はその逆です。若い時は若い時で、礼拝や集会で説き明かしてもらったり、自分でも勉強したりして、色々なことが分かり、強いインスピレーションが与えられて心が燃えることがたくさんありました。しかし、今、私は中年の真っ盛りなんでしょうが、実に面白いのです。そして、それは今後も続くことだと思います。
聖書の中のある書物を集中して継続的に読んでいくことで分かることがたくさんあります。ヨハネ福音書などは、丹念に読み続けることで初めて分かることがたくさんある。しかし、たとえば聖餐に関する箇所を選びながら読んでいて気が付くこともたくさんあります。8月の半ばから、私たちは出エジプト記の御言を2回連続して聞きました。過越の食事と契約の食事に関してです。そういう記事を読んだ上で、今日の箇所を読むと、ああそうか、やっぱりそうなんだと心新たに思うことや、そうだったのか、これまで気がつきもしなかったと思うことなどがあります。しかし、それもこれもこうして毎週礼拝を捧げ、聖餐の食卓を囲みつつ聖書を読むからであって、礼拝をしないでいくら読んだところで、聖書が語っていることの深さ、広さ、高さ、その力が身に沁みて分かることはないだろうと思います。聖書は礼拝の中で生み出され、そして礼拝を生み出していく書物、今生きて語られる神の言なのですから。

主イエスが切に願われた食事

 今、読んでお解りのように、私たちがしばしば「最後の晩餐」と呼んでいるこの食事を、イエス様は「過越の食事」とおっしゃっています。そして、「苦しみを受ける前に」、つまり、十字架に磔にされる前に、弟子たちと過越の食事をしたいと「切に願っていた」とおっしゃる。これは強い言葉です。最大の願い、何としても叶えたい、叶えなければならない主イエスの願いとして、弟子たちと一緒に過越の食事をとることがある。言ってみれば、今生の別れに際しての願いが、弟子たちとの過越の食事なのです。そして、その食事が、私たちがこれから与る聖餐の背景にあるのです。私たちの聖餐の食卓もまた、私たちが守りたいと願う以前に、主イエスの方が切実な思いで食卓を共にしたいと願ってくださっている、そして席に着くように招いてくださっているということです。
「時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。」
これはきちんと定刻に始まる祭り、儀式としての食事です。食事が出来たから食べ始めるという日常の食事ではなく、定められた時刻にきちんと司式者が席についており、その招きに応えて会衆も席について始める礼拝としての食事、それが過越の食事の守り方です。
 しかし、この食事は同時に契約締結に伴う食事でもあります。主イエスご自身が、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」とおっしゃっていることから、それは分かります。過越の食事と契約の食事、その二つの食事が最後の晩餐に流れ込んでいることは、このことからも明らかです。

 血による契約

 両方に共通していることは「血」です。過越の食事の時は小羊の血が必要でしたし、契約締結には羊また雄牛の血が必要でした。過越の食事においては、その血が鴨居に塗られることによって、イスラエルの民は罪に対する死の裁きから免れることが出来たのです。目に見える現実としては、この食事をとった翌日にエジプトを脱出することになるのですが、実はその底流に罪の支配からの脱出、解放が、小羊の血によってもたらされているのです。小羊の血によって罪が贖われていないエジプトの家に生まれた初めての子(初子)は家畜までも皆、罪に対する死の裁きを受けたからです。また、契約締結の際に血が必要とされるのは、この契約を破る者は死をもってその罪を償わねばならないという意味があります。そして、動物の犠牲によって罪人の罪が贖われて初めて神様との契約、つまり神様との交わりに生きることが成り立つのです。罪人である人間が、まるで対等な関係であるかのように神様との契約に入ることはあり得ません。人は犠牲の血を抜きに神様の言葉を聴き、その言葉を生きるという関係を結ぶことは出来ません。まして、神を見ての食事をするなどということは有り得ないことです。
 しかし、主イエスはここで「わたしの血による新しい契約である」とおっしゃっています。千何百年にも亘ってユダヤ人が守り続けてきた過越の祭り、そこには食事がありシナイ山で結ばれた契約の確認と更新がありました。しかし、今主イエスが、この過越の食事を通して結ぼうとしている契約は、これまでの契約の更新ではありません。「わたしの血による新しい契約である」とおっしゃるのです。新しい契約なのです。それは一体、どういうことか。

「10年ヴィジョン」

 ルカ福音書は、他の福音書が「弟子たち」と書くところを時折「使徒たち」と書きます。そこに一つのポイントがあると思います。
 私たちが「聖餐の食卓を囲む共同体」という主題で修養会を始めて今年で五回目になり、恐らく来年で終わることになるだろうと思います。何故、こんなに執拗にこの問題を追及しているのかと言えば、それは2004年度から掲げている「教会形成のための10年ヴィジョン」と深い関わりがあるからです。何度も言っていますように、そのヴィジョンの中心にあるのは「神の家族としての教会形成」です。家族の中心には食卓があることは言うまでもありません。教会の中心は聖餐の食卓です。プロテスタント教会の場合、説教に重きが置かれていますが、説教もまた聖餐の食卓で起こることを語っているのだし、その食卓の主であるイエス・キリストを証ししているのです。「10年ヴィジョン」の四番目は「礼拝を守る信徒を育てることが教会の使命」というものです。会報などには、その項目だけが掲載されていますけれど、洗礼を受けたり、転入された方を含めて、すべての教会員の皆様に一度はお配りしてある「10年ヴィジョン」全文が記されているプリントには、説明文がついています。第四番目につけた説明文は、こういう文章で始まります。「洗礼を受けることは神様との契約関係の中に入ること。その契約の中心は、礼拝を守る、聖餐を重んじること。」以下、中渋谷教会は、そういう契約を忠実に守る信徒を育てることを目指すという趣旨の文章が続きます。ここに「契約」という言葉が出てきます。「家族」にも契約概念はあります。夫婦は結婚式において誓約をすることを通して結婚しますから。キリスト教式の場合、その誓約は相手方への誓約であると同時に、二人を出会わせた神様への誓約となります。その誓約に基づいて夫婦となる契約が結ばれるのです。しかし、親子にはそのような誓約があるわけではなく、親子は最初から最後まで親子です。
しかし、神の家族としての教会のメンバーになる時は、私たちは誰もが信仰告白をし、誓約をして後に洗礼を授けられて現住陪餐会員になります。その契約締結の儀式を通して、礼拝に出席し、聖餐を重んじ、献金を献げ、応分の奉仕を捧げる責任あるメンバーになるのです。キリストが頭である共同体、キリスト教会は、神様と契約を結んだメンバーによって成り立っています。そして、そのメンバーは神の家族として愛し合い、共に食卓を囲み、主イエス・キリストを中心とした一つの交わりを生きます。

使徒たち

先ほども言いましたように、ルカによる福音書は、「時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった」と書いています。「弟子たち」ではなく「使徒たち」と書いています。イエス様は多くの弟子の中から十二人を選んで、その十二人を使徒としました。今日の箇所にもありますように、イスカリオテのユダが、最後の最後に裏切りますが、主イエスの復活以後、新たに一人が立てられて十二人となります。何故、主イエスが十二人に拘ったかと言えば、それは神の民イスラエルが十二部族だったからです。前回ご一緒にお読みしたシナイ山における契約締結の際も、十二個の祭壇が築かれて、そのすべてに犠牲の動物の血が振り掛けられました。そのことを通して、イスラエル十二部族の罪が清められ、神の民とされたのです。そして神の民の使命とは、神様の祝福が世界にもたらされるために、神様を礼拝しつつ生きる祭司として、また聖なる民として生きることです。その礼拝と礼拝に押し出された生活を通して神の支配、その祝福を世界に広める。それが神様と契約を結んだイスラエル十二部族の使命です。
イエス様が十二人を選んで弟子として、さらにその十二人を使徒とするのは、新しいイスラエル十二部族を生み出すためです。その新しい神の民を造り出すために無くてならぬものは、動物の犠牲の血ではありません。罪なき神の独り子であるご自身の血です。主イエスは、新しい過越の小羊として、世の罪を取り除く神の小羊として、ご自身を十字架に捧げて下さろうとしているのです。ただ、そのことによって、罪人の罪は完全に贖われ、清められるからです。しかし、その贖い、清めに私たちが与るためには、主イエス・キリストに対する信仰を告白し、血による契約、つまり命がけの契約を結ぶ必要があります。その契約、つまり、洗礼を受けることを通して、私たちは主イエスとの新しい契約の食卓に連なる神の民の一員とされるのです。イエス様は、その「新しい契約の食事」をご自身が選んだ使徒たちと共にすることを切に願われたのです。 それでは、「使徒」とは何かと言うと、字義通りには「派遣された者」「遣わされた者」という意味です。誰に何のために派遣されるのかと言えば、主イエスに、神の国の福音を宣べ伝えるために派遣されるのです。私たちの礼拝の最後は、派遣と祝福です。この礼拝自体が、神の国を体現するものなのですから、私たちが使徒として生きている最大の印ですけれども、その礼拝から押し出されて生きる生活もまた、キリストに遣わされた使徒としてのものであるはずだし、あらねばならないものです。私たちは毎週、「平和の内にこの世へと出て行きなさい。主なる神を愛し、隣人に仕え、主なる神に仕え、隣人を愛しなさい」との言葉をもって、この世へと派遣されます。キリストに遣わされる使徒としてです。キリストは、ご自身が派遣した者を放ってはおきません。

この世における使徒

先週の日曜日には国政選挙があり、その結果を受けて、今は政権交代の準備がなされています。また、先週の日曜日には会報八月号が皆さんのボックスの中に入っていたと思います。その中には、戦時中の体験が書かれた文章が二つあります。それらを読ませて頂いても、当時の天皇を頂点とする軍事体制の中で、「私はキリスト者です」と胸を張って言うことは、命がけであることはよく分かります。挙国一致の戦時体制の中で、敵性宗教であるキリスト教を奉じるなどということは非国民のなせる業であり、断じて許すべきではないと主張する人々が国家権力側の人々の中に多くいたわけだし、国家による教育を受けてきた民衆の中にもたくさんいたのです。この世の中でキリストへの信仰を生きる、さらにキリストを証しして生きるとは、時には命がけのことです。主イエスの弟子たち、十二弟子、後に十二使徒となるべき彼らにとって、ローマ帝国にしろ、ユダヤ人社会にしろ、イエス様を犯罪者として殺した国家であり、神への冒涜者として抹殺した社会なのですから、決して安心して信仰生活を続けることが出来ない国家であり、社会です。まして「あなたたちが十字架に磔にしたイエス様は、神様によって復活させられました。この方こそ、主であり、キリスト、救い主なのです。私たちは、そのことを信じ、また宣べ伝えているのです」と公に語ることは、まさに命がけのことです。実際、多くの使徒が殉教の死を遂げていったのです。しかし、それが使徒なのです。
もちろん、皆さんの多くは、私のように礼拝で説教したり、昨日までも行って来ましたけれど、キリスト教主義の学校が主催する研修会などでキリストを証しする講演や講義をするわけではありません。「使徒」という言葉を、私のような狭義の意味での伝道者に限定するなら、皆さんは使徒ではありません。しかし、信徒は信徒として、その生活の中で主に従って生きる弟子なのであり、また主イエス・キリストを証しする使徒であることに変わりはなく、その使徒として生きるためにこそ、礼拝においてキリストご自身によって力づけられなければならないのだし、キリストご自身から派遣されなければならないのです。「聖餐」とは、その「使徒たち」が囲む食卓です。

フリー聖餐?豊かな聖餐?

二十年位前からでしょうか、礼拝に来た人すべて、子どもたちだろうが新来者だろうが、そこにいる人すべてに聖餐のパンとぶどう液を配るという教会が増えてきました。「フリー聖餐」と言ったりします。彼らは「それこそ豊かな聖餐だ」と言って、そういう題の書物まで出しています。彼らの主張によれば、「イエス様は何ら差別なく、すべての人を愛しており、すべての人を招いているのだ。だからすべての人に、その愛の印を配るのは当然のことだ」ということになります。「教会がイエス様の御心に反して、聖餐を受ける人と受けるべきではない人を区別することは差別なのであり、そんなことをいつまでもやっているから教会に来る人が増えないのだ」ということにもなります。しかし、それは聖書が語っていることでしょうか?エジプト脱出前夜に、神様から遣わされた死の使いは、小羊の血が鴨居に塗られていない家の中に入って、死の裁きを下しました。血が生と死を分けたのです。すべての人が死の裁きから救われたわけではありません。そして、この夜の出来事を記念する過越の食事は、割礼を受けた者だけが与かることができると聖書には記されています。割礼を受けた者であれば、外国人でも奴隷でも皆分け隔てなく、罪に対する死の裁きから解放され、神の民として歩むための食事に与かることが出来るのです。 また、シナイ山で契約が結ばれた時も、神様は、犠牲の血が降り注がれる中で、「私たちは主が語られたことをみな守り、行います」という信仰の告白と誓約をした人々と契約を結んだのであり、その民の代表者にのみ、ご自身を見せながらの食事を与えたのです。それ以外の人間には、そんなことはあり得ないことです。そして、その過越の食事と契約の食事を引き継いだ最後の晩餐の席についたのは、主イエスに選ばれ、立てられた十二人の使徒たちだけです。そこには明確な区別があります。その十二人を選んだのは主イエスです。
主イエスは、彼らをこれから使徒として生かすために、ご自身の血による新しい契約を結ぼうとして下さっているのです。そのために、ご自身の血を流してくださるのです。聖餐の食卓に与るとは、その圧倒的な事実を知り、恐れ戦きつつ罪の赦しのパンとぶどう酒を頂くことです。それは同時に、自分自身の命を主に捧げる献身の信仰を言い表すことです。主イエスの献身の事実も、私たちの献身の信仰も必要がないとする教会は、もはや教会ではなく、そこで捧げられている礼拝と呼ばれるものは礼拝ではありません。そして、礼拝の中からしか使徒は誕生しないのです。

「あなたはどこにいるのか?」

先ほども言ったように、私は木曜日から昨日まで、名古屋の金城学院のキリスト教センターが主催する学生聖書研修会に講師として軽井沢に出かけてきました。今回はごく少数の研修会ですから、中にはクリスチャンの学生もいるのじゃないかと思って、最初からそのことを意識して講演を準備しました。主題は、「あなたはどこにいるのか」です。私が考え続けている創世記やヨハネ福音書の御言を巡って語ってきました。十五名の学生の中に、二人のキリスト者がいました。一人は、本人はあまりそのことを言いたくなかったようですが、在日韓国人の牧師の娘さんで、もう一人は両親が共に福音派系の教会に通う熱心なクリスチャンの娘さんでした。彼女らの話を長く聴いたわけではありません。グループディスカッションの中でのちょっとした言葉とか、立ち話、また発表の時の言葉を聴いただけです。そして、帰り際に、金城学院のクリスチャンの学生が生きている現実の一端を、今年の四月から宗教主事をしておられる小室先生から少し伺いました。
私は最初の講演で、牧師の家庭で生まれ育った自分の経験に触れました。牧師家庭の子にとっては、家が教会です。その家の中では、イエス様が世界の主です。しかし、一歩家の外に出れば、そこにはイエス様のイの字もありません。この世の主人は、権力者であったり、金であったり、欲望であったりする。教会では、それらを「罪の世」という。しかし、世は教会のことを「変人の集まり」、「愚かで弱い人々の集まり」と言う。そういう二つの世界の中で、どこに自分の生きる場があるのか分からない。そういう思いを抱えつつ生きてきた若き日のことを語りました。
名古屋からの長旅の疲れもあるし、皆が皆、聖書の話を聞くことが目的で来た学生でもありませんから、途中で、コックリコックリとし始める子もいるのです。でも、その二人は、二時間の講演の間中、目を見開いて、ノートにメモを取り続けていました。キリスト者の数が人口の一割を切るこの国の中で、さらに牧師の子は本当に少数者です。そして、韓国人であるということ。彼女は、この国の中で、この社会の中で、心から安心できる場があるのか、私には分かりません。父親が牧師をしている教会の礼拝に出席しているようですが、それは彼女にとって、心から喜びなのか、負担なのか、それも私には分かりません。でも、その子は、大学の礼拝でもピアノの奏楽をし、また自分の教会でも奏楽をしているし、今回の研修会でも、私のギターと合わせる奏楽を美しく弾いてくれました。彼女は、グループディスカッションの時に、少し涙ぐみながら私にこういう質問をしました。
「先生は講演の中で『私たちがいつまでも幼児であってよいわけではない。大人にならねばならない』とおっしゃいました。でも、『大人になることは神様への離反行為をすることを含む』と。イエス様は、幼子のようになりなさい、とおっしゃっているのに、何故、私たちは大人にならねばならないのですか?」
 この後の全体会における発表の時、彼女は、もう涙を止めることも出来ず嗚咽しながら、「わたしは父親に、何故、大人にならなければならないのか、ずっと聴いて来たけれど、今日、その答えを知って、本当に嬉しかった。そして、アダムとエバが、神様に背いたのに死の裁きを受けなかったのは、イエス様が代わりに裁かれることになっていたと聞いて、そんな時から、神様の救いの計画が始まっていたのだと知って、鳥肌がたちました」と言ったのです。
 私は講演の中で、「アダムとエバは裸であっても恥ずかしがりはしなかった、という言葉は、一面から言うと純粋無垢な幼児の姿が描かれており、そこに人間の理想型があると言えるかも知れない。しかし、幼児が幼児のままであってよいと聖書は語っているかと言えば、やはり違うだろう。私たちは大人にならなければならない」と言ったのです。
その言葉を受けての彼女の質問が、今、言ったことです。私は最初の質問を受けた時も、最終日の全体協議の時も、こういうことを言いました。少し要約しますが。
「『大人にならなければならない』とは、義務という面と同時に必然という面がある。なりたくなくてもなってしまう。つまり、エバやアダムのように、神の言よりも蛇の言葉を聞いて、そちらに従ってしまうことがどうしてもある。そして、恥部を葉っぱで隠し、神様の目の前から隠れてしまう。そういう大人になりたくなくても、なってしまう。私が二十歳の頃に感じて、もう生きていけないと思ったことは、まさにその問題です。生きれば生きるほど、自分はそういう大人になってしまう。その現実を止めることが出来ない。そのことが苦しかった。今、私は二十歳の頃よりももっともっと汚い大人になっています。でも、二十歳の頃よりも、幼児です。
イエス様は、神様のことを『アッバ』と呼んだんです。それは幼児が父親を呼ぶ時の言葉です。『お父ちゃん』と呼んだ。お父ちゃん、僕は死にたくない、でも、お父ちゃんがいうのだったら、僕は従います。僕を誰よりも愛してくれているお父ちゃんがいうのだったら、僕は十字架に掛かります。幼児というのは、そういうものだ。父親の愛を確信して、父を愛し、その言葉に従う。それが幼児だ。僕は、今は大人です。汚れた大人です。これからも、そういう大人として生きるしかないかもしれません。でも、二十歳の時に洗礼を受けてから、少しずつ子どもに帰っていっています。今は、イエス様と一緒に『お父ちゃん』と呼べるようになって来ました。お父さんの愛を信じることが出来るようになってきました。最後は、身も心もすっかり委ねて、神様の御腕に抱かれて眠るような赤ん坊のような人間になりたいと思っています。イエス様が求めている幼子とは、そういう大人なんだと思う。」

若い使徒として生きる

 クリスチャン家庭で育ったもう一人の娘さんは、日曜日の学校行事は一切出たことがないそうです。日曜日は礼拝の日ですから、親が禁じたのでしょう。信仰をもつ親の厳しい戦いがあり、その親のもとに生まれたその子の厳しい戦いがそこにはあります。兄弟の一人は、すっかり教会から離れてしまったそうです。彼女は、その戦いを乗り越えつつ、青年が誰もいない小さな教会で礼拝を守り、教会では歌えないワーシップソングを一人で練習し、時折、学校のキリスト者のサークルで歌うことが楽しみだと言っていました。別れ際に小室先生から伺ったことですが、その娘が部長をしているクリスチャンのサークルが年に一回、大学礼拝を主催するそうです。福音派の学生が大半ですから、先週の全体交流会で歌ったようなワーシップソングを歌い、「神様を信じましょう、信じれば救われます」というメッセージを単純に語るようです。その礼拝に出席した学生には無記名のアンケートを出してもらう。すると、「神様なんかいるわけないじゃない」とか「神様を信じて生きているなんて、変だ」とか書かれたアンケートがたくさんかえってきて、彼女たちはへこんでしまう、というのです。
 私は胸がつぶれるような思いです。若くして信仰を与えられるということは大きな恵みです。でも、そこには大きな試練があり、悲しみがあります。いずこの教会でも若者は少数者です。しかし、頑張って生きている。大学には多くの若者がいる。でもキリスト者は圧倒的少数者です。そういう環境の中で勇気を振り絞って、キリストを証しする。使徒として生きる。でも、鼻でせせら笑われてしまうのです。
 私は、個人的には友人たちに伝道してきましたけれど、彼女らのような形で、公にクリスチャンであることを証しするように奏楽をしたり、賛美を歌ったりして来たわけではありません。それはそれで、一つのあり方ですから、どちらがよいと言えることではないでしょう。でも、私は私なりに、伝道の悲しみを知っています。笑われること、馬鹿にされることを知っています。私は、当時から良くも悪くもませた大人ですから、キリスト教が馬鹿にされる理由も分かりますし、馬鹿にする人を馬鹿にし、笑う人を笑うこともできます。でも、彼女らを見ていると、彼女らはそういう大人ではない。だから胸が痛みます。
 だから、励ましたいです。「主イエスが、分かってくれる。主イエスもあざ笑われていたんだから、主に従い、主に遣わされる者が、主が味わったことを味わうのは当然だ。主がその悲しみを共にしてくれるんだ。そして、一緒になって、『アッバ、父よ』と祈ってくれる。そのことを知ることが出来るのは、使徒として生きる者だけだ。これからも、一緒に『アッバ、父よ』と祈ってくれる主を一緒に信じていこう。そして、一緒に証しをして行こう・・・・。」私は軽井沢からの帰りの車の中で、ずっとそう思い続けてきました。でも、私の講師としての使命は終わっていますし、それでいいのです。
今日は日曜日です。彼女らは、自分の教会で今、礼拝を捧げている。それは確実です。第一日曜日ですから、聖餐の食卓を囲む礼拝を守っているかもしれません。その礼拝の中で、今日も、主ご自身が彼女らを慰め、励まし、力づけ、そして、新たに使徒として派遣してくださるに違いありませんから。

年老いた使徒として生きる

八月は、普段なかなかお訪ね出来ない何名かの方と聖餐を共にすることが出来ました。後半には、KさんとNさんと共にしました。八月にお訪ねしたすべての方に、私はヨハネ福音書14章の言葉を短く語らせていただいたのです。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。」
「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」


 この慰めに満ちた御言に関して短いメッセージを語って、聖餐に与ります。そこで、お二人が祈られたその祈りで共通していたことがあります。それは、聖餐に与かることが出来た感謝と共に、「最後まで信じる者として生かしてください」という祈りです。最後まで主イエスの弟子として、そして使徒として生きることが出来ますように。お二人は、そう祈られた。私は、心から「アーメン」と言いました。信じる弟子として、キリストを証しする使徒としてこの世を生きる。洗礼を授けられた私たち、洗礼を受けた私たちの願いはそこにあり、また主イエスも、私たちが使徒として生きることを切実に願っておられるのです。主イエスの方が、私たちよりもはるかに切実に願っておられるのです。その願いに基づいて、ご自身の血を流して下さったのですから。その主イエスが、今日もこう言われます。
「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」
「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」

感謝して聖餐に与り、新たに使徒としての歩みを始めたいと思います。
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