「その姿は見えなくなった」

及川 信

       ルカによる福音書 24章13節〜35節    
ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。


 いよいよ来週、今年度の修養会を迎えようとしています。八月半ばに旧約聖書の出エジプト記の「過越の食事」、「契約の食事」の場面を読み返し、先週は「最後の晩餐」の場面をご一緒に読みました。今日は、一般に「エマオ途上の弟子たち」と呼ばれる場面を読んでいきます。それはもちろん、二八節以降に出てくる復活されたイエス様と二人の弟子との会食の場面を意識してのことですし、さらに来週の修養会の主題講演を意識してのことです。主題講演の前半は、ルカ福音書の続きである使徒言行録の冒頭部分を読むことになります。

 「聖書を読む」ということ

 先週も、聖書の面白さを語ることから説教を始めましたが、今日の箇所は二重三重の意味で、聖書とは何であるかに関する箇所でもありますから、今日も聖書を読むことに関して語ることから始めさせて頂きます。
聖書の面白さは、まず第一に「分からない」ことにあります。読んでも分からない。だから「つまらない」のではなく、だから「面白い」のです。しかし、聖書は一瞬にして分かる時もある。若かろうが、いや幼かろうが、一瞬で分かる。そういう書物でもあります。それは、聖書が神様の聖霊の導きによって書かれた書物だからです。たくさん勉強した学者がその知識を総動員して書いたものなら、その知識を身につけていかないと分かりません。しかし、聖書は基本的にそういう意味で難しい本ではありません。聖書は聖霊の導きの中で書かれたものであるが故に、聖霊の導きを与えられるとその瞬間に分かるのです。その「分かる」とはどういうことかと言えば、そこに自分の姿が見え、そこにイエス・キリストの姿が見えるということです。自分の姿が見え、キリストの姿が見える。それが、聖書が分かるということだと、私は思います。
 週報の裏面には私たちが所属している『日本基督教団』の信仰告白が印刷されています。その信仰告白の中にこういう文章があります。
「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、神につき、救いにつきて、全き知識を我らに与うる神の言にして、信仰と生活の誤りなき規範なり。」
 ここにはっきりと記されていますように、聖書とは「キリストを証しする」ものなのです。ですから、聖書を読むことを通して、キリストが見えてくる、その言葉が聞こえてくる、自分の罪が見えてくる、キリストの十字架の死が見えてくる、今生きておられるキリストがここにおられることが分かる、そのキリストに赦され、愛されている自分が見えてくる、救われていることが分かる・・。そういうことが起こる。起こるとすれば、それは知識の多さによって起こるのではなく、聖霊の導きによって起こるのです。そして、その聖霊の導きの中で、聖書は初めて聖書として分かるのだし、その面白さが分かるのです。説教もまた、私にとっては、皆さんと一緒に聖書を読むことです。この四月から、新たに試行している式次第、聖書朗読、聖霊を求める祈り、説教を牧師がするという式次第も、皆さんの一緒に聖書を読み、聖霊の導きの中で、神の語りかけお身近に聴くことを目指してのものです。

 心の鈍い私たち

 ただ、私たちは実に心が鈍く、頑なな民であり、聞けども聞かず、見れども見ず、悔い改めることのない民であることも、毎週痛切に知らされることです。主イエスもこれまで幾度もそのことで嘆いて来られましたが、今日の箇所でも、「ああ、物分りが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と嘆いておられます。
 何故なら、ここに登場する人たちは、十二弟子ではないけれど、イエス様の弟子であった人です。イエス様の言葉を何度も聞き、その業を見てきたし、共に食事もしてきた人々です。さらに、彼らはイエス様がその預言どおり十字架に磔にされた時にエルサレムにいたのだし、イエス様が埋葬された墓に行った女たちが、そこで天使から言われたこともすべて聞いているのです。天使は女たちにこう言いました。

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」

 イエス様自身が、弟子たちに十字架の死と三日目の復活を預言しておられたのです。しかし、その都度、彼らには、その真意が分からなかったのです。ルカ福音書は、それは「彼らにはその言葉の意味が隠されていたからだ」と記しています。
 言葉の意味が隠されている間は、何度聞いても、何度読んでも分からない。それは、私たちにはよく分かることです。聖書の言葉は勉強して分かる類の言葉ではないからです。信じなければ分からないのです。では、「信じる」とはどういうことなのか?

 「信じる」とは?

 ある言い方をすれば、それは「明け渡す」ということでしょう。自分の全てを明け渡すことです。私たちはイエス様のために一つの部屋しか明け渡していないことが多いのです。大体は客間です。綺麗に整った客間まではイエス様をお入れする。しかし、家族が共に食事をする食堂とか、リビングとか、寝室とか、書斎とかは見せもしないし、まして招き入れることなどしません。信じている、愛していると言いながら、そのすべてを見せるわけでも明け渡すわけでもない。ごく一部の、見せてもいい所、明け渡してもいい所だけをイエス様に見せ、招き入れているだけの場合があまりに多いのではないでしょうか。しかし、それは信じていることにはなりません。本当に親しい人であれば、すべてをお見せして、ここはあなたの家と同じようにお使いください、と招くものです。
 何故、明け渡すことが出来ないのか?それは、私たちには私たちの願いがあるからです。私たちの願いを聞いてくれるお方ならいいけれど、その願いとはずれているのなら、その人を受け入れない。そういうことが、私たちにはあります。弟子たちの場合、イエス様が「行いにも言葉にも力のある預言者で」あることから、「あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけて」いたのです。
 当時のイスラエルは、ローマ帝国という圧倒的な武力を持った帝国に支配されていました。過酷な税金を課せられていた。そういう状況から脱出させて下さる方、かつてエジプトの支配から脱出させてくれたモーセのような預言者、指導者を待ち望んでいたのです。主イエスは、「私はそういう預言者として来たのではない」ということを、その言葉においても業においても示して来られました。しかし、彼らには何も分かっていませんでした。民衆は勿論のことなのですが、弟子たちも「何も分からなかった」のです。「彼らにはこの言葉の意味が隠されて」いたからです。神の望みにすべてを明け渡すのではなく、自分の望みを堅持し、その望みをもって「神からのメシア」を受け入れても、それは所詮、客間に通しただけのことであり、生活すべてに受け入れたわけではないからです。たしかに、ペトロを初めとする弟子たちは、民衆とは違って、「あなたは神からのメシアです」と告白しました。でも、イエス様はそのことを絶対他言するなと命じた上で、ご自身の受難と復活の預言をされたのです。しかし、その時も、彼らは何も分かりませんでした。そんなことがあっては困る、あってはならないと思ったのです。そして、現実にイエス様の預言どおりイエス様が十字架に架かって死んでしまい、三日後に復活されたことを天使から告げ知らされ、墓に主イエスの遺体がないことを確認しても、彼らは信じることが出来なかったのです。そして、二人の弟子は自分の生活の場、エルサレムから六十スタディオン(十二キロ)の所にある村に、暗い顔をして帰って行ってしまう。それが弟子たちの一つの現実でした。
 私たちも、礼拝を終えて家路に帰る時、同じことが起こっている場合があるでしょう。聖書を読み、説き明かしを聞いたけれど、そこにイエス・キリストを見ることも、その声を聞くことも出来ず、来る前と同じ、罪の闇の中に置かれたまま、とぼとぼと帰っていく。それは説教が福音を語っていないか、聞いても何も分からないか、どちらかのことが起こっているからです。

   エマオで起こったこと

 このエマオ途上の弟子たちの場面、それは私にとって、「聖書の中で、これほど面白い所はない」とさえ言いたい箇所です。見えているのに見えない。見えたと思ったら見えなくなるイエス様。十字架の死から三日目に甦られた、その日のイエス様の現実、あるいは実態を表す聖書的表現は、ゾクゾクするほどスリリングだし、美しいと思います。ルカという人の文章の美しさ、精巧さを感じます。私たちは、イエス様が天に挙げられて以降、聖霊の導きの中でイエス様と出会った者たちですから、この二人が経験したような仕方でイエス様と出会うことはありません。こういう経験は、彼らだけの経験であって、私たちが追体験出来るものではない。しかし、事の真相において、この経験は私たちの経験でもあるのです。今日も、その経験が出来る。礼拝とは、そういうものだし、そういうものでなければならないとも言えます。あるいは礼拝からの帰り道で、また自宅で同じ経験することもあるはずだし、現にあります。
 彼らは、先ほど言ったすべてのことがあったにも拘らず、何も分からず、「一切の出来事について話し合い」ながら家路につきました。するとイエス様ご自身が「近づいて来て、一緒に歩き始められた」。しかし、彼らには、それがイエス様だとは分からない。何年も経って風貌が変わっているわけではない。三日前までは、お顔を見ていたそのイエス様がそこにいるのに分からない。それは、彼らの「目が遮られていた」からです。この言葉は、来週の箇所までずっと続く言葉ですから、記憶に留めておいてください。この「遮られる」とは、「捕まえられている」とも訳せる言葉です。自分の我欲に支配されている。そういう人間の目は、事の真相を見ることが出来ないものだと思います。蛇の言葉に心を奪われたエバが禁断の木の実を見た時、それが賢くなるには好ましいものに見え、食べると彼らの目が開け、裸であることが分かり、慌てて葉っぱで腰を覆うようになったと創世記にはあります。私たちの目は、何に支配されているか、何に自分を明け渡しているかによって、同じものを見ても、全く違うものに見えるものです。醜いものが美しく見えたり、その逆であったり、刹那的なものが永遠なものに見えたり、その逆であったりする。そういうものです。
 イエス様は、敢えて、彼らに話の内容を問いかけます。彼らは、先ほど言ったように応答する。彼らの願い、その望みが砕かれたという失望を語るのです。天使たちが現れて「イエスは生きておられる」と女たちに告げたこと、さらに墓にはイエス様の遺体を見ることが出来なかったことを知りながらです。その彼らは、既にイエス様から受難と復活の預言も聞いている。しかし、我欲に支配され、捕らわれている者は何も分からず、何も見えない。イエス様が生きておられること、目の前におられることが分からないのです。
 その時、イエス様がこう言われます。

「ああ、物分りが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことをすべて信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」

 ここで「預言者」とは、イザヤとかエレミヤという預言者に限定されるものではありません。その次に言われますように、モーセも預言者に入れられており、創世記から申命記は「モーセ五書」と呼ばれていたのですから、「預言者」とは、私たちが「旧約聖書」と呼ぶ書物全体のことを表しています。
 イエス様は、物分りが悪く、心が鈍く、神様が預言して来られたメシアの道行きを聞けども理解せず、信じてこなかった弟子たちに向けて、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明され」ました。「説明された」は、原文では、完全に、すべてを説明されたという強調形になっています。また、この言葉は「翻訳する」とか「通訳する」という意味も持っています。聖書の言葉とは、そういうものです。誰かが翻訳してくれないと分かりません。それはヘブル語が分からないとか、ギリシア語が分からないとかいう意味ではなく、日本語で書かれていても分からない。そういうものです。旧約聖書の中に、イエス様が出てくるわけではありません。しかし、その旧約聖書の中にイエス・キリストのことが書かれている、その苦しみと栄光の道が預言されている。そして、その中に自分の姿がある。そのことが分からないと、旧約聖書は本当の意味では分かりません。私たちを罪と死の支配から救い出してくださるキリストを証ししている書物であることが、明らかに示される、完全に説明される、翻訳される、その時、すべてが見えてくるのです。
 ここでその翻訳を、イエス様自身がしてくださったのです。トボトボと家に帰っていく弟子たちに。しかし、その時も彼らはまだよくは分かりませんでした。十二キロも歩いたのですから、相当な時間が経ちました。その間ずっとイエス様は語り続けてくださった。どんなに素晴らしい説教であったかと思います。時はもう夕刻です。イエス様は、尚も先に行こうとされました。しかし、二人の弟子は(ある人は夫婦であったのではないかと推測しますが)、懇切に聖書を説明してくださった、いや説教してくださったイエス様を無理に引き止めて、自分の家に泊まってくださるように招き入れたのです。そして、早速食事の準備をした。

 客が主人

 この家の主人は、この弟子の一人のはずですし、ひょっとしたら夫婦かもしれませんから、その夫が主人のはずです。通常は、主人がテーブルマスターとして客人に食事を振舞います。しかし、この時、その立場は逆転していました。この時の彼らにしてみれば初対面のイエス様が、まるでその家の主人のように、振舞っておられます。

「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。」

 これは、イエス様が五千人の人々にパンを与えた時の動作ですし、最後の晩餐の時の動作でもあります。十二使徒ではない彼らは、その最後の晩餐には連なってはいませんが、イエス様と共に食事をする時、イエス様はいつも、賛美と祈りを唱えて、こうしてパンを裂いてお渡しになっていたのです。
信仰に生きるユダヤ人は今でも信仰を同じくしない者とは食事を一緒にしません。それは、食事とは賛美と祈りを伴う一つの礼拝行為だからです。聖書にも出てきますが、彼らは罪ある人とも食事をしない。徴税人とか遊女とか、また異邦人とか、そういう人たちとも食事をしないのです。そういう人は神様の祝福を共に受けている人々ではないと考えるからです。しかし、イエス様はザアカイの家に行きましたし、罪ある女とも食事しました。また、異邦人にも神の祝福を与えることがありました。主の食卓とはそういうものであり、それが多くの人々の心を打ち、また多くの人々の反感や敵意を呼びお越しもしたのです。私たちクリスチャンも、食事の前には祈ります。そこに信仰を同じくしていない方がいても、祈ります。いつか同じ信仰を与えられることを願いながら、神様が与えてくださる命の糧を感謝して祈るのです。
 弟子たちは、目の前で、主イエスが賛美の祈りを唱え、パンを裂いて下さる姿を見ました。その時、「二人の目が開け、イエスだと分かった」。しかし、その分かった途端、「その姿は見えなくなった」のです。
この記述に関して、私がああだこうだと説明するのは野暮なことと言うか、余計なことのようにも思います。もう分かる人には分かるのだし、分からない人はどんな説明をしても、今は分からない。いつか分からせていただけるときが来る。そういうものだとも思います。しかし、私は私なりに、ここで見えてきたことを語るべきなのだと思います。それに聖書はまだ続きますから。

 エマオで起こったこと 続き

二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻って見ると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモン(ペトロ)に現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

 ある人は、「イエス様の姿が見えなくなったとは、イエス様がそこにいなくなったということを表している訳ではない」と言いました。私もそう思います。私たちは存在とは、すべて目に見えるもの、手で触れることが出来るものであると考えがちです。しかし、実際は目にも見えず、手で触れる、あるいは掴むことなど出来ないものはいくらでもあります。象徴的な意味で言いますが、たとえば空気はそうでしょう。空気は見えません。全身で触れているとは言えますが、そういう実感はないし、手で掴むことは出来ない。でも、空気は存在しますし、実はその空気のお陰で私たちは生きている。空気を体の中に吸い込むことで一秒一秒生きていると思って生きているわけではない。しかし、目に見えず、手で触れることのない空気によって、私たちは生きています。イエス様の臨在のしるしである聖霊も、実はそういうものでしょう。悪霊だってそうです。罪もまた、目には見えないけれど、私たちを神から引き離し、殺して行くものとしていつでも存在しています。そのことも、私たちは普段意識していません。
 六月だったと思いますが、日本聾話学校の教職員の方々に聖書の話をするために出かけました。お互いに初めてのことなので、私は予め何が知りたいのか、何が疑問なのかを書いていただき、それに答えるという形をとりました。その中で、ある方が「イエス様は何故、復活した後、天に挙げられて目に見えない存在になってしまったのか?」という疑問を書いてくださいました。その疑問の背景にある思いは、今目の前にイエス様がいてくださり、聖書に記されているような力ある言葉を語り、業をしてくださるのなら、信じることが出来るのに、ということではないでしょうか。私たちの多くが、そういう思いをもっています。しかし、そうなのでしょうか?当時の人々は、イエス様の言葉を聞き、業を見ることによって、イエス様の本当の姿を知ることが出来たのでしょうか?人々は出来ませんでした。弟子たちだって出来なかったのです。奇跡に目を奪われることがあったとしても、そのことでイエス様の本質が見えたわけではありません。彼らは皆、我欲に支配され、捕らわれているからです。私たちだって同じです。目に見えれば、手で触れれば、信じるのに・・というのは幻想です。また、目に見える存在、手で触れることが出来る存在とは、そこにしか存在しません。イエス様が今、そういう存在としてこの中渋谷教会の礼拝堂の中にいて下さるとしたら、すぐ隣の聖ヶ丘教会にはおられないことになります。それが、旧新約聖書が証ししているキリストなのでしょうか。それが苦しみを受けて栄光に入るべきキリストなのでしょうか?違います。イエス様は十字架の死を通して天に挙げられたからこそ、世界中におられるのです。私たちは今、天が下、天下にしか生き得ない存在です。地の上でしか生き得ない。そして、その地の上には天がある。どこに行こうと、そこには天があり、そこにキリストがいますのです。そして、父から受けた聖霊をもって、地上に生きる私たちに親しく臨み、語りかけ、そして目の前でパンを裂き、杯を渡して下さるのです。
 私が中渋谷教会に赴任をさせていただいたのは九年前のことですけれど、赴任当初から、私たちが愛餐の時を持つ集会室の戸の上に、一つの壁掛けが飾ってあり、また食事を受け取るカウンターの上には最後の晩餐の刺繍が飾ってあることを嬉しく思っています。しばしばチラッとそれを見ては嬉しくなったり、戒められたりしています。その壁掛けは、今、製造元が製造休止状態のようですが、私が結婚式の司式をした方たちにプレゼントをして来たものです。そこには英語の短い詩が記されています。翻訳するとこうなります。

「キリストがこの家の頭
 食事ごとの目に見えない客人
 すべての会話の静かな聴き手」

   キリストを客人としてお招きするとは、実はキリストを主人として家に受け入れることです。客間ではなく、家族の中心に受け入れること、そしてすべての部屋でなされる会話を聞いていただくことなのです。私たちには見られたら困ることだって、聞かれたら困ることだってあります。でも、だからこそ、キリストには見ていただき、聞いていただき、そして時には争い、分裂してしまう家族の関係を、ご自身の体を裂くことを通してまた一つにして頂かなければならないのです。そういうキリスト、私たちのためにご自身の体を裂いて下さったキリストが、家族の真ん中に生きてくださらなければ、私たちは信仰者としての家族の愛を保ち、その交わりを育てていくことはできません。神の家族としての教会は尚更そうです。
 私たちを一つに結び付けてくださるのは、最後の晩餐の時に、弟子たちにご自身の体としてのパンを裂いて渡し、ご自身の契約の血としての杯を渡してくださったキリストその方です。その方が、今ここで私たちの只中で生きて下さっている。ただその事実があるから、そして、その事実を私たちは知っているから、信じているから、私たちは今もこうして、ここで礼拝をし、一つの交わりに生かされているのです。

 私たちにおいて起こっていること

 今日、多くの方のボックスには「桜通信」が入っていると思います。齢七十を越えた方たちが年に一回出す文集です。毎月発行される「会報」も年に一回の「桜通信」も、私は真っ先に読む特権を与えられています。木曜日から金曜日にかけて読ませていただきました。様々な文章が寄せられています。今年は特に、三月に召された信仰の大先輩のUKさんの追憶が記されている文章がいくつもあり、それぞれに感銘深く読ませていただきました。しかし、来週の修養会と今日の礼拝の説教に備えている日々の中で読みましたから、特にお二人の方の文章に心を揺さぶられる思いがしました。
ある方は、礼拝の時に心に浮かぶイメージを書いてくださいました。
"礼拝堂に入って黙想を始める。パイプオルガンの音色が会堂の隅々にまで響き始める。すると、その調べにのって、イエス様が弟子たちを従えてこの会堂に現れてくる。イエス・キリストの体からは燦然と輝く光が放たれて、会堂の一人一人を照らし、そして、静かに頷かれて、語りかけてくださる、ゆっくり静々と進み、説教壇の後ろの方にお座りになり、望みのもてる神聖な魂を送ってくださっている。去られる時は、シャローム(平和があるように)と声をかけて消えていく。その時、一瞬の幸せを覚える。そして、「今日も神様に会えてよかった」と心に思う。"
 私は、ただ「アーメン」と心の中で言いながら目を閉じるほかにありません。
また、ある方はパソコンで聖書を書き写し始めて三年目になるそうです。旧約聖書から始めて今はマルコ福音書を書き写している。一章を写し終えると、声に出して読む。その時のことをこう書いておられます。「関係なさそうな旧約聖書にもこの自分が組み込まれていると感じていましたが、イエス様の時代になりいっそう身近に感じるようになりました。聖書はどこを開いてもわくわくします。肉体は衰え世の楽しみはなくとも、幸せな時間がある。主よ、御心ならば最後まで続けさせてください、と祈りながら。」最後に「わたしは、神に近くあることを幸いとし、主なる神に避けどころを置く」という詩編の言葉が記されています。
 お二人とも、神様に出会えたその瞬間、神様を身近に感じるその時に、「幸せを感じる」とお書きになっています。
聖書を読むということ、それはまさにこういうことです。礼拝堂においてはもちろんのこと、自宅の一室でも、そこに神が近くいましたもうことを知ることなのです。罪によって神から離れ、身を隠しつつ生きるほかになかったこの私たちのために、神はご自身の独り子をメシアとして送ってくださいました。そのメシアであるイエス様は、神様の預言、その御心に従って、ご自身の体を引き裂く刑罰を身代わりに受けて下さり、私たちに神様との和解、真の平和、シャロームを与えてくださったのです。そのイエス・キリストの姿を見る、そのイエス・キリストが今ここに私たちの主人としていて下さることを知る。礼拝堂でも自宅でも、その事実は同じです。それが聖書を読むということであり、説教を語るということであり、説教を聞くということなのです。そして、そのすべては主イエスが送り給う聖霊の導きの中でなされることです。
 今日の礼拝、聖霊の導きの中で共に聖書を読んだこの説教を通して、一人でも多くの方の心が燃え、ここに主イエスが生きておられることを知り、暗い顔ではなく、明るい顔をして家路につくことが出来ますように。それは世の生活に帰ることではありません。世の人々に「イエスは生きておられる」と証しをするためなのです。そして、また来週、神殿があるエルサレムとしての中渋谷教会に帰り、「本当に主は復活された」ことを御言を通して知り、その主を礼拝することが出来ますように。
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