「心の目が開かれる」

及川 信

       ルカによる福音書 24章36節〜35節    
こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

 今日は修養会の日です。八月の半ばからその主題に関る御言の説教を続けてきました。先週と今週は、復活の主イエスと弟子たちとの出会いと食事の場面です。同じ聖書なのですけれど、私は読んでいても、語っていても、それまでの御言とは全く異なる感じを持ちます。旧約聖書の「過越の食事」や「契約の食事」、そして、その二つの食事を受け継ぐ「最後の晩餐」について語ることと、主イエスの復活の出来事を語ることは、私にとっては相当に違います。復活を語る。これは説教者にとっては大きな試練であり、恵みです。

 復活を語るということ

皆さんも、イエス様の教えの素晴らしさについて人々に語ることは出来るかもしれません。神を愛し、隣人を愛することの貴さを語ることは出来るかもしれない。また、その愛の結実、究極の姿としてイエス様の十字架があることを語ることもひょっとしたら出来るかもしれません。聴いて下さる方も、二千年も昔に、本当に尊敬すべき偉人がいたのだと納得してくれるかもしれません。しかし、その偉人の死は全人類の罪の贖い、赦しの為であったとか、その方は三日目に死人の中から復活して、弟子たちにその姿を現したと語り、「その復活を私は信じているのです。信じる者はその罪が赦され、神様との愛の交わりに永遠に生かされるのです」と語るとすれば、その時、それまで熱心に耳を傾けてくれた人も、多分、露骨に驚きを隠さないか、それとも静かな笑みを湛えて、「ほう、それはそれは凄いことですな。現代でも、そういうことを信じる方がいると知れて、大変参考になりました」とか言われかねません。そして、その人との関係が終わる、あるいは疎遠になる。そういうことになる場合もあります。
そして、その事情は、使徒言行録に記されているアテネにおけるパウロの事例を見るまでもなく、二千年前と少しも変わりません。アテネの人々は、パウロがキリストの復活について語り始めると「その話は、またいつか聞くことにしよう」と言って立ち去って行ったのです。
私たちだって信仰を与えられる前は同じことをしているのですから、あざ笑って立ち去る人たちの気持ちは嫌と言うほど分かりますし、非難する気持ちにもなれません。復活以前の話はそれなりに面白い。しかし、十字架の死が全人類の罪が赦されるための死であるとか、その死んだ方が復活したとかいうことになると、それなりに根拠も証拠もある壮大な歴史物語であったものが、突然、荒唐無稽な絵空事になってしまう。だから、私たちは十字架の死と復活に関して語ることには躊躇いを感じるのです。私も、教会の礼拝だから語っているのであって、そうでない所で、いきなりその話をするわけでもありません。
でも、私たちにとっては、十字架の死と復活を語ることなく、それまでの壮大な旧約の歴史を語っても、またイエス様の生涯を語っても、それは単なる一つの歴史であり、一人の人間の生涯に過ぎない訳です。二千年もの間、礼拝で語り続けるようなものではありません。大学の歴史学の一単元で扱えばよいことです。キリストを信じて以後の私たちにとっては、十字架の死と復活こそが、それまでのすべての記述が目指していることなのであり、そのこと抜きに旧約聖書を語ることも、福音書に記されているイエス様の生涯を語ることも不可能なことであり、まさに画竜点睛を欠くことになります。竜の目を描かなければ、どんなに勇壮な竜の姿を描いても間の抜けたものになる。それと同じことです。しかし、復活という出来事を人間が語るとはどういうことなのか?竜の絵であれ、五月人形であれ、目は命です。その目が死んでいれば、絵や人形も死んでいるのです。その目とも言うべき十字架の死と復活を描くとは、どういうことなのか?それを書き、それを語るとは、どういうことなのか?私は今日の午後、「復活の主イエスとの食卓」を主題とする講演をしますが、それに先立って、主イエスが十字架の死から(他の何ものでもない、「十字架の死」から)甦ったことに関して、ルカによる福音書が何を語っているかを、ご一緒に耳を澄まし、目を凝らしていきたいと思います。

 見えるのに分からない、分かると見えない

先週は、十字架の死を目撃し、女たちから「イエスは甦られた」との天使のお告げを聞いたにも拘らず、故郷のエマオに帰ってしまう二人の弟子たちの姿を見ました。エルサレムで起こったそのすべてのことを議論しながら歩く彼らの傍らに、復活された主イエスが近づいて来て話しかける。でも、彼らの「目が遮られていて、イエスだとは分からなかった」のです。その日の晩に、彼らの家で主イエスがパンを裂かれた、その姿を見た時、「二人の目が開け、イエスだと分かった」。しかし、その時「その姿は見えなくなった」とあります。「見えたのに、分からない」、そして、「分かった時は、見えない」。この叙述の中に、イエス様の復活というものが持っている本質が隠されていると思いますが、もう一つ重要なことは、イエス様が彼らに旧約聖書全体にわたって懇切に「説明して」くださったことです。イエス様によれば、「メシアはこういう苦しみうけて栄光に入る」ことが、旧約聖書の内容です。メシアの受難と栄光、つまり十字架の死と復活こそ旧約聖書が預言していることであると説明されたのです。この「説明」という言葉は、「翻訳」とか「通訳」という意味でもあります。私たちが、聖書を読んで、自分の頭で理解しようと思ったところで、それは英語を知らない人が英語を幾ら読んでも分からないのと同じように分からないのです。日本語で書かれていたって、旧約聖書とはメシアの受難と栄光について書かれているなどということは分かりません。しかし、そのことが分からなければ、聖書を読んだことにはなりません。

 心が燃える

主イエスは、ここでご自身について書かれている聖書を読んで聞かせました。そのことが、彼ら二人の弟子たちにとっては、主イエスがパンを裂いた姿と同じく決定的なことです。彼らは、その姿を見た時に、「彼らの目が開け」、目の前にいるのが主イエスだと分かりました。その途端、主イエスの姿は見えなくなりました。しかし、彼らはこう言ったのです。

「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、私たちの心が燃えていたではないか。」

  この言葉もまた、私の特愛の聖句です。私は私なりによく分かるのです。若い頃、説教を聴きながら「心が燃える」ことは何度もありました。それは、復活の主が牧師を通してこの礼拝堂で語りかけてくださっていることが分かる時です。「主は生きておられる」。その事実が分かる時なのです。今は、説教を準備する時に、そういうことが起こらない限り説教は出来ないので、毎週、味わっています。
この時、彼らは、イエス様が「聖書を説明してくださったとき、心が燃えた」と言っています。この「説明してくださった」は、ギリシア語では先ほどの言葉とは違う言葉が使われています。こちらの方は、「開く」という言葉の強調形なのです。その直前の「目が開け」と同じです。つまり、見えなかったものが見えてくる。あるいは鍵がかけられていたものが開けられることであって、新約聖書ではしばしば救いの門が開かれるという意味で使われる言葉です。闇に閉ざされていて何も見えなかった者に、一筋の光が見えてくる。救いの光が見えてくる。聖書の中に見えてくる。肉眼の目には見えない主イエスが見えてくる。そういう瞬間がある。それは聖書の説き明かしとしての説教と、主の食卓である聖餐において、今も起こっている現実です。それが、現実だから、私たちは今もこうして主を礼拝しているのです。そして、復活の主イエスが弟子たちの真ん中に立たれたのは、二千年前の日曜日の夕刻のことでした。だから、私たちは今も日曜日に主の食卓を囲む礼拝をしているのです。
さて、そのような経験をして、彼らは時を移さずエルサレムに一目散に帰って行きました。すると、十一人の弟子とその仲間たちが集まって、「本当に主は復活して、シモン(ペトロ)に現れたと言っていた」ので、「二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話し」ました。今日の箇所は、その日の出来事の続きです。

 エルサレムでの出来事

そこでまた不思議なことが起こります。

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。

 この出来事の少し前に、復活の主イエスがシモン(ペトロ)に現れたとあります。これは姿を「見せた」ということですけれど、どのようにしてかは分かりません。ただ、彼は復活のイエスを既に見ているのだし、その目撃証言を仲間たちにはしているのです。しかし、その彼を含めて、そこにいる人々は、主イエスが真ん中に立って「あなたがたに平和があるように」とおっしゃると「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」というのです。何故なのか?ついさっきもイエス様と出会ったはずのペトロや、その言葉を聞いて「本当に主は復活した」と語り合っていた人々が、どうして、この時、復活の主イエスを見て、「恐れおののき、亡霊を見ているのだ」と思うのか。彼らは、恐怖のどん底に叩き落されたのです。少なくとも、この段階では喜んだわけではない。不思議です。ペトロにしてみれば、自分が言ったことを主イエスが現れて証明して下さったことだし、他の者たちにしてみれば、聞いて信じていたことを、今や見て信じることが出来るようになったのだから、「ああ、イエス様、よくぞ現れてくださいました」と言って大喜びしたっておかしくないとも思えるのです。
 でも、それは聖書をただ表面の文脈を読んでいることから来る浅い感想なのでしょう。当事者の身になってみれば、やはり、死んでいた人間が突然目の前に現れれば、それは何度体験したって、腰を抜かさんばかりに驚くほかにないし、まさに亡霊が現れたのだと恐れおののくほかにないことでしょう。地上の歴史において、今まで一回も起こらなかったこと、そしてそれ以後も一回も起きていないことを目撃しているのです。人類史上、この時の出来事は、この時の彼らだけが経験したのであって、後にも先にも、こういう経験をした人はいません。先ほど挙げたパウロもまた、本質的には復活の主イエスと出会ったのですけれど、この時のペトロ達のように出会ったわけではありません。この時の主イエスは、復活から天に挙げられるまでの四十日の間だけ弟子たちに現されたイエス様です。その後、主イエスは天に挙げられ、世の終わりまで、目に見える姿で現れることはありません。ただ聖霊において、私たちと共に生きてくださるお方なのです。そのことを踏まえておかないと、この時の弟子たちの衝撃は分からないと思います。

 霊の体?

 しかし、私は、この時の弟子たちの衝撃には他の理由もあると思います。主イエスは、恐れおののく弟子たちに向かって、こう語りかけます。

「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。


 前回の場面もスリリングでぞくぞくしますけれど、今日の箇所も、何度読んでも鳥肌が立つような所です。イエス様は、亡霊(原語では「霊」)には肉も骨もないとおっしゃる。しかし、今、わたしにはそれがある、と。そして、手や足をお見せになるのです。その手、その足には、イエス様の生きた体を十字架に磔にするために打たれたぶっとい釘の跡、つまり、穴が開いているのです。つまり、復活されたイエス様は十字架に磔にされたイエス様、その方だということです。「まさしくわたしだ」エゴ・エイミ・アウトス。神様がご自身を現すとき、「私だ」(エゴ・エイミ)とおっしゃるその言葉が、ここに使われています。「私、十字架に磔にされたこの私が、復活して今生きている。ここに神が現れている。なぜ、そのことを信じないのか?」主イエスは、そう言われます。
 そして、ご丁寧にというか何というか、わざわざ、魚まで食べてみせる。つまり、この時の主イエスは体を持っているということです。しかし、その体は、目が遮られていれば、その姿を見てもイエスだとは分からない体だし、目が開ければ、その姿は見えなくなる体でもあるのです。また、聖書が説明され、開かれない限り、見えない体でもある。だから、魚は食べても、十字架の死以前のイエス様の「肉体」と全く同じかと言えば、やはり違う。パウロが、コリントの信徒への手紙の中で使っている言葉で言えば、「霊の体」と言うべき体なのでしょう。私たちには、ただ、聖書の言葉を通してだけ見える体です。

 弟子たちの衝撃の理由

 私は先ほど、「この時の弟子たちの衝撃には他の理由もある」と言いました。それは、他の言い方をすると、ここで問題になっているのは所謂「死人の復活」ではない、ということです。死んだ人間が復活する、それはあり得ないことだ、でもそのあり得ないことが起こった、だから弟子たちはびっくり仰天している。たしかに、そういう面があります。しかし、果たしてそうなのか、それだけなのか?と思うのです。そういう一般論なのか?一般論であれば、たとえば、「死んだ人間は皆成仏する」とか、「死んでも霊魂は不滅なのだ」とか、「死んだ人間はみな天国に行くのだ」という日本人が大好きな話と同じになります。せいぜいイエス様は、その人間の先駆者であるということになってしまう。しかし、そういう先駆者イエスを聖書は証言しているのか?そんなことがあるはずもありません。そんなことであるならば、モーセ以来の旧約聖書など必要ありません。旧約聖書は、天地創造以来の歴史を記しつつメシア(キリスト)の受難と栄光を預言しているのです。そして、イエス様と弟子たちとの固有の関りは、その歴史を体現していると言ってもよいのだと、私は思います。そして、弟子たちの衝撃の理由は、弟子たちとイエス様の固有の関りの中に隠されていると思います。
ルカ福音書には、ルカ福音書にだけ記されている言葉がありますけれど、その中の一つはこういうものです。それは、主イエスと弟子たちとの最後の晩餐の後の場面です。二二章三一節以下です。

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」

 そして、その後に、主イエスがユダの裏切りを通して逮捕され、大祭司の屋敷に連れて行かれます。ペトロは、ひそかについていく。しかし、そこで三度、お前も主イエスの弟子であったのではないかとその場にいた人々に糾弾されます。しかし、彼は三度、否定しました。弟子ではない、あんな男は見たこともないと。しかし、そう言い終わる前に、鶏が鳴きました。その時のことを、ルカはこう記しています。

主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

 何故、サタンはシモン・ペトロをふるいにかけることを神に許されたのか?それは分かりません。何故、神はサタンに対してヨブをあれほどに試みることを許されたのか?それも分かりません。また、何故、神は禁断の木の実をエデンの園に生やし、何故、賢い動物である蛇を造り、エバを誘惑するままにさせておいたのか?それも分からないことです。先週も語りましたように、聖書には分からないことがいくつも書かれているから面白いのです。全部分かるなら、一生かけて読む必要などどこにもありません。神様のなさることのすべてが、その時、私たちに何もかも分かるわけではない。でも、ペトロの経験は、誰しもが何らかの形で経験することだし、ヨブほどでもないにしても、私たちはわが身の不幸を嘆きつつ神を呪うことはあります。そして、アダムとエバが遭った誘惑を経験しない人はいません。誰もが裸の恥を抱えながら生きている。つまり、神を裏切る罪を抱えもって生きている。それは事実です。そして、神の前から逃げ隠れしつつ、「あなたはどこにいるのか」と問われている、罪を犯したのにそれを認めず、「あなたはなんということをしたのか」と問われている。それは、私たちすべての人間の現実です。
 人類の歴史は、この罪の問題と密接不可分に関っているのです。それはつまり、罪の赦しの問題と関っているということです。人間の犯した罪はそのまま蓄積され、その罪が裁かれるのか、それとも、罪は赦されるのか、赦されるとすればそれはどのようにしてか?その問題を巡って、旧約聖書は書かれているのですし、その中で、犠牲の祭儀や悔いし砕けたる魂について語られ、メシア到来が預言されて行くのです。

 罪の赦しという衝撃

 ペトロは、サタンにふるいにかけられ、ものの見事に罪に堕ちました。そして、その事実を知りました。自分でも訳も分からず、「あの人のことは知らない」と言ってしまう自分を知ったのです。そして、自分がそういう人間であることを、主イエスはすべてご存知であったことを知ったのです。その主イエスは、十字架の上で、人々に嘲られながら、こう祈られました。

「父よ、彼らをお赦しください。自分で何をしているのか知らないのです。」

 主イエスの弟子の筆頭株なのに、「あの人のことは知らない」と言ってしまうペトロは、「自分で何をしているのか知らない」のです。それが罪人の本質です。アダムとエバも、自分たちが何をしているのか知りませんでした。しかし、そういう罪人の罪の赦しのために、イエス様が十字架に磔にされている。ぶっとい釘を手や足に打たれて、断末魔の苦しみを味わっておられる。その苦しみの中で、自分のために、その罪が赦されるために祈りつつ死んで下さっている。本来ならば、罪人が神様に赦しを祈り求めつつ捧げなければならない犠牲となってくださっている。ルカ福音書は、「イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた」と記しています。その遠くに立って見ている人々の中に、ペトロや他の弟子たちもいたでしょう。その彼らの心境はどのようなものであったでしょうか。
 とにかく、この出来事が、今日の箇所に記されている出来事の僅か三日前のことなのです。彼らは、そのすべてを見ているのだし、そのすべてから逃げてきたのです。主イエスだけが死んだのです。彼らは、「一緒に死ぬ」と言いながら生き延びた。でも、今、生きているのは、どっちなのか?天使は、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」と言い、「イエスは生きておられる」と告げました。そして、弟子たちは、何も信じることが出来ず、ある者はトボトボと故郷に帰り始め、ある者はユダヤ人を恐れ、また自分の罪深さを知って茫然としつつ、エルサレムの隠れ家に隠れているのです。しかし、今、主イエスがそういう者たちが集まっているその部屋の真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と語りかけている。これは、アダムとエバが様々な意味で聞けなかった言葉です。
しかし今、「あの人のことは知らない」と言って逃げたペトロを初めとする弟子たちが、神その方を体現する主イエスから「あなたがたに平和があるように」と言われている。サタンにふるいにかけられ、己が罪に打ちひしがれ、嘆きの涙を流した弟子たちが、「まさしくわたしだ」と宣言される方に、「あなたがた、ほかならぬ私の弟子でありつつ、サタンにふるいにかけられたあなたがたに平和があるように。神があなたがたと共にいるのだ」と語りかけて下さっているのです。「平和があるように」とは、「神が共にいます」ことを表す言葉だからです。
 主イエスの復活とは、人類の歴史上、ただ一回起こった出来事であることを私たちは信じています。しかし、その出来事が現実となるのは、復活の主イエスを通して自分の罪が赦されることを信じる者たちにとってなのです。罪の意識などなにもないアテネの哲学者たちにとっては、お笑い種の話であることは、いつの時代においても変わりありません。ただ罪人だけが、復活の主イエスと出会うことが出来るのです。
 弟子たちは、主イエスの姿を見、またその言葉を聞いて、初めて「喜ぶ」ことが出来ました。主イエスの復活の意味が分かったからです。しかし、それでも尚、人類史上初めての出来事に触れた彼らは「喜びのあまりまだ信じられません」でした。ここは「非常に喜んだのだが尚信じられなかった」と訳した方がよいかもしれません。そこで、主イエスは、その場にあった魚を食べてみせたのです。ご自身が、ただ霊として漂っているのではなく、霊の体を持っていることをお示しになるためです。
 その上で、主イエスはここでも「モーセの律法と預言者の書と詩編」がご自身について書いていることは必ず実現することは、既に語っていたはずだとおっしゃる。エマオ途上の弟子たちにも聖書を翻訳し、そして開いて見せてくださったように、ここでもそうされます。さらに、今回は、「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」下さるのです。原文には「目」という言葉はなく、「心を開いてくださる」と書かれています。閉ざしていた心、主イエスを受け入れず、明け渡さない心を、主イエスが開いてくださる。パンを裂く姿を通してエマオの弟子の目を開き、翻訳を通して彼らに聖書を開いてくださった主イエスが、ここでは彼らの「心を開いて」くださり、その心に流し込むように、「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する」という聖書全体の証言を告げてくださるのです。そして、開いた心の中に、聖書の言葉を受け入れ、また主イエスを受け入れることが出来た者たちを通して「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と預言をされます。その最初の出来事が、今日の午後の講演で語ることになる聖霊降臨日、ペンテコステにおいて起こった出来事です。そこで、かつて「あの人のことは知らない」と言ったペトロが、「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です」と宣言し、「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」と説教をすることになります。これは、主、メシアによって、本来なら赦されようもない自分の罪が赦されているという信じがたい事実を信じた人間の説教です。人間が、本当に信じることが出来ないのは、自分の罪が完全に赦されているという事実なのです。

 新約聖書と教会を産みだすもの

 新約聖書は、このペトロたちの証言、説教を土台として書かれていくことになります。そして、その証言、目撃証言の上に新しいイスラエルとしてのキリスト教会は建てられていくのです。その教会においては、絶えず新たにイエス・キリストの十字架の死と復活の出来事が語られ続け、絶えず新たに主の食卓が守られ続けます。その説教と聖餐を通して主イエスの受難と栄光、死と復活の告知を聞き、また目で見て、それがすべて私の罪のために起こった出来事なのだと悟ることが出来た人は、洗礼を受け、主の食卓に与る者とされていくのです。
 ペトロの証言は、命がけの証言です。彼は、イエス様が復活したことを語ることを通して迫害を受け、ついには殉教の死を遂げました。目撃者はいつだって真実を言う訳ではありません。自分に不利になることは言わないし、言ったら命の危険にさらされるのであれば、見たことも見ていないと言うものです。しかし、新約聖書を産み出したペトロたちの目撃証言は、そんなものではありません。たとえ、このことを言うことで自分が殺されることになったとしても、私は見たことを言いますし、それ以外にやることはありません、という決死の覚悟をもって語られた証言なのです。そのペトロたちが、何百回も何千回も語った出来事が、今日の出来事です。
"日曜日の晩、主イエスが自分たちの真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と語ってくださった。私たちは、それでも信じることが出来なかった。私たちの罪が、主イエスを裏切ってしまった罪が、その主イエスによって赦されていることを信じることが出来なかった。でも、主イエスは、そういう自分たちの心を開いてくださって、あの十字架の祈りが聞かれたことを悟らせ、真実の悔い改めを与えてくださった。だから、私たちはもう何も恐れない。主イエスは復活されました。そして、今は天にあり、聖霊を通して、私たちに語るべきことを教え、大胆に語らせてくださいます。どうか、主イエスを信じてください。この方の死はあなたの罪の赦しのため、この方の復活はあなたの永遠の命のためであることを信じてください。私は信じています。信じているから、この証言の故に殺されたとしても喜びます。そういう新しい命が与えられることを、どうか信じてください。"
彼は、そう語ったのだし、私たちはその言葉を信じたのです。その言葉は、主イエスの霊が、彼に語らせた言葉だからです。そして、聖霊が、私たちの心を開き、その証言は真実の証言であることを悟らせてくださったからです。今日の私の説教も、聖霊によって開かれた聖書を聖霊によって開かれた心で聞き、見て、語っている言葉です。だから、信じてください。
主イエスが、今日も私たちの心を開いてくださいますように、祈ります。
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