「十字架の言葉」

及川 信

       コリントの信徒への手紙T 1章18節〜31節  
十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。
「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。」
知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

 十字架の言葉


 今日は中渋谷教会の創立記念礼拝です。中渋谷教会は一九一七年(大正六年)九月二九日に創立され、現在までの歩みを続けています。私はその日に読むべき御言としてコリントの信徒への手紙一の言葉を選びました。先月の中頃のことです。それ以前から既に修養会に向けての連続説教を始めており、一貫して教会とは何であるか、礼拝とは何であるかを、御言を読みながら考え続けてきたわけです。それは来週まで続きます。
 先週の礼拝では、ルカ福音書における主イエスの復活の記事を読みました。説教では触れませんでしたが、ルカ福音書の最後は、弟子たちがエルサレム神殿で神を賛美する礼拝を捧げている場面です。そして、その続きの使徒言行録の最初に、エルサレムにおけるキリスト教会の誕生の次第が記されています。つまり、最初のキリスト礼拝が捧げられた様が描かれているのです。
 聖書はそのような叙述を通して、歴史的現象として教会が誕生する姿を描いているのですけれど、その現象を叙述する言葉を読むことが即、教会を理解することではないし、まして私たち一人一人が教会に加わることになるわけでもありません。言葉を理解することと、ある出来事に参与することは別の次元なのだと思います。
 私が何故、こういうことを言うのかと言うと、パウロはここで「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」と書いているからです。何故、彼はここで「十字架の言葉」と書くのか?「キリストの十字架」ではなく、何故、「言葉」と書くのか?それがずっと疑問だったのです。ここで言う「十字架の言葉」とは何なのか?「救われる者にとっては神の力である言葉」とは何なのか?これは「十字架」という言葉そのものを言っているわけではないし、十字架の場面の記事を言っているわけでもない。それでは、何を言っている言葉なのか?そして、この言葉を読み、あるいは聞き、受け取るとはどういうことなのか?こういう疑問は、私の手には余る大きすぎる問題ですけれど、とにかく、時間の範囲内で、御一緒に聖書に問い、聖書から問われていきたいと思います。今日発行された会報の巻頭言では、同じ個所を別の観点から語っていますから、合わせてお読みいただきたいと思っています。

 コリント教会の現状

この当時のコリント教会は、創立者であるパウロを信奉している人や、その後を継いだアポロを信奉している人、あるいはエルサレム教会の創立者とも言えるペトロ(ケファ)を信奉している人たちがおり内部で分裂していました。そこで彼は、こう語ります。

あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。

 教会には目に見える形で創立者というものが存在しますが、その場合の「教会」とは、たとえば中渋谷教会とかコリント教会とかいう個別の教会のことです。しかし、その個別の教会が教会であるわけではありません。個別の教会、各個教会は、キリストの土台の上に立つ「聖なる公同の教会」に連なって初めてキリスト教会なのであり、目に見える形の創立者を記念した所で教会の創立を記念することにはなりません。また、教会はそもそも一人では存在しないのですから、初代牧師だけを記念するなど無意味であり滑稽なことです。キリストの名によって二人また三人が集まらなければ、そこに教会はなく、牧師の名で集まっているわけではないからです。そして、教会の土台はあくまでもキリストの十字架にあり、キリストの十字架によって罪が贖われたことを信じる者たちが洗礼を受けて教会を構成するのです。パウロはここでそういうことを語っているのであり、その基本的な事実を、私たちは今日も確認しなければなりません。最近も、ある教会で創立者の牧師が隠退しているにも拘わらず、何かにつけて教会のやり方に口を出し、古い信徒はその牧師の言うことばかりを聞き、現在の牧師のもとで信仰を与えられた信徒との間で分裂している現状を聞かされましたけれど、二千年も前から今に至るまで、私たち人間が抱える愚かさ、罪深さを思います。それはキリストの十字架を信じる愚かさとは全く正反対のこの世の人間の愚かさです。

 神秘

 今、「キリストの十字架を信じる」と言いました。しかし、それはどういうことなのか?十字架の裏には復活があり、その両者は切り離せません。十字架を信じるとは復活を信じることです。しかしそれは一体、どういうことなのか?パウロは、この手紙の中で、その点について言葉のかぎりを使って語ります。しかし、その「言葉」とは、二章一三節によれば、「人の知恵に教えられた言葉」ではなく、「"霊"に教えられた言葉」です。また彼は、この手紙の中で何度も「神の秘められた計画」とか「神秘」という言葉を使います。原語は、英語のミステリーの語源になった言葉です。二章一節では「神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした」とあり、七節では、「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵である」と語っています。つまり、パウロが語らんとする事柄は神秘の事柄であり、人間の知恵によっては知り得ない事柄を語るのだから、その言葉もまた霊に導かれて語る以外にはなく、その語られた言葉も霊によって悟る以外にはない。そういうことなのでしょう。十字架とは神秘の業、神の秘められた計画の業なのです。しかし、その語り得ない神秘を言葉にして語ることが私たち人間には求められています。『日本基督教団信仰告白』で「神の言」とされる聖書も、やはり人間が神の霊感を与えられる中で書いた書物なのです。つまり、神様が書くことを求めた結果、誕生したものです。
 今年の一月に私が尊敬する聖書学者の講演を聞き、その講演録がつい先日ブックレットになって出版されたので読みました。その学者は、目に見える歴史の背後というか、その元に原歴史とか原事実というものがあって、その原歴史の上に歴史とか事実とかがあるのだけれど、その原歴史は秘儀であって、人間は元来語り得ないものだと言います。私たち人間は、天地創造やイエス様の受肉、また十字架と復活や終末を語ることは本来出来ないのです。でも、それらの出来事がなければ歴史はないし、教会はこの歴史の中に誕生していない。それも事実です。そして、聖書は、そういう本来語り得ないこと、言葉にし得ない神秘を書いている。その言葉はどのようにして語られ、どのようにして受け止めることが出来るのか?「救われる者にとっては神の力としての十字架の言葉」とは、そういう問題に関わります。

 神の言 力

 そもそも聖書における言葉とは神の力そのものとして現れます。天地創造記事はすべて神の言葉によります。神様は「光あれ」とおっしゃった。すると「光があった」のです。今月号の会報で、村田泰子さんが教会に通い始めた頃に出会った「光あれ」という言葉に衝撃を受けたことを書かれていますが、こういう言葉もまさに神様しか言えない言葉です。衝撃を受けるとは、この言葉に神の力を感じたということです。実際に光を造り出す、それも太陽の光ではなく、もっと根源的な命の光とでも言うべき光を造り出す神の言、神の力としか言いようがないその「言」によって天地は造られ始め、そこに人類の歴史が始まったのです。少なくとも、聖書を書いた人は、そういうことを書いている。これはまさに原歴史を書いている言葉と言うべきもので、新聞記者が出来事の現場で見たこと聞いたことを書く言葉とは違います。新聞記者が見たり聞いたりするような意味で神の言を聞き、光が出来る様を見て書いているのではなく、自分の中にある光、命を生み出してくれる光を感じ取り、その光は神の言が造ったもの、その光の中に神ご自身が生きていることを感じ取って書いたのでしょう。そういう言葉、つまり神の霊感によって、あるいは啓示を受けて、書かれたのが聖書です。
 そして、この創世記一章を霊的に引き継いでいるのがヨハネ福音書一章だと思います。そこには、「 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」とあり、その神である言が万物を造り、その言の内には命があり、それは人間を照らす光であり、その光は暗闇の中で輝いていると語っています。そして、その言は肉をとり、私たち人間の間に宿り、その栄光を私たちは見た、それは独り子なる神の栄光であったと記すのです。これはまさに人間が立ち会うことができない、また肉眼で見ることもできない原歴史、すべての事実の根底にある原事実を表現している言葉です。そして、ここで言われる「言」とは、イエス・キリストのことだと言って間違いないのですが、しかし、イエスという歴史的な人物が天地の最初に存在していたわけではないのですから、独り子なる神です。ここにも私たちには理解できない神秘があると言うべきでしょう。しかし、その神秘がなければ天地は造られず、そしてキリストを礼拝する人間は誕生せず、キリストを礼拝することにおいて生きるキリスト教会がこの歴史の中に誕生することはありませんでした。そして、教会とはこの神秘を告げる聖書という書物、神の言の書物を生み出し、また聖書が教会を生み出していったのです。何故なら、言葉なくして信仰は生み出されないからです。

 信仰は聞くことから

 パウロはローマの信徒への手紙の中でこう言っています。
「 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
 ここに出てくる「キリストの言葉」も、イエス様がお語りになった言葉に限定されるものではありません。新約聖書はすべてキリストの言葉であるとも言えるからです。そして、宗教改革者のルターは、このパウロの言葉を、「信仰は説教により、しかし、キリストの言葉による説教から生じる」と訳しました。旧約聖書がキリストを証し、預言する神の言であるとするなら、新約聖書はキリストの言葉と言ってよいと思います。もちろん、具体的にはパウロとかヨハネとか様々な人間が書いているのです。しかし、そのことを超えてキリストの言葉として聖書は私たちの前にあり、聖書を通してキリストが語りかけてきているのです。聖書がキリストの説教だとも言えるわけで、牧師が毎週語る説教もまた、キリストの言葉による説教である限りにおいてキリストの言葉なのです。キリストが語っているのです。その言葉を聞くことによってしかキリスト信仰は誕生しませんし、キリスト信仰が誕生しなければキリスト教会も誕生しないことは言うまでもありません。
 言葉とは、通常は聞くもの、あるいは読むものです。そして、理解するものです。しかし、先ほどから縷々語ってきていることからもお分かりいただけると思うのですが、聖書の言葉、つまり原歴史を産み出した神を語る言葉、神の力としての言、あるいは神ご自身である言、命を造り、光を輝かす言というものは、単に聞いたり読んだりして理解するためにあるのか、あるいはそういうことを求めて私たちに語りかけてくるのかと言うと、それは違うと思います。聖書の言葉、キリストの説教とは、そういう部分的なことではないし、観念的なものではありません。そんなものなら歴史の中でとっくのとうになくなっているし、教会も消滅しているでしょう。

 見、触れる言葉

 もう一か所だけ、その言葉に関して記されている所を読みたいと思います。それはヨハネの手紙一の一章です。そこにはこうあります。

初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。―― この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。―― わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。 わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。

 「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち命の言について。」
 まさに不思議な言葉です。言葉を目で見て、手で触れるということは、通常の言葉理解ではあり得ないことです。しかし、ヨハネが体験した「命の言」とは、そういうものなのです。それは御父と共にあったが、私たちに現れた永遠の命、つまり、独り子なる神イエス・キリストその方のことなのだし、その方との交わりの中に入ることによって私たち罪人の罪が赦され、私たちもまた神と共に永遠に生きる者とされる。その喜ばしい知らせを、ヨハネはこういう言葉で証しする、証しせざるを得なかったのです。そして、この御父と御子イエス・キリストとの交わりに入るために必要なことは命の言であるイエス・キリストを信じる信仰です。ただそれだけなのです。

 十字架の言葉としてのイエス・キリスト

 これらのことを考え合わせると、パウロが語る「十字架の言葉」とは、言葉において御自身を現し、その全能の力を発揮される神の力そのもの、つまり、イエス・キリストその方であると言ってよいと思います。そして、そのイエス・キリストが、その最大限の力を発揮し、新しい命を創造し、闇に輝く光を創造されたのは、その十字架に磔にされた死なのです。それはこの世の知恵から考えれば全く愚かなことです。「光あれ」と一言おっしゃれば、そこに光を創造することができるなら、何故、神はこのように御自身の独り子を全く無力な姿、惨めこの上ない姿とされるのか。そして、御子が神に見捨てられる絶望を味わわねばならぬのか。それは私たちには理解できないことです。「世は自分の知恵で神を知ることはできない」のですから。しかし、神様は世に生きる私たちには愚かに見える、無力にも見える、惨めとさえ思えるこの十字架のキリストを通して、全く新しい歴史を創造し、復活の命の光を創造されたのです。そのことを十字架そのものが告げている。十字架のキリストそのお方が証ししているのです。その言葉を聞くことが出来る時、その言葉を見ることが出来る時、その言葉に触れることが出来る時、私たちは信仰を与えられ、救われる者とされます。何故なら、神の独り子であるお方、最初から神と共におられたお方、万物がこの方によって造られたと言われるお方が、この無力で惨めこの上ない罪人の罪の赦しのために徹底的な裁きを受けて死んでくださったことの痛みをその体で感じることが出来るからです。そして、それは同時に、その十字架のキリストが復活して、私たちと共に生きつつ私たちを新しく生かそうとしてくださっている事実、原事実を、その体で感じ取ることが出来る時です。信じるとは、そういうことなのだと思います。

 世に交じりて 世に落ちず

 そして、この信仰をもって生きるとは、この世の中にあって、この世の者とは異なる存在として生きるということです。教会とは、そういう者たちの集いなのです。キリスト教信仰の上に立つ捜真女学校の校歌には、「世に交じりて、世に落ちず」という言葉があったと思います。昨日、卒業生である私の母に電話で確かめたら、その部分までは歌えましたから確かだと思います。この歌にあるように、キリスト者として生きることは、世にあり、世の人々と共に生きつつ、しかし、世とは違う世界を生きることなのです。世の者ではなくキリストの者。十字架の言葉を聞き、よく見、手で触れ、自分のために十字架で死に、そして復活してくださったキリストとの交わりの中に生かされる者なのです。
そして、ヨハネはその手紙の中で「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」と言っていま。私たちの交わりとは、キリストとの交わりに生きることが出来るように互いに気付かせ合い、励まし合うこと。十字架の言葉、ご自身の命をささげて私たちを愛してくださっているキリストご自身を分かち合うことなのです。パウロも、このコリント教会の信徒に向けての手紙の中で、そのことを必死になってやっているのです。

守るべき信仰

 先日、修養会の二日目に、橋本洽二さんに証しをしていただきました。残念ながら世と同じように少子高齢化が進み、世代交代が急速に進んでいる中渋谷教会が、時代が変わっても、長老たちが代わっても堅持していかねばならぬものを語ってくださることを心密かに期待してお願いしたのです。その証しの中で語られた一つのエピソードがあります。かつての中渋谷教会を支えた長老のお一人である山田松苗長老がお書きになった「教会と関東大震災」という文章に出てくるものです。会員になられたすべての方がお持ちのはずの『中渋谷教会八十年史』に収録されている文章です。
関東大震災は中渋谷教会が創立された六年後の一九二三年(大正一二年)九月一日に起こりました。言うまでもなく、未曽有の大災害です。その翌日は日曜日でした。山田松苗長老は、さすがに「この様な非常事態に礼拝に欠席することは、常識的に当然のこと」と思っていた。交通機関は皆ストップしているのですから、まさに当然のことでしょう。しかし、その日の午後、病身の森明牧師が雪駄をはき、ステッキをつきながら、渋谷から麻布まで歩いてこられ、山田松苗長老の顔を見ると、憂いと怒りに似た表情をもって「天地が崩れるような事があっても礼拝はやめません」と一言だけ言って立ち去って行った。その言葉を聞いた時のことを山田松苗長老はこう記しています。
「先生の一言と、巷の人々の中に見出され得ない厳然たる態度とは、現実の中に沈没しきっていた私を神の言葉の世界に引き戻した。」
 まさに「神の言葉の世界」というものが、世の現実の中に、しかし、世の現実とは別に、存在するのです。神の言葉、十字架の言葉を聞く、見る、手で触れるとは、その世界の中に生きるということです。山田松苗長老は、森明牧師の言葉を通して、自分は既にキリストの名によって洗礼を授けられた者として、今やその神の言葉の世界に生きている、生かされている、生きることが求められている。その事実を知らされたのです。それが信徒の交わりの中で起こることだし、起こらねばならぬことでしょう。その後、松苗長老初め中渋谷教会の初期の信徒たちは、まだ焼け焦げた死体が川に浮かぶ状況の中、教会の兄弟姉妹を訪ね歩き始めることになります。そして、礼拝出席を促すのです。その時、心にあった言葉は、「主は与え、主は取り給う」であり、また「髪の一筋さえ、白くも黒くもすることが出来ない」自分たちのすべては神の御手の中にあるという平安だったと記されています。礼拝出席が義務だから促すのではありません。その礼拝の中で語られる神の言、十字架の言葉を聞き、よく見、手で触れることに世にはない真の平安があるから促すのです。それがたとえ、世の常識から外れていたとしても、世は世です。そのままでは滅びるものに従うことが真の知恵ではありません。
 「天地が崩れるような事があっても礼拝はやめません」という森明牧師の言葉の背後にあるのは、「天地が崩れても、わたしの言葉は一点一画廃れることはない」という主イエス・キリストの言葉、復活に裏打ちされた十字架の言葉があります。その言葉に堅く立つ、そして、その言葉を生きる。それは、この世の知恵から見れば愚かなことに違いありません。しかし、この世の知恵では神を知るに至らないのです。そして、神を知るに至らなければ、神との交わりの中に生かされることはありません。神様との交わりを持てないのなら、私たちはただ滅びゆくだけの存在です。浮かんでは消える川のあぶくと同じです。しかし、私たちは恵みによって神に召され、今や神の力、神の知恵たるキリストを霊によって示されたものであり、そのキリストを世に宣べ伝えているのです。それが教会なのです。世を避け、世を軽蔑して殻の中に閉じ籠るのではありません。愚かと笑われようが何であろうが、私たちを救いに導く十字架の言葉、キリスト御自身を信じて世に証しをしていく。それが聖霊降臨によってこの世に誕生したキリスト教会の姿なのであり、私たちが断じて継承していかなければならない教会の姿なのです。神様は、必ず、そういう教会の伝道の歩みを祝福し、その教会を通して十字架の言葉を語り続け、信じる者を一人また一人と立てていってくださいます。中渋谷教会の創立を記念するこの日、私たちはその神の力、神の知恵たるキリストを新たに覚え、感謝と賛美をささげたいと思います。
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