「記念と告知の食事」

及川 信

       コリントの信徒への手紙T 11章23節〜34節  
わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

 今日は、先日の修養会の講演では語りつくせなかった聖餐制定の言葉に関して、御言の語りかけを聴きたいと願っています。修養会の講演において、私としては、二〇〇五年度から学んできたことはすべてパウロが伝えるこの言葉の中に流れ込んでいるのだということを語ったつもりです。つまり、外堀は埋めた。しかし、数人の方から、聖餐制定の言葉そのものが語られていないとのご指摘を受け、たしかにそうだなと思うので、今日は、制定の言葉に集中します。特に、今日は、最後の「主が来られる時まで、主の死を告げ知らせるのです」という言葉に耳を澄まし、目を凝らしていきたいと思っています。

 主から受けたもの

 しかし、その前に復習を兼ねて、そこに至るまでの言葉にも触れておきます。

わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。

 これはとても大切なことです。彼は、主から受けたものを伝えているのです。彼が考えたこととか、彼が始めたことを伝えているのではありません。ここに既に教会の本質があると言えると思います。教会は、人間が始めたものではありません。だから、人間が勝手に変えてはならないことがあります。特に洗礼とか聖餐、あるいは洗礼と聖餐の関係など、時代がどのように移り変わろうが変えてはならないことなのです。
 しかし、彼が「主から受けた」という場合、それは具体的にはどういう形なのでしょうか。彼に直接、聖霊なる主が語りかけたのでしょうか?そうではありません。「すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンをとり、感謝の祈りをささげてそれを裂き」とあります。「引き渡される夜」とは主イエスが十二弟子たちと過ぎ越しの食事をとったあの夜のこと、つまり、最後の晩餐のことです。この夜の食事が教会の聖餐の根底にあるのであり、その食事のことを伝えたのはペトロを初めとする弟子たち以外にはいません。だから正統的な教会はすべて「使徒的教会」と言われるのです。十二使徒の伝承の上に建っている教会という意味です。十二人の弟子たちが、聖霊を受けて使徒となり、イエス様の言葉、業、十字架の死、復活、そしてイエス様が最後の晩餐で何を語ったかを伝え始めたことに教会の出発があるのです。パウロは復活の主イエスとの劇的な出会いを通して洗礼を受け、教会の交わりに入り、その教会の中で、「引き渡される夜」の主イエスの言葉と行為を伝えられた。そして、そのことを「主から受けた」ものとしてコリント教会に伝えたのです。より正確に言うならば、伝えることを通してコリント教会を建てていったのです。私たちも世々の教会が伝えてきたものを受け継いでいます。それは使徒から受けたものであり、使徒は主から受けたこと、命ぜられたことを伝えたのですから、私たちも「主から受けた」ものとして聖餐を守り、祝っている。そのことを忘れてはなりません。

 あなたがたのためのわたしの体

 主イエスはその夜、パンを裂いて、「これは、あなた方のための私の体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。ルカ福音書では、この最後の晩餐は「過ぎ越しの食事」であると明確に記されています。過ぎ越しの食事に関しては既に語っていますから多くを繰り返しませんが、それはイスラエルの民がエジプトの支配から神の支配に移されるために必須の食事でした。端的に言えばこの食事を通して支配者が交代したのです。それは、この世の権力者の支配、また偶像の神々の支配から唯一の神の支配の中に移されることであり、死の世界から命の世界へと移ることでした。そして、その食事は家族でとるものであり、パンと子羊の血が無くてはならぬものだったのです。この食事をイスラエルの民は家族ごとに子々孫々守り続け、その食事の度ごとに主が自分たちになしてくださった救いの御業を語り続け、それは今も続いています。そして、その食事にあずかる資格は、ユダヤ人であれ外国人であれ、契約の印である割礼を受けていることでした。その割礼が、私たちの洗礼の背景にあることは言うまでもありません。
 また、ここで見逃してはならないことは、パンが裂かれるということです。一つのパンが裂かれるのです。それはイエス様の体が十字架の上で裂かれることを意味します。イエス様は最後まで弟子たちを愛し、そして、平安の内に臨終を迎えたのではありません。その安らかな寝顔を見て、弟子たちが自分たちもかく生き、かく死にたいものだと思って修行と伝道を始めたのではありません。イエス様はその若き日に、「わが神、わが神、何故、わたしをお見捨てになったのですか」と叫びつつ死なれたのです。その死こそが、弟子たちのため、つまり、罪人の罪が赦されるための死であったということが、主イエスの復活と聖霊降臨を通して弟子たちに明らかに示されたのです。
そして、その裂かれたパンを食べることで、弟子たちは主イエスを「記念する」ことが命ぜられています。それは単に過去の出来事を想起することではありません。十字架の死を通してすべての人間の罪を贖われた主イエスが、今ここに生きて、今日も新たに自分たちの罪を赦し、新しい命を与えてくださるお方として臨在しておられることを思い起こし、礼拝することです。この弟子たちによる礼拝こそがキリスト教会の誕生です。私たちも、ただ単に過去の言い伝え、伝承を継承する団体なのではなく、今生きておられる主イエス・キリストを礼拝する共同体、共に主の食卓を囲み、いつも新たに罪を赦していただき、新しい命の糧をいただきつつ生きる神の家族なのです。

わたしの血によって立てられる新しい契約

次に、主イエスは、「杯をも同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。」この「新しい契約」の背後に「旧い契約」があることは言うまでもありません。つまり、この食卓には過ぎ越しの食事とは別のもう一つの要素があるのです。それは、出エジプト記二四章に記されているシナイ山におけるモーセを介した契約です。この契約を結ぶことで、エジプトを脱出したイスラエルの民は、神の宝の民となり、祭司の国となり、聖なる民として生かされることになります。その契約を結ぶ際に大事なことは、「主が語られた言葉を皆守り、行う」という各自一人一人の誓約です。その誓約に命が懸かっていることを示すために犠牲の動物の血が流されるのです。そのような契約締結を終えた後、選ばれた七十人の長老がシナイ山で神を見ながらの食事をするという決定的な出来事がそこに起こりました。そこには罪赦された人間にだけ与えられる究極の恵みがあると思いますけれど、そういうことがイスラエルの民の出発にはあった。そして、新しいイスラエルの民の出発にも「新しい契約の食事」がある。それが、私たちがこれから与る聖餐です。ここでも、私たちはいつも新たに一人一人の信仰が問われているのです。主の新しい掟、主イエスが私たちを愛してくださったように私たちも互いに愛し合うという掟を守り、行いますとの告白を抜きにこの食事にあずかることは、相応しくないままに、主の体をわきまえないままに食べたり、飲んだりすることになってしまいます。しかし、私たちは、主の掟を忘れたり、背いたりする罪をどうしても犯してしまうものです。ですから、いつも新たに罪を悔い改めつつこの食卓に与らねばなりませんし、そのような私たちの罪を今日も新たに赦し、また新たにご自身の民として立たせ、使徒として派遣しようとしてくださる主の愛と恵みを信じて、この食卓に与るのです。その時、私たちは、今日も私たちの只中で両手を広げて「平和があるように」と語りかけてくださる復活の主イエスの臨在を知り、さらに天の食卓、御国が完成した時の「神を見ての食卓」をはるかに望み見ることが出来るのです。

主が来られる時

 これらのことを踏まえた上で、最後の言葉に入っていくことにします。パウロはこう語っています。
「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」


今日は特にこの言葉について深めていきたいのですけれど、「主が来られるときまで」と彼は言います。これはもちろん「世の終わり」、終末のことです。パウロは、いつもその日を待ち望みつつ生きた人です。何故なら、その日が来ることもまた主ご自身が約束されたことだからです。そして、その日に世の救いは完成し、それは同時に、私たち一人一人の救いが完成する、私たちが新しい体に復活することだからです。
例はあげませんが、イエス様は何度も、復活、昇天した後に、ご自身が再びやって来られることを弟子たちに告げておられます。また、使徒言行録では、天に挙げられる主イエスを茫然とした思いで見つめている弟子たちに向って、天使が語りかけた言葉が記されています。天使はこう言いました。

「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

使徒信条は、この時のことを、「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを裁き給わん」と告白しているのです。この最後の審判を待ち望む終末信仰は、私たちの信仰にとって欠くべからざるものです。何故、そうなのかと言えば、聖霊を受けてのペトロの言葉にありますように、この世は邪悪だからです。彼は彼の説教を聞いている人々に「悔い改めて、邪悪なこの時代から救われなさい」と言いました。「邪悪な時代」とは、この時だけのことではありません。世はいつでも邪悪なのです。いつもいつも同じことを繰り返し、自ら分裂し、崩壊の道を歩んでしまう。それが私たち人間、禁断の木の実を食べた人間の姿です。ノアの洪水のようなことがあっても、またバベルの塔を建てる。そういうことを繰り返す傲慢にして愚かな人間の姿がそこにあります。人間の歴史はまさに栄枯盛衰、諸行無常そのものであり、かつては「国破れて山河あり」と言われましたが、核兵器や地球温暖化の中では、それすら保証されない時代になっています。
そういう世、そういう時代を造り出しているのは、実は私たち一人一人の人間の心なのです。戦争だとか、環境破壊だとかいう大きな現象を引き起こしているのも、実は私たち一人一人の人間の心の中にある貪欲であり、傲慢であり、秘められた残虐性です。私たちはその事実をきちんと見つめなければならないし、その事実を見つめ、その心を持った私たち一人一人の救いを痛切に求めない限り、世界の平和だとか、救いもあり得ないことを知らなければならないと思います。少なくとも主イエスは、私たち一人一人の救いを抜きに世の救い主たらんとした訳ではないことは明らかだと思います。

邪悪な時代 邪悪な人間

昨年の秋、ヨハネ福音書のラザロの復活の記事に関して書かれていると言われるドストエフスキーの『罪と罰』を読みました。今、『カラマーゾフの兄弟』を少しずつ読んでいます。若い頃ちょっと手にとって読んだときは、その心理描写の煩雑さや全体を覆っている暗さに嫌気がさしてすぐに止めてしまったのですが、今は彼が見つめている人間の罪深さがよく分かるので、難渋しながらも読み進めることが出来るようになりました。その小説に登場するカラマーゾフ家の父親は、どうにもならぬ俗物であり、兄二人もそれぞれ屈折した人間で、個人的にお付き合いをしたいとは到底思えない人間です。しかし、三男は、純朴な青年で、見習い修道僧として信仰に生きている人物です。第二部の後半で、二男のイワン・カラマーゾフがその三男のアリョーシャに向って、長々と語りかける場面があります。そこで語られることは、世界中で幼児が虐待され、また無残に殺されるという邪悪なこの世の現実です。そしてそれは、私たち一人一人がその心の内に持った邪悪な現実と同じことです。
イワンはアリョーシャにこう言います。
「むろんどんな人間にだって、ケダモノが潜んでいるよ。怒りっぽいケダモノ、虐待されている生贄たちの絶叫に好色なほてりを感じるケダモノ、鎖から放たれ抑えが利かなくなっているケダモノ、酒や女におぼれ、痛風だの肝臓病だのいろんな病気を抱え込んだケダモノ、ほかにもいろいろさ。」(『カラマーゾフの兄弟2』亀山郁夫訳 光文社 二三六頁)
 こう言ってから、五歳の女の子が、夜、親にウンチを知らせなかっただけで、一晩中トイレに閉じ込められる折檻を受けたという事例を語ります。
「女の子は顔中にうんちを塗りたくられたり、そのうんちを食べさせられたりするんだが、それをするのが母親なんだぞ。生みの母親がそうさせるんだ!この母親は、トイレに閉じ込められたあわれな子どもの呻き声が夜っぴて聞こえているのに、平気で寝ていられるっていうんだから!
おまえにこの意味が分かるか?自分がいまどうなっているかろくにまだ判断できずにいる幼い子どもが暗くて寒いトイレの中で、苦しみに破れんばかりの胸をそのちっちゃなこぶしで叩いたり、目を真っ赤にさせ、誰を恨むでもなくおとなしく涙を流しながら、自分を守ってくださいと『神ちゃま』にお祈りをしている。おまえにこんなばかげた話が理解できるか。おまえは、言ってみりゃおれの友だちだし、弟だ。そして、神に仕える従順な見習い僧でもあるわけだが、そういうおまえに、こんなばかげた話が、なんのために必要なのか、創られているか、なんてこと理解できるのか!」(同 二三七−二三八頁)

 こういう幼児虐待の現実、それは最近、私たちがほぼ連日知らされる現実と同じです。人心が荒廃してくると世は荒れすさんできます。そしてそういう世がさらに人の心をすさませていく。そういう悪循環が起きていきます。そして、自分が何をしているかも分からなくなる。心に棲んでいるケダモノが暴れ始めるのです。そのケダモノの標的はいつも罪なき者、弱く乏しい者に向う。イワンは、その現実に対して、そしてその現実に対して何もしない神に対して怒り狂っているのです。
イワンが語る残虐な話はもっともっとあります。戦争の時に、兵士が母親の目の前で、拳銃をおもちゃだと思って笑いながら手を出す幼子の顔に向って引き金を引いて、脳みそが吹き飛ぶという話も出てきます。こういう現実も、世界各地の戦場では今も起こっていることです。そして、戦場でそういう惨いことをする人も、戦場に行く前は虫も殺さぬ心優しい青年であることはいくらでもあります。また兵役を終えて故郷に帰れば、自分の幼い子どもを抱き上げて頬ずりをする優しい父親であることだってある。私たちの誰だって、優しくもなれれば残虐にもなれる、いやなってしまうのです。そういう人間が作り出すこの世の邪悪な現実の話をしながら、イワンは、突然、アリョーシャに向って、こういうことを言います。

「おれが苦しんできたのは、自分自身や、自分の悪や苦悩でもって、だれかの未来の調和に肥しをくれてやるためじゃないんだ。おれは自分の目で見たいんだよ。鹿がライオンのとなりに寝そべったり、切り殺された人間が起き上がって自分を殺した相手と抱き合うところをな。すべてがなぜこうなっているのか、みんながはっとする、その瞬間に居合わせたいわけさ。」(同 二四三頁)

 メシアの到来 正当な裁き

 私は原文を知りませんが、ここで「調和」と訳された言葉は聖書的には「平和」を意味する言葉だと思います。何故なら、ここでイワンが言っていることの背景にはイザヤ書の預言があることは明らかだからです。
 紀元前八世紀のユダ王国の預言者イザヤは、いつの日かメシアが幼子として生まれることを預言した預言者です。そのメシアは、「正当な裁き」によってこの世に正義を確立し、完全な平和をもたらすメシアです。イザヤはこのようなメシア到来の預言をした上で、終末の情景をこのように描きます。少し飛ばして読みます。

狼は小羊と共に宿り
豹は子山羊と共に伏す。
・・・・・・
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
幼子は蝮の巣に手を入れる。
わたしの聖なる山においては
何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
水が海を覆っているように
大地は主を知る知識で満たされる。


 平和の王としてのメシアが主なる神から遣わされて「正当な裁き」を行う時、殺していた者、殺されていた者たちが完全に和解する。最早、「何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。」そういう時が来る。それは、「水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる」からです。どのようにしてその「主を知る知識」が満たされるのか?それは主を最初に知らされた者たちが、この世の人びとに主を知らせることによってです。そのことが飽くことなく繰り返され、継続されることによって、いつの日か、「主を知る知識」が全地に満ちる。イザヤは、確信をもってその終わりの日、終末を預言しています。先ほどのイワンの言葉の背後には、この預言があるのです。
ここでの問題の一つは、その終末はいつ来るのか、また来るのか?です。先ほど、キリスト教信仰において欠くべからざるものとして終末信仰があると言いました。しばしば、その信仰のことを「"既に"と"未だ"の緊張の中を生きる」と表現します。つまり、終末は既に来た、しかし、未だ完成していない。その"既に"と"未だ"の間を信仰をもって生きる。それが主イエス・キリストを信じる私たちの信仰だ、ということです。
私はまだ『カラマーゾフの兄弟』の第二部までしか読んでいませんが、イワンの長い話が終わって、別の話が始まります。その中には、病によって死を目前にした青年が、自分こそ最大の罪人だと自覚しつつも、今生きている世界がまさに天国であることを発見して、喜びをもって語る場面があります。また、十四年も前に殺人を犯したのだけれど、誰にも気づかれずに、今は幸福な家庭を築き、人々から尊敬される慈善事業をしている男性が、その罪責の念に耐え切れずに、すべてを神と人の前に告白して、天国が目に見える平安の中を死んでいく場面もあります。いずれも罪の赦しと深い関わりを持った話です。邪悪な時代の只中で、まさにその邪悪に染まった人間が、しかし、その時代から救われている様を、ドストエフスキーは描いていきます。そして、いよいよこれから父親殺しという事件が起こるようなのですけれど、邪悪なこの世が存続しつつ、しかし、既にその世の中に天国、神の国、神の平和が来てもいる。そのことをどう考えるのか?それが、この聖書に基づく壮大な物語の一つのテーマであることは間違いないと思います。

主の死 正当な裁き

主イエスは、「わたしの記念として、このように行いなさい」と言いました。それは、この邪悪な世の中に、十字架の死を経て復活された主イエスが生きておられる、絶えず新たに罪を赦し、平和を与えるために生きておられることを信じ、その主を礼拝しなさいという意味です。そして、パウロは、その主の言葉を受けて「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」と言ったのです。
「主の死」、それは十字架の死です。体が裂かれ、血を流しての死です。主イエスは人間たちによって罪人として処刑されたのです。ローマの総督ピラトは、「この男は死刑に値する罪など何も犯していないではないか」と言いつつも、結局、自分の権力や富を失いたくないがために、罪なき神の独り子を十字架に引き渡してしまいました。それが人間というものです。その罪なき者の死が何を意味するのか、その「全貌」など人間が語りようもありません。その死は、先週の言葉を使えば、やはり「神秘」「神の秘められた計画」であり続けると思います。しかし、聖書は、その「主の死」において、既に終末は来たことを告げているのです。その死は人間の罪に対する裁き、イザヤが言う「正当な裁き」だからです。その死は、罪人として神に見捨てられる死です。しかし、その死は、自分で何をしているか分からぬままに邪悪に身を染めている罪人を救うための死なのです。聖書は、そう告げています。
イエス様は、あのゲツセマネで、「アッバ」と神を呼びました。これは幼子が父親を呼ぶ時の言葉です。「お父ちゃん」。そういう呼びかけです。「お父ちゃん、助けてください。血まみれになって殺されるなんて嫌です。そんな死に方はしたくありません。」イエス様は夜通し、必死に祈った。ウンチを顔に塗りたくられながらトイレの中で「神ちゃま」と祈った少女のように。そのイエス様の傍らで、「あなたとなら一緒に死にます」と言っていた弟子たちは、眠っていました。女の子の呻きを無視して寝ていたあの母親のように。何度も言いますが、それが人間というものです。「自分は些かもそういう人間性を持ってはいない」と思う人は、些かも主イエスとの関わりも持っていないのです。
しかし、神様はどうだったのでしょう?神様は、自分の愛する子が必死に泣き叫ぶ、その声を聞いていなかったのでしょうか?神様も我関せずと眠っておられたのでしょうか?違うでしょう。何もかも見ていたし、何もかも聞いていた。一晩中、悲しみのあまり死にそうになりながら、汗を血のように滴らせつつ、「お父ちゃま、助けてください」と祈る我が子の姿、その声を聞いていたでしょう。そして、黙って見つめていた。そして、主イエスの傍らで眠っている人間の姿を見ていた。そして、我が子が、その人間のために、その罪が赦されるために死ぬことを、神の意志として受け止め、耐えることが出来るように願いながら、すべてを見ていたのです。
そして、我が子が、その十字架に磔にされながら、「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶのを聞いていた。我が子を殺す人間たちに復讐することなく、黙って聞いていたのです。そして、我が子が、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは自分がしていることが分からないのです」と祈るその姿を黙ってじっと見つめ、そして、その祈りを聞かれたのです。受け入れたのです。自分の子が無残に殺されるという耐え難い悲しみ、自分の子を殺しながら嘲っている人間たちに対する抑えがたい怒りを感じつつ、でも、「これこそわたしの子、わたしの心にかなう者」と宣言された、その独り子が、体を裂かれ、血を流しつつ祈っているその祈りを、聞いて下さったのです。そして、自分の子どもを殺す者を赦し、和解の手を差し伸べて下さったのです。それが主の「正当な裁き」なのです。

救いと使命

その時、イエス様の手や足に釘を打って十字架に磔にしたローマの百人隊長が、「この人はまことに神の子だった」と告白し、イエス様の隣で十字架に磔にされていた犯罪者が、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と告白するに至ったのです。イエス様は言われました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」
この時、終末はこの世に、その邪悪な時代の只中に突入してきたのです。一人一人の中に突入してくることを通して、この世に突入してきたのです。それは「主の死」がもたらしたものです。しかし、それは見る目を与えられた者だけが見ることが出来、聞く耳を与えられた者だけが聴くことが出来る終末のしるしです。ただ聖霊と御言を通して知らされる現実です。そして、私たちはそれぞれ、どういう訳か、この終末のしるし、主の死によって既にもたらされている神様との平和、人との平和を与えられた者たちなのです。主の死が、まさに私の罪が赦されるための死であり、それは同時に私に新しい命を与えるための死であることを知らされ、その主が今日も私に罪の赦しと新しい命を与えてくださっていることを知らされているのです。聖餐の食卓を囲むとは、そういうことでしょう。これから与る食卓を通して、今日も主イエスは、「これは、あなた方のための私の体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言ってくださり、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言ってくださるのです。その言葉を信じ、悔い改め、感謝、讃美をもってパンを食べ、またぶどう酒を飲む時、私たちの罪は赦され、新しい命が与えられ、そして私たちははるかに救いの完成の日を待ち望むことが出来るようにされるのです。主が再びやって来てくださって、この邪悪な世を終わらせて下さる。私たちを、その心から新しい者に造り替えてくださる。その希望を持つことが出来るのです。そして、そういう私たちを通して、「主の死」はこの世に告げ知らされていき、「主を知る知識」が広まっていくのです。だから、私たちは神の宝の民であり、祭司の国であり、神の家族、神の子です。だから、私たちは主イエスと共に、今日も、「お父さん」と呼びかけつつ、「御名が崇められますように、御国が来ますように、御心が天で行われる通り、地でも行われますように」と祈りを合わせるのです。そこに私たちに与えられた救いがあり、使命があります。祈ります。
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