「外なる人は衰えても」
だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。 色紙の言葉 今年も中渋谷教会で信仰生活をし、そして天に召されていった方たちを覚え、多くの御遺族の皆様と共に召天者記念礼拝を捧げることが出来ますことを感謝します。 私は少年時代から年長の方のお話を聞くことが好きで、特に戦前、戦中のお話を聞くのが好きでした。教会に生まれ育っていますので、そういう意味では実に恵まれた環境だったと思います。牧師になってからも、高齢の方たちの訪問をしたり、病床にお見舞いにいくことがよくあります。そういう時も、昔の教会の話は勿論のこと、これまで歩んでこられた人生についてお話を伺えることがしばしばあります。私が中渋谷教会に参りまして早いもので九年が過ぎようとしていますけれど、中渋谷教会の会員の方をお訪ねすると、部屋に聖書の言葉が書かれた色紙が飾ってあるお宅があります。それは私の二代前の牧師である佐古純一郎先生が、洗礼を授けた方へのお祝いとして書かれたものです。その色紙の多くは、以前使っていた口語訳聖書で「 だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」と記されています。現在使っている「新共同訳聖書」が「『外なる人は衰えていくとしても』」と訳しているのに対して、口語訳聖書はもっと端的に「滅びても」と訳しています。今日、お集まりのご遺族の中にも、この色紙を覚えておられる方もいらっしゃるのではないかと思います。そこで、今日は、その言葉が何を語りかけてきているのかについて、ご一緒に耳を傾けていきたいと思います。 神からの手紙 このコリントの信徒への手紙二を書いた人は、パウロという人で、他にもいくつもの手紙を書き、それが神の言葉とされる新約聖書の中に入れられています。つまり、古代の教会は、彼の手紙を、ギリシアの一都市であるコリントの教会に向けて書かれた手紙としてだけでなく、神様からの手紙として世々の教会が読むべきものとしたということです。だからこそ、色紙にその言葉が書かれもするのだし、家族や来客が目にする部屋に飾られたりもするわけです。 しかし、この言葉は手紙の中の一節であることもよく覚えておかなければならないと思います。言うまでもなく、手紙は最初から最後まで全部読むものであり、全部読んだ上で、その部分部分の言葉の意味が分かるものです。今はパソコン上のメールによる通信が盛んで、紙に筆やペンで一文字ずつ認める手紙はあまり流行らないかもしれません。でも、今の時代だからこそ、そういう手紙の重さ、有難さも際立ってくるとも言えます。私たちは心をこめた手書きの手紙を頂くと、やはり何度も封筒から取り出して読み返すものです。この手紙は、当時、非常に貴重であったパピルス紙か羊の皮に一文字ずつ口述筆記の形で書かれたと思われますけれど、それはいくつもの教会の礼拝の中で繰り返し読まれ、また何世代にも亘って書き写されて、今日まで伝わってきたものです。そういう手紙の言葉の中から、今日はほんの数行を取り出して読みました。その数行を正しく理解するためには、手紙全体を読むことはもちろんのこととして、パウロが書いた他の手紙も読んだりする必要があります。今日、そのことを丁寧にする時間はありませんが、時間の許す範囲でご一緒に読んでいきたいと願っています。 憐れみを受けた者 彼は、「だから、わたしたちは落胆しません」と書いています。それはつまり、落胆せざるを得ない現実がいくつもあるにも拘わらず、私たちは落胆しないと言っているのです。そこで問題になるのは、「わたしたち」とは誰かであり、落胆せざるを得ない現実とは何かであり、何故、落胆しないのかです。 今日の個所は、後代につけられた章や節で言うと、四章一六節以下の言葉です。その四章一節で、パウロはこう言っています。 「こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めを委ねられているのですから、落胆しません。」 「憐れみを受けた」とは、主イエス・キリストの十字架の死を通して神様に罪を赦され、世の終わりの日に、主イエスと同じように復活させられることが約束されているということです。この手紙の全体を読むと、そのことが分かります。 罪と犯罪 私たちは、例外なく罪を犯しながら生きています。法律で定められたという意味での犯罪を犯さない人はいるでしょう。しかし、罪を犯さない人はいない。罪とは、目に見えない場合もあるものです。しかし、多くの場合、それは何らかの具体的な行動になって現れます。憎しみ、敵意、妬み、恨み、蔑み、そういう思いを抱かない人はいないし、そういう思いを些かも表に出さない人もいない。なんらかの仕方で、その思いを表に出し、その結果、人間関係を傷つけたり壊したりしながら生きています。その中のいくつかは犯罪として現れる場合があります。いずれにしろ、そういう罪の積み重ねが人生であるとも言えます。もちろん、その逆の善いことを積み重ねてもいるのですけれど、そうであっても、積み重ねた罪は消えません。忘れることはあったとしても消えないのです。その罪が正しく裁かれない限り、罪は残り続け、それは心の底に澱のように溜まったままです。 人の世がある限り犯罪は消えないでしょうから、裁判制度もなくなることはないでしょう。犯罪を放置しておくことは、犯罪を犯した人間にとっても犯された人間にとっても、それぞれ立場は異なりますが、よくないことです。ですから、犯罪者は逮捕されて裁かれねばなりません。しかし、法的な裁きが下ったとしても、内的な解決にならないケースは幾らでもあります。外側の意味では終わったことでも、内側では全然終わっていない。そういうことはいくらでもあります。賠償金を払おうが、刑務所に入ろうが、犯罪を犯した人間が心から悔い改め、謝罪をし、犯された人間が心から赦し、和解をしない限り、その犯罪の中に潜む罪の問題が解決したわけではありません。しかし、そのような悔い改めや赦しは、滅多に起こり得ない。それが私たちの現実だろうと思います。それはまさに罪人の現実です。そして、罪とは本質的には神様に対して犯すものである。人に対して犯しているように見えても、実は神様に対して犯している。そのことも、ここで覚えておかねばなりません。 犯罪は人が裁くという面があります。しかし、罪は誰が裁くことが出来るのか?裁判官が犯罪者であれば法廷で犯罪者を裁くことはできません。裁く者が裁かれる者と同列であっては、裁きは成り立たないからです。裁判官は少なくとも法的な意味で犯罪者であってはならないのです。しかし、罪に関してはどうなのか?罪を内に抱え持っているという点において、私たち人間に例外がないとすれば、罪を人が裁くことが出来るのか?という問題が起こります。罪人が罪人を裁くことが出来るのか、という問題です。 それは出来ないのです。しかし、その裁きを受けない限り、私たちの心、パウロの言葉で言えば、「内なる人」はいつまでも暗い罪責感を抱えたまま生きざるを得ず、ついにはその罪責感につぶされて失望落胆せざるを得ないのではないか?罪を犯しても、それが裁かれ、赦されないまま放置されている。そのまま生きている。それはもうヘドロのようなものが澱のように溜まっていくだけであり、それがいつしか体全体を蝕んでいきます。たとえ、「外なる人」が元気であっても、つまり、社会的には成功し、体も健康であったとしても、その「内なる人」は、いつも罪の重荷を背負って喘いでいる。そういうことになります。 実際には、私たちはまさに「心を亡くす」と書く「忙しさ」にかまけ、その内なる人を見ないようにして、から元気を振り絞って生きている場合がほとんどです。しかし、心の奥底では、その罪に対する裁きを恐れてもいる。きちんと裁いてもらいたいと願ってもいる。何かの折に神仏に手を合わせて拝んで赦しを乞いたくもなる。そういうものではないか、と思います。人は知らない。ただ神仏にもが知っている。その現実に何らかの解決を与えて欲しいという思い、そういう思いを持っていると思います。 パウロは、この先の五章で、「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体をすみかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならない」と言っています。キリスト者に限らず、人は誰も最後の審判、人間ではない何者かの裁きを受けることになっているという感覚を持っているのではないかと思います。それは、神に造られた者としての感覚だと思います。 務めをゆだねられている パウロが「憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられている」と言う時、それは自分ではどうすることも出来ない罪を、断罪することも赦すことも出来ない罪を、神の御子イエス・キリストが代わりに背負い、裁きを受けて死んで下さったという事実を言っているのです。罪なき神の独り子が自分の罪のために十字架の死という裁きを受けて下さった。断罪された。そして、罪人である自分を全く新しい人間にするために復活して下さった。その罪人に「新しく生きよ」と語りかけるために、キリストは神によって復活させられた。そのキリストによって、今自分は新たに生かされている。その事実を、「憐れみを受けた」と言っているのです。主イエス・キリストが受けた裁きを通して罪を赦していただいたことです。だから、キリストの裁きの座の前に立つ時も、「私は罪を犯しませんでした」と胸を張って言えるということではなく、「私は罪人です。でも、その罪をあなたがた背負って裁きを受けて下さったことを信じています。あなたは、そのことを心から信じ、感謝し、讃美と告白をもって生きる者を天の住まいに迎え入れて下さることを約束して下さいました。私はその約束を信じ、あなたを証しして生きてきました。どうぞ私の罪を赦し、み住まいに入れて下さい」と言えるということです。罪を犯したのにもかかわらず、「私は罪を犯していません」などと居直ることではありません。 私たちキリスト者、クリスチャンとは、そういう意味で、皆、憐れみを受けた者なのだし、キリストを証しする「務めを委ねられた者」なのです。四章五節で、彼はその務めのことを「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えている」と言っています。これが務めです。その務めに生きるとは、いわゆる伝道者に限られたことではありません。見た目にはごく普通の生活をしながら、牧師が洗礼の祝いに書いた色紙を居間や食堂に飾り、家族や来客に読んでもらうこともまた伝道であり、キリストを証しする生活です。そのキリストを信じる信仰をもってこの世の仕事や生活をきちんとして、その責任を果たすこともまた、キリストを証しすることです。地の塩として生きることです。 艱難と希望 そして、その信仰者の歩みに、信仰をもってキリストを証しすることに伴う艱難や苦難があります。パウロはこの手紙の最初の方でも、「わたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい」と言い、手紙のあちこちで、その苦難について具体的に語っています。しかし、それはいわゆる人生で味わう苦難のことではないのです。仕事がうまくいかない、うまくいかないどころかリストラされた。たび重なる病魔に侵される。愛する人が死んでしまう。様々な苦難辛苦が私たちの人生の中には起こり、私たちに襲いかかってきます。しかし、彼が書いている苦難とは、主イエス・キリストを信じ、その主を証ししながら生きることに伴う苦難なのです。そして、その苦難の数々を経験する中で、彼はこう言うのです。 「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。」 死の宣告を受けるような苦難の中で、なおかすかに残る自分の力を頼みとするのではなく、死者を復活させて下さる神を頼むようになった。自分には何の希望も持たない。ただ神にのみ望みを持つようになったと言うのです。 それは具体的にはどういうことかと言うと、三章の終りに出てきます。 「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映しだしながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」 先ほどのパウロの言葉の中にある「死者の復活」とは、神様が天国で死人を甦らせるということです。そのことをより厳密に言うと、私たちは、罪のために十字架に架かって死んで下さり、私たちに新しい命を与えるために死者の中から神様によって復活させられたイエス・キリストの、その姿に似た者として造りかえられていくということなのです。そしてそれは、死んだ後に初めて起こる出来事なのではなく、肉体をもって生きている今既に始まっている出来事、主イエスを信じる信仰を告白し、洗礼を受けてキリスト者になって以後、主イエス・キリストを見ながら生きる人間に起こり続けている出来事なのです。その出来事を知っている、自分自身の体で感じ取ることが出来る。それが信仰をもって生きるということです。その信仰があるから、パウロは何があっても落胆しないのです。 彼は若くして殉教の死を遂げたと思われますから、老人の経験はありません。しかし、彼は肉体的にはどうしても取り除いてもらいたいと願う病気か障害を抱えて、そのことで絶えず苦しんでいた人でもあります。また、伝道者として活躍し始めた時は、それ以前の経歴が熱心な迫害者でしたから、教会側の人間からは疑いの目で見られ、伝道を活発に展開すると嫉妬され、様々な妨害を受け、その影響力に陰りが見えるということもあったのです。そういう衰え、肉体的、社会的な力の衰えというものを、彼は彼として痛切に感じながら生きているのです。「外なる人」は必ず衰えて行くからです。しかし、そういう現実を毎日味わいつつも、彼は落胆しない。何故なら、彼は憐れみを受けているからです。自分のために死に、自分のために復活して下さった主を信じる信仰を与えられ、常に罪を赦されている喜びに満たされ、そしていつもこの主はすべての人々のために死んで甦らされたお方であることを宣べ伝え、証しする務めを与えられているからです。だから、いつも主に喜んでいただきたい、そのためなら何でもするという思いに燃えているからです。 内なる人 「内なる人」と彼は言います。その「内なる人」が日々新たにされていくので、人生の中で経験する様々な艱難、また主を信じ、証しすることに伴う艱難、苦難はたいしたものではないのだ。いや、それだけでなく、その艱難こそ「比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれるのだ」と言うのです。そういう意味では、艱難はむしろ歓迎すべきものとなります。主を証しするために受ける艱難は、むしろ歓迎すべきものです。彼の目は、過ぎ去っていく目先の現実ではなく、永遠に存続する見えない現実に注がれているのです。そして、永遠に続く艱難はありません。 私は、今日の礼拝のために、この手紙全体を読み返す機会を与えられて本当に幸いな経験をしました。それは、自分が何者であるか、何者であるべきなのかを、改めて知らされたことです。そして、それはまた、神様はどういうお方であり、主イエス・キリストはどういうお方であるかを改めて知らされることでもあります。 パウロの自己規定、アイデンティティは、そのまま私の、あるいは私たちのアイデンティティになります。何故なら、彼が信じ、彼が証しをしている神、主イエス・キリストを通して私の罪を赦し、私を新たに生かし、そして様々な艱難を通して永遠の栄光に導いて下さる神様を、私も信じているからです。そして、私も、彼と同じく、主と同じ姿に造りかえられていくことこそが最大の希望だからです。その信仰や希望を、神様からの手紙として読み直す中で新たにされる経験を与えられました。 彼は手紙の終りの方で、「わたしたちは神の御前で、キリストに結ばれて語っています」と言いつつ、こう言うのです。 「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。」 私は、この言葉を読んだ時に、本当にハッとしました。「あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。」 「キリストに結ばれている」とは、キリストと自分が一体となっているということです。そのことを彼は、イエス・キリストが私たちの内におられる、私たちの内に生きておられるのだと表現し直しています。その内なるキリストがいつも活き活きと私たちを愛し、生かして下さっている。その事実を見つめる。目に見えない事実を見つめる。それが信仰を持って生きるということです。 ですから、「内なる人」とは、ある言い方をすれば、死者の中から復活されたキリストその方です。霊において生きておられるキリストが私たちの内で生きてくださっている。どうしてキリストが衰えましょうか。どうしてキリストが滅びるでしょう。キリストはいつも活き活きと新しく、その復活の命を生きてくださっています。私たちをいつも愛し、励まし、慰めて下さっている。放っておけばただただ澱のように溜まるほかにない罪を、いつも新たにその十字架で流された血を通して洗い清め、その復活を通して新しく神の務めを果たす者として生きよと励まして下さる。その自分自身の内に生きておられるキリストを見ることが出来る時、その語りかけの声を聞くことが出来る時、その御業を見ることが出来る時、私たちがどうして落胆などしていられるでしょうか。ますます励んで、主イエス・キリストを見つめ、その栄光を反射しつつ、主と似た者とされる希望に向って歩んでいきたいと願うようになるのです。 パウロがそれによって生きている希望、それは、神様が私たちすべての人間に持って欲しいと願っている希望です。あらゆる艱難をものともせずに、むしろ、その艱難や苦難が希望を深める。そういう希望を持って欲しいと、神様自身が願っておられるのです。 空の空を超える現実 私たちは生まれた時から死に向かって生きています。これだけは、誰にも共通した現実であり、なんら差別がない現実です。しかし、その死に向っている人生の内実については、はっきりと差があります。 旧約聖書の中に「コヘレトの書」というものがあります。その書の書き出しは「空の空、空の空、いっさいは空である」というものです。何もかもが空しい。新しいことなど何もない。学べば学ぶほど苦しみは増え、働けば働くほど空しく、快楽をむさぼったとしても惨めになるだけ。人と獣の死には何ら変わりはない。そういう文章が続くのです。そして、最後の方に、こういう言葉があります。 あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に。(口語訳聖書) 年がよると、社会的には引退を余儀なくされ、肉体的にはあちこちが弱ったり痛んだりします。家に閉じこもり、あるいはベッドにはりついて、自分が生きていることに何の意味があるのかを悩むことにもなります。「すべてはうたかたの夢であり、空しい」と嘆息せざるを得ないこともある。しかし、若い日にだって、そういうことはあります。問題は年齢ではないし、社会的な身分でもありません。問題は、罪なのです。造り主なる神から離れて生きているという現実なのです。愛、喜び、希望、つまり人を本当の意味で生かす命の源である神から離れて生きている限り、私たちは生まれた時から、衰えて行くだけなのだし、滅びていくだけなのです。命の源から離れている生は、ただ衰えていくだけであり、滅びていく生であることは間違いないことです。そして、それは空しい現実です。そして、それは老いも若きも変わることのない空しい現実です。しかし、その現実を意識しているか否かによって、人の人生は全く異なる方向に向かいます。さらに、その空しい現実の中に突入してくる神の子イエス・キリストを知っているか否か、信じているか否かで、人生は決定的に変わります。それは明らかなことです。 パウロは、ただただそのことを知らせる「務め」を生きているのです。キリスト者は誰でもそれぞれに、神の憐れみによって死ぬ時までその「務め」を与えられているのです。「お役御免。もう今日から来なくてよい」「今日からあなたは必要ない」と、私たちは職場から言われるでしょう。下手をしたら家族からも言われる。しかし、神様は言わないのです。決して言われないのです。キリスト者とは、キリストが内に生きていない人生は空しいということを、キリストに結ばれ、キリストを我が内に迎え入れて生きる姿を通して知らせているのです。分かる人には分かるのです。私は幼い頃から、今に至るまで、そしてこれからも、教会の交わりの中で、何人ものキリスト者を通して、そのことを知らされてきましたし、これからも知らされていくでしょう。そして、キリストを遣わして下さった神様の愛を信じる信仰に生きる喜び、希望を知らされていくでしょうし、私も知らせて生きることが出来るでしょう。そのように生きたいのです。だから、私も落胆しません。キリストが生きており、私をキリストに似た者となるように、今日も新たに造りかえ続けてくださっていることを知っているからです。私の中のキリストはいつも新しい愛をもって、私を愛して下さっていることを信じているからです。だから、落胆しない。キリストの期待には程遠い自分の現実であることも分かっているけれど、しかし、キリストはなお赦し、愛し、私たちを造りかえ続けて下さることが分かります。 聖餐の恵み 今日、礼拝にお出で下さったご遺族の皆様に分かって頂きたいことは、皆さんのご親族は、このキリストを信じて天に召された方たちだということです。そして、そうであるが故に、今もキリストに繋がっており、キリストのように死者の中から復活させられる栄光が与えられる日を平安の内に待っている方たちなのです。毎週礼拝に集まっている私たちもまた、そうなのです。神様の憐れみによって、罪を積み重ねるだけの古き命は死んで、今は内なるキリストに生かされているからです。だから私たちは落胆しないのです。 今日は、これから聖餐の食卓に与ります。この食卓は、キリストによる罪の赦しを信じ、キリストの復活を信じ、洗礼を受けているキリスト者が与るものです。洗礼を受けておられない方は、今はまだ配られるパンとぶどう酒はお取りにならずに、その場で語られる言葉を聞き、また行われることを見ていて頂きたいと思います。そして、そのことを通して、いつの日か洗礼を受けたいという願いが与えられることを、私たちは心から願っています。と言うより、それもまた神様の願いだと信じています。 私たちキリスト者は、この食卓に与り続けて人生を送ります。パンを食べることが出来る限り、ぶどう酒を飲むことが出来る限り、死を目前に控えた病床にも、私は御言と共に聖餐のパンとぶどう酒をもってお訪ねします。そして、私たちの罪の赦しのために裂かれた主イエス・キリストの体であるパン、流された血潮であるぶどう酒を共に頂きます。それはまた、私たちの内なる人をいつも新しく生かして下さる復活の主イエスの体であり血潮なのです。聖霊の注ぎの中で、信仰をもってこのパンとぶどう酒を頂くことは、霊において生き給う主イエスご自身を私たちの内に迎え入れることであり、主イエスが私たちの中で新たに生きて下さることなのです。そして、はるかに天の御国の面影を見させて下さるのです。だから、私たちは何があっても落胆せずに、死の時まで、その主を証しし続けて生きていくことが出来るのです。いつも新しく今日の日を生きることが出来ます。そして、今も後も、復活の主イエス・キリストと同じ姿に造りかえられていくのです。 「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」 一人でも多くの方が、この言葉を神様からの招きの言葉として聞き、応答することが出来ますように。祈ります。 |