「その名はインマヌエル」

及川 信

       マタイによる福音書  1章18節〜25節  
 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。


 来週は、いよいよクリスマス礼拝です。今日は、クリスマス物語の直前、つまりマタイによる福音書の冒頭に記されている「系図」との関連を重視しつつ御言の語りかけに聴いていきたいと思います。

 系図

 系図も、語り出したらきりがないほどの内容があります。ここにはアブラハム以来のイスラエル民族の歴史、いや異邦人を含むすべての人間の歴史が記されており、一人一人の人生がその背後にあるからです。この系図には、アブラハムの血筋を引いた人間だけではなく、異邦人が含まれています。また、男だけでなくそれぞれに深刻な事情を抱えた女が含まれています。民族、国籍、性別、身分の違いをもった人々によって織りなされる歴史が、完全数である七の倍数ごとに区切られてヨセフとマリアに至り、そして、ついにイエス様が生まれるということになっている。そういう叙述を通して、マタイは、イエス様が全世界の人間の歴史を背負った救い主として神の許から到来し、人の子としてお生まれになったという事実を描こうとしているのだと思います。
 彼は、その冒頭に「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」と書いて、福音書の記述を始めています。「系図」と訳された言葉は、「出来事」や「歴史」とも訳される言葉ですから、これは一章の系図のことだけでなく、マタイによる福音書全体の表題と言ってもよいのです。「私はこれから、アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの出来事、その物語を書きます。この方から始まる新しい歴史を書きます。」そう宣言していると言ってよいのだと思います。

 アブラハム

 アブラハムとは、イスラエル民族の先祖です。しかし、もっと根源的に言えば、アダムとエバが罪に堕ちた結果招いてしまった呪いを身に帯びた一人の人間として登場しているのです。
 彼の系図は、創世記一一章に出てきます。その直前にある物語は、バベルの塔の物語です。権力をもった人々が、自らの力に頼み、頂きが天に届く塔を建てようとしたあの物語です。つまり、蛇の誘惑に人々は負け続けている。相変わらず、人は"神のようになりたい、自分を神の位につけたい"との思いに支配されているのです。その物語の結末は、言葉の混乱であり、同時に分裂です。神と人、人と人とが言葉を通わせることが出来ない。心を通じ合わせることが出来ないのです。たとえ集団を作って生きていたとしても、夫婦、親子として、一つの家の空間を共有していたとしても、実は心と心が通じ合っていない。打算と恐怖によってのみかろうじて一致を保っている。家庭が、社会が、世界が、そういう状態になってしまう。そうなると、本質的にひとりでは生きていけない私たち人間は、肉体的には生きながらも既に死に支配されるということになります。それが罪の結果としての呪いの現実です。
 このバベルの塔の物語に続いているのが、アブラハムの系図です。そこには彼の兄弟や親の死が描かれ、そして、彼と妻の間には子どもが生まれないという不妊の現実が記されています。その直前のアブラハムに至るまでの系図には、誰それが何年生きて「娘や息子をもうけた」と繰り返されているのに、アブラハムの系図は「死んだ」という言葉が結語なのです。つまり、彼には未来がない。未来を受けつぐ者がもう誕生しない。そういうことです。アブラハムは、先祖の罪とその呪いをその身に帯びる形で聖書に登場するのです。
 そういうアブラハムを、神様は呼び出します。彼が生きて来た過去と現在の大切な関わりを捨てて、神様の示す地に旅立つようにと呼び出すのです。妻サラと孤児となった甥のロトを連れ、見知らぬ地に旅立つ。それは部族共同体による助け合いの中で生きている半遊牧民にとっては、まさに命がけの旅でした。しかし、そのような旅に出ることを、神様はアブラハムに求めたのです。その神の呼びかけに応えるか否か、そこにアブラハムの人生が新しくなるかどうか、呪いから祝福へ、死から命へ転換できるかどうかが懸かっていました。
アブラハムは、主の言葉に従って旅立ちました。その旅立ちは、彼の人生に関わるだけでなく、呪いに落ちた世界が再び祝福された世界に向けて旅立つことができるかどうかに関わる大問題だったのです。
 しかし、その彼に試練が続きます。約束された子孫は何年も与えられませんでした。旅立った時に既に七五歳であったアブラハムとその妻サラは、もはや神に頼らず、サラの女奴隷であるハガルとアブラハムの間に子をもうけてイシュマエルと名付け、自分たちの子にするということもしたのです。しかし、そのイシュマエルは、アブラハムに与えられている神様の祝福と約束を受け継ぐ子ではありません。そして、旅立ちから二五年の歳月を経て、アブラハムが百歳になった時に、漸く、ひとりの息子イサクが与えられたのです。それはつまり、無力にして愚かな罪人の万策が尽き、人間としては何もなし得ないことが明らかになった時に、神様がその全能の力をもって新しい命を老婆に宿らせ、その体を通して産ませたということです。その事実を受け止めることで、ここでも、アブラハムがそれまでのアブラハムとは違った存在になるということが起こります。
 アブラハムに独り子イサクが与えられてからの数年間、それはアブラハムとっては幸せの絶頂の時であったと思います。しかし、そのアブラハムに対して、今度は"イサクを罪の贖いのための供え物として捧げるために旅に出よ"という命令を、神様はお与えになるのです。これは、言うまでもなく、アブラハムの過去と現在の関わりを捨てて旅立てと命じたあの命令よりも遥かに深刻な命令です。この命令は、彼の未来を捨てろということだったからです。神様は、過去も捨てろ、そして未来も捨てろと言われる。そして愛する独り子も捨てろ、自分の手に持つなと言われる。すべては神の御手にあることだからです。神のものは神に返さねばなりません。それが信仰なのです。そして、その信仰にこそ命がある。神様から与えられる命の祝福があるのです。その逆が罪です。神のものを自分のものにしようとして、手から離さない。その時、そこには呪いと死がもたらされます。しかし、神様は、命の祝福をアブラハムに与えるために、アブラハムからすべてを奪おうとするのです。すべてを奪うことによって、すべてを与えるという逆説がそこにはあります。
 アブラハムは、この時も、激しい苦悶の中で、主が言われたように、後にエルサレムと呼ばれることになるモリヤの地を目指して旅立ちました。そして、そこでイサクを犠牲として屠ろうとした。その瞬間、神様が介入して来ました。そして、イサクの代わりに、罪の贖いの羊が備えられていることを、彼は知らされることになります。
 神様は、このようにして、アブラハムに真の信仰を与えていき、その彼を祝福し、全世界の祝福の源とされていったのです。創世記のアブラハム物語においては、アブラハムを選んだ神様と神を信じて旅立ったアブラハムが、ギリギリのところでせめぎ合いつつ、神の愛を、その全能の力を信じて生きるとはどういうことであるかが身に迫るような形で明らかになって来ます。そこには過去を捨て、未来を捨て去り、独り子をも捨てて、ただ神に従う決断をするアブラハムがいます。しかし、実は、すべてを捨てることを通して、彼はそのすべてを新たに与えられていくのです。そこには彼の、また世界の罪を裁きつつ赦し、新しく祝福しようとされる痛切な愛に生きる神様がおられるのです。罪の赦しこそが、祝福の内容だからです。アブラハムの決断は、その神の愛の痛みを感じるが故の決断なのです。

 ダビデ

 ダビデ、彼の生涯もアブラハム同様、一言で語ることなど不可能です。彼の場合は、少年時代からその死までの物語がサムエル記の上下に記されています。それは、本当に波乱万丈の凄まじく人間的な物語です。そのダビデが、マタイの系図の中で、「ダビデ王」として出てきます。身分が記されているのは彼だけです。そして、その上で、「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」と記される。ダビデは人妻、それも自分の部下であるウリヤの妻との間に子をもうけた人物なのです。イスラエル王国の創立者にして最良の王と言われ、「ダビデ家の支配は永遠に続く」と神様に言って頂いたダビデの人生における最悪の汚点が、これです。
 彼の登場の仕方は鮮烈でした。イスラエルの敵ペリシテ人の大男ゴリアテの挑発を前にして、イスラエルの兵士たちは恐れをなして誰も彼と一騎打ちをしようとはしない。当時、まだ少年の羊飼いだったダビデは、その様を見て嘆き、「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるに違いありません」と言って、鎧も剣も持たず、羊飼いがオオカミなどを追い払う時に使う石投げ紐と五つの石だけをもってゴリアテの前に出ていきます。そして、一撃のもとにゴリアテを仕留めてしまうのです。主のみを頼り、信じ、主のために戦う少年ダビデが、ここにはいます。その後、色々とありましたが、彼は王様になります。
 しかし、ただ主だけを頼みとして生きる少年だったダビデが王になった時、彼は主のために生きるのではなく、自分のために生きる大人になっていました。ある日、宮殿の屋上から町を眺めていると、美しい女が家の屋上で水浴びをしている。その女は、今戦場で命をかけて戦っているダビデの部下ウリヤの妻であることを彼は知りました。しかし、そのことを承知の上で、彼はウリヤの妻バテシバを宮殿に呼び出し、結果、妊娠させてしまうのです。しかし、その事実を隠すために、彼は姑息な手段を使ってウリヤを戦死させ、その上で、バテシバを自分の妻にしました。恐ろしいことです。誰も、そんなことが起こっているとは気づきませんでした。気付いたとしても、誰も文句は言えません。姦淫の罪も、殺人の罪も、モーセの十戒では死刑ですけれど、誰もその刑罰を彼に与えることは出来なかったのです。でも、神様はすべてを見ておられます。神様は、預言者ナタンを遣わし、ダビデの罪を赤裸々に暴きました。ダビデは、その鋭い糾弾の言葉に打ちのめされ、激しく後悔し、己の罪を主に向かって懺悔します。
 ナタンはこう言います。
 「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」
 ダビデは七日間、自分の部屋に引きこもって絶食し、自分の罪の故に子どもが死なぬように主に乞い願いました。しかし、その子は、ダビデの罪を背負う形で死に、ダビデは死を免れたのです。その時に、彼が最初にしたことは、主を礼拝することです。己が罪に対する厳しい裁きと赦しを知らされた彼は、深き悔い改めと恐れと感謝をもって主を礼拝する者となりました。そのことを通して、彼はこのようにまでして、自分を愛し、赦して下さる主のために生きる王として新たな歩みを始めることが許されました。そして、バテシバとの間に新たにソロモンが生まれ、ソロモンはダビデの後継者となっていきました。
 アブラハムとダビデ、彼らの人生の中に、どうしようもない罪があることは明らかです。しかし、彼らは神に選ばれた人物であるが故に、彼らの人生には神様が介入されます。そして、彼らを裁きまた赦されるのです。神様は、彼らを痛いほどに愛しているのです。その愛に触れることによって、彼らはそれまでの自分の死を経験し新しい命に生かされていきます。彼らの人生の中には大きな断絶があって、それまでとそれ以後が画然と分かたれるのです。神様が罪の現実に愛をもって介入してくる時、神に選ばれた人間は、それまでの自分ではいられなくなるのです。
 こういう彼ら二人に代表される歴史、また人生、それは神様が介入して下さらなければ、ただただ罪の呪いの中に落ちていき、互いに分裂し、孤独の中を生き、死で終わるほかにないものであることは明らかなことです。

 神様のご計画

 マタイは、こういう人間たちの歴史を一四代で区切っていきます。それは、先ほども言いましたように、天地を六日で造り、七日目を安息日とされた完全数の七の倍です。
 人間は、自分が人生のどの辺りを生きているのかなど分かりません。いつ死ぬかもわからないのですし、いつ何時、試練や誘惑に遭うかもわからない人間に、現時点が歴史のどの段階にいるのだとか、人生のどの段階にいるのだとかは本当には分かりようもありません。しかし、神様はそのすべてをご存知です。それは、人間は神様の操り人形に過ぎず、そのなすことすべて神様の思い通りなのだ、ということではありません。もしそうなら、罪などどこにも存在しません。罪もまた神様の創造物で神様の意のままに働くのであれば、赦しも裁きもなにもないことになります。神様は人間に自由を与えました。人間は、禁断の木の実を食べることも選べるし、食べないことも選べるのです。そのように神に造られ、生かされているのです。その自由な選択の中に、信仰があり罪がある。そして、神様もまた自由なお方として、裁きまた赦して下さるのです。そのどちらが出てくるかは、人間の場合も、神様の場合も全く分からない。神様もまた、人間がどちらを選ぶのかを固唾をのんで見守っておられるのです。だからこそ、背かれると胸が裂かれるほど悲しみ、怒り、イスラエルの民が他の神々を礼拝したりすれば、狂わんばかりに嫉妬して、激しい断罪を下されることもあるのです。そういう生々しいというか、活き活きしたというか、とにかくスリルに満ちた愛の関係が、神と人との間にはあります。
 しかし、神様はやはり神様であって人ではありません。救いのご計画を持っておられる。最初から最後まで、道筋まで決まった計画ではない。人間の応答の仕方によって、様々な紆余曲折を経ながら、それでも進展していくご計画を持っておられるのです。一四代一四代一四代という区切りは、そのご計画があるということ、罪がどれだけ猛威を振るおうが、神様の救いのご計画は着実に進むのだということ、そのことを、マタイによる福音書は告げているのだと思います。そして、ついにイエス様がお生まれになる時が来ました。

 マリアから生まれるイエス

 一五節から読みます。
 「エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。」
 私たちが礼拝で用いている「新共同訳聖書」では、基本的に「誰それをもうけた」と書かれてきました。「誰それの父親になった」とも訳される言葉です。その書き方が、「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた」まで続きます。でも、ここで夫であるヨセフは、「イエスをもうけた」「イエスの父となった」とは書かれない。ここだけは、「マリアからメシア(キリスト)と呼ばれるイエスがお生まれになった」と書かれるのです。「もうけた」も「生まれた」も原語は同じですが、「もうけた」は能動形で「生まれた」は受動形で書かれており、あくまでもイエス様は一人の女性であるマリアの胎から生まれたことが強調され、暗にヨセフの関与が否定されています。肉体的な意味ではヨセフが父親ではないことが語られているのです。しかし、ヨセフが「ダビデの子孫」であること、それは極めて大事なことであり、主の天使が「ダビデの子ヨセフ」と呼びかけていることからも、それは分かります。
 当時、婚約中の男女は、法的には既に夫婦でした。一定の期間を経て、共に暮らす準備をしているのです。もう誰も思いを寄せたり、手を出したりしてはならない夫婦です。もし、そのどちらかが、他の異性と肉体関係を持ったりすれば、それは姦淫の罪となり、ヨセフが訴えるなら、マリアは律法に基づいて死刑になってもおかしくないのです。
 結婚をする、そして自分の子が出来る、自分が父親になる。それは本当に大きな喜びです。神聖な喜びと言ってもよいことです。その喜びが、ヨセフにもすぐに与えられるはずでした。ヨセフもマリアも、その日が来るのを期待に胸を膨らませて待っていたのです。彼らには、明るい未来が待っているはずでした。しかし、その彼らに神様が介入してきたのです。
 そんなこととは知らないヨセフは、苦悶し、悲嘆にくれ、何をしても心が千々に乱れてどうしようもない苦しみを抱えざるを得なかったのです。その彼が出した結論は、ひそかにマリアと離縁することでした。彼女を訴えることもしないが、結婚することもしない。憎むこともしないが、愛することもしない、いや出来ない。彼が出来る最大限のことは、離縁すること。つまり、分裂です。あのバベルの塔の物語の結果と同じです。

 過去を背負っている人間

 人は誰でも、自分の過去を背負いつつ生きるものです。しかし、それだけではありません。「先祖」と言うと、日本人は特別な意識を持ちますから言いにくいのですが、両親を初めとする過去の世代の歴史を背負って生きているのです。「そんなの関係ない」と思った所で、事実は事実です。
 たとえば現代人にとって地球温暖化は深刻な問題ですけれど、それは過去の世代の人間がもたらした問題です。こんなことになるとは思わずにやったことの結果なのです。そして、現代の私たちの世代の在り方が、二世代三世代後の子孫にとって大きな影響をもたらします。年金問題にしろ、国の借金にしろ、私たちと過去は無縁ではなく、私たちと未来も無縁ではない。
 そういう意味で、「正しい人」ヨセフもまた、この系図に出てくるアブラハムやダビデを初めとする人々と無縁ではなく、それは彼らが抱え持っていた罪と無縁ではないということです。
 先ほども言いましたように、アブラハムは、イサクが生まれる前に、妻の誘いに乗ってハガルという女性との間に約束の子以外の子イシュマエルをもうけました。ここに既に神様との分離があります。さらに、イサクが生まれた時、やはり妻に言われるままに、ハガルとイシュマエルが砂漠の中で死んでしまうかもしれないのに、追放したのです。そのようにして、自分の未来の安泰を自分の手に確保しようとした。そういう罪も犯した人物です。ダビデもウリヤを殺し、人妻との間に自分がもうけた子を殺したも同然の罪を犯した。それらのことには、引き裂かれるような分裂があります。そして、その根底には罪による神様との分裂がある。
 そういう過去の人間たちの罪を背負う人間として、ヨセフはここに登場しているのです。そして、ヨセフ自身も、そのことを痛感したに違いありません。律法に従うという意味で「正しい人」ヨセフもまた、人間の罪の歴史を背負い、罪の呪いを身に帯びて、未来を切り開くことが出来ない人間なのです。この点で、彼はアブラハムの子孫であり、ダビデの子孫です。

 神の介入

 そういう彼に、主の天使が夢の中で語りかけます。このように、神の選びの中にいる。このこともまた、彼がアブラハムの子孫、ダビデの系図を引き継ぐ者であることの証です。
 天使は語りかけます。

 「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。」

 彼は、マリアの胎に宿った子は、たしかに聖霊によって宿ったということを知らされました。マリアがいくら必死に訴えても、決して信じることが出来なかったことを、彼は、この時、嫌がおうにも信じさせられたのかもしれません。そして、その子を「イエス」と名付けるように命ぜられます。マリアも天使ガブリエルから同じことを命ぜられていました。イエス、それは「主は我らの救い」という意味です。「救い」と言っても何からの救いかは分かりません。天使は続けます。

 「この子は自分の民を罪から救うからである。」

 聖書が告げる「救い」は、結局のところ「罪からの救い」です。イエス様は、私たちを貧困とか病から救う方としてお生まれになったのではありません。毎週毎週、語っていることですけれど、私たち人間にとっての最大の問題は、私たちが罪に束縛されており、そのことの故に、神様と分裂していることなのです。自分で気づいていなくても、その現実の中で私たちは生きていることが多いものです。そして、聖書を読む、神の言葉を聞くとは、何よりも、気づいていないその現実を知らされることです。そうでないなら読んでいることにはなりません。浅いレベルで、励ましを求めて読んだり、慰めを求めて読んだりしても、「救い」に至らなければ、単なる自己啓発本と同じになってしまいます。しかし、聖書はそんなものではありません。聖書は、私たちの罪を知らせ、そして、そこからの救いが与えられることを知らせてくれる神の言葉です。

 その名はインマヌエル

 マタイは、イエス様の誕生に関して、旧約聖書の預言者イザヤの言葉を引用し、「その名はインマヌエルと呼ばれる」と言い、その名の意味を書いてくれています。それは「神は我々と共におられる」という意味です。
 その言葉を夢の中で聞いたヨセフは、あのアブラハムが主の言葉に従って旅立ったように、「主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた」のです。それまでのヨセフは、ここで死んで、新しいヨセフとなったのです。神の子を受け入れるとは、そういうことなのです。救い主を受け入れるとは、それまでの自分を確保したまま出来ることではないし、これからの歩みを自分の思いのままにしようとしながら出来ることではありません。これまでの自分に決別し、これからの歩みはすべて神の御手に委ねること抜きに、神の子を受け入れることは出来ません。
 ヨセフのそれまでの「正しさ」は、この時打ち砕かれ、神の御心に敢然と従うヨセフとなりました。どうしようもない罪を抱え持つ人間を愛し、その罪を赦し、どこまでも共に生きて下さろうとする神様の愛に、彼が持っている正しさは、こなごなに砕かれたのです。そして、神の愛を受け入れた。ただその時にのみ、彼の未来は開けてくるのです。そして、その未来とは、マリアと共に生きる未来であり、神が共にいて下さる未来です。
 クリスマスの出来事が起こる時、神の子が人から生まれるということが起こる時、マリアにしろヨセフにしろ、自分の人生を自分のものとして生きて来た人間が完全に破壊され、神のものとして自分を差し出す人間になるという出来事があったこと、そこにこそ信仰とそれに対する祝福があったことを、私たちは忘れてはならないと思います。

 神の旅立ち

 しかし、私たちが最も忘れてはならないこと、それは、このクリスマスの出来事を通して、神様がそれまでの神様ではなくなったということです。神様が死んだわけではありません。でも、やはり死んだと言うべきかもしれない。
 何故なら、神様が聖霊によってご自身の子をマリアの胎に宿らせるとは、それまでの神様の在り方を完全に破壊することだからです。クリスマスの出来事とは、神ご自身が、それまでの在り方を破って、罪人の中に自ら突入してくることです。異郷の世界に、身体一つでやって来て下さることなのです。罪によって神様と分裂し、命を失ってしまった私たちを、再びご自身に結びつけるために、神様は天において一体であった父と子の交わりを捨てて、父は御子をこの罪の世に旅立たせ、御子は父の意志に従ってこの罪の世にまで下って来てくださったのです。そして、その旅は十字架に行き着くのです。
 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と断末魔の叫びをあげつつ死ぬ、あの十字架に行き着くのです。
 アブラハムが、あのモリヤの山、つまりエルサレムの山の上で見つけた罪の贖いのための羊となって死ぬ。ダビデの罪を背負って死んだ赤子のように、人の罪を背負い、罪人が赦され、新たに生きる道を切り拓くために、神の裁きを受けて、神に見捨てられて死ぬのです。そのために、イエス様はマリアを通して、ヨセフの子として生まれるのです。そして、罪の故に呪いの中に閉ざされた系図を愛の故に祝福された開かれた系図、罪から救われた神の子を生み出していく系図へと逆転させて下さったのです。ここに神の愛、その痛切な愛の実現があるのです。
 「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」という言葉で始まったマタイが書き記す新しい歴史は、イエス・キリストの十字架の死を経て復活に至って終わります。そこでイエス・キリストは、罪のどん底に落ちて、もはや生ける屍となった弟子たちを、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と招いた出会いの地、ガリラヤに呼び出します。そして、その山の上で、主イエスを見て礼拝する彼らに、こう語りかけて下さるのです。

 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 この復活の主イエスと出会い、主イエスを信じ、罪から救われた弟子たちが、全く新しい人間として世界に散らばっていく。そして、祝福の源としての主イエス・キリストを宣べ伝え、神の国の王としてのイエス・キリストを宣べ伝え、信じる者に洗礼を授けていったのです。そこに教会の出発があります。マタイ福音書の続きの物語、新しいキリストの教会の歴史があるのです。そして、その教会は、今もその歩みを止めていません。今日も、主イエスの命令通り、イエス・キリストを宣べ伝えていますし、来週の礼拝では、宣教の言葉を聞いて信仰を告白した者に父と子と聖霊の名によって洗礼を授けます。新しく神の子が誕生するのです。すべては、主イエスがインマヌエルとして今も私たちと共に生きて下さっているが故に起こっていることです。主イエス・キリストが時代を超え、山を超え、海を超え、すべての国境を超えて、主の招きに応えて新たな未来に旅立った者たちと共に生きて下さるが故の歴史が、今も続いているのです。その歴史は、クリスマスに始まりました。
 私たちが、自分の在り方を破壊してまで、私たちの罪を赦し、共に生きて下さろうとする神の愛に打ち砕かれて、新しくされる時、私たちもまたクリスマスに始まる旅を受け継ぐ者とされるのです。
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