「わたしたちは拝みに来たのです」

及川 信

       マタイによる福音書  2章 1節〜12節  
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 クリスマス=キリスト礼拝


 聖書のクリスマス物語は、ロマンティックな色合いが濃いと思っておられる方が多いだろうと思います。街を彩るイルミネーションや鳴り響くクリスマスソングは、いやが上にも、愉しげなムードを盛り上げていきます。そして、教会においても、クリスマスは最も華やいだ季節であることは確かです。「私たちの救い主がお生まれになった」という喜びの知らせを聞くのですから、心が浮き立つのは当然のことでもあります。しかし、その「救い」とは何であるかと言えば、やはりそれは「罪からの救い」なのであって、不況からの脱出とかいう類のものではありません。あるいはこの時ばかりは嫌なことを忘れて大騒ぎをすることがクリスマスであるはずもありません。クリスマスとは「キリストを拝む礼拝」という意味であり、私たちは、今日、占星術の学者たちと同じく、メシア(キリスト)を拝むために来たのです。

 旧約聖書の背景

 先週、一章の御言を通して、罪の行き着く先には分裂と死があることを知らされました。そして、その罪を赦し、神の祝福の中に罪人を招き入れるために、父なる神と子なる神イエス・キリストの分裂と言ってもよい出来事が起こり、十字架の死とその死からの復活があることを知らされたのでした。そこにあるのはロマンティックとは程遠い、壮絶にして壮大なドラマです。御言を読むことにおいて、そのドラマの「観客」ではなく「登場人物」としての自分を発見しないのであれば、クリスマスと自分は何の関係もないものとなり、ただ訳も分からず浮き立っているだけのことになります。
 今日の個所における最初の登場人物は、東の方からやってきた占星術の学者たちです。マタイによる福音書は、旧約聖書の縮図と言ってもよい系図で始まることから分かるように、至る所に旧約聖書の言葉が出てきます。今日の個所にも、祭司長や律法学者たちが、預言者ミカの言葉によってメシア誕生の地を告げています。このような明確な記述ではなくても、「星」や「東の方」、また「黄金、乳香、没薬」には旧約聖書の背景があるのです。しかし、先ほどのミカの預言を除くと、一体、どこのどんな言葉が背景にあるのかは定かではありません。そういうこともあって、この物語は実に多様な解釈を生んでいきましたし、様々な伝説を作り出していきました。そのことが、この物語をある意味ではロマンティックなものとしているとも言えます。

 伝説が生まれる理由

 たとえば、占星術の学者は、今は三人であることが当然のようになっていますが、三人とは書かれていません。贈り物が黄金、乳香、没薬と三つなので、何時の頃からか「三人」ということになっているだけのことです。また、原語のマゴスという言葉は、祭司をも表しますし、魔術者(マジックの語源だから)とも訳される言葉です。乳香とか没薬などは祭司が礼拝を捧げる時にも使いますし、没薬は化粧品だとか薬だとか、死体に塗るとか、色々な用途があります。そして、黄金は王に相応しいものです。古代社会は、祭政一致ですし、医術と魔術の違いなどありませんから、この学者は祭司ともなり医者ともなります。また映画や絵本などでは彼らは王冠をかぶっていることが多いことはご承知に通りです。それは、彼らが王であったという伝説に基づきます。祭政一致の社会では、たとえば邪馬台国の卑弥呼のように、神事をつかさどる者が支配者ですから、そういうことが背景の一つにあるでしょう。また、創世記に出てくるノアの三人の息子、セム、ハム、ヤフェトの子孫がその昔アジア、アフリカ、ヨーロッパという当時知られている全世界に散っていったとされています。その世界各地の人々を代表する王として、その三人は世界各地からやって来て、イエス様を礼拝したのだという伝説もあります。さらに、その王には、メルキオール、ガスパル、バルタザールという名前がつけられ、一人は青年、一人は老人、一人は黒人ということになっていったりもする。
 何故、そういう様々な伝説が生まれるかと言えば、この物語を語り継ぐ人々が、この物語の中に自分自身を入れ込んで読んだからです。イエス様を礼拝する人々とは、遠い昔に、東の国からやってきた人々だけではなく、ノア以来世界中に散らばったすべての人種の代表がイエス様を礼拝したのだ。自分もその中にいるのだ。そういう思いが、様々な解釈や伝説を生みだしていく背景にあると、私は思います。
 私は、説教する際には、なるべく確実な証拠を見つけて論証すべきことは論証するという態度をとっています。しかし、今日はもう少し想像の幅を広げて、この物語の世界に入っていった方がよいように思います。そうする中で、神様からのメッセージを聞きとっていきたいと思います。

   ヘロデ王

 「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」
とあります。ここに登場するヘロデ王とは、一般にはヘロデ大王と呼ばれます。彼は、ユダヤ人の血を引いているわけではなく、ヤコブの兄エサウの血を引くエドム人です。ローマの皇帝アウグストに巧みにとり入って、ユダヤの統治を任されたのです。彼は、政治家としては有能で、三〇年以上の統治期間中に、様々な公共設備を充実させ、エルサレム神殿の大改築にも取り組んだ人物です。しかし、その一方で、絶えざる猜疑心と恐怖の中を生き、自分に敵対する者、地位を脅かす者は、徹底的に粛清しました。恐るべきことに、彼は自分の妻と二人の息子も殺しました。徹底的な恐怖政治を敷いていたのです。それはつまり、彼の心の中に不安と恐怖が渦巻いていたということです。
 そして、それは彼の周囲にいる者たちにも大きな影響を与えていたことは当然です。ヘロデには逆らえない。逆らいさえしなければ、繁栄を楽しめる。彼の周囲の人は、そう思っていた。もちろん、それはごく一部の特権階級であり、多くの庶民は重税を課せられて食うや食わずの貧しい生活を強いられていたのです。
 そのヘロデが、内心で最も恐れていたこと、それはダビデの血をひく「ユダヤ人の王」が生まれることです。当時、ユダヤ人の中では「ダビデの子」とはメシア(救い主・王)の意味となっていました。そして、皆さんもご存知のように、ナチス・ドイツがユダヤ人に着せた服には黄色の星がつけられています。あれは「ダビデの星」と呼ばれ、後に建国されたイスラエル共和国の国旗にも使われています。この星とダビデ王の因果関係も、旧約聖書から半ば強引に作られたものですけれど、とにかく、ヘロデは、自分の地位を脅かす敵対者などよりもはるかに深く、ダビデの子としての「ユダヤ人の王」の誕生を恐れていたことは確実です。何故なら、その王こそ、イスラエルの正統な王であり、ユダヤ人が何百年もその誕生を待ち望んでいた王だからです。そのメシアとしての王は、ヘロデのように権力をもって一時的にある国を支配するというありきたりの王ではなく、神の知恵をもってユダヤを統治し、そしてユダヤを通して世界に平和をもたらし、永遠に統治する王という意味合いをも持っていたのです。だからこそ、ヘロデにとって、そのメシア誕生を告げる預言の存在は絶えざる不安材料でした。この不安と恐怖が、来週読む、ベツレヘムの幼児虐殺につながっていくことになります。
 しかし、ついにその恐れていた時がやって来ました。東の方から占星術の学者たちがやって来たのです。先ほども言いましたように、星占いは一種の宗教ですし、それは医術でもあり、魔術でもありますから、私たちが考える星占いだけに意味を限定しない方がよいだろうと思います。いずれにしろ、彼らは相当な金持ちですし、身分も高い人たちであることは間違いありません。しかし、彼らは神の選びの民であるユダヤ人からしてみれば異邦人であり異教徒です。つまり、神から見捨てられている人々です。神から遠い人々です。また、彼らが出てきた「東の方」とは、かつてユダヤ人の国家を滅ぼし、捕囚の民として連れ去ったこともある、アッシリアやバビロンがあった地域であり、その後長くペルシャが支配していた地域です。つまり、ユダヤ人にしてみれば憎き侵略者、弾圧者、支配者がいた地域なのです。今、その地方の身分が高く特殊技能をもつ異教徒たちが、「ユダヤ人の王」が誕生したしるしの星を見て、数百キロも彼方の国から多分駱駝に乗ってやって来た。
 彼らは当然、その方は都であるエルサレムに誕生したと考え、エルサレムに来て、こう言いました。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

そのことを聞いて、ヘロデは驚愕しました。本当に生まれていたとしても、まだ幼児に過ぎない者を礼拝するためにだけ、数百キロの旅をして来る者たちがいる。それだけでも驚きですが、その幼児とは、彼が最も誕生を恐れていた「ユダヤ人の王」だというのですから、彼の驚きは、並大抵のものではないでしょう。彼は、それが「メシア」だと直感したのです。ここには、「不安を感じた」とありますけれど、原語のタラスソウという言葉は、死の恐怖を感じる時にしばしば使われる言葉ですから、「不安を感じた」ではちょっと弱すぎます。彼は恐怖を感じた、自分の存在が抹殺される怖れを感じた。そう言ってよいと思います。それと同じことをエルサレムの人々も感じたと、マタイは書きます。エルサレムの人々はヘロデの周囲に生きている人々ですから、彼と同じように経済的に繁栄した現状を壊されることを恐れたのだと思います。
 その点は、「民の祭司長たちや律法学者たち」はさらに根深いものがあります。彼らは聖書に精通しています。しかし、精通していても、その言葉によって生きているわけではない。彼らは、メシアがどこに生まれることになっているかを預言者ミカの言葉によって知っていました。しかし、それだけです。目の前に何カ月もかけてそのメシアを拝むために来た人々がいるのに、「私たちもなにはさておき、その方を拝みに行きます」とは言わない。そんなことを言えば、ヘロデの御用学者、御用祭司として雇われている自分たちの身分が危ういし、さらに命だって危ういかもしれないからです。彼らは、今自分たちが持っている地位も命も、何も失いたくはありません。それこそが、彼らにとっては価値のあるものであり、決して失いたくないものだからです。
 ヘロデは、東から来た学者たちをひそかに呼んで、星が現れた時期を確かめた上で、こう言います。

「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう。」

 彼も、学者たちと同じく「拝む」という言葉を使います。文字通り、「礼拝する」ということです。しかし、彼の心にあるのは、学者たちをスパイとして派遣し、メシアの居場所が分かったら、暗殺しようという思いでした。人間の言葉というのは、しばしばこういうものです。
 学者たちは、ヘロデを通して聞いた預言者ミカの言葉と、星の導きによってベツレヘムに行き、星が真上に止まった場所で、母マリアと共にいるイエスに会うことが出来ました。そして、彼らは持ってきた宝の箱を開けて、彼らの全財産であり、また商売道具でもあった黄金、乳香、没薬をイエス様に捧げました。これが表面的に起こっている出来事です。

 学者たちを旅立たせたものとは?

 しかし、ここで実際には何が起こっているのか?そのことが問題となります。そもそも彼らは何故、また何をするために何カ月もの危険な旅をしてきたのか。そして、イエス様に会って彼らがしたことは何であり、その後、彼らは何になったのか。そこにどういう変化が起こったのか。その問題を見極めていくことが、私たちがクリスマスを祝う、つまりキリスト礼拝(クリスマス)を捧げることに繋がることなのではないかと思います。そして、そこでこそ私たちの想像力を働かせるべきだと思います。
 彼らの出身地は「東の方」とは、先ほども言いましたように、多くのユダヤ人が捕え移された地です。そのことによって、それまで書かれていた預言者の文書がその地にも伝わっていきました。また、バビロン帝国によって捕囚されたユダヤ人の中から、エゼキエルとか、後に第二イザヤと呼ばれる預言者が立てられもしました。彼らは、バビロンの地で預言をしたのです。私は、その第二イザヤの預言が、学者たちを動かした一つの原因だと想像しています。
 この預言者の預言の中で、代表的なものの一つは、「主の僕の歌」というものです。「主の僕」とは、しばしば「王」のことを表します。ユダヤ人の王は、何よりも主の僕なのです。しかし、その僕のことを、第二イザヤは、こういう僕として描くのです。イザヤ書五三章を抜粋しながら読みます。

彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
・・・・
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
・・・・
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。
・・・・
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった。


 この預言は、当時の歴史上のある人物を描いたものだとか、何時の日か誕生する真の王のことを預言したものだとか、色々な解釈があります。しかし、この預言が伝えられていく過程においては、自ら神に裁かれることによって罪人を罪から解放する主の僕が、何時の日か生まれることを待ち望む預言として伝えられていったことは確実だと、私は思います。そして、東の方の学者たちも、そういう預言として受け止めていたのではないか、と私は想像します。
 先週の個所で、ヨセフは夢の中で主の使いから、こう言われていました。

「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

 そして、このイエス(主は我らの救い)のことを、マタイはイザヤの預言を引用しつつ、インマヌエル、「我らと共にいます神である」と証言しています。それはこの子こそが、「自分の民を罪から救うから」です。罪に堕ちた人間をその罪から救う、それこそが神がこの地上に送るメシア、救い主、全く新しいユダヤ人の王なのです。その王は、武力を持って戦争を終わらせ、権力を持って見せかけの平和を維持する王ではない。自らが神の裁きによって打たれることを通して、罪人に平和を与える王なのです。この平和とは、なによりも神様との間にもたらされる平和です。罪の赦しによって神と人が愛の交わりを持つことが出来るという意味での平和です。
 そういう平和をもたらしてくれる「主の僕」、王がいつの日かユダヤの地で生まれる。学者たちは、その日を待ち望んでおり、ついに、その王が生まれたことを印の星によって知ることになったのです。その時、彼らは、自分たちが持っている全財産をもって出かけて行きました。ただただその方を拝むため、すべてを捧げて、ひれ伏して礼拝するためにです。キリスト礼拝をするためです。

 喜びにあふれる

 その時、彼らは「喜びにあふれた」とあります。星が止まって、メシアに会える、すべてを捧げる礼拝ができると分かった時、彼らは喜びにあふれたのです。これは、「大きな喜びを喜んだ」が直訳です。通常の喜びとは全く違う、次元が違う、色合いも違う、これまで経験したことがない喜びで彼らは溢れた。それがキリスト礼拝の本質なのです。そしてそれは、闇が覆う夜の出来事です。不安や恐れが支配している世の中で起きた出来事です。ここで起こっていることは一体何なのか?それが問題です。
 私は、気がつくとテレビを見ている人間なのですが、多分、テレビで最も多く見ているのが天気予報です。NHKだろうが民放だろうが、朝だろうが夜だろうが、天気予報は番組の狭間で流されます。これも広い意味では星占いだと言ってよいでしょう。明日のことが分からない。だから、蓄積した知識を動員して予想しようとする。そして、安心したり、不安になったりする。そういうことの象徴のような気もします。また、朝のワイドショーを見ていると、その番組の終わりには必ず星占いによる「今日の運勢」というコーナーがある。毎日やっています。先日、深夜の番組を見ていたら、「昨日の運勢占いのチェック」というコーナーがあって、びっくりしました。テレビだけでなく、大衆紙にも必ず星占い、運勢占いのページがあります。もちろん、多くの人がそのコーナーを真剣に見て一喜一憂をしているわけではないでしょう。しかし、何故かなくならない。それは人々には不安があるからだし、恐れがあるからです。それは確かなことです。明日のことも分からぬ不安。富も身分もなければ、それは不安でしょう。しかし、あれば安心なのか。決してそうではない。そんなことは、ヘロデを見ないでも世間を見ていれば分かることです。誰も彼もが、闇の中で生きており、自分がどこから来て、どこへ行くのかもわからぬ不安を抱えている。また、持っているものや命がいつ奪われるのか分からぬ恐怖の中で生きているのです。持てるものが大きければ、それだけ恐怖が大きいとも言えます。そして、その不安や恐怖を、様々な手段で隠し、自らも感づかないようにしつつ、仕事に専念したり、趣味に専念したり、酒や薬に逃げたりしながら、生きている。それが私たち人間、神様から離れてしまった罪人としての本質であり、この世の本質だと、私は思います。
 学者たちは、そういう世の中を、罪人として、星占いをしながら生きてきた。自分の人生を占い、また多くの人の人生を占ってきたでしょう。その商売道具を使って魔術的なことをし、病を癒したりしてきたのでしょう。しかし、そういうことをしながらも、心が落ち着き、平和が与えられるということはなかったのだと思います。まして、「喜びにあふれる」などということはなかった。これからの自分や他人の人生がどうなっていくかを占ったところで、最後は死ぬだけのことです。それは占う必要もないことです。確実なことだからです。神と離れてしまった罪人の運命は、罪による死で終わる。そのことが分かった上で、人が生きる意味があるのかと言えば、それは「ない」としか私には言いようがありません。旧約聖書の「コヘレトの書」には、知識を増せば増すほど人生が空しいことがよく分かると記されていますけれど、まさにそうだと言わざるを得ないと、私も思います。
 私は学者でも何でもない人生を生きていましたし、表面的には楽しげに生きてきましたが、私なりに知識を身につけていく中で、人生の空しさに押しつぶされるような思いで生きていました。そういう意味で、この占星術の学者たちのことがよく分かる気がします。彼らは、この空しい人生、死が来るまで延々と意味もなく回り続けるだけの人生を、どう占ったところで、脱却できない空しさを心の内に抱えつつ、第二イザヤの預言の言葉を読んでいたでしょう。そして、何時の日か、この罪に覆われた人生、裁きとしての死で終わるしかない自分を新しく造りかえてくれる「主の僕」「ユダヤ人の王」が誕生することを心待ちにして、生きていたのではないか。そう思うのです。
 その彼らが、東の地でついにメシア誕生を告げる星を見つけた。その時、彼らは自分が持てるすべてのもの、そして自分が生きてきたその生き方のすべてを捧げてしまうために、はるかな旅に出たのではないか。ただその方を拝むために、そのことでこれまでの空しい円周運動のような人生を終わらせ、全く新しい人生へと旅立つために、はるか東の地からやってきたのではないかと思う。そして、星が止まった時、それまでの空しい人生が終わることを知って、「喜びにあふれた」のです。
 その喜びの理由、それは罪の闇の中に支配されている自分に希望の星が見えたということです。この星さえ見ることが出来るならば、ダビデの子なるメシアを礼拝することが出来るならば、後は何もいらない。必要はすべて満たされる。自分で満たすのではなく、自分は捧げる。神がその独り子の命を自分たちに捧げて下さったのだから、罪人を闇の支配、死の支配から救いだす喜びをもって、この世に裸で旅立たせて下さったのだから、自分たちはその愛を信じて、自分を捧げ、裸一貫になって新たな人生に旅立とう。そういう深い決意に伴う喜びが、彼らを満たしたのだと思います。そして、まだ幼児に過ぎない、それもルカ福音書によれば、家畜小屋で布にくるまっているにすぎない、幼児の前にひれ伏して、すべてを捧げる礼拝をしたのです。

 崩壊による救い

 「ひれ伏す」
とは、元来、倒壊する、崩壊するという意味です。崩れてしまうことです。壊れてしまうことなのです。それまでの人生が壊れてしまう、手にしていた繁栄も身分も、みんな無くなってしまうことです。しかし、そういうことを彼らは喜んだ、激しく喜んだのです。彼らは、ついに本当に価値あるものを知ったからです。本当に価値あるものを知る時、それまで価値があったものが全く無価値になります。しかし、それは大きな喜びなのです。
 パウロという人がいます。彼は、キリスト者を捕まえては処刑していた人です。しかし、ある時、復活されて天におられるイエス・キリストが彼と出会いました。もちろん、それは霊的な体験です。その時、彼はまさに崩壊しました。崩れ落ちたのです。三日三晩、何も食べることが出来ず、目も見えませんでした。しかし、彼はアナニアというキリスト者から洗礼を受けて、キリスト者になり、さらにキリストを宣べ伝える伝道者になりました。彼はユダヤ人として血筋もよいし、頭もよいし、仕事もできる。そういう人物でした。しかし、その彼がこう言っています。

しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。・・わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

 彼が知ったこと、それはキリストが自分の罪のために死んで下さったこと、そして復活して共に生きて下さることです。このキリストを信じて、キリストの内に生きることは、キリストの苦しみに与りながら、復活に達するということです。ただそのことを知ったのです。信じたのです。そのことを通して、彼はそれまで自分に価値があったものはすべて無価値なものであり、そんなものを持っていること自体がむしろ損失であることを知ったのです。今や、彼は、キリストの苦難に与りつつ復活を目指す人生を生きることが出来るようになった。つまり、自分自身を捧げてキリストを礼拝し、キリストを宣べ伝えるようになった。そこにこそ、死では終わらない復活への道があることを、彼は知ったのです。そこに彼の喜び、まさにあふれ出てくる喜びがあります。

 礼拝で始まり礼拝で終わる福音書

 系図から始まるマタイによる福音書は、十字架の死から復活された主イエスと、主イエスを裏切って逃げた弟子たちが、ガリラヤの山の上で会う場面で終わります。
 そこには、こうあります。
「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておられた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。」
 この「ひれ伏した」は「拝んだ」、「礼拝した」という言葉です。博士たちが、ただそのことのためにはるばる東の方からやってきたことです。そして、それはすべてを捧げて下さった神とそのメシアに対して、すべてを捧げるという姿勢なのです。これまでの自分を捨てて、献身するということです。この福音書の最初と最後に出てくるヨセフ、学者たち、そして弟子たちは、キリストの献身に応えて、献身してキリストを礼拝する者たちです。それまでの自分が崩壊し、新しい自分に造り直された人々なのです。その人々による礼拝こそがクリスマス、キリスト礼拝であり、その礼拝にのみ、この世には決してない大いなる喜びがあるのです。
 今日の礼拝で、新たに献身者が出たことを、私たちは感謝し、また神様と共に喜びたいと思います。そしてまた、先に洗礼を受けて献身した私たちも、今日の礼拝を通して、その献身の信仰を新たにして、今日からの歩みを喜びつつ始めたい。その歩みの行きつく先は死ではなく、十字架の苦しみを経ての復活なのです。
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