「聖書に書いてあるとおり」

及川 信

       ルカによる福音書24章 1節〜12節
            コリントの信徒への手紙T 13章 3節〜 6節
 そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。(ルカによる福音書24章 1節〜12節)
 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。(コリントの信徒への手紙T 15章 3節〜 6六節)

 過越しの祭り イースター礼拝

 今日は、キリスト教会、またキリスト者とは何であるかについて、聖書に基づいて語りたいと思います。
 今から三千年も前からユダヤ人の間で年に一回守られている過越しの祭りというものがあります。その過越しの祭りは、一週間続きます。
 今から二千年前、その祭りの期間中に、イエス・キリストが十字架に架かって死に、三日目の日曜日の朝、死から復活するという出来事がありました。その出来事を、罪の奴隷になっているすべての人間を救い出す救済の出来事だと信じた人々がいました。その人々が次第にキリスト者(クリスチャン)と呼ばれるようになり、その人々の集まりがキリスト教会と呼ばれるようになったのです。キリスト教会は、その後、民族の枠を超え、人種の枠をも超えて世界中に広がっていきました。
 そのキリスト教会にとって、最も大切な祭り、それが復活祭、イースターです。イエス・キリストが、十字架の死から三日目の日曜日に甦ったことを祝う祭りです。今年のイースターは、先週の四月四日でした。キリスト者は、二千年間毎年春に祝われるイースター礼拝を守り続けることを通して、自分たちが何者であるかをいつも新たに確認し、また救い主であるイエス・キリストを宣べ伝え続けているのです。毎週捧げられる日曜日の礼拝もまた、イエス・キリストの十字架の死と死からの復活を覚え、讃美するためのものです。ですから、私たちキリスト者は、何よりもキリストの十字架の死と復活を自分たちの救いのためであることを覚え、礼拝することによって、自分たちが何者であるかをいつも新たに確認し、二千年にわたって、イエスという方をキリスト、救い主として讃美し、宣べ伝えることによって生きている人間、本質的な意味では、ただそのことにおいて生きている人間なのです。
 先週のイースター礼拝において、一人の方が洗礼を受けてキリスト者として誕生しました。それは、罪に支配されていた自分がキリストの十字架と復活を通して救い出されたと信じ、新しくキリスト者として生きる人が誕生したということで、私たちにとって真に喜ばしいことでした。しかし、それは私たちの喜びであるよりも前に、神様の喜びであり、イエス様の喜びです。古代キリスト教会では、イースター礼拝に洗礼を授けることが慣習となっていましたし、私たちも二千年の時を経て、今もなおその伝統を引き継ぎつつ生かされていることを思いますと、深い感謝と喜びに満たされます。また、先週は一組のご夫妻をこの教会の会員としてお迎えするという喜びもありました。

 訪問聖餐

 この一週間、私はその喜びに押し出されるようにして、高齢や病の故に、毎週この礼拝堂で礼拝を共にすることが出来なくなっている方たちをお訪ねしました。イースターの季節に牧師が信者を訪ねることもまた、古くからの教会の慣習です。牧師が訪ねるという場合は、単に安否を伺うために訪ねるのではなく、聖書の御言をもって訪ねるのだし、また可能であれば、入居されている施設の一室やご自宅の一室で、この礼拝堂で月に一回守っているような聖餐礼拝を守るために訪ねるのです。
 聖餐礼拝とは、主イエスが命ぜられた言葉に基づく礼拝です。主イエスは、十字架に磔にされる前の晩に、弟子たちと過越しの祭りを祝われました。その時に、主イエスはパンを裂いて弟子たちに渡し、ぶどう酒が入った杯を渡しました。そのパンとぶどう酒は、私たちの罪が神様によって赦されるために、十字架に磔にされて裂かれるイエス・キリストの体と流される血のしるしであり、同時に、復活して今も生きておられるイエス・キリストの命のしるしです。そのパンとぶどう酒を、聖書に書かれているキリストの言葉を聞き、信仰をもって食べ、また飲みつつ礼拝することを、イエス・キリストは命ぜられました。その礼拝を捧げる時、私たちキリスト者は、自分のために死んで下さり、甦って下さったイエス・キリストがここに生きておられることを知らされ、その愛に心が満たされます。そして、自分が何者であるかを深く知らされるのです。自分は神に愛されている一人の人間であるということ、神の子イエス・キリストがその命を捧げて愛して下さっていること、そのことを知らされて、心が喜びと感謝で満たされるのです。そういうひと時がなければ、私たちは、人生に伴う様々な試練、苦難に押しつぶされて絶望してしまうことがあります。私たちが、そういう人間であることをよくご存知の主イエスが、聖餐礼拝を守るように命じてくださったのです。その礼拝の起源も、過越しの祭り、そしてイースターにあります。

 人生は四苦八苦?

 人生は生老病死、生まれて老いて病を得て死ぬという四つの苦しみ(四苦)に満ちているものだ。さらに、愛する人との別離の苦しみや、憎む人と出会う苦しみ、また求めるものが得られない苦しみや、執着する苦しみを加えて、人生は四苦とも八苦とも言われ、それらの苦しみを受け入れること、すべて諦めて受け入れることが悟りなのだという教えもあります。でも、聖書は全く異なることを語ります。苦しみに満ちた人生は死では終わらないのだ、と言うのです。イエス様が、あらゆる苦しみを経て、その究極である死に打ち勝ったのだ。だから、イエス・キリストを信じて、イエス・キリストと共に生きることは希望と喜びに満ちたものなのだ、と言うのです。
 私は、先週、十名の方をお訪ねしましたが、ほとんどすべての方と共に読んだのは、先ほど読んだコリントの信徒への手紙一の一五章の後半の言葉です。この手紙は、パウロという人が二千年前にギリシアの大都市コリントに伝道して建てた教会に向けて書いたものです。何故、手紙を書いたかと言うと、彼がコリントを離れて他の町に教会を建てている時に、せっかくイエス様を信じてキリスト者になったのに、信仰がぐらついてしまっている人々がいたからです。その人々は、人生はいつ死ぬか分からないのだから、結局、その日一日を楽しく過ごすしかないじゃないかと言って、酒におぼれたり、快楽におぼれたりしていました。つまり、死の支配に押しつぶされて、享楽的になったり、絶望的になったりしているのです。表面的には面白おかしく生きている人に限って、実は、その心の中が暗闇である場合があります。心が暗く、その闇に押しつぶされそうになっているからこそ、毎日、刺激を求め、華やぎを求めるのです。若い時の私もそうでした。人生が空しいから、つまらないから、面白おかしく生きたいだけなのです。本当に楽しく有意義だと思っているからではない。
 そういう人々が、一旦はキリストの愛を信じてキリスト者として生まれ変わった人々の中にもいる。それもまた、無理のないことでもあります。誰だって、最初は大志を抱いて生き始めるでしょう。大きな夢をもって学校に入ったり、会社に就職をしたり、結婚をしたりするのです。でも、人生は必ずしも思った通りにはなりません。四苦八苦の中で、最初に持っていた夢や希望が押し潰されてしまうこともあります。そして、次第に最初の志、最初の夢、最初の愛、最初の信仰を忘れてしまう。世の現実に覆われて行ってしまう。そして、自分が何者であるかも分からなくなる。そういうことが、ままあります。

 しっかり覚える

 そういう人々に向って、パウロは、こう語りかけています。先ほど読んだ所よりも少し前から読みます。

 兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。

 「福音」というのは、良い知らせ、幸福をもたらす知らせ、英語ではゴスペルとかグッドニュースとか言うものです。パウロは、最初にコリントの人々に伝え、彼らが信じた良い知らせを、忘れずにしっかり覚えておいて欲しいと言うのです。そうでないと、人間に救いはないからです。最初の信仰を忘れてしまうと、何もかもが無駄になってしまうからです。そう言った上で、彼は、最初に伝えたことを、最初に伝えた通りの言葉で繰り返します。

 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。

 「聖書に書いてあるとおり」と二度繰り返していますけれど、それは私たちキリスト者が旧約聖書と呼ぶ書物のことです。キリスト教会は、その旧約聖書と新約聖書を合わせた書物を神の言葉が書かれている「聖書」として、その聖書に書いてあることを二千年間覚え続けているのです。そして、それはただ歴史的にこういうことが起こったのだと記憶するということではありません。

 罪と死の方程式を破る神

 私がこの一週間、高齢の方たちと共に読み続けたのは、その先の一五章五五節以下の言葉です。そこで、パウロは、キリストが私たちの罪のために死んだ十字架の死から三日目に甦ったとは、私たちすべてに襲いかかり勝利をする死の現実が打ち破られたことなのだと宣言します。彼は、旧約聖書に書かれている言葉を引用しつつ、こう言うのです。

 「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(中略) わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

 私たちは誰もが、神に造られた存在です。神が親なのです。親だから子である私たちを愛してやまない。でも、子は成長するにつれて親の愛を必要ないと思ったり、時には親の愛に伴う支配が邪魔になるものです。それは一面では成長です。しかし、愛を必要としない人間はいないのです。けれども、私たちは自立しようとします。そして、孤立してしまう。愛による支配は守りなのに、それを束縛と感じ、支配を嫌う。そのようにして、結局自分の欲望に束縛され、支配され、結局、生きながらにして罪と死に支配されてしまうのです。それは成長ではなく迷いであり、堕落です。成長とは、自分を愛してくれる存在を前よりも深く愛して行くことだからです。そのことを履き違えて誤った自立をする時、人は孤立し、深いところで絶望してしまうのです。そして、死が勝利する。誰も、その方程式を自分の力で破ることは出来ません。諦めて受け入れざるを得ないし、諦めなくても事実として私たちは死に呑み込まれていくのです。
 しかし、私たちの主イエス・キリストは、聖書に書いてあるとおり、その死から甦られました。私たちのすべてを支配している罪と死の方程式の中に一旦は支配されてしまったかのように見えましたが、実際には、その方程式を打ち破って、二千年前の春、過越しの祭りが祝われる日曜日に、墓の中から甦ったのです。その歴史的な出来事を、パウロは、私たちのための勝利として伝えています。ただ単にキリストが死から甦ったことを歴史的事実として伝えるのではなく、その事実を私のために起こった出来事として伝えているのです。そのことを信じる者にとっては、キリストの勝利は自分の勝利なのです。キリストの復活は、私たちもまた、キリストと同じように新しい体をもって甦らせていただくことの徴なのです。もちろん、それはこの世の中に、死んだ時の姿形で蘇生するということではありません。世の終わりに完成する神の国、天国で、全く新しい体、最早、死なない体で甦らせて頂けるということです。その希望がある時、私たちはどんな苦しみがあっても、この世を信仰と愛に生きることが出来るようになるのです。

 今、生きておられる主イエス

 私は、この一週間、一〇回もこの言葉を読み、また語りました。共に読む信者の方は様々です。特別養護老人ホームに入居されていたり、自宅で生活をしていても九八歳で足が痛かったり、骨折をされていたり、脳梗塞の後遺症と闘っていたりと、様々な試練や苦難の中にいる方たちです。誰だって時として、心が折れることもあるでしょう。しかし、そういう方たちと、この最初に信じたことが書かれている聖書の言葉を読んでいると、私も力づけられて、口から自然に説教が出てきます。それは私が語っているように見えながら、実は今生きておられる主イエスが語りかけているのです。その主の御言を共々に聞く時、様々な試練や苦難の中にある方たちの顔が俄かに明るくなって、目が輝いて来ます。力が内から漲って来るのです。聖書の言葉には、そういう力があります。牧師は、本当に幸いなことだと思いますけれど、そういう姿を間近で見ることが出来ます。そして、信仰をもって、主の命の徴であるパンとぶどう酒を共に頂く時、私もまた力が漲って来るのです。
 主イエスを信じ、主イエスに繋がって生きる。信仰に堅く立って動かされずに生きる。その人生は決して無駄にはならない。天の御国における復活に繋がる人生である。その希望が鮮やかに示される時、具体的な状況は少しも変わらずとも、人は夢と希望をもって生きていけるのです。
 そこにこそ、私たちが持つべき本当の希望がある、夢がある、見るべき幻があるのだ、と聖書は告げます。そして、私たちキリスト者とは、このことを二千年間、信じ続け、このキリストを証しし続けている者たちです。

 週の初めの日に起こったこと

 それが一体、どのような出来事を通してかも、聖書は書いています。
 先ほど、ルカによる福音書二四章の書き出しを読みました。二四章全体を読めれば良いのですけれど、時間の都合で、一二節までとしました。「週の初めの日の明け方」とは、日曜日のことです。その日、主イエスに従ってきた女たちが、主イエスが葬られた墓にやって来ました。主イエスを埋葬する時に、その遺体に香料を塗ることも出来なかったからです。しかし、行ってみると、岩穴の墓をふさぐ大きな石は既に転がしてあり、「中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった」とあります。墓は人生の終わりです。私たちはそこに入れば、もう終わりです。何事も起こらないのです。しかし、そこに輝く衣を着た二人の人が現れ、女たちにこう言った。

 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」

 ここで天使が女たちに言ったことと、パウロがコリントの教会の信徒たちに言ったことの内容は基本的に同じです。主イエスは罪人によって十字架につけられて死んだ。それは、人間の罪のためであり、罪が赦されるためです。そして、三日目に復活された。それは、私たちに新しい命を与えるためです。そして、来るべき日の復活の希望を与えるためです。既に主イエスは、旧約聖書の言葉に基づいて、ご自身がそのようにして罪と死の方程式に入ってしまっている人間を救うことをお語りになっていました。

 忘却と想起

 しかし、人間は忘れます。様々なことを忘れていく。辛く悲しいことを忘れることで、明るく楽しく生きていけるということはあるでしょう。しかし、忘れてはならない罪や悪事もあります。戦争などはその最たるものです。そのことを忘れることによって、また繰り返してしまうのです。忘れるとは、そういう二面性がある。
 しかし、ここで天使たちが忘れてはならない、忘れていたら思い出しなさいと言っていること、それはパウロが、「しっかり覚えていなければ、信じたこと自体が無駄になる」と言ったことと同じです。それは、主イエスが私たちの罪のために死んだこと、そして三日目に復活したことです。罪の結果である死を、主イエスが打ち破って下さったということなのです。彼女たちが思い出さねばならなかったこと、しっかり覚えていなければならなかったことは、そのことです。そのことさえ、思い出し、しっかり覚え続けることが出来るなら、私たちはどんな状況になっても、臨終の時であっても、堅く立って動かされず、勝利に向って生きることが出来るのです。
 女たちは、思い出しました。そして、他の男の弟子たちに天使に言われたことを伝えた。しかし、コリントの信徒への手紙の中では「ケファ」とも呼ばれるペトロ以外の弟子たちは皆、女たちが言ったことを戯言だと思って信じなかったのです。「戯言」とは、熱に浮かされた病人のうわ言という意味です。つまり、正気の人間が言う言葉だとは思えなかったのです。それは、当然と言えばあまりに当然のことです。死人が甦るなどということは、あり得ないことなのですから。死んだら、すべてはお終いであることは、誰もが知っていることです。

 ペトロの恐れ

 ペトロ、彼はそのことを痛切に知っている人でした。彼は、死ぬことを何よりも恐れていた人です。彼は、主イエスが逮捕されて、処刑される寸前に、「主よ、ご一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言っていました。しかし、彼は、その直後に、三度も主イエスのことを「わたしはあの人を知らない」、無関係だと言って逃げたのです。死ぬことが怖かったのです。死んだらお終いだと分かっていたからです。しかし、そのようにして生き延びたペトロは、主イエスが十字架に架かって死んだ後、「死なないでよかった。これからまた楽しく生きていける」と思ったのか。夢や希望を抱いて生きていけると思ったのかと言えば、そんなことはありません。彼は深く絶望したのです。人間は愛と信頼を裏切ってしまう。そういう罪を抱えている。その現実を知らされ、その罪の現実を抱えながら、どうして生きていったらよいか分からぬ思いだったでしょう。この罪の現実を忘れてしまうのであれば、人は罪を犯し続けるしかないし、罪を犯し続けながらそれを罪とも思わないという最悪の存在になってしまうのです。
 しかし、自分が今、まさに人間としての姿を失い始めていることに深い悲しみを抱いていたペトロは、女たちの言葉を戯言とは思えませんでした。彼は「立ち上がって墓へ走り」、墓まで行って中をのぞくと遺体をくるんでいた布しかなかったのを見て驚きながら家に帰っていきました。その後、ペトロを初めとする弟子たちに、復活の主イエスは現れて、本当に復活されたことを証しされました。

 ペンテコステで起こったこと

 それから五十日経った時、既に天に上げられて見えなくなっていた主イエスの許から弟子たちに聖霊が降されました。その日のことを、教会ではギリシア語で五十を表すペンテコステ礼拝として記念します。その聖霊を身に受けた時、弟子たちは一斉に世界中の言語で、イエス様が十字架に架かって死んだのは私たちの罪のためであり、三日目に復活されたことを語り始めたのです。つまり、説教を始めた。その時、キリスト教会が誕生したのです。
 その説教において、ペトロは、旧約聖書に書かれている言葉をたくさん引用しながら、イエス様が十字架の死から復活されたことを信じる時に、人間に何が起こるかを熱烈に語りました。それは使徒言行録の二章に記されています。彼は、預言者の言葉を引用して、こう語ります。
「神は言われる。終わりの時に、
 わたしの霊をすべての人に注ぐ。
 すると、あなたたちの息子と娘は預言し、
 若者は幻を見、老人は夢を見る。
 主の名を呼び求める者は皆、救われる。」


 若者も絶望することがあり、老人には最早将来の夢はありません。しかし、聖霊を与えられ、主を信じる信仰を与えられる時、どんな若者も救いの幻を見、老人も世の終わりの時の復活を夢を見て力が漲って来るのです。
 さらにペトロは、旧約聖書の詩編の言葉を引用します。
「わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、
 わたしは決して動揺しない。
 だから、わたしの心は楽しみ、
 舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。
 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、
 あなたの聖なる者を
 朽ち果てるままにしておかれない。
 あなたは、命に至る道をわたしに示し、
 御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。」


 復活された主イエス・キリスト、それは肉眼の目に見えないお方です。しかし、そのお方を心の目の前にしている時、何があっても動揺することなく、心は楽しみで満たされ、舌は喜びたたえ、体も希望をもって生きていくことが出来る。何故なら、主を信じる者は、死体となって、その体が朽ち果てても、その命は朽ちることがないからです。主と共に生かされるからです。
 あれほどまでに死を恐れていたペトロは、復活の主イエスに出会い、聖霊を与えられることによって、最早、死を恐れることなく、大胆に、主イエスの十字架の死と復活を語り始めました。この方を信じるところにのみ、私たちの救いがあるのだ、と。それは、彼が語っているようでありつつ、実は、今生きておられる主イエスが語っているのです。

 礼拝において語る主イエス

 目に見えない復活の主イエスは、今も、私たちの目の前におられ、聖書の言葉を通して、そして説教を通して、私たちに語りかけてくださっています。そして、今日は礼拝の中で守りませんが、聖餐の食卓を通して、十字架による罪の赦しと、復活の命を与え続けてくださるのです。その事実が分かる時、信じることが出来る時、私たちの心は喜びで満たされ、体は希望で生かされます。
 この一週間、私自身はずいぶん忙しく過ごし、体に疲れも覚えます。でも、信仰を生きようとする方たちと御言と聖餐を共にすることで、ずっと喜びで満たされていましたし、絶えず新たな希望を与えられ続けました。本当に感謝なことです。
 そして、今日もまた、聖霊の注ぎを受けて、説教を語りながら、皆さんと一緒に十字架と復活の主イエス・キリストを礼拝出来る。こんな幸いなことはありません。今日もまた、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたこと」を、思い出し、しっかり覚えることが出来る。そのことを通して、罪の赦しに与り、復活の希望に向って生きていくことが出来る。こんな幸いを与えてくださった主イエス・キリストを、心を合わせ、声を合わせて、讃美したいと思います。
 今日は特に、すぐ近くに建つシオン寮から、青山学院女子短期大学の学生の方が何人も礼拝に来て下さいました。シオンとは、エルサレムの別名です。イースター礼拝の発祥の地であり、聖霊が降り、キリスト教会が誕生した地です。そのシオンという名がつけられた寮に暮らしつつ、キリスト教信仰に基づく大学で学ばれる皆さんが、学問的真理を探究すると共に、キリストへの信仰と出会い、それぞれを深めつつ、まことの喜びと希望に生きることが出来ますようにお祈りします。
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