「永遠の命を受け継ぐとは」

及川 信

       ルカによる福音書10章25節〜37節
 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」


 今日の説教の題を「永遠の命を受け継ぐとは」と題しました。それは、「律法の専門家」がイエス様に発した問い「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことが出来るでしょうか」に由来することは言うまでもありません。そして、私は、今日の特別伝道礼拝のご案内のチラシに、人は古来、永遠の命を求めて生きて来たが、そもそも命とは何なのかについて分かっているわけではない。その問題について、聖書の御言に耳を澄ませたい、という趣旨のことを書きました。

 正しい答え

 イエス様に「永遠の命」について質問したのは、『聖書に記される神の教え』、つまり『律法』の専門家です。彼は、次第に人々の注目を集めているイエス様の学識を試そうとして、そしてあわよくば人々の前で恥をかかせようとして尋ねているのです。でも、その心のどこかに、彼自身が長く聖書に関わってはいても、「永遠の命」について分からない、実感が持てない、そういう不安があったと思います。その不安については、クリスチャンとして長く生きている人も、私のように牧師をそれなりの年月やっている者もよく分かることです。その律法の専門家に向ってイエス様は、「あなたが専門としている律法には何と書いてあるのか」と聞きます。彼は、すらすらと「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と答える。それは「正しい答え」です。ですから、イエス様は、「それを実行せよ。そうすれば命が得られる」とおっしゃいました。
 でも、問題はここからです。私たちは「正しい」と分かっていても、その「正しい」ことが出来ない。それが人間です。愛することが正しいと分かっていても、愛せないことがあるのです。その状態を、聖書では罪と言います。それは犯罪とは全く違うことです。悪とも違う。罪人(つみびと)は悪人ではありません。善人である場合もあるのです。人間は、無条件で人を愛することは出来ない。そういう意味で、すべての人間は罪人である、と聖書は言います。そして、その罪の状態のままでは、永遠の命を生きることはあり得ない。そのことを、イエス様はよく分かっている。よく分かっているから、しかしまた、よく分かっているのに、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」とおっしゃっている。それは、一体どういうことか。

 正当化

 また、正しいことをしていないのに、自己を正当化するのが、私たち人間でもあります。専門家は、「自分を正当化しようとして、『では、わたしの隣人とは誰ですか』」尋ねます。そこから、イエス様の有名な譬話が始まるのです。それは強盗に襲われて身ぐるみ剥がれている旅人を、神に仕えるレビ人や祭司が助けなかったのに、ユダヤ人と同じ律法を神の言と信じつつも、ユダヤ人とは決定的な対立関係にあるサマリア人が助けるという話です。その話をされた上で、イエス様は、「あなたはこの三人の中で、だれがおいはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と尋ねました。律法の専門家は、「その人を助けた人です」と答える。これも「正しい答え」です。そこで、イエス様は、「行って、あなたも同じようにしなさい」とおっしゃいました。でも、「助けた人」とは、「慰めた人」あるいは「愛した人」と訳した方が本質を言い表しています。イエス様にとっての問題は、具体的な行動そのものよりも、その行動を生み出す内面にあるからです。
 その後、この律法の専門家がどうしたかは書かれていません。でも、恐らく、主イエスの命令を聞いて、うなだれて帰って行ったような気がします。イエス様を試すつもりだったのに、彼が試されてしまった。自分を正当化しようと思って反論したのに、その正しさを生き得ない罪を暴かれてしまった。そういうことが、ここで起こっているようにも見えます。
 今回改めてこの個所を読みつつ、聖書の専門家のはしくれであり、また教会に仕える祭司でもある者として、まさに自分の本質を鋭くえぐられる痛みを感じざるを得ません。そして、「イエス様はいつだって正しいことを言う。だけれど、それを生きることが出来ないのが人間じゃないか」と思います。そして、そういう思いを人に隠したり、自分でも見えないように蓋をした上で、「神を愛し、隣人を愛することが聖書の教え、神様の願いです」と語ることは出来ないと思うのです。しかし、それではどうするのか?何を語れるというのか。それが説教者にとっての一つの問題です。

 生きている 生きるだろう

 今ここに集まっている私たちが多種多様な人間であることは言うまでもありません。生まれ育った家庭環境も、現在生きている境遇も、誰一人同じ人はいない。目に見える形で平穏な生活をしている人もおられるだろうし、見るからに様々な困難の中におられる方もいるでしょう。でも、心の状態は、目に見えることとは裏腹である場合もあります。厳しい境遇の中にあっても心は平安や喜びで満ちている場合があるし、何不足ない境遇の中でも不満や悲しみが満ちている場合もある。人間とは、実に複雑な存在だと思います。そして、目に見える状態や目に見えない心の状態がどうであっても、今ここに集まっている私たちが「生きている」ということだけは共通していると言えます。少なくとも生物学的な意味での「命」を生きている。それは明らかなことだし、それはここにいる私たちの唯一の共通項であるかもしれません。
 今日の聖書の個所で、イエス様は「それを実行しなさい。そうすれば命を得られる」とおっしゃっています。直訳すれば、「そうすれば、あなたは生きるだろう」という未来形です。今、目の前で生きている律法の専門家に向ってイエス様は「生きるだろう」とおっしゃっている。それは一体、どういうことなのか。律法の専門家は、主イエスから見れば、生きてはいない、命がないということなのか。それが第一の問題になります。
 私たちも、「こういうことをやれば、あなたは生きる」と言う場合があります。それは多くの場合、その人が持っている才能とか能力とか資質とかを活かすことが出来る、活用できるという意味だと思います。もちろん、生きる気力もなく死んだような人を励ます時に、こういうことをすれば、気持ちをこのように切り替えれば、もっと活き活きと生きることが出来るという意味の場合もあります。でも、イエス様は、そのような意味で、この「生きるだろう」という言葉を使ったのでしょうか。私は、違うと思うのです。
 人間とは複雑な存在だと言いました。私がそう言う時、私の頭にあるのは動物のことです。人間に飼われるペットとなると、野生の動物とは少し違った複雑さをもつような気もしますけれど、基本的に動物は自殺をしません。とにかく、生きていこうとするのです。彼らは世をはかなんだり、自分に幻滅したり、将来に希望が持てないということで絶望し、自殺をするということはない。先日の夕刊に、貧困社会について本を書いたりしている若い女性の小さなコラムが掲載されていました。その女性は、生まれたばかりの捨て猫をその泣き声にほだされて家に入れてしまい、入れた限りは飼わねばならぬと思って飼いだしたそうです。そして、「ぱぴ」と名付けた。そのコラムから少し引用します。

 「そのころ、私はリストカットの取材を続けていました。『生きる意味』の悩み。生きていても迷惑じゃないか、役に立たないから死んだ方がいいんじゃないか。そんな声をたくさん耳にして、私自身精神状態が厳しくなることもあった。そんなとき、子猫に救われましたね。
 ぱぴちゃんは、家中のカーテンを破りまくり、パソコンにのって三日がかりの原稿を全部消したり、靴にオシッコをかけたり、やっていることは迷惑そのもの。何の役にも立たないけれど、そんな自分が生きていることに何の疑問も持たない。ものすごい生命力で全身から生きる喜びを発している。人と自分を比べて勝手に落ち込んだりもしない。『無条件の生存の肯定』。人間が言葉にする前に子猫が実践していました。」

 しかし、その同じ日の夕刊の社会面には、十二年連続で、自殺者が三万人を超えたという記事が出ていました。「分かっている原因」としては、うつ病を初めとする病気、多重債務などの経済問題、夫婦関係、親子関係の不和などの家庭の問題などがあると分類されていました。でも、実際にはそういう「〜〜問題」というのは、表面的なことであって、いくつもの要因が重なって人は追い込まれていくのだと思いますし、自分の本当の状況、心境を誰も分かってくれない、分かってもらえないという現実、あるいは思い込みがあるのだと思います。先ほども言いましたように、目に見える状況がどうであっても、その人の心の中は分かりません。大金持ちで肉体的には健康であり、目に見える形では家族や友人がいたとしても、誰にも内面の悩みを言えず、自分が完全な孤独であると思ってしまった時、人は最早生きていけない。そういうことがあると思います。しかし、戦争や災害や病気や障害という様々な逆境を経験する中で、むしろ家族や友人たちが互いに愛し合い、そして助け合うことを通して力強く生きていくことだってある。人が生きるということ、人の命とは、心臓が動いて全身に血が回っていることだけを意味するわけではないと思います。

 命の誕生

 そもそも、人の命がいつどのように誕生するのかについて考えてみなければならないと思います。私は数年前から、ある短大で聖書を読みつつ学生たちと共に考えています。その時に、学生に、「みなさんの命は、いつ誕生したと思う?」尋ねます。皆、真剣に考えます。大の大人がわざわざ聞くのだから、「オギャーと生まれた時」が正解であるはずがない。もっとひねったことを聞いているはずだ、と思うのでしょう。そこで彼女らが言うのは、大体の場合、「お母さんのおなかの中で」です。つまり、精子と卵子が結合した時、ということでしょう。もちろん、「正しい答え」です。しかし、その「正しい答え」は、「それを実行しなさい」と言われても困る答えです。
 その時に、私はもう一つの答えを言います。
 「皆さんの命は、お父さんとお母さんが出会って、お互いに愛し合った時に、既にその源があるのじゃないか。肉体の交わりをする以前の男女の愛の中に、既にあなたたちの命の源がある。聖書は、そういう命のことを見つめていると思う。」
 もし、それも「正しい答え」であるとしたら、そのようにして誕生した命は、愛に生きるために誕生した。愛され、愛して生きるための命だということであり、イエス様の「それを実行しなさい」とは、「愛に生きなさい」という意味であり、それは愛なくしては生き得ない命を生きるための必須の命令だということになります。
 そのことを語った上で、『五体不満足』という本を書いた乙武洋匡(おとたけ ひろただ)さんのことを少しだけ紹介します。その本の帯には、幼い頃の病が原因で、視力と聴力を失い、喋ることでも出来なくなったヘレン・ケラーの「障害は不便です。だけど、不幸ではありません」という言葉が記されています。
 乙武さんは、生まれつき、両手両足が欠損しているのです。指一本がなくてもカタワとか言われて、人間扱いしないという差別が社会にはあります。差別は障害者への差別に留まらず、女性差別、人種差別、民族差別、出身地の差別などなど、私たち人間社会を覆っている現実です。人間は人間を人間扱いしない動物でもある。それも一つの真実でしょう。そういう人間社会の中で、夫との間に生まれた子どもの両手両足がない。その姿を、出産直後の母親が見たら、一体どうなるか分からない。それこそショック死してしまうかもしれない。絶望してしまうかもしれない。精神を痛めてしまうかもしれない。様々な恐れが医師を初め、ご家族の方々にあったでしょう。そこで、一ヶ月もの間、「黄疸が激しいから」と嘘の理由で、母親は我が子と対面しないままでした。しかし、そんなことをいつまでも続けていくことは出来ませんから、母子対面をさせることになった。その時のことを、乙武さんは、こう書き記しています。もちろん、これは彼の見たことではなく、親を初めとする人々から、彼が何度も聞かされてきたことです。

 「『その瞬間』は、意外な形で迎えられた。『かわいい』――母の口をついて出て来た言葉は、そこに居合わせた人々の予期に反するものだった。泣き出し、取り乱してしまうかもしれない。気を失い、倒れ込んでしまうかもしれない。そういった心配は、すべて杞憂に終わった。自分のお腹を痛めて産んだ子どもに、一ヶ月も会えなかったのだ。手足がないことへの驚きよりも、やっと我が子に会うことが出来た喜びが上回ったのだろう。
 この『母子初対面』の成功は、傍から見る以上に意味のあるものだったと思う。人と出会った時の第一印象というのは、なかなか消えないものだ。後になっても、その印象を引き摺ってしまうことも少なくない。まして、それが『親と子の』初対面となれば、その重要性は計り知れないだろう。
 母が、ボクに対して初めて抱いた感情は、『驚き』『悲しみ』ではなく、『喜び』だった。
 生後一カ月、ようやくボクは『誕生』した。」

 この「誕生」したには鍵括弧がついています。つまり、一か月前に、生物としてはこの世の中に誕生している。生きている。しかし、母の愛に包まれた時、一人の子として、一人の「人間」として誕生した。生き始めた。そういうことでしょう。
 既に目の前に生きている人間に向って、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる(生きる)」とイエス様がおっしゃった時の命、生きるということ、それもまた、受精した時の生命体とか、子宮の中で生きている生命のことを言っているのではなくまた肉体的に生きている時の命を言っているのでもなく、愛の中で生きること、愛し愛される交わりの中で生きる命を言っているのだと思います。
 もちろんそれは、親と子という肉親の間にある愛そのもののことを言っているのではなく、愛の究極、あるいは源としての神から愛されていることを知り、神を愛し、人を愛する交わりの中に生きる命について語っておられるのです。しかし、その神の愛によって命を与えられた人間の中には、愛に生きる能力というか、遺伝子が組み込まれている。それも事実だと思います。そのことがなければ、イエス様も「行って、あなたも同じようにしなさい」とはおっしゃらなかったでしょう。
 しかし、先ほども言いましたように、私たちは誰もが罪に支配されており、愛したいと思っても愛することが出来ない。そういう現実を抱え持っていることも事実です。愛によって生き得るはずの私たちが、現実には生き得ていない。その私たちに救いがあるのか、命を得る可能性があるのか。あるとすれば、どこにあるのか。それが問題となります。

 私たちにとって当然のこと

 イエス様が語る譬話の中に登場する祭司やレビ人は、毎日、聖書を読み、そして神様を礼拝し、神を愛することと、自分と同じように隣人を愛することが神の命令であることを人々に伝える仕事をしている人たちです。その彼らが、エリコという町にくだる道沿いで、身ぐるみ剥がれた人を最初に見た時、つまり、初対面の時、彼らは思わず目をそむけたのです。そして、道の向こう側を通っていった。見て見ぬふりをしたのです。見なかったことにした。あるいは見捨てたのです。それは分かります。ある意味、当然です。
 悪い人というのはどこまでも悪いと思うことがありますけれど、ものの本によると、強盗は一人を襲った後、近くに隠れていることがあるらしい。そして、裸で倒れている人を助けようと近寄り、屈みこんで手当てをする人を再び襲う。そういうこともあったそうなのです。そんな事実があったとすれば、レビ人だって祭司だって、足を速めて遠くを通り過ぎても無理はないし、家に家族が待っていれば、その行為は当然のことでもある。

 憐れに思う

 しかし、イエス様は、多分、そういう頭で考える状況判断とは全く別のことを話している。たまたまそこを通りかかったサマリア人と倒れている人の間には面識があるわけではない。親子でも友人であるわけでもない。むしろ、普段は顔を見るのも嫌だと思っている一人のユダヤ人です。それなのに、彼は倒れている人を助けました。何故か?

 「ところが、旅をしているサマリア人は、そばに来ると、その人を憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。」

 ここで「憐れに思い」という言葉が使われています。この言葉は、スプラグニゾマイというギリシア語で、珍しい言葉であると同時に、主語は必ずイエス様ご自身か、イエス様が話す譬話の中の登場人物なのです。直訳すれば「はらわたを痛める」です。母親がわが子を愛していることを表す表現の一つに、「お腹を痛めて産んだ子」というものがあります。だから、母親は、子どもが病気になったりすると、その子の苦しみをわが身の苦しみとして感じます。そういう肉感的な苦しみを伴う愛をスプラグニゾマイは表現しているのです。そして、それは理性的な判断とは逆行する愛でもある。
 そのような「はらわたの底から出てくる愛」を、サマリア人は、道で倒れ伏している人を見たその時に「感じた」のです。それは感じてしまったのであって、自分でもどうすることも出来ないことです。内臓からほとばしり出るような愛を感じてしまったのです。だから彼は、この人間と関わることにおいて身に迫ってくるかもしれない危険だとか、生じるであろう手間暇、費用などを勘案しつつ勇気をもって行動したのでもないし、律法に隣人愛が勧められているから仕方なく助けたとか、そんなことでもない。彼は、自らの内からほとばしり出る愛によって、喜んで行動しているに違いない。傍から見れば、愚かな行動、危険な行動に見えたとしても、彼にはそんなことは全く関係ない。彼は、彼の中にあるはらわたが痛む愛で、愛している。そこに喜びがある。そこに命がある。そこに人が生きるということがある。そこに人が人を生かすということがある。また、そこに人が人の愛で生かされるということがある。主イエスは、そういうことを言っているのではないか。

 サマリア人はイエス様

 先ほど、この「はらわたが痛む」という言葉は、聖書の中でイエス様だけに遣われる言葉だと言いました。だとするならば、ここに登場するサマリア人は、実はイエス様ご自身の比喩だということになります。私もそう思います。こういう愛は、イエス様にしかない、と。
 この点については、この譬話を、イエス様が誰に話したかを確認することから考えて行かねばなりません。イエス様はここで、襲われて倒れている人をサマリア人が憐れに思ったという話をしています。その相手は、自分では倒れていると思っているわけでもない律法の専門家です。つまり、自分は立派に生きていると思っている人に、また正しい答えを知っている人に、でも正しい答えを生きているわけではない人に話している。どういう意図をもって話しているのかと言えば、「あなたは正しいことを知っているだけで、正しく生きていない人だ。それ故に、自分では生きていると思ってはいても、まだ生きていない、まだ命を得ていない人だ。生きて欲しい。あなたも命を得て欲しい。」そう願って語っているのです。それもやはり、はらわたが痛む愛によってです。
 サマリア人は、倒れている人を見て憐れに思いました。でも、イエス様は、道の反対側を通っていく神に仕えるレビ人や祭司を見ても、心を痛めているのです。目の前に愛を必要として倒れている人がいるのに、その人に愛を感じることが出来ない人々を見て、深い悲しみを抱いていると思います。その人々もまた、律法の専門家同様、愛の律法を知っている、正しい答えを知っている人々です。そういう人々の姿を見て、主イエスは、はらわたを痛めている。目の前に愛を必要としている人がいるのに、その人を愛せない人も、実は本当の喜びを知らないからです。喜びをもって生きるとはどういうことであるかを知らないからです。そういう愛の喜びに満たされた命を知らない。それは、やはり悲しむべき現実です。
 イエス様は、目の前にいるこの律法の専門家に、その悲しむべき現実を見たのです。むしろ、この人こそ憐れむべき人だと感じられたと思います。イエス様から見るならば、この人は、体裁を繕いながら、実ははらわたの底から愛されることも愛することも知らない人、肉体は生きているけれどまだ本当の意味では誕生していない人、立っているつもりだけれど実は倒れている人なのです。永遠の命、つまり永遠の愛を求めつつ、それを知らずに傷つき倒れ、愛に飢え渇いている人。イエス様には、そのように見えるのだと思います。そして、イエス様は、この律法の専門家を憐れに思い、近寄り、譬話を語りながら、一生懸命に傷を癒し、新たに立たせようとしている。そういうイエス様の姿がここにはあるのではないか。私には、そう思えてきました。

 私たちの価値

 私たちは猫ではありません。人から愛されようが愛されまいが、自分が生きていることに何の疑問も感じることなく、全身で生きる喜びを表すなどということは出来ません。人は、愛されること、そして愛することによって生きるのです。誰からも愛されないことは絶望的なことです。そして、誰のことも愛せないこともやはり絶望的なことです。その絶望に至りたくないが故に、私たちは何とか愛されようとして価値を身につけようとします。そして、価値ある人を愛そうとする。
 でも、その場合の「価値」とは一体何でしょうか。身分、富、容姿、才能、仕事・・・いろいろあるでしょう。私たちは、そういうものをたくさん身につけていると愛される価値があると思う傾向があります。しかし、私たちは何も持たないで裸で生まれてきた人間だし、何も持たないで裸で死んでいく人間です。その人間の価値、どんな服を着ていようが、どんな装飾品を身につけていようが、半殺しにされて傷だらけの裸をさらしていようが、変わることのない人間の価値、それはイエス様に愛されていることにあると、私は信じています。私が、どういう人間であれ、イエス様は私のことを愛して下さっている。だから、私は価値のある人間だ、と信じています。そして、そのイエス様の愛を信じること、それがイエス様への私の愛です。そこに私の喜びがあり、イエス様の喜びがあると思います。イエス様に愛されている、イエス様を愛している。その一事によって、人は生きると私は思う。命を得ると思います。少なくとも、私自身においては、それは事実なのです。
 イエス様の愛が心の中に、いや体の中に入ってくる時、私たちは愛される喜びと愛する喜び、神を愛する喜びと人を愛する喜びに生き始めることが出来る。そして、イエス様は、この律法の専門家にその愛を知って欲しかった。律法に記されている神の言とは、字面をそらんじたり、人を試すために利用したり、自己正当化のために利用したりするような言葉ではないことを知って欲しかった。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」という言葉の中に、まさに神のほとばしり出る愛が溢れ出ているのだと信じて欲しいのです。そして、実は、イエス様がこの世に来られたとは、愛に生きようと願っても愛に生き得ない私たち人間を愛し抜くためなのです。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くし」て、私たちを愛して下さっているのは、まず誰よりも主イエス・キリストその方であり、その主イエスを地上に旅立たせた父なる神様なのです。そして、私たちの隣人となってくださったのも、イエス様なのです。

 十字架の死と復活

 イエス様は、十字架に磔にされて殺されました。愛したのに憎まれたのです。私たちを罪の支配から救うために、罪を指摘するからです。私たちは誰もが自分を正当化します。その正当化の極みは、自分の罪を指摘する者を抹殺することです。しかし、実は、そのようにして、自分を心底愛してくれる存在を抹殺し、自分が命を得る可能性を抹殺している。そして、そのことに私たちは気づかない。
 そういう私たちの姿を十字架の上から見つつ、主イエスは、神様にこう祈られました。

 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」

 私たちは、まさに自分が何をしているか分からない存在です。自分を守ろうとして神と人を愛さないことで、実は自分の命を失っているのだし、自分を愛してくれる存在を否定し、背き、無視することで、自分の命を失っている。すべて自分のためにやっているのに、本当は自分のためになっていない。それが罪に支配された罪人の現実です。でも、そういう罪人である私たちを見て、主イエスは憐れに思い、天から下り、私たちに近寄って来て、心の傷跡に手を当ててくださる。呻きに耳を傾けてくださる。そして、私たち罪人の罪が赦され、新たに誕生させるために、素っ裸にされた上に、血だらけの体を十字架の上に磔にされて死ぬという死を味わい、三日目の日曜日の朝に復活して下さり、今も聖書を通して語りかけて下さっているのです。私たちを愛して下さっているからです。このすべてのことを、主イエスは喜びをもって成し遂げてくださいました。愛することが死ぬことであっても、それは喜びなのです。そこに命があるからです。

 「行って、あなたも同じようにしなさい。」

 その主イエスの愛を信じることが出来る時、私たちは、ただそのことの故に、喜びに溢れて、自分だけの力では生き得ない愛を、それでも生きていきたいと心から願えるようになります。

 「行って、あなたも同じようにしなさい。」

 これは、「あなた一人で行け」という命令ではありません。「あなた一人で愛を生きなさい」とおっしゃっているのではない。「わたしも一緒に行こう」とおっしゃっているのです。
 「わたしの愛を信じて欲しい。そうすれば、わたしはあなたのはらわたの中に生きることが出来る。そうすれば、あなたを通して、わたしは愛を求めて倒れているひとりひとりの隣人となっていくことが出来る。どうか、わたしを愛し、わたしを受け入れ、わたしと共に生きて欲しい。そこに永遠の命を受け継ぐ者の姿があるのだから。」
 主イエスは、そう語りかけて下さっているように思います。皆さん、おひとりおひとりに、その語りかけが届きますように。聖霊の導きを祈ります。
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