「わたしは確信しています」

及川 信

       ローマの信徒への手紙  8章31節〜39節
 震災後のイースター

 今年も主の復活を祝い、感謝と賛美を捧げるイースター礼拝を迎えることが出来ました。十日の礼拝では、HYさんの洗礼式を執り行い、今日の午後には、一月に転入されたTKさんとHYさんの歓迎を兼ねた祝会を持ちます。洗礼式はいつでも教会にとっては大きな喜びですが、イースターやクリスマスの季節に洗礼式を執行できることは喜ばしいことです。昨年に続いて、その喜びの中でイースター礼拝を捧げることが出来ますことを神様に感謝します。
 しかし、そういう喜びの一方で、あの大震災からの一カ月余り、私たちは押し潰されそうな思いで生きてきたことも事実です。あの日以来、私たちは礼拝の度ごとに祈りに覚え、また神様に御言を求めて生きてきました。そして、毎週、被災教会また被災地域に生きる方たちのために献金を捧げてきました。私も個人的にはもちろんのことですけれど、中渋谷教会の牧師として、また地震直後の三月十三日に西南支区の支区長に選出された者として、何が出来るのか何をすべきなのかをずっと考えて来ました。
 既に先週の日曜日に、有志の方々がパウンドケーキを作り、お茶のセットなどと併せて石巻山城町教会と福島教会にお送りしました。今日は、その二つの教会でもイースター礼拝の後に祝会がもたれるからです。いずれの教会でも、私たちの申し出を喜んで下さったので、そういうことをさせて頂きました。また甘夏ミカンもひと箱ずつお送りし、それぞれの教会の牧師さんから感謝のお手紙やお電話を頂いております。また、私は今週の水曜日と木曜日にその二つの教会をお訪ねします。

 福島教会 石巻山城町教会

 先日、昨年四月に赴任したばかりの福島教会の若い牧師さんと電話でお話しをして知ったことですが、福島市は原発から六十五キロも離れているのに、風向きの関係で放射能汚染がかなり深刻だそうです。特に、山の麓に建つ教会の周辺地域は市内の中でも特に汚染の数値が高いのだそうです。
 福島教会は、ホールに掲示してある写真を見ても分かりますように、ヴォリーズという有名な建築家が設計した築百年のレンガ造りの立派な会堂でした。文化財にも指定されていたのです。恐らく地域の方にも親しまれていた会堂でしょう。しかし、相次ぐ余震の影響で、危険建造物となってしまい、取り壊さざるを得ませんでした。今日も別棟の集会室で、無残に取り壊された会堂を目にしつつ、イースター聖餐礼拝を捧げておられます。その後、愛餐会を持ち、お送りしたケーキや甘夏ミカンを食べてくださるでしょう。そして、その後、定期総会が予定されています。今年度の予算案はすべて新たに立てなおしたそうです。皆さんの願いとしては、当然のことながら、一刻も早く会堂を再建したい。しかし、原発事故終息の目途が立たず放射能汚染の行方が分からぬ今、この地に会堂を再建できるのかどうか分からぬ不安があると伺いました。そして、地方教会の現実として、会員数は四十人程で、礼拝出席者は二十名台で、その多くが高齢の方でしょうから、一教会だけの自力再建は不可能です。被災していない全国の教会からの物心両面の支援が不可欠です。私たちも、そのことのために献金を初めとする様々な支援を始め、また継続していきたいと願っています。何が最も有難いことなのか、有効なのかを今度お訪ねすることで教えて頂きたいと願っています。
 また、木曜日の午前は福島教会の祈祷会で、その会で奨励をするようにと依頼を受けました。信徒の方たちと、お交わりを頂く中で、示された言葉を語り、共に祈る時を持ちたいと願っています。
 石巻山城町教会は、この四月に神学校を卒業したばかりの若い牧師が赴任をされました。しかし、その直前に大震災が起こったので、つい先日まで、大阪の教会に赴任予定であった前任牧師夫妻と新任の若い牧師さんが牧師館に同居されて、地域の救援センターとして会堂を開放し、救援活動を必死の思いでやってこられたのです。今日のイースター礼拝が、新卒の牧師さんが一人で責任を持つ最初の礼拝です。山城町教会は、廃墟となった市街地を目前にした高台に建つ教会のようです。だから会堂は無事でした。教会員の方たちのそれぞれの事情を、私は何も知りません。しかし、石巻には身内を亡くし、財産を失い、思い出の品を失い、将来への希望を持てない人々が大勢いらっしゃることは間違いありません。そういう人々が住む町で、キリストの復活を語る。喜びと確信をもって語る。それが牧師の使命であることは言うまでもないことです。しかし、それは大きな試練を伴うことであることも言うまでもありません。今、同じ時刻に、石巻山城町教会でも礼拝が捧げられ、説教が語られているのです。お訪ねする水曜日の午前中の祈祷会に出席させて頂けることになりましたので、間に合うように前日の夜には仙台までは行っておこうと思います。

 ローマの信徒への手紙八章を選んだ思い

 今日は、礼拝で聞くべき言葉としてローマの信徒への手紙八章三一節以下を選びました。四月の説教予定を会報に掲載する関係で、震災直後の三月中旬に決めました。変なことを言うようですが、聖書の箇所を自分で決めるというのは、私にとっては非常に苦痛なことなのです。ルカならルカの連続説教、詩編なら詩編の連続説教であれば覚悟を決めて取り組むしかありません。しかし、あの大震災を経ての最初のイースター礼拝で聴くべき御言は何か別にあるのではないかと悩みました。そして、悩んだ末にこの箇所にしたのです。その時の思いは、この箇所を大きな声で何度も読みたい、それでいいじゃないか、それ以外のことをする必要などないじゃないか、というものでした。それは今も変わりありません。
 皆さんも、聖書の中にいくつか特愛の言葉があるだろうと思います。自分が追い詰められた時に、開くページがあると思います。そこに書かれていることは、もう何度も読んでいるから覚えている。諳んじることも出来る。でも、やはり聖書を手にとって開いて、目で見て安心する。やっぱりここに書いてある。その存在を確認して安心する。そして、改めて読む。そういう箇所があるだろうと思います。
 私にもいくつかあります。しかし、そのいくつかある中で、この箇所はちょっと独特な箇所です。このローマ書の言葉は、自分でもどうすることも出来ない呻きや嘆き、無力感や罪責感などで押し潰されそうになった時に、読みたくなる言葉の一つです。他の箇所は黙読してもよいのですけれど、この箇所はそれだけでは足りない。どうしても、音読したくなる。誰もいない部屋で、声に出して読む。それも腹に力を入れて、少し大きな声で読む。そうすると、それは私が読んでいるのだけれど、次第に私にパウロが語りかけて来る言葉となり、さらに神様からの言葉となって聞こえてきます。そして、ただそのことによってしか経験できない経験をします。そのことを、私は自分の言葉で表現できません。だから、この箇所で説教することは出来れば避けたいのです。
 もちろん、この箇所に出てくる言葉の一つ一つ、また文章が意味することを、いつものように講解説教として語りたいという衝動も強く持ちます。しかし、そうなれば一回の説教では無理ですし、イースター礼拝にふさわしいことではないでしょう。今日は、真っ直ぐに御言を聴き、真っ直ぐに「感謝します、アーメン」と祈って終わりたい。それだけでいい、と思いました。そして、イースター礼拝において、信仰を同じくする皆さまと、一緒にこの言葉を読むことが出来れば、新たに希望をもって生きていく力が与えられる。そう思ってこの箇所を選びました。今回新たに示されたことを語らせて頂いた上で、最後にもう一度読みます。

 信仰義認

 ローマの信徒への手紙は、新約聖書の中で圧倒的な存在感を持った書物です。キリスト教信仰とは何であるか、信仰を生きるとは何であるかを、パウロがまだ会ったことのないローマ教会の信徒に向けて真正面から書いたのが、このローマの信徒への手紙です。前半は、教理的な言葉で言えば「信仰義認」について書かれています。私たち人間は、ただイエス・キリストを信じる信仰によって救われる、神様の恵みによって救われる。パウロは、そのことを繰り返し強調します。何故かと言うと、旧約聖書の律法を守ることで神様に義と認めて頂けるのだという律法主義的な信仰が、当時のキリスト教会の中にも色濃く存在していたからです。それは、善い行いによって神に義と認めて頂くという信仰です。今日の箇所に出てくる言葉で言えば、律法に適う行いをしていれば、誰も自分を「罪に定めることは出来ない」という信仰です。しかしこれは、いつの時代でも教会の中にはびこる信仰です。それに対してパウロは、「行い」ではなくイエス・キリストを信じる「信仰」によってこそ、神様は罪人を義と認めてくださるのだということを、アブラハムとかアダムとか、旧約聖書の代表的な人物の例をあげつつ論証してきたのです。

 「アッバ 父よ」と呼べる喜び

 私は、先日の説教の中で、ローマ書の八章のこういう言葉を引用しました。

「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」

 神様を「アッバ」、つまり、「お父さん」と呼べる喜び、それは神様の愛する子として生まれ、生かされている喜びです。私は、人間にとってそれほど大きな喜びはないと思います。天地の造り主、永遠の主なる神様が、私の父として、私を愛している。そのことを確信できる時、私もまた父を心から愛し、慕い、心からの信頼と喜びをもって、「父よ」と呼びかけることが出来る。それに勝る喜びはありません。
 先日の説教で、震災直後の模様を写した写真と記事を紹介し、私には珍しく控え目な批判をしました。記事の内容は、「残酷に人を殺した神は死んだ。そもそも神などいないのだ」というものでした。その時には触れなかったのですが、その中に、母親に抱かれた赤ん坊が涙でうるんだ目でこちらを見つめる写真がありました。それに添えられた写真家の文章は、取り繕う大人の中で赤ん坊だけが私を見つめる、という文章です。文脈から読み取れることは、大人たちは真実を見ようとしないが、赤ん坊は人を殺す神を告発しているのだ、というものです。この写真家が、自分の思想を表現する道具として被災者、それも赤ん坊の顔を勝手に使うことは浅ましい行為だと、私は思います。私は、赤ん坊がなぜ目に涙を浮かべているのかは分かりません。写真家だって分からないでしょう。彼が尋ねたところで、赤ん坊は「あたしは残酷な神様を告発している」とは言わないでしょう。お腹が減って泣いた後なのかもしれません。赤ん坊は、普通の生活の中でだって泣きます。泣いて泣いて、笑って笑って、赤ん坊は大きくなるのです。
 私は、震災後の避難所の様子を写した写真の中の一枚も忘れることが出来ません。三歳位の女の子が、お父さんの膝の上で嬉しそうに笑っているのです。その可愛らしい笑顔は、ひと目見ただけで、心が温まるというか、むしろ胸が苦しくなるほどの美しい笑顔です。そして、その女の子を見ているお父さんは、写真では頭からおでこあたりまでしか見えないのですが、顔をくしゃくしゃにして笑っているのが分かる。もちろん、この時、起きている現実は笑えません。この親子は、家が流されてしまったからこそ、この避難所にいるのでしょう。ひょっとしたら、母親は行方が分からないのかもしれない。これからの生活がどうなるのかも分からない。不安と恐れ、悲しみを感じ始めたら、それこそ止めどもなく涙が溢れて来て、どうにもならないでしょう。でも、そういう「神も仏もない」と言いたくなる地獄のような現実の中でも、この女の子にとって、大好きなお父さんの膝に乗っかっていれば、そこは天国なのです。そして、お父さんも、自分を「父ちゃん」と嬉しそうに呼んでくれる娘が膝に乗っていれば、あとは何にも要らないのです。そこにある愛と信頼に満ちた喜びの世界は、目に見える世界の悲惨さがどれほど深いものであっても、そのことによって押し流されることはない、破壊されることはない。誰も奪い去ることが出来ないものです。
 神様を、「アッバ」と呼べる。「お父さん」と呼べる。それは、こういう世界に生かされるということです。だから、私たちにとってそれほどに嬉しいことはないのです。
 私のような者が安易に言うべきことではありませんから、あまり言いたくはありませんけれど、たとえ家を失っても、財産を失っても、あるいは家族を失っても、また自分の命が危険にさらされても、「お父さん」と呼べる方がいる。それが信仰です。私たちは、その信仰によって救われるのです。「お父さん、お父さん、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。なぜ、こんな無残なことが起こるのですか」という叫びであっても、その叫びを挙げる。それは、その叫びを聴いて下さる神がいると確信しているからです。
 神は死んだ、仏も死んだ、などと呑気なことを言っていられるのは、最初から生きた神を知らないからです。父の膝の上に乗って「お父さん」と呼んだ経験もないからです。神を愛し、信じて「父よ」と呼べる人は、苦しみや悲しみが深ければ深いほど「お父さん、お父さん」と呼ぶものです。

 死にさらされながらの幸い

 パウロは、三六節で詩編の言葉を引用しています。

「わたしたちは、あなたのために
 一日中死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている。」


 これは、神を信じる信仰を生きる者が味わう独特の苦しみです。この詩を引用する前に、彼は、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことが出来ましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」と言っています。この「わたしたち」とは、どんな時にもキリストを通して示された神の愛を信じて生きていく「わたしたち」です。そして、彼が引用した詩編四四編には、こういう言葉が記されているのです。

「主よ、奮い立ってください。なぜ、眠っておられるのですか。
 永久に我らを突き放しておくことなく
 目覚めてください。
 なぜ、御顔を隠しておられるのですか。
 我らが貧しく、虐げられていることを
 忘れてしまわれたのですか。
 ・・・・・・
 立ち上がって、我らをお助けください。
 我らを贖い、あなたの慈しみを表してください。」


 苦しみ、悲しみのどん底に叩き落とされ、一日中、死にさらされているような日々を送ることがあります。それは、信仰を与えられていようといまいと関係なく、ある人々には襲うことです。災害であれ、病であれ、怪我であれ、事故であれ、キリスト者であると否とに拘わらず、襲って来ます。それが人生です。しかし、神の愛を信じるキリスト者にとっては、その経験はより深刻な苦しみを伴う場合があります。神様は私を愛して下さっていないのではないか、守って下さっていないのではないか、私は神様を愛し、信頼し、礼拝を守ってきたのに・・。そう思う場合もあるでしょう。しかし、聖書を読んでいれば、信仰者は苦難を味わわないなどということはあり得ないことが分かります。この詩人も、毎日、死にさらされているのです。そして、神様が眠っているとしか思えない。神様が御顔を隠して、自分たちを突き放しているとか思えない。そのことが、彼の苦しみを倍加させます。しかし、この詩人は「主よ、主よ」と叫ぶのです。「立ち上がって、我らをお助けください。我らを贖い、あなたの慈しみを表してください」と叫ぶ。叫ぶ相手がいるのです。この主なる神は必ず聴いて下さると確信しているからです。泣きながら、「助けてください」「あなたの慈しみを表してください」と叫んでいる。これはたしかに悲惨な姿です。しかし、それだけでしょうか?本当の悲惨というのは、健康的にも経済的にも何不自由なく暮らしつつ、神に感謝することを知らず、神の愛も人の愛も信じることなく、パンだけで生きることではないでしょうか?つまり、目に見えるものだけを求めて、その世界の中でだけ生きる。それほど悲惨なことはないと、私には思えます。
 この詩を歌った詩人は、一日中死にさらされるような苦しみの中で、「主よ、主よ、助けてください。慈しみを表してください」と叫ぶことが出来る。その叫びを聞いて下さる主を信じることが出来る。そのことにおいて、幸いなのです。そして、その幸いを、私たちは知っているはずです。

 何と言ったらよいのだろうか?!

 パウロは、「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか」と書き始めます。これは、結論部を導入する時のよくある書き方のようです。彼は、三一節以下の言葉で、これまでの長い叙述に区切りをつけるのです。九章からは、新しい段落が始まります。
 しかし、この翻訳だとパウロが主語のように見えます。でも、原文では「わたしたちは何と言ったらよいだろうか」と、主語は「わたしたち」なのです。パウロは、これまで縷々述べてきたことを総括する時に、ローマの教会の礼拝に集っている人々を自分と同じ立場に置いているのです。彼の手紙は「ローマの教会」宛の手紙であり、礼拝の中で朗読されることを前提としています。一気に全部を読んだかどうか分かりませんが、この手紙は礼拝の中で読まれたのです。私のような牧師が、少し読んでは解説したかもしれません。でも、多分、かなりの量を続けて読んだでしょう。そして、信仰を持って聴いている聴衆は、この八章に至ると彼の言葉に感動して「アッバ、父よ」と神を呼び始めたかもしれません。神に呼ばれ、そして神を呼ぶことが礼拝の不可欠の要素なのですから。そして、この「アッバ」という言葉は、神の独り子である主イエスが神様を呼ぶときに使った言葉です。父なる神様と愛において一つ交わりの中に生きておられる主イエスだけが、主なる神を「アッバ」「お父さん」と呼ばれたのです。そして、聖霊の注ぎの中に洗礼を受けたキリスト者である私たちも、今、主イエスの名を通して、神様を「アッバ、父よ」と呼ぶことが出来る。その喜びがローマの教会の礼拝に集う人々に溢れていることを、パウロは確信しています。
 だから、「これまで縷々述べてきたことをまとめるに当たって、私たちは何と言ったらよいだろう?どのような言葉で、神様に感謝し、信仰と賛美を捧げたらよいだろう?」と問いかけ、また呼びかけている。その喜びが私たちにも迫ってきます。だから、以後の言葉は、彼がローマの信徒と共に捧げる神様への信仰告白であり、賛美なのです。

 神の戦い

 私たち人間は誰でも、自分自身を義としつつ生きているものです。自分は正しいと思い、その正しさの基準に合わないことを人がすればその人が悪いと思い、神がしたと思えば、神が悪いと思う。そうやって、結局、自らを神の位に置いている。それは神様に敵対していることです。誰もそんな大それたことをしているとは思っていないのですが、それがサタンの手です。私たちに心地好い思いをさせつつ、実は、私たちを神様との交わりから引き離し、ついには神様に敵対する罪人にしてしまう。そういう力が実際にあり、私たちに働きかけてきます。そして、私たちは自らの力では、そのサタンの力、あるいは罪の力には勝てません。その私たちのために戦って下さったのが神様であり、御子イエス・キリストです。
 神の御子が、私たちと同じ肉体をもって生まれ、「屠られる羊のように見られている」のではなく、まさに「屠られる羊」になって下さったのです。私たちすべての人間を覆う罪と死の力を打ち破るために、あの十字架に架かって死んで下さったのです。それは真昼なのに真っ暗になる出来事でした。罪と死の闇が全地を覆うのです。人々は、「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」と侮辱の限りを尽くしました。その侮辱の中、鞭打たれた背中から血を流し、いばらの冠をかぶせられた額からも血を流し、釘を打たれた掌や足の甲からも血を流し、激痛と渇きに身もだえしつつ、主イエスは、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。前日の夜、ゲツセマネの園で「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られた主イエスが、ここにおられます。自分を見捨てる神を、自分を無残に殺す神を、「わが神」と呼び、「父よ」と呼ぶ主イエスがここにおられます。そして、その独り子の「父よ」「わが神よ」という呼びかけを聴き、胸をかきむしられる怒りと悲しみを抱きつつ、十字架から御子を降ろさなかった父がおられます。御子が私たち罪人によって殺されるままにさせておかれた父がおられます。それは、冷酷無比なる神なのでしょうか?独り子をさえ見捨てられる神は、私たちなど虫けら同然に扱われるのでしょうか。病や事故や災害で命を落としてもなんとも思われない神様なのでしょうか?
 そんなことがあるはずがありません。御子イエス・キリストが罪人によって殺されるのは、罪人のために死ぬことなのですから、神は十字架の上で御子を見捨てることを通して、私たちを贖い、私たちに慈しみを表してくださったのです。

 神の勝利 救い

 神様は、私たちに「救い」を与えてくださるお方なのです。富や健康や地位や名誉を与えてくださらないことがあっても、「救い」を与えてくださらないことはありません。
 この世において目に見える現実はあまりに不公平なものです。私たち日本人が今どれほど苦しい思いをしていると言ったとしても、生まれた時からずっと難民キャンプで暮らしていたり、生まれた国が何十年も悲惨な内戦状態であったり、独裁政権のもとで飢えと恐怖に震えながら生きていたり、無残に殺されたりする人々はこの世界に数え切れないほどいます。そういう不公平、理不尽な現実がある。それらすべてを神様のせいにするのは、あまりに無責任なことです。しかし、とにかく現実として不公平があり、理不尽と言うべきことがあります。
 しかし、どんな不公平や理不尽があったとしても、神様が罪なき神の独り子を、人間の罪のために十字架にかけて殺すという理不尽に比べれば、大したことではないのです。神に敵対する者たちを、神は愛し、その愛を貫徹するために、御子を十字架に磔にされました。御子は、その愛を信じ、その愛に身を委ねて死んで下さったのです。これは、私たちの理解も想像も期待も、何もかも越える神とその独り子だけにある愛の現実です。そして神は、その愛の故に、御子を死から立ち上がらせてくださいました。そのことを通して、ついに私たちへの慈しみを完全な形で表してくださったのです。信じる私たちに、罪の赦しと新しい命を与えてくださったのです。
 この神の愛の体現者である主イエスを信じる、それが私たちの信仰であり、神様は信じる者すべてに「救い」を与えてくださいます。その点は、全く公平なのです。そこにユダヤ人もギリシア人もない。自由な者も奴隷もない。男も女もない。金持ちも貧乏人もない。すべてイエス・キリストを信じる者には救いを与えてくださいます。
 パウロは、その信仰による救いをここに書いているのです。ローマの教会の信徒と共に、そして、私たちと共に大きな声で信仰を告白し、神を賛美するために書いているのです。

 勝利がもたらす平和 愛

 パウロは、その救いを「輝かしい勝利」と呼びます。「勝利以上の勝利」という意味です。完全な勝利こそ平和をもたらすものです。
 だから、復活の主イエスは裏切り逃げた弟子たちに現れる時、「あなたがたに平和があるように」と語りかけてくださったのです。「あなたの罪は赦された。もう何も心配しなくてよい。わたしを信じなさい。わたしは、いつでもあなたと共にいる。もう命も死も、なにものも私たちとあなたたちを引き離すことは出来ないのだ」と語りかけてくださったのです。
 そして、今日も私たちに同じことを語りかけてくださっているのです。この説教を通して、そして、これから与る聖餐の食卓を通してです。
 パウロもローマの信徒たちも、主の復活を祝う礼拝の度ごとにこの食卓を囲み、主イエスによる輝かしい勝利を確信し、賛美を捧げました。そして今、被災地域の教会を含む全国の教会で、聖餐式を伴う礼拝が捧げられています。その礼拝に臨在しておられるのは復活の主イエスです。その主イエスが命の言葉を語りかけ、命の糧を与えてくださるのです。そのことを確信しましょう。そして、心から主を賛美し、愛の業に励みましょう。

では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
「わたしたちは、あなたのために
 一日中死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている」
と書いてあるとおりです。
 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

アーメン
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