「気が変だと言われた救い主」

及川 信

       マルコによる福音書  3章20節〜22節、 31節〜35節     コリントの信徒への手紙U  5章13節〜15節
3:20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。 3:21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。 3:22 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
3:31 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。 3:32 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、
3:33 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、 3:34 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 3:35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

5:13 わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。 5:14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。 5:15 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。 5:16 それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。 5:17 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。


 ナザレのイエス、イエス・キリスト

 今日の説教題を「気が変だと言われた救い主」とさせていただきました。それは、今お読みしたマルコによる福音書の中に「あの男は気が変になっている」という言葉があるからです。これは当時の人々の多くが、イエス・キリストに対して言っていた言葉なのです。
 イエスとは一人の人間としての名前で、キリストは「救い主」を意味する称号です。「イエス・キリスト」と繋げて言う場合、それは「イエスは救い主である」と言っていることになります。人としてのイエスのことを、出身地のナザレと関連付けて「ナザレのイエス」と呼ぶ場合があります。そのイエスには家族がおり、イエスは長男でした。当時の習わしとして、イエスは父の職業である大工を継ぐことが期待されていたと思います。それは親の期待だけでなく、社会の期待です。

 あなたはわたしの愛する子

 私は、礼拝の中で語る時には、「イエス」では気分が落ち着かないので、これからは「イエス様」とか「主イエス」と言わせて頂きますが、イエス様は恐らく三十歳前後の頃に、「洗礼者(バプテスマの)ヨハネ」と呼ばれる人からヨルダン川で洗礼を受けられました。ヨハネは「神の裁きが近づいているのに、人は皆自分のことに関心を持つのみで、神に対して罪を犯している。その罪を悔い改めない限り赦されようがない」ことを告げた人です。彼の言葉を聞いて悔い改めた人々が、ヨハネのもとに集まって来て彼から洗礼を受けました。イエス様も表面的にはその一人だったのです。しかし、イエス様が洗礼を受けた時、天から聖霊が降ってきて、「あなたはわたしの愛する子、心に適う者である」という神の声がイエス様には聞こえたのです。
 この辺りから既に常軌を逸している感じがあります。イエス様は、その時に自分に与えられた特別の使命を自覚されたと思います。それからほどなくして、ヨハネが時の権力者の罪を指摘したことで逮捕され、殺されてしまいました。そのヨハネの逮捕を聞いた上で、イエス様は人々に宣教(伝道)を始められたのです。その時の言葉とは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉です。
 言うまでもなく、その時イエス様は長男としての務めを捨て、家を出ています。イエス様は家族の期待を裏切ってしまったのです。その時点で、社会の規範の外に出てしまったと言っても良いでしょう。しかし、この段階ではまだ「あいつは今ちょっと熱に浮かされただけだ。そのうち冷静になって戻ってくるだろう」と思われていたかもしれません。

 悪霊追放、病気治癒

 しかし、その後、イエス様の活動はますます過激になり、多くの病人を癒したり悪霊に憑かれている人々から悪霊を追放したりする業を始めました。「悪霊」と聞くと、現代に生きる私たちにはおどろおどろしい感じがします。しかし、昔は身体的な病気にしろ、精神的な病気にしろ、今のような医学的見地から診断されるわけではありません。心も体も何らかの異常な状態になった場合、それは悪いものにとり憑かれ、支配されてしまったと受け止めるしかありませんでした。そういう状態の一つの表現が、悪霊に取り憑かれているというものです。現代でも、メカニズムが分からない病気は沢山あり、悪霊が憑いていると言いたくなる精神の病もあるでしょう。
 それはともかくとして、病気の治癒とか悪霊追放に限って言うと、いつの世も才能がある人がいるものです。当時もそういう奇跡行為者はいましたし、一時的に崇められたりもしたでしょうが、その人々の名前や業績が後世に伝えられることはありません。まして「今も生きておられる世の救い主だ」などと宣べ伝えられることはありません。また、様々な宗教の教祖の「教え」は生きていますが、存在としては過去の人になっています。しかし、イエス様は霊的な存在として今も生き、そして語りかけて下さる方として信じられているのです。
 イエス様は宣教活動の初期に、当時もいた奇跡行為者と目に見える業としては同じようなことをしました。しかし、彼らとは違い、圧倒的な驚きや感嘆を呼び起こす一方で、それと同じくらいの非難と敵意を呼び起こしたのです。何故でしょうか?

 罪の赦し

 イエス様は病の癒しを単なる癒しとは捉えていませんでした。ある時、イエス様は中風という病気で苦しむ人に向って「子よ、あなたの罪は赦される」とおっしゃりつつ癒されたのです。当時の宗教的指導者たちにしてみると、それは赦し難き言葉でした。何故なら、罪を赦すことは、神にしか出来ないことだからです。
 ユダヤ教の教えによれば、病や悪霊に支配されてしまうことは、当人が犯した罪の結果なのです。だから、「罪人」の範疇に入ってしまうのです。その罪が神に赦されるためには、献げ物を捧げたり、戒律を守ったりしなければなりませんでした。しかし、そういうことをいくらしても治らないことなど幾らでもあります。それは、まだ捧げ物が足りないとか、戒律の守り方が足りないとされていたのです。
 また、心身が健康であっても卑しい仕事をしている人とか、戒律を守る生活が出来ない人も「罪人」として蔑まれていました。そういう罪人は、決して神様から赦されることなく、見捨てられていると考えられていたのです。
 しかし、イエス様はそういう人々との出会いを求め、一人一人の病を癒し、悪霊を追放し、罪を赦していかれました。そして卑しい仕事をしている者を自分の弟子になるようにお招きになったのです。それだけでなく、人に罪があるかないかを判定もしていた当時の宗教的指導者たちも、皆、罪を悔い改めるべき罪人であるとし、罪の悔い改めを迫ったのです。そのようにして、イエス様はすべての人々を神の国に招かれたのです。しかしそれは、当時の宗教的社会の枠組みをその根底から過激な仕方で破壊していくことでした。

 新しいぶどう酒は新しい革袋に

 イエス様はある時、こうおっしゃいました。

「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋も駄目になる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

 イエス様という新しいぶどう酒がそれまでの古い社会の中に入って来ると、その社会を破壊してしまうのです。また、人の中に入って来ても同じことが起こります。イエス様が入って来る時、それまでの自分ではいられなくなるのです。
 しかし、そういうことは何も宗教に限った話ではないでしょう。教師でも恋人でもよいのですが、ある人と出会い、その人からこれまで知らなかった愛で愛される時、そしてその愛を受け入れたいと願う時、それまでの自分ではいられなくなるという事態が起こります。愛はそれが真実のものである限り、愛することにおいても、愛されることにおいても、古い自分の殻が破られて新しい自分が誕生することではないでしょうか。そういうことが起こらない愛は、聖書で言うところの愛ではありません。だから、愛には一種の狂気が必要なのです。自己保身の殻が破られることだからです。

 気が変になっている

 イエス様の噂はガリラヤ地方一帯に広まっていき、ついにユダヤ人の中心であるエルサレムにまで伝わり、そこにいる権力者たちの耳にも入るようになりました。「エルサレムから下って来た律法学者たち」とは、そういう人々です。彼らにとっては、それまでの革袋を破る革命的な思想を持った人間に同調者が増えることは決して容認できないことです。だから彼らは、わざわざ辺境のガリラヤ地方までやって来て「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している。気が変になっている。狂人なのだ。あんな男の言うことに騙されてはいけない」と言い広めたのです。社会の安定、公序良俗を守る立場の人間として当然のことです。
 彼らの言うこともその地域一帯に広まっていき、イエス様の故郷である山間の村ナザレにも伝わったのです。そして、イエス様の家族の者たちもその噂を聞いた。神の霊感を受けたか何か分からないけれど、突然家族を捨てて家を出て行ってしまった長男が、今や律法学者らに敵視され「気が変になっている」と言われていることを知ったのです。心配で居ても立ってもいられなかったのでしょう。母と兄弟姉妹がこぞってガリラヤ湖の家までやって来たのです。もちろん、長男をナザレの実家に連れ戻すためです。しかし、彼らがやってきた家には既に群衆が押し寄せており、中にも入れませんでした。困った家族は家の外に立ち、人をやって長男のイエスを呼ばせました。
 使いの者はこう言ったのです。

「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます。」

 翻訳には出て来ませんが、原文では「あなたの母親とあなたの兄弟姉妹」と書かれています。「今、あなたのご家族が家の外で必死になってあなたを捜しています。ご家族はあなたを愛し、必要としています。その現実を見なさい」と、使いの者は言っているのです。イエス様を責める感じがこもっていたと思います。
 しかし、イエス様はこうお応えになりました。

「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか。」

 これはまさに「気が変だ」と言われても仕方ない冷たい言葉です。「親が泣く」とは、まさにこのことです。しかし、イエス様は続けます。イエス様の言葉を聴くために家の中に集まってきた人々を見回した上で、こうおっしゃる。

「見なさい。」

 見るべきはむしろこっちの人々なのだ、と。

「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

 イエス様は、全く新しい家族の姿を告げているのです。神の国に生きる家族の姿です。神の招きに応え、イエス様をキリストと信じる者たちが神の家族にされ、肉親の情を越えて互いに愛し、赦し合う家族として生きる。そういう愛の交わりが、この地上に到来していることを告げているのです。そして、母や兄弟姉妹が神の家族の中に入って来るように招いておられる。家の外に立ってイエス様を呼び出すのではなく、家の中に入って来るように招いておられるのです。

 外と中

 ここで問題になっているのは、外と中です。家の外に立つのか、家の中に入るのか、それが問題なのです。興味深いことに「気が変になっている」と訳された言葉はイクシステーミというギリシア語ですけれど、元の意味は「外に立っている」です。つまり、社会の規範の外に立っている、常識の外に立つことです。そこから驚天動地の驚きという意味にもなりますし、理性を逸脱しているという意味にもなるのです。
 イエス様は、神様からの召しに応え、その御心を行うことを通して家族の外に立ち、ユダヤ人社会の外に立たれたのです。そして、家族を、また世の人々を外へと招いているのです。しかしそれは、神の国の中へ招いているのです。そこにある生死を越え、天地を貫く愛の交わりの中で生きるようにと、私たちすべての人間を招いておられるのです。
 その招きに応えることが、イエス様が言う「神の御心を行う」ということです。しかしそれは、それまでの自分の殻が破れて新しい自分になることであり、これまでの自分が死んで新しい自分に生まれ変わることです。そこには大きな断絶があります。その断絶を乗り越えるのは、理性的な判断によるものではありません。強烈な引力に引っ張られて、初めて突破できることだと思います。キリスト者とは皆、そういう外からの力に引っ張られて、ついにその力を受け入れ、それまで生きていた社会の外に出る決断をした者たちのことなのです。それは世を捨てて山にこもるとか、そんな次元のことを言っているのではありません。この世の中に生きながら、外に出るのです。

 日曜日礼拝

 そのキリスト者の生活は、日曜日には自分の家を出て、この礼拝堂の中に入り、主イエスの言葉を聞くことから一週間の歩みを始めることです。日曜日とは、キリスト教会が誕生した時に、その日を礼拝の日と定めた日なのであり、仕事を休む日として始まったのではありません。日本人が日曜日に休むようになったのは明治以降、キリスト教文明を部分的に受け入れてからでしょう。
 私たちキリスト者にとって、日曜日は仕事の疲れをとる週末ではありません。日曜日は「週の初めの日」です。一週間の初めに、家族は家で寝ていても、あるいは行楽に出かけても、私たちはこの礼拝堂の中に集まり、今も生きておられるイエス様の言葉を聞き、賛美し、祈り、イエス様からの祝福を全身に受けて、一週間の歩みを始めるのです。この日がなければ、この世での一週間の歩みに希望をもって踏み出す力が与えられないのです。
 私たちは今も罪人であることに変わりはありませんし、この世は罪の世です。毎日毎日、耳をふさぎたくるようなこと、目を覆いたくなるようなことが遠く近くで起きます。私たちも起こします。罪とは結局、人間の自己中心であり自己絶対化なのです。神様を排除し、自分が神であるかのように錯覚して生きることです。そういう人間同士が接しながら生きているのですから、どうしても互いに傷つけあうことがあります。それが嫌な場合はなるべく接しないに越したことはありませんから、深く真実な交わりを持つことが出来ない。そして、次第に息苦しさを抱えるようになり、次第に疲れていく。そして諦めていく。神様との愛の交わりを失うとは、そういうことです。
 私たちキリスト者も疲れ、諦め、生きる喜びや希望を失ってしまうこともあります。しかし、日曜日この礼拝堂の中で、今生きておられるイエス様の言葉と聖霊によって新たに造り替えられる経験をするのです。命の言葉と命の息を吹き入れて頂いて、罪を赦して頂き、新しい命に造り替えて頂いているのです。神様との豊かな愛の交わりを回復し、もう一度、愛を信じて、望みをもって生きていこうという思いを与えられるのです。それが私たちにとって日曜日礼拝であり、神様が私たちに与えて下さった本当に大きなプレゼントです。他にも楽しいことがあるのに禁欲して礼拝を守っているのではなく、この礼拝こそが楽しみであり、ここに生きる源泉があるから守っているのです。

 十字架への道

 話を聖書に戻します。
 イエス様は、この後、既成の宗教社会の枠組みの中で権力を持っている人々にますます憎まれていきました。しかし、それでもその言葉と業を通して、神の国の到来という福音を宣べ伝えることをお止めになりませんでした。それは非常に危険なことです。そして、病の癒しや悪霊追放という業はなさらなくなったのです。既得権益を失いたくない特権階級からの憎しみに加え、今やイエス様が愛して来られた民衆にも見捨てられて殺される道を歩まれるのです。
 イエス様だけは、その歩みの行き着く先を知っておられました。自分の先行きについて明確な自覚があり、弟子たちにだけは十字架の死と復活を預言されました。しかし、それだけにイエス様の悲しみは深いのです。
 逮捕される前の晩、イエス様は弟子たちと共にゲツセマネの園という場所に祈りに行かれました。そこで、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と言いつつ、差し迫った十字架の死だけはなんとか避けることが出来るように祈られたのです。「アッバ、父よ、あなたは何でもお出来になります。この杯をわたしから取りのけてください。」何度も「父よ、父よ」と呼びつつ祈った。汗を血のように滴らせつつ祈られたのです。しかし、最後にはいつも「わたしの願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈り切って下さいました。
 父なる神様の御心とは、やはり罪なきイエス様が人々の罪を背負って十字架の上で死ぬことでした。その御心は変わらなかった。
 その夜、イエス様の弟子であったユダが道案内をして、イエス様を捕える者たちを連れて来ました。その時、つい数時間前に「あなたとなら一緒に死にます」「あなたを知らないなどとは決して申しません」と口々に言っていた弟子たちは、皆、逃げ去りました。それが、私たち人間です。まさに正気の人間です。死の恐怖にさらされる時、私たちの体は咄嗟に逃げるものだと思います。そして、肉体の命を自分の手で守ろうとする。そして、愛してくれた方、愛した方を裏切り、見捨ててしまう。その結果は、絶望です。そこに罪の行き着く先があります。

 十字架の死

 イエス様は逮捕され、あっと言う間に十字架に釘で打ちつけられました。社会の外に完全に出されたのです。「気が変だ」と言われたことは、ここに行き着くのです。イエス様は人を愛しただけです。罪の行き着く先を知っておられるイエス様は、その絶望の死から、私たち人間を救い出そうとしたのです。
 しかし、その結果がこの十字架の死でした。イエス様が人々を熱烈に愛すれば愛するほど、人々の憎しみが強くなっていったのです。しかし、それでもイエス様は愛することを止めない。気が変だからです。そして、私たちは自分の殻を破ろうとしない。これが正気なのでしょうか?
 イエス様が血だらけになって磔にされているその十字架の下では、社会のあらゆる階層の人々が「他人を救ったのに自分を救えない。メシア(キリスト)、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるいい。それを見たら、信じてやろう」と罵りました。その嘲りや罵りの声を聞きつつ、イエス様は大声で、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫ばれたのです。それは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。
 神様に愛され、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と告げられることで、神の子・キリストの歩みを開始し、神様の御心に適うことだけを祈り願ったイエス様の最期は「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫びつつ死ぬことだったのです。
 逃げようと思えば、いくらでもその機会はありました。身内の者が迎えに来た時に、「もう親不幸は止めた。家に帰る」と言ってもよかったし、宗教的指導者たちがイエス様を殺す機会を狙っていることが明らかなエルサレムに向かう必要などなかったのです。北のはずれのガリラヤ地方で人々に喜ばれる業をしていてもよかったはずです。ナザレのイエスその人は、心ではそのことを願っておられたでしょう。でも、神の子イエス・キリストは神の御心に従うしかないし、そのことこそが究極的な喜びだったのです。

 神の御心 愛

 何故でしょうか?
 神様は、罪によって絶望の死に向って生きる他にない私たちを愛しておられるのです。その愛は、ついに最愛の独り子をさえ惜しまずに十字架に磔にして殺すことに至ったのです。それがどれほど苦しいことであったかは、私たちの想像を絶することです。また、神様の愛の御心を知り、その御心に服従しきって十字架上で死んだイエス様の苦しみも、私たちが想像できることではありません。しかし、そのことを十分承知した上で、私たちはやはり想像することが許されているし、想像するように神様に求められているのだと思います。
 私は、先ほどイエス様にとって神様の御心に従うことは究極的な喜びだったと語りました。何故かと言うと、愛に生きるとは、それがどんなに苦しいことであっても、喜びだと思うからです。愛せない苦しみに比べれば、はるかに大きな喜びです。
 子を心底愛する親は、子どもにどれほど裏切られても子を見捨てません。愛し、赦し、受け入れます。それは苦しいことです。でも、それはやはり喜びなのです。愛すること、愛せることは喜びです。愛せない苦しみは絶望に至るのです。愛が受け止められる時、その喜びは苦しみの何倍にもなります。その日が来ることを信じて、最早自分のことなど捨て去ったかのような子どもの帰りを親は待ち続けるでしょう。それは他人から見れば愚かな愛だし、惨めな愛でしょう。正気に戻れ、と言いたくなるようなことです。でも、親にとっては、そのように子を愛することが親として生きることなのです。
 神様は、私たちの父です。神様は、私たちを喜んで愛して下さっています。私たちがいつの日かその愛に気付き、真の家、真の故郷に帰って来ることを待っていてくださいます。しかし、神様と私たち人間の親が決定的に違う点があります。それは、神様が私たちの裏切りの罪を、イエス様を十字架に磔にすることを通して徹底的に裁いたということです。神様は、ただ忍耐強く、寛容の心で私たちの罪を赦し、受け入れて下さるのではありません。罪のない神の子が、私たちの罪をその身に引き受けて、神に見捨てられる絶望の死を代わりに味わって下さったのです。そこに神様の罪に対する裁きが貫徹されているのです。そして、私たちを愛する愛もここに貫徹されている。
 そして、神は御子イエス・キリストを死の中から復活させてくださいました。それはイエス様を救い主と信じる者の罪を赦し、新しい命を与えるためです。神の国、神様との永遠の愛の交わり、神の家族として永久に生きる命を与えるためです。この十字架の死と復活を通して示された神様の愛は、まさに常軌を逸した愛であり、狂気の愛でありつつ、私たち罪人を正気に戻す愛、本来生きるべき神の家族の中に招き入れるための愛なのです。この愛を生き、与えて下さる神様とイエス・キリストの苦しみの深さは想像を絶します。でも、神様もイエス・キリストも心の底からの喜びをもって、私を愛して下さっていることを私は感じます。だから、私も嬉しいし、喜んで神を愛せます。
 その神の愛で愛されることと神を愛する喜びを、聖書は「福音」と呼ぶのです。

 キリスト者

 私たちキリスト者は、この礼拝堂の中で語られる「福音」を聴いて、その愛に打ちのめされ、最早それまでの自分ではいられなくなり、イエス・キリストへの信仰を告白して洗礼を受けた者です。そして、キリストを愛し、キリストのために生き、キリストの愛を証しすることが最大の喜びとなった者たちなのです。その私たちを見て、神様も大きな喜び包まれているのです。
 私は説教を通してイエス・キリストの愛を証ししているのです。自分の全存在をかけて、そして大いなる喜びと感謝をもって、私のために死に復活して下さったイエス・キリストを証し、その愛を賛美しているのです。私たちが歌う讃美歌も同じです。私たちは全存在をかけて、キリストの愛を賛美しているのです。説教も讃美歌も祈りも、この礼拝堂の中でだけイエス様の言葉、神の言葉として聴かれ信じられることでしょう。この建物の外では、私の説教も讃美歌も祈りも、怪しげな宗教に惑わされて気が変になった人間たちの言葉としか聴かれないことを、私は知っています。私たちの多くもかつてはそう思っていたからです。でも、今は違います。この礼拝堂の中で語られる神の言葉を聴いて信じて生きることこそ、正気なことだと確信しています。神に造られた人間として、神の家族の一員として神を愛し、互いに愛し合って生きることこそが、最も真っ当なことなのです。私は、そう信じています。

 キリストの愛に駆り立てられて

 今日は、コリントの信徒への手紙の言葉も読みました。その手紙は、かつては熱心なユダヤ教徒としてキリスト者のことを迫害したパウロという人が書いた手紙です。彼にとっては、神が人となって現れただとか、十字架で処刑をされた人間がキリストだとか、死人が復活したなどというデマを信じ、さらに宣べ伝える輩は、まさに気が変だとしか思えませんでしたし、そのまま放っておくことなど到底出来ることではなかったのです。そんなことは、神が許さないと思ったのです。だから彼はキリスト者を見つけ出しては捕え、裁判にかけていました。時には死刑にも加担しました。しかし、ある時、全く突然に復活の主イエスに出会うことを通して、自分こそが神様の御心に逆らう罪人であることを示されてしまった。それは彼にとっては衝撃的な体験でした。彼は三日三晩何も食べることが出来ず、目も見えなくなりました。しかし、自分が処刑しようと思っていたアナニアに赦され、受け入れられたのです。それはパウロを恐れ、憎んでいたアナニアにとっても、キリスト者を憎んでいたパウロにとっても、それまでの自分の殻が破壊される衝撃的なことでした。キリストが入ってくるとは、こういうことなのです。パウロはアナニアに洗礼を授けてもらって、キリスト者になりました。その上で、彼は世界中の人々にキリストの愛を宣べ伝える伝道者として立てられていったのです。
 もちろん、かつての仲間からは裏切り者として罵られ、命を狙われるようになりました。しかし、彼は狂ったようにキリストの愛を宣べ伝えました。今、世界中にキリスト教会がありますけれど、そのために最も大きな貢献をしたのは、かつてキリスト教会を迫害していたパウロなのです。
 そのパウロの言葉をもう一度読みます。その冒頭に出てくる「わたしたちが正気でないとするなら」という言葉は、「わたしたちの気が変だとするなら」と訳せるイクシステーミという言葉です。

「わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。・・・ だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」

 今日、この礼拝に招かれた方の一人でも二人でも、この正気ではない愛、すべての人のために死に、すべての人を生かすキリストの愛を知り、信じ、新しく創造された者となることが出来ますように、祈ります。
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