「永遠の命と復活」

及川 信

       ヨハネによる福音書  6章52節〜59節
6:52 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。6:53 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。
6:55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。6:57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。6:58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」6:59 これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。


 召天者記念礼拝

 今日は年に一回の召天者記念礼拝です。ですから、今日は命、死、復活という事柄について直截に語られている箇所が良いかなと思ってヨハネ福音書六章を選びました。しかし、こうやって自分で選ぶ時はほとんどの場合後悔します。なぜ、こんなに難しい箇所を選んでしまったのかと思います。その難しさの理由はいくつもあるのですが、私たちは誰も死んだことがありませんし、天国に行ったこともないし、復活したこともありません。そういうことを全部経験して、よく分かった上で、「イエス様を信じる者は永遠の命を得ており、終わりの日に復活するのです」と語れるわけではありません。経験に基づく話は出来ないのです。
 生きる

 「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」なんてことは、イエス様だから語れるのです。でも、イエス様が語れば皆が納得して信じたかと言えば、そんなことはありません。先ほど読んだページの上の段には、イエス様の言葉を聞いたユダヤ人が「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今『わたしは天から降って来た』などと言うのか」とつぶやいたことが記されています。つまり、自分たちと同じ人間が何故こんなことを言えるのか、と不信に思ったのです。そこには怒りもすでに含まれています。今日の箇所でも「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることが出来るのか」と激しく議論をしている。これはもう一触即発の危険な状態です。
 さらに先の六〇節以下を読むと、弟子たちの多くが「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言ってイエス様から離反していく様が記されています。元々主イエスに敵対する人々は勿論のこと、主イエスを信じて従って生きてきた弟子たちですら憤慨して離れていく。そういうことを主イエスはお語りになっているのです。
 ここにいる私たちは誰も死んだことはなく、誰もが生きています。死を経験したことがないのですから、死のことは分かりません。死んだら何もかも終わるのか、魂は生きているのか、また復活とは何で、それはどのようにして起こるのかなど誰も分かりません。私たちは生きており、まだ死んだわけではないからです。そして、世の終わりはまだ来ていないからです。
 しかし、私たちは今生きているのですけれど、「生きる」とはどういうことかを分かっているわけでもないと思います。心臓が動いているのだから、肉体の命が生きていることは分かります。しかし、「終わりの日に復活」させられる「永遠の命」とは何なのか。また、「わたしを食べる者もわたしによって生きる」と言われる「生きる」とはどういうことなのか。その点について、私たちは誰もが分かっている訳ではないし、その場合の「分かる」とは、誰もが同じように「分かる」ことではないだろうと思います。

 「ひどい話」

 先日、「旧約学と説教」を巡るシンポジウムがあり、礼拝学、説教学、旧約学の見地から旧約聖書と説教に関する有益な発題や議論を聴くことができました。その中で、「聖書はすべての人に向けて語られたものではなく、神に選ばれた神の民に向けて語られた神の言葉なのだ」という発言がありました。たしかに当たっている面があると思いました。世間では『人生に役立つ聖書の言葉』とかいう本が出たりします。誰にとっても教訓となるべき言葉が選ばれているのでしょう。しかし、そういう本には今日の箇所など選ばれるはずもありません。ここに出てくるイエス様の話は弟子たちですら「ひどい話」「こんな話を聞いていられようか」と言わざるを得ない話なのです。
 私たちキリスト者も、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」という言葉は、それを実行できるできないは別として「教え」として受け止めることは出来ます。しかし、「わたしの肉を食べ、血を飲まなければ命はない」はいただけない。心の中ではそう思っている面があるのではないでしょうか?

 遺言

 今日の箇所のそもそもの発端は、主イエスがガリラヤ湖の畔で五千人の群衆に奇跡的な方法でパンを分け与えたことにあります。その時、人々は感動して主イエスを「王」として担ごうとしたのです。しかし、それ以後事態は急展開し、主イエスはユダヤ人の激しい反発を買い、弟子たちの多くも憤りつつ離反するに至るのです。そして、最後に残った十二人の弟子に向かって、主イエスは「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ」とおっしゃいます。七章に入ると、その時すでにユダヤ教の当局者が主イエスを捕らえて殺そうと画策していることが分かります
 主イエスにとって、今日の言葉を発することはご自身に対する人々の憎しみを増加させ、ついには死をもたらすことなのです。そのことを主イエスは誰よりもご存知でした。そういう意味では、この言葉は主イエスの遺言です。「わたしはこの言葉を語ることで死ぬ。しかし、それはあなたがたが生きるためだ。」主イエスは、そうおっしゃっていると思います。

 「俺は日本人を殺した」

 つい先日、録画をしておきながら見る時間がなかったドキュメンタリー番組を見ました。それはアメリカ人の作家が、彼の父親が戦った沖縄戦の実態を探る番組です。作家は、「私は沖縄戦で父にとりついた悪魔の実態を知りたいと思った」と言って取材を始めます。
 彼の父親の晩年の顔写真が何度も画面に写されるのですけれど、それは鋭い目つきでこちらを睨みつけているもので、一見して苦しみぬいた人であることが分かる顔です。数年前にすい臓がんで亡くなっています。その父親が死ぬ直前に息子である作家に、突然、それまで話したことのない沖縄戦の体験を一言だけ話したそうです。それはまさに遺言ですけれど、その内容はこういうものです。
 「藪から突然出てきた日本人と鉢合わせになった。目と目が合った。殺すか殺されるか。俺はその日本人を撃ち殺した。」
 戦争をしているのですから、アメリカの兵隊が日本人を殺すのは当然と言えば当然です。しかし、それを遺言として語るというのは、何かがあったに違いない。父親は兵隊としての日本人を戦闘の中で殺したのではないのではないか?と息子は考えます。この時、その父親は一九歳でした。

 沖縄戦の現実

 作家である息子は、父親と同じ部隊で生き残った兵士たちを探し、根気強く取材の依頼を続けて、そのうちの幾人かと会って話を聴きます。皆八十代の半ば以上の方たちです。
 ご承知のように、沖縄では民間人が日本兵の盾にされた面があります。沖縄の人にとって、恐ろしい敵はアメリカ兵よりもむしろ日本兵であると言われるほどです。十代半ばの少年少女が弾丸が飛び交う戦場の偵察や伝令に狩り出されて、最後は棒切れにナイフをつけてアメリカ兵の陣地に向けて突撃をさせられる。「手榴弾を体に巻いて戦車に体当たりしろ」と言われた少年兵もいます。作家は沖縄にまで取材に来て、元少年兵に会ったのですが、彼らからそういう証言を聞くことにもなります。
 元アメリカ兵に話を戻しますが、そのうちの一人は、こういう記憶を語りました。「夜、赤ん坊の泣き声がした後、機関銃の音がする。朝になってその場に行くと母親が撃たれていた。しかし、まだ息があって苦しんでいた。でも、自分たちは手当てもなにもせずに進軍を続けた」と、涙ぐみながら話すのです。もちろん、泣いてしまった赤ん坊は自分たちの隠れ場が分かることを恐れた日本兵が殺したのです。
 自然の洞穴(ガマ)に兵士が民間人も連れて逃げ込んでいますから、アメリカ軍はその洞穴に手榴弾を投げ込みます。すると、中から体に火がついた女性や子どもが飛び出てくる。でも、手当ても何もせずに次の洞窟に火炎放射器で火をつけたり、手榴弾を投げ込んで女性や子どもを吹き飛ばしていた。そのことを今もなお後悔し、自責の念を抑えることが出来ないと言って泣くのです。
 生き残った兵士たちは、戦後六五年間、家族にも話さなかったその苦しい体験を同じ部隊にいた仲間の息子には話しました。その話を台所で聞いていた兵士の妻が、取材に来た息子を台所に呼び出して、彼にこう言いました。「私の夫は最近になってよく夢にうなされて、母親の名を呼んだり、半泣きになって叫んだりしている。でも、その理由を話してはくれなかった。夫はごく普通の人間です。でも、きっと戦場では、誰もが人間ではなかったんだわ。」
 作家の父親は、戦後は鉄工所で働いていたそうですが、ほどなく自宅の地下に金属加工をする工場を作り、一人でそこにこもって仕事をしていたそうです。ある時、父親は工作機械に向かって一人で大声を上げているのを、息子が見ます。父親は、「ママはいないんだ。黙れ!黙れ!黙れ!」と叫んでいた。戦場では発狂してしまう仲間が何人もいたそうです。その仲間の兵士への言葉なのか、母親が殺されて泣き叫ぶ日本の子どもに対する言葉なのか、それは分かりません。しかし、父親はひとり地下室で機械に向かって「黙れ、黙れ、黙れ」と叫ぶことがあり、家族といても突然発作が起きたように怒りに体を震わせるようなことがあったと言います。彼の属する部隊は沖縄上陸当初は二四〇名いたのですが、戦闘が終結した時は僅か三十一人になっていました。そんな修羅場の中で、人間が正常な精神状態でいられるはずがありません。
 日本軍が壊滅状態になってからも、死ぬまで戦うことを教えられている日本兵や少年兵が山林の中に隠れていたので、父親の部隊はそういう日本兵たちを捜索することが命じられていました。そして、その時、恐らく兵士として狩り出されていた少年兵が突然竹やりか何かをもって藪から出てきた。目と目が合ったその時、父親はその少年を撃ち殺してしまったのではないかと、息子は想像します。そして、彼は取材ノートにこう書き記すのです。

「十九才の父が少年を撃つとはどんなに苦い記憶となったことか。近くで目と目が合った相手が少年だったとしたら。それは、岩陰に隠れていたり、手榴弾を投げようとしている兵士を撃つこととは全く違う。少年が目の前で地面に崩れ落ち、死んでいく。その死の訪れは、決して早くない。痛みにもだえたに違いない。その光景は父の記憶にすり込まれ、恐怖に変わったのだ。」
「国は兵士を英雄に仕立て上げる。しかし、沖縄戦を経験した者は誰もが語ってくれた。『英雄なんていない』と。父は私に『ただ生き残っただけだ』と言っていた。父が英雄だなんて私は思ったことはない。」

 十九才の兵士が少年を撃ち殺したその時から、彼も死に始めたのだと思います。死を内側に抱え持ちつつ、その苦しみを必死になって押し殺しながら生きてきた。自分で自分を許すことも出来ず、殺した相手に許しを乞うことも出来ず、独り地下室にこもり、機械に向かって叫びながら生きてきた。

 異なる次元の命の到来

 この地球上には数え切れないほど多くの人々がそういう苦しみを抱えつつ生きており、また同じくらい多くの人々が殺されています。訳も分からない憎しみと恐怖に支配され、人と人が殺し合う。
 そういう現実は、主イエスの時代からあった現実です。古代社会はロマンがあるとかそんなことはあり得ません。その時代もまた支配者であるローマ人に対するユダヤ人の憎しみは深いし、それが爆発してユダヤ人が反乱を起こせば、容赦ない攻撃が加えられてエルサレムが徹底的に破壊され、多くの人々が飢え死にしたり、剣で切り裂かれたりしました。また、ユダヤ人同士の間でも、様々な利害が対立し、憎悪が渦巻いていました。そういう憎悪の社会がそこにはあり、イエス様もその憎しみの対象になって十字架に磔にされて殺されてしまうのです。イエス様は処刑されるような犯罪を犯したのか?そんなことはありません。ただ「ひどい話」をしただけです。
 こういう憎しみや恐怖に捕われつつ生きる。実態がそうであるがゆえにこそ、人はそのことを紛らわしてなるべく面白おかしく生きようとしているのだと思います。
 しかし、そういう私たちに、主イエスは全く次元の違う命を与えようとしておられるのではないか。

「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」

 「肉を食べる」とは憎しみを表す一つの表現でもあります。詩編二七編にこういう言葉があります。

「さいなむ者が迫り/わたしの肉を食い尽くそうとするが/わたしを苦しめるその敵こそ、かえって/よろめき倒れるであろう。」

 また、「血を飲む」ことは、ユダヤ人には、動物の血ですら厳しく禁じられていることです。ユダヤ人は、動物を食べるときも、血を全部抜いて食べるのです。血は命であって、それは神に属するものだからです。レビ記一七章一〇節以下にはこうあります。

「イスラエルの家の者であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、血を食べる者があるならば、わたしは血を食べる者にわたしの顔を向けて、民の中から必ず彼を断つ。生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。」

   主イエスは、人間の敵意と憎しみ、また裏切りによって十字架に磔にされ、そこで肉が裂かれ、血を流しつつ死んでいかれたのです。しかし、その血の中にある命によって憎しみと恐怖に捕われてしまう私たちの罪を贖ってくださった。あの十字架の上で裂かれた肉と流された血によって、私たち罪人の死すべき命が贖われた。罪が赦され、新たに造り直される命の贖いの儀式が捧げられたのです。

 聖餐

 私たちは、これから聖餐式に与ります。そこでイエス様の肉であるパンと血であるぶどう酒を頂きます。それは、イエス様による命の贖いに与るということです。人間の憎しみが支配する世に来られ、その人間、時に悪魔にもなってしまう人間を、主イエスは愛し続けて下さいました。涙を流しながら愛し続けてくださったのです。その愛と赦しの極みが主イエスの裂かれた肉であり血なのです。私たちの心の中に潜む罪が私たちを捕らえ、悪魔が支配する時、私たちは人を憎み、殺し、そして自らを憎み、殺してしまいます。もちろん、私たちの多くは、具体的な意味で殺すということをしないですむ時代や環境を生きています。しかし、人を「ばか者」と言えば、殺したことと同じなのです。また、一八歳で徴兵されて一九歳で修羅場のような戦場に連れて行かれれば、誰だって殺し合いをするか、発狂するかしかありません。そして、生き延びたとしても、その人生は苦痛に満ちたものにならざるを得ません。日本にも、その苦痛を抱えたまま死んでいった多くの元兵士の方たちもいます。そして、今も尚、戦争や紛争はこの地上からなくなってはいないのです。
 そういう地上の世界で、私たちは今日、主イエスの言葉を聴いているのです。そして、私たちの多くは、本当に主の恵みとしか言いようがないのですが、この地上に生ある時に、主イエスの十字架の死の贖いと復活を信じる信仰を与えられ、洗礼を授けられて、今日も主イエスの肉と血の徴であるパンとぶどう酒を頂くことができます。この主イエスを通してしか、私たちは神様との和解の関係に入ることは出来ませんし、憎み合う者同士もこの主イエスを通してしか和解することは出来ません。そして、いつの日か、世の終わりが来る時、主の恵みに与るすべての者が主イエスに引き寄せられ、神様の愛と赦しの中に食卓を囲み、神様を讃美し、憎み合い殺し合っていた者同士も互いに愛し合える日が来るのです。私たちは聖餐の食卓を囲みつついつも新たに終わりの日の復活と御国の完成を仰ぎ見て喜びに満たされます。
 主イエスの肉を食べ、主イエスの血を飲みつつ生きるとは、ご自身の死をもって神の愛と赦しをもたらしてくださった主イエスの内に生きることなのだし、主イエスを自分の中に迎え入れて生きることです。それは父なる神様と結ばれて生きることなのです。そしてそれは、主イエスが父から派遣されて生きておられるように、私たちもまた愛と赦しの福音を証しするため、主イエスから派遣されて生きるのです。

 主のために生き、死ぬ

 パウロはローマの信徒に宛てた手紙にこう書きました。

わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。

 四年前に、私たちの群れの中からKKさんという方が地上の生涯を終えて、天に召されていきました。そのKKさんがご自分の死を目前にしつつ、恥ずかしそうな笑みを漏らしつつしばしば言われたことはこういうことです。

「私は、イエス様を信じているから、自分の死後に必ずお迎えするはずのイエス様の再臨の時には、自分もキリストと共に永遠に生きる希望を持っているので、この地上の生を終えることは大したことではありません。」

 そして、こうも言われました。

「私のような者のために、お忙しい先生を煩わすのも、教会の方にわざわざお出で頂くのも申し訳ないんだけれど、でも伝道になると思うから、お葬式はやって頂きたいと思います。その時は、この讃美歌を歌ってください。この聖書を読んでください。この詩を式次第に印刷しておいて下さい。」

 KKさんの死の時を待つ病室の中で、私たちはまるで葬儀という特別伝道礼拝の式次第を共に準備する喜びを感じました。KKさんにとっては、ご自分の生も死もKKさんのために死に復活された主イエスの愛と栄光を証しするためのものです。そのことをKKさんは深く知り、そのことを何よりも喜んでおられました。そのKKさんの愛唱歌の一つは、KKさんが教会学校時代に覚えた「主我を愛す」で、来週の礼拝の中で行われる幼児祝福式でも歌います。

「主我を愛す、主は強ければ、我弱くとも恐れはあらじ。我が罪のため、さかえを捨てて、天よりくだり、十字架につけり、御国の門を、開きて我を、招きたまえり、いさみてのぼらん、我が主イエス、我が主イエス、我が主イエス、我を愛す。」

 地上にある時に、恵みによって信仰を与えられ、主イエスの肉と血を神の愛と赦しとして、また主イエスの命として頂く者は、その時すでに永遠の命に生かされているのであり、終わりの日に復活させられる。その希望を、今日新たにし、ご一緒に主を賛美したいと願います。
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