「独り子の栄光」
1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 1:15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」1:16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。1:17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。 二つにして一つ クリスマスの季節、それはキリスト教会にとっては最も華やいだ季節であることは間違いありません。しかし、その一方で深い闇の現実を見つめる季節でもあります。闇と光、喜びと悲しみ、生と死、そのどちらか一方を見るのではなく、その両方を見るのです。それは、右を見たら左を見るというような仕方で見るのではないのだと思います。そうではなく、一つの方向を凝視し続けることによって闇の中に光を見る。喜びの中に悲しみを見る。生の中に死を見る。あるいは、光の中に闇を見、死の中に生を見、悲しみの中に喜びを見る。そういうことなのではないか、と思います。また、初めの中に終わりを見、終わりの中に初めを見る。そういうこともあると思います。 神が人に?! 先週と今週は、今言ったことを特色とするヨハネ福音書の言葉に耳を澄ませ、またその言葉が描く神の世界に目を凝らしています。 今日は一四節以下です。 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 先日、短大の講義で、クリスマス物語の映画を観ました。もちろん、東の国からやって来る占星術者が登場します。彼らがマリアに抱かれているイエス様を初めて見た時に、「王の王である方が、こんな貧しいところでお生まれになったとは?!」と驚きに満ちた表情で言います。そして、さらに深い感慨を込めて「神が人となられた」と言うのです。字幕では「人」でしたけれど、フレッシュという英語でしたから、「神が肉となられた」と訳し得ます。つまり、ヨハネ福音書一章一四節の言葉を言うのです。これは、「あり得ないことが起こった」ということでもあります。永遠の存在であるべき神が、滅び行く者である人間となって現れるはずがないからです。 あってはならないこと 神が人となる、肉をとる。それは、目に見えない神を唯一の神とするユダヤ人においては考えるだけでも罪とされるようなことです。また、この当時、地中海沿岸世界を支配していたローマ帝国の人々にとっても決して容認できない主張です。ローマ帝国は神々への信仰を許容していますが、ローマ皇帝を神格化し、皇帝を礼拝することを人々に求めていました。クリスマスの出来事は、そういう世において起こったことです。 マタイによる福音書では、ユダヤ人の王ヘロデは、自分以外の「ユダヤ人の王」が誕生したと言われて、恐怖と不安のどん底に叩き落され、ベツレヘム周辺の二歳以下の男の子を皆殺しにしたとあります。クリスマスの喜びの陰にはこういう悲しみがある。誕生の裏には死があるのです。 今年は、アフリカ・中東のアラブ諸国が揺れています。「アラブの春」と言われますけれど、それは独裁者の側から言えば厳しい冬の到来です。しかし、独裁者が「我が世の春」を謳歌していた時代は、少しでも彼に対抗しそうな者は弾圧を受け、処刑をされてきたことは事実です。つい先日、隣の国で長く独裁者として君臨していた人が急死しましたが、彼が存命中に息子以外の誰かに国民の人気が集まるなどということが少しでも起こったとすれば、その人の命はなかったと思います。 時が来ていない イエス様は、ティベリアス湖の畔で五千人の人々に不思議な仕方でパンと魚を分け与えたことがあります。それは、終末的なメシア到来の暗示と言ってよいことかもしれません。しかしその時、人々は主イエスを自分たちの「王」に担ぎ上げようとしました。しかし、イエス様はその人々から身を隠します。それは、自分の命の危険を避けるためではありません。真の光を理解しない群衆の誤った期待に応えるわけにはいかないからです。主イエスは、神の御心に従う方であり、人々の欲求に従う方ではないのです。人々の求めに従っているように見えても、実は神の御心に従っているのです。そして、より根源的な理由は、主イエスが真の王、メシアとしての栄光を表す「時」がまだ来ていなかったということです。ヘロデ王の幼児虐殺の難を逃れたのも、もちろんまだその時が来ていなかったからです。 最高法院の恐れ しかし、「人の子が栄光を受ける時が来た」とイエス様がおっしゃる時が来ます。それは、主イエスがラザロを復活させた後のことです。死人を復活させる。それ以上に大きな「しるし」はありません。「しるし」とは、イエス様が独り子なる神であることを示す業のことです。 しかし、このラザロ復活というしるしの直後に、ユダヤ人の最高法院は、イエス様を死刑にすることを正式に決定しました。彼らは病人を癒すどころか死人を復活させてしまうイエスという男を国中の人々が信じて、この「イエスこそ王だ」などと言い始めることを恐れたのです。何故なら、ローマが許可しない王が立つことはローマ帝国に対する謀反と見做されるに違いなく、放置しておけばローマの軍隊がやって来て「我々の神殿も国民も滅ぼしてしまう」と恐れたのです。そして、イエス一人を殺せば、国は安泰であると判断したのです。 しかし、イエス様が過ぎ越しの祭りを祝うためにエルサレムに入った時、ラザロ復活の出来事を知っていた大群衆は熱狂してこう言いました。 「ホサナ。 主の名によって来られる方に、祝福があるように、 イスラエルの王に。」 最高法院の人々が恐れていたことが目の前で起こっているのです。 死ねば実を結ぶ しかし、イエス様は、この歓呼の声に応える形でエルサレムに入った訳ではありません。詳細は省きますけれど、この時、主イエスは弟子を通して、ギリシア人(異邦人)がイエス様に会いたいと願っていることを知りました。その時、主イエスはいきなりこうおっしゃいました。 「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。」 栄光は死ぬこと。死ぬことは実を結ぶこと。命を愛することは失うこと。命を憎むことは永遠の命に至ること。光と闇、悲しみと喜び、死と命・・・・。全く相反することが、しかし、主イエスにおいては一つのことの中に起こるのです。そして、主イエスはその栄光に向かって前進を続けます。そして、「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」と言われる。 神と等しい者 「栄光」、それは聖書においては神様に関して使われる言葉です。しかし、その言葉を、イエス様はご自身に対して使っておられるのです。それ自体異常なことです。 ユダヤ人がイエス様を殺そうと最初に思ったのは、五章の段階ですが、そこにはこう記されています。 ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。 安息日に病人を癒したことが原因なのですけれど、より本質的なことは、イエス様がご自身を神と等しい者としたということです。彼らの怒りは当然のことです。私たちだって、その当時の人間であれば同じことを思ったはずです。 しかし、イエス様はそんなことはお構いなく、「子は父のなさることを見て、その通りにするのだ」とおっしゃいます。そして、「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える」「大きな業」をして、あなたたち驚かせることになるともおっしゃいます。 「死者を復活させて命を与える」、これ以上「大きな業」はありません。それは、神様だけがなすことが出来る業です。神様の「栄光」はそこに現れるのです。しかし、その神様の栄光は、主イエスが一粒の麦として地に落ちることを通して現れてくる栄光、神の栄光なのです。つまり、独り子なる神が死ぬ、命の光である神から離れ、死の闇の中に落ちてしまっている者たちのために死ぬ。そのことを通して現れてくるものなのです。 愛 私は今、「栄光」とか「大きな業」という言葉を使って語ってきました。主イエスが、そういう言葉を使い、また福音書記者であるヨハネも使っているからです。しかし、その神のみが現し得る「栄光」とか神のみが成し得る「大きな業」を、主イエスはこういう言葉でも表現しておられます。 「わたしはよい羊飼いである。よい羊飼いは羊のために命を捨てる。」 「羊はその声(羊飼いの声)を知っているので、ついて行く。」 「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」 神の「栄光」を現す「大きな業」とは、なによりも愛することなのです。そして、その愛とは、究極的に人の罪を赦すために死ぬことであり、復活することです。それは、主イエスの十字架の死と復活の場面を読めば明らかです。 主イエスは復活された日曜日の晩に、真っ暗な隠れ家に息を潜めていた弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と語りかけ、命の息である聖霊を吹きかけてこう言われました。 「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」。 「わたしによって罪赦され、聖霊を受けたあなたがたを通して、わたしの愛は人々に与えられていく。」そういうことでしょう。 主イエスの十字架の死と復活、そして聖霊の付与は、罪人の罪を赦すためであり、罪によって死の闇に落ちている者たちに新しい命を与えるためです。この命を罪人に与えてくださるところに「独り子なる神の栄光」が現れるのです。 信仰 その新しい命に与る者は誰かと言えば、先週の御言にありましたように、「初めにあった言、神と共にあり、神である言」を、受け入れた人、イエスの名を信じて神によって新たに生まれ、神の子とされた人々です。 この福音書本文の最後はこういう言葉です。 「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。 その「命」とは、イエス様を「わたしの主、わたしの神よ」と告白した弟子のトマスのように、イエス様を「主」、「神」と信じる信仰によって生きる命です。イエス様が「神の子」であり、「メシア」(王)であり、「主」であり、「神」である。それが真理であり、そこに罪の赦しという恵みがあり、その真理と恵みを信じて生きる者が神の子なのです。ヨハネ福音書は、その最初と最後にそのことを宣言しているのです。深い喜びをもって。 あなたはわたしを愛するか そして、付録と言われる二一章が続きます。そこには、自分の命を愛したが故にその命を失ってしまったペトロと主イエスとの緊迫した対話が記されています。 かつてペトロは、主イエスに、「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」と言われました。「ついて行く」は原語では「従う」と同じ言葉です。ペトロは、「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と言いました。しかし、それから数時間後、彼は「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」と問われると、「わたしではない。違う」と答えたのです。三度も、です。その時、彼は自分の命を愛することを通してそれを捨てたのだし、主イエスに従うことを拒絶して世の闇の中に落ちて行った、罪の死の中に落ちて行ったのです。それは人間の自覚を越えた現実です。 通常なら、それで終わりです。死んだ者は生き返ることはありません。 しかし、肉となった言、人となった独り子なる神は、罪人を愛するが故に自分の命を憎み、十字架の上で死んだのです。しかし、そのことの故に、神様は主イエスを復活させられました。そして、その主イエスがペトロにこう問いかけるのです。 「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか。」 この問いの中にあるのは、「わたしはあなたを愛している。わたしはあなたのために命を捨て、そしてあなたのために今生きている。信じなさい。そしてあなたも生きなさい」という愛の告白であり信仰への招きでしょう。主イエスが、この時、誰よりもペトロを愛しているという告白でもあると思います。何故なら、ペトロは誰よりも強く主イエスを愛していたのに、誰よりも強く主イエスを捨ててしまったからです。愛しているから裏切ることが出来るのです。愛していなければ裏切りも何もありません。そして、その裏切りの故に、誰よりも強く主イエスから赦しを必要としているからです。彼が赦されない時、彼は永遠の死の中に落ちざるを得ません。そして、彼が主イエスを通して、罪の赦しの愛を知り、その愛によって新しく生かされることがなければ、主イエスを羊飼いとする羊たちは、主イエスの愛によって生かされることが出来ないからです。主イエスは、ご自身の羊の牧会を、誰よりも深い罪を犯したが故に、誰よりも強く愛されていることを知っている人間に託されるのです。羊は、羊飼いの命を捨てる愛によってのみ養われるからです。 その羊飼いの職務を与えるために、主イエスはペトロをその死の中から呼び出そうとしてくださっているのです。あの墓の中にいたラザロに向かって、「ラザロ、出て来なさい」と呼びかけたように、主イエスは今ペトロに向かって「わたしを愛しているか。愛して欲しい。そして生きなさい、立ち上がりなさい」と呼びかけておられるのだと思います。 わたしの羊を飼いなさい ペトロは、もう自分で自分を信じることは出来ません。自分の愛を確信することは出来ないのです。自分自身を主に委ねるしかありません。 「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」 主イエスは言われます。 「わたしの小羊を飼いなさい。」 三度、主イエスを捨てたペトロは、三度、主イエスの愛の告白を受け、また招きを受け、三度、主イエスに自分の愛を委ねます。自分が主イエスを愛していること、その愛が本当のものであるか否かは自分で判断するのではなく、主イエスに判断して頂くしかありません。一切を主イエスに委ねるペトロに対して、主イエスは、三度「わたしの羊を飼いなさい」と命ぜられます。羊は、あくまでも主イエスの羊であって、ペトロの羊ではありません。だから、主イエスの愛で愛し、養うべき羊です。 ペトロのように牧者に立てられる者は、目に見えない大牧者である主イエスのふところにいつも入れていただかなければなりません。父のふところにいる子なる神が父なる神の御心を示され、その通り語り行うように、主イエスのふところにいる者も、示された主イエスの御心をその通り語り、その通り行うべきです。自分の思いに従って生きることも、自分の思いに従って導くことも出来ないのです。それが自分の命を憎むことであり、主イエスに従うことなのです。そのことによって生きるのです。 それは牧者に限ることではなく、私たち人間は、主イエスに従うことにおいて命を得、永遠の命に至るのです。 神の栄光を現す 主イエスは、ペトロに言われます。 「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」 ヨハネは、この言葉をこう説明します。 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。 そして、最後に主イエスはペトロにこう言うのです。 「わたしに従いなさい」。 「わたしに従いなさい」。主イエスはかつて、「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」と言われました。「ついて来る」は「従う」と同じです。主イエスが行く所、それは十字架です。そしてそれは、復活です。そしてそれは、天の父のふところの中です。そこには、肉の命を愛する者は行くことはできない。しかし、ご自分の命よりも、罪人を愛し、死んでいる罪人を新しく生かすために一粒の麦となって十字架に死んだ方を、「わが主、わが神」と信じ、受け入れる時、人は主イエスについていくことが出来る。従うことが出来る。そして、そこに行くことが出来る。主イエスが示してくださった神を見ることが出来るのです。 主イエスから愛され、主イエスを愛することにおいて、もう自分で腰に帯を締めて行きたい所に行くことが出来なくなったペトロは、今こそ、主イエスに従うことが出来るのです。イエス様を「神の子メシア、わが主、わが神」と信じ、すべての人にこの主イエスを証しする、伝道することによって、彼は人に腰に縄をかけられて処刑場に連れて行かれることになるからです。伝説によれば、彼はローマで逆さ十字架に磔にされて殺されたことになっています。それが史実であるかどうかは別にして、いずれにしろ彼はその死に向かって生きたのだし、その死を通して復活の命を与えられた。それは確実なことなのです。そして、その死の中に既に神の栄光が現れているのです。 主イエスから愛され、主イエスを愛する人において起こることは、そういうことです。そして、その愛の交わり、自分の命を捨てて捧げる愛の交わりの中に神の栄光が現れるのです。この世の罪に塗れて塵芥のような私たちが、恵みによって独り子と出会い、その真実の愛を知らされ、その愛で愛され、その愛で主イエスを愛し、兄弟姉妹互いに愛し合って生きる時、そのようにして主イエスを証しして生きる時、私たちはその生と死を通して神の栄光を現す存在とされるのです。なんと幸いなことかと思います。 迫害の中の喜び ヨハネ福音書の冒頭の五節は、しばしば「ロゴス(言)賛歌」と呼ばれます。キリスト賛歌です。その賛美、喜びに溢れた賛美は一八節まで続いていると思います。ヨハネが、「言は肉体となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」と書くとき、彼の心には喜びが溢れていたでしょう。また、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と書く時、主イエス・キリストから神を示された喜び、「恵みの上に更に恵みを受けた」喜びに、彼の心は震えたと思うのです。自分の手が書いていることを見て、感謝に溢れたと思う。 主イエスが生まれた時、ヘロデはすぐに主イエスを殺そうとしました。何も失いたくなかったからです。しかし、主イエスを礼拝するためにやって来て、すべてを捧げた異邦人の占星術者たちは喜びに満たされました。神様がすべてを捧げてくださったことを知ったからです。 また、ヨハネがこの福音書を書いた時、ユダヤ教の当局者たちは、イエス様を「メシア」と信じる者、「わが主、わが神よ」と告白する者を異端者として迫害を開始していました。また、そのような信仰に生きる者に対しては、ローマ帝国側も迫害を始めていたのです。何人もの人々が腰に帯を締められて行きたくない所に連れて行かれ、処刑されたのです。だから、それまでイエス様をメシアと信じ、「わが主、わが神よ」と信じていた人々の少なからぬ者たちが信仰を捨て、教会を離れて行ったのです。主イエスを憎み、捨てたのです。自分の命を愛したのです。 そういう現実の中で、この福音書は書かれました。独裁者がいる国家の中で、「私が従うべきはあなたではなく、この方です」と告白することは死を意味します。少なくとも社会的には抹殺されます。誰がそんなことを望むでしょうか。誰がそんな悲惨な人生に喜びを感じるでしょうか。 しかし、ヨハネは書きます。「私たちは独り子の栄光を見た」と。彼は、そう告白せざるを得ないのです。そして、この告白を公にします。それはこういうことでしょう。 「この信仰告白の故に私を殺したいのなら、どうぞ。でも、私は死にません。主イエスが生かしてくださいます。主イエスがその大いなる業で私を復活させてくださいます。そういう救い主が肉となって生まれてくださった。そして、私たちの間に宿ってくださっている。この喜びを私は証ししないではいられません。もし、そのことをしないのなら、それこそ私の死を意味するからです」。 このヨハネの心に触れることを通して、私もまたクリスマスの喜びに心が震える思いでした。私もまた、主イエスの栄光を見て、その栄光を証しせざるを得ない信仰を新たにされたからです。 私は知っている 今日、皆さんのお手元に配られている「会報」の中に、「クリスマスとメサイア」に関する文章があります。その最後はこういうものです。 「この数年、私の心に響いてくる言葉がある。それはハレルヤ・コーラスで力のかぎり主を讃美し、ハレルヤ!と歌いきった後にしずかに始まるソプラノのアリアの出だし「わたしは知っている」I know という言葉だ。「わたしは知っている、わたしを贖う方は生きておられる」というヨブ記19章25節の言葉である。I knowと歌うとき、「I knowそう私は知っている」と心の中でくり返す。何度も不信仰に陥り、常に疑いのとりこになる私だが、でも私の心の奥底では、私の魂は知っている・・真理を、わたしを贖う方は生きておられることをと。」 最近読んだ文章の中で、最も深く同感し、共感する言葉でした。そして、私は思うのです。主イエスこそが、私たちを知っているのだ、と。私たちがどれほど疑い深いかを、私たちがどれほど弱いかを、でもどれほど強く主イエスの愛を求めているかを。そして、主イエスを愛しているか、を。主イエスが知っている。知っていてくださる。そして、主イエスは私たちを愛してくださっている。そのことを、私は知っている。この主は、疑い深く、弱い私のために、十字架に死ぬためにお生まれ下さったことを、私は知っている。そして、その死から甦り、今日も私たちの真ん中に立ち、両手を広げ、「あなたがたに平和がある」と宣言してくださっていることを、私は知っている。だから、「あなたこそメシアです」と賛美せざるを得ません。 主の死を告げ知らせる 今日も、主イエスはパンを裂いて、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言いつつ渡してくださり、ぶどう酒の杯を「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言って回してくださいます。洗礼を授けていただいて、この新しい契約に生かされている私たちは、この聖餐の食卓に与るたびに、「主の死を告げ知らせる」のです。その死にこそ命があることを。その死にこそ罪の赦しがあり、そこに神の栄光が現れていることを私たちは知っているからです。そして、その知っていることを、今日も溢れる喜びと感謝をもってこの闇の夜に告げ知らせるのです。 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちは、その栄光を見た」。 |