「今日、この家に救いが訪れた」

及川 信

       ルカによる福音書 19章 1節〜10節
19:1 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。19:2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。19:3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。19:4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。19:5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」19:6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。19:7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」19:8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」19:9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。
19:10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」


 出頭 逮捕

 先日、十六年間も指名手配をされていたオウム真理教の元信者の女性が逮捕されました。去年の大晦日には男性が出頭し、あと一人は今も逃亡を続けています。彼らは等しく身分を隠し、名前を偽り、家族や友人との交わりを絶っています。年老いた親は既に亡くなっていたり、生きていてもお互いに一切連絡をしないわけですからいないも同然です。しかし、それは彼らが教祖に傾倒し、サティアンという教団の施設に移り住んでいたその時からすでに始まっていたことでしょう。彼らは、かつての家族や友人たちからは失われた者たちであり、死んだも同然の存在です。自分の息子や娘がオウム真理教の信者であることは家族にとっても大変なことですから、家族もまたそのことは世間には隠してひっそりと生きている場合も多いでしょう。だから、捜さないし、突然帰ってこられても困る。そういう悲しむべき絶縁状態がそこにはあると思います。
 身分を隠し、名前を偽り、生活拠点を転々と変えながら、彼らは自分が誰なのかが分からなくなってきたと思います。そして、何故こんなことになってしまったのか、何故あんなことをしてしまったのかも分からない。どの様にすれば元の自分に戻れるのか、元の家族関係や友人関係に返れるのかも分からない。もう、それは不可能に思える。そうだとすると、自分が何者であるかが分からない恐怖と不安が彼らを支配し始めたことは想像に難くないと思います。
 出頭した男性は、その苦しみに耐えることが出来なくなって警察署で自らの名を名乗ったという面があると思います。そのことから、自分を取り戻す一歩を踏み出した。先日逮捕された女性は、偽名を使って働いていたそうですが、隠れ家の近くで捜査官に本名で呼ばれた時、「そうです」と素直に答えたと言われます。そして、「もう逃げ隠れしないですむ」とホッとした顔を見せたらしい。内心では見つけ出され、逮捕されたかったのでしょう。漸く本名で生きることが出来、また自分がしたことに相応しい社会的制裁を受けることが出来る。それは苦痛であるに違いありません。でも、本来の自分の姿を失ったままで生き続ける苦しみも相当なものです。

 犯罪者 一般人 迷子

 彼らが犯した犯罪は裁かれねばならぬことです。そして、あの犯罪は特殊な犯罪です。しかし、あのような犯罪を犯した人々の多くは、実はごく普通の人々だと思います。様々な凶悪事件の裁判の傍聴を続け、その犯罪者がどういう人物であるかを探り続けてきた作家は、「殺人犯のほとんどが元はただの人間、一般人だった」と言っていました。それは本当のことでしょう。
 人は、ほんの些細なことを切っ掛けにして、道を逸れることが幾らでもあります。最初は僅かな逸れ方です。だから自分が迷子になっていること、道を見失っていることが分からないのです。道を逸れたことに気付いても、この先で左に曲がればまた元の道に戻れると思っている。でも、その道は全く違う道に通じていることが幾らでもあります。そういうことを繰り返しているうちに、どうやって引き返したらよいか分からないことになる。その時、初めて自分が迷子になってしまったこと、道を見失い、どこにいるのかも分からない状態であることが分かる。そして、途方に暮れるのです。そこでうずくまってしまう場合もあれば、あくまでも道を探し続けて混迷を深める場合もあります。
 内心では、自分を捜し出して欲しい、見つけて欲しい、今ここで道に迷い、自分が誰であるかを見失い、誰とも真実の関係を持つことが出来なくなってしまった自分を見つけ出して欲しい。そう願っている。痛切に願っている。でも、そのことを声に出して言うことが出来ない。そういうことが人にはあります。だから、目に見える現実としては隠れ続け逃げ続けている。

 徴税人

 先ほどお読みした所に「ザアカイ」と呼ばれる人物が登場します。礼拝に通っている者ならば誰もが知っている人物です。ザアカイとは「清い者」という意味だそうです。親がそのような人になって欲しいと願って名づけたのでしょう。そして、そのように教育をしてきたのかもしれません。
 しかし、この時の彼の職業は「徴税人の頭」です。徴税人はいつの時代にも必要な仕事ですが、人々から好かれる仕事ではありません。その税が国や社会のために使われる限りは必要経費ですし、徴税も正当な仕事と見做されるでしょう。
 しかし、この時代のユダヤ人の支配者は、残念ながら民衆から搾取した上で弾圧を加える王や領主でした。さらにその上にはローマ帝国の皇帝がおり、徴税人はそのローマ皇帝に納める税金をも集めていたのです。つまり、ユダヤ人にしてみれば異邦人のために働く裏切り者です。徴税人は、自分の管轄する地域から一定の金額をローマに納めれば、あとは彼らの腕次第で幾らでも集めてよかったそうです。そこに不正が生じることは火を見るよりも明らかです。ローマはこの仕事を競売にかけ、最高額で買い取った者に任せたのです。人々から嫌われる仕事をむりやり押し付けられているのではなく、不正な利益を手にするために自ら徴税人になっているのです。だから、彼らはユダヤ人にしてみれば許し難き裏切り者であり、神に裁かれるべき罪人なのです。
 しかし、そうであったとしても、その仕事をやりたいと思う人はいつもいました。それは、人間が生きる上で必要なものはなによりも富だと思うからでしょう。尊敬などされたって飢え死にしたら何にもならないと思うからです。人が何と言おうがこの世は金なのだし、神など実際にはいないのだと思っているからでもある。
 しかし、人間の思いはそれほど単純なものではありません。心の中には幾層もの思いが重なっていたり、全く異なる思いが混在していたりします。また、目に見える言動と心の内実はしばしば矛盾していたり分裂していたりするものです。私たちは自分が抱えている思いのすべてを知っているわけでもないのです。それはザアカイにおいても同じです。

 見る

 今日の箇所には翻訳されていないものを含めると、六回も「見る」という言葉が使われています。

「イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた」。

 「そこに」と訳された言葉の前にイドゥと記されているのです。英語ではしばしば「ビホールド」とか「ルック」(見よ)と訳されます。読み手の注意を喚起する言葉です。そのようにザアカイ(清い者)に注意を喚起しておいて、「この人は徴税人の頭で、金持ちであった」と紹介する。この二つの言葉だけで、当時の読み手にはザアカイがどんな人物かが十分に分かるのです。
 そのザアカイを含めて、町中の人々がイエスという人をひと目見たいと道路の左右を埋め尽くしました。彼らは、以前からイエスの噂を聞いていたからです。圧倒的な言葉をもって説教し、その言葉で人々に取り付いた悪霊を追い出し、病を癒し、死人さえも甦らせた。そういう信じ難い奇跡を行うイエスという男がはるか北方のガリラヤ地方に登場した。その噂は、エリコがあるユダヤ地方にまで広がっていました。
 そのイエスが、今、エリコの町に入ってくる。町の人々には、この町でも何かが起こるという期待があったでしょう。

 ザアカイの思い

 しかし、ザアカイは他の人々とは異なる期待が心の奥底にあったと思います。イエスに関する噂の中には教えや奇跡行為を褒め称えるものだけではなく、当時の社会の戒律(律法)を守らないが故に罪人とされていた人々や、その罪人の代表のような徴税人や町の娼婦とも一緒に食事をする人物だという噂もありました。罪人は神の裁きを受け、見捨てられた人物と見做されている人々です。しかし、イエスは徴税人とも平気で食卓を囲みました。そして、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と言い、罪を悔い改め、赦しを乞い求める娼婦に向かって「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った」と言ったりしたのです。そういう言動を見て、特に宗教的な清さを重んじる人々はイエス様に躓き、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と批判したのです。
 つまり、イエスは一方では神から遣わされたメシア、救い主ではないかと期待され、他方では汚れた罪人の仲間に過ぎないと侮蔑されていたのです。
 エリコの町の人たちは、そういう両極端な評価がなされるイエスをひと目見ようとしたのです。そして、徴税人の頭であるザアカイは、町の人とは異なる思いをもってイエスを見たいと思った。

 葉っぱに隠れるザアカイ

 しかし、町の人は彼を前には出してくれませんでした。皆でよってたかって背が低い彼とイエス様の間を遮ったのです。そこで、彼はとんでもないことをします。

「イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った」。

 大の男が、それも高価な服を着ているであろう男が走って先回りをし木に登る。これは想像するだに滑稽な姿です。彼だってその滑稽さを感じ、恥ずかしいと思ったでしょう。でも、その思いよりも噂の人物であるイエスを見たい。大いなる奇跡を起こしながらも「罪人の仲間だ」と言われるその人を見たい。その思いの方が上回ったのだと思います。
 しかし、彼にその思いだけがあったかと言えば、そんなことはありません。いちじく桑の木の上からイエスを見ようとすることの中に、彼の複雑な胸中が見え隠れしているような気がします。いちじく桑の葉っぱは大きなものです。彼は、イエスを見たいと思った。でも、イエスから見られたいとは思わなかったでしょう。また、人々から木に登っている自分が見られることも避けたかったと思います。だから、彼は木の上から手を振って、「イエス様、私はここにいます。今晩、私の家に来てくれませんか?!他の町では私の仲間と一緒に食事をしたんでしょう?私はもっと豪勢なご馳走をお出ししますよ。是非、家に来てください」と叫ぶわけではない。彼は自分の姿を葉っぱの陰に隠しつつ、誰にも知られずにこっそりとイエス様を見たかったのです。
 でも、彼の心の奥底、彼自身も見ることが出来ない心の奥底では、実はイエス様に見出して貰いたかったのだし、声をかけてもらいたかったのだと思います。そうでなければ、その後の展開を理解することは出来ません。彼は隠れたかった。でも見たかった。でも、本当は見られたかった。イエス様の前に立ちたかった。一緒に食事をして欲しかった。関わりを持って欲しかったのです。決して人には言えない、言えば大笑いされるに決まっているその思いを、彼は彼自身も知らない心の奥底で抱えていたのだと私は思います。

 見上げるイエス

「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた」。

 イエス様がある町に入る時に、最初からある人に会うためにだけ入っていくことがあります。その町にはイエス様と会わねばならない人間、イエス様と会うことがなければそのまま滅んでしまう人間がいる。そのことをイエス様は既にご存知であり、ひたすらその男を捜し求めている。そうとしか思えないことがあるのです。
 イエス様は「その場所に来ると、見上げ」ました。隠れているザアカイを。原文ではアナブレポウという言葉ですが、「よく見る」「凝視する」という意味合いがあると思います。隠れているザアカイ、自分を見られたくないザアカイ、でもイエス様を見たいザアカイ、そして、実はイエス様に見られたいザアカイ、出来れば声をかけていただきたいザアカイ、イエス様を自分の家に迎え入れたいと心の奥底では願ってもいるザアカイを、イエス様は見たのです。
 そして、イエス様がそのように人を見るとき、それは見ただけでは終わりません。私たちは道路で人が倒れていようと、誰かが困っていようと、見て見ぬ振りをすることはいくらでもあります。通り過ぎてしまうのです。その人と関わることで生じるであろう手間隙や面倒を想像して、それを避けたいからです。でも、イエス様が人を見るとき、イエス様はそのことを避けない。まっすぐにその人と関わりを持つために前進されます。

 ザアカイの喜び

「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。

 ザアカイはその声を聞いた時、自分でも思いがけない喜びに満たされました。隠れていたのに見つけてもらった喜び、自分からは声をかけることが出来ないのに、イエス様から声をかけていただいた喜び。自分でも意識していなかった自分の心の中にある悲しみや不安、また劣等感や優越感などが、イエス様の眼差しの中で、またその言葉の中で一気に氷解したのでしょう。そして、親に抱かれる幼子のような喜びに満たされ、彼は「急いで降りて来て」、イエス様を自分の家に迎え入れました。
 その様を見た人々は躓きます。やはり、この男は「罪人の仲間であり、大食漢の大酒飲みに過ぎない」と思い、その思いを口に出しました。家の外から聞こえるその声に対して、ザアカイはイエス様に言うのです。そのことを、ルカは「ザアカイは、主に言った」と記します。少し前には、人間イエスを見ようとしていたザアカイがいました。しかし、今、そのザアカイの目の前にいるのは、また今のザアカイにとって、その人は「主」なのだ。神から遣わされた救い主であり、神の力と愛を体現するお方なのだと言っているのです。

 見てください

「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」。

 訳されていませんが、「主よ」の前に先ほども出てきたイドゥ、「見よ」という言葉があります。さっきまで葉っぱの陰に隠れていたザアカイは、今、主の前に全身をさらけ出して、「わたしを見てください」と叫んでいる。
 「これが私です。不正を犯しつつ財産を築いてきた私がいます。そうしなければ心の欲求を満たすことが出来なかった私がいます。でも、欲求を満たせば満たすほど実は空しさを感じていた私がいます。どうしてそうなるのか分からずに、分からないからこそ、人を騙しながら財を増やすことに腐心をしてきた私がいます。でも、あなたと出会って、いやあなたが隠れている私を見つけてくださって、仲間以外誰も寄り付かないこの私の家に来てくださった時、私は初めて自分の心の中を見つめることが出来ました。私は汚れました。でも、私は清い者として生まれたのです。でも、私は自らを清めることは出来ません。主よ、あなたが、私を本来の私に造りなおしてくださいました。私は以後、あなたの愛に相応しい者として生きます」。
 彼は、こう言っているのです。

 愛の中で

 人を造りかえるのは愛です。懲罰だけを受けた人間が更生することはありません。懲罰の中に愛が込められていないならば、それは不平や不満や怒りを増すだけのことです。そして、懲罰を受けた人間はますます自らを隠していく他ありません。そうすることでしか身を守ることが出来ないからです。しかし、実は自らを隠すことでは身を守ることも出来ません。ますます迷子になっていく。自らを見失い、人からも失われていく。死んだも同然になっていくのです。
 主イエスは、そのようにして生きてきたザアカイを愛をもって見つめました。そして、その愛の中で生まれ変わったザアカイを見て、イエス様はこう言われました。

「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」。

 「あなたはどこにいるのか」と問いかける神様

 聖書の最初に置かれている書物は創世記です。そこにはエデンの園に生きていたアダムとエバの物語があります。園の中央にある禁断の木の実を食べてしまった彼らは、最初にいちじくの葉っぱを腰に巻き、お互いの目から裸の恥を隠しました。そして、次に、園の中を神様が歩いてくると、葉っぱの陰に身を隠したのです。裁きが怖かったからです。
 でも、もし彼らが葉っぱの陰に隠れ続けていたとしたら、彼らは生きてはいけません。神様に見つけ出され、彼らのしたことが明らかにされ、そして悔い改めの機会を与えられなければ、彼らは一生日陰者として生きる他なくなります。神様から送られる命の息を吸い込み、神様によって与えられた伴侶を「我が骨の骨、我が肉の肉」と呼んで愛し合う交わりを生きることは出来ないのです。互いに隠しあい、神の前から隠れた所に真実の命はありません。その命を失ってしまったアダムとエバを、主なる神は捜し求め、「あなたはどこにいるのか」と問いかけ、以後、長い時間をかけて悔い改めに導いて行かれました。
 その神様の憐れみ、裁きの中にある救済を通して、彼らは自分を取り戻し、神の御前に新たに生きる者とされていったのです。

 罪の赦し 裁き 救い

 聖書に出てくる「罪人」とは、主イエスの言葉にありますように「失われた者」のことなのです。神様の御前から隠れてしまった者であり、そうであるが故に、その本来の命を失った者のことです。
 罪は、ただ赦されるのではありません。犠牲による償いがあって初めて赦されるものです。そして、それは神様との交わりの中に立ち帰ることであり、その交わりの中で本当の自分が回復されることです。「救い」とは、その交わりの中に永久に生かされることなのです。そして、その救いを罪人に与えるために、主イエスは神様からこの世に遣われたのです。そして、ガリラヤの町や村を訪ね、今、エリコの町を訪ねている。その歩みはエルサレムにまで続くのです。

 神様の救いのご計画

 主イエスがザアカイの家に「ぜひ泊まりたい」とおっしゃる時、実は、「泊まらねばならない」「泊まることになっている」とおっしゃっているのです。そこには、神様が定めた計画を表す「デイ」という言葉が使われています。主イエスは神様のご計画、罪人を捜し出して救うご計画に従ってザアカイの家に行くのです。
 その様を見て、人々は「あの人は罪深い男の所に行って宿をとった」と言って失望し、軽蔑もしました。でも、その時、彼らは「自分は罪深い人間ではない」と思っているのです。私たちがテレビで犯罪者が捕まる姿を見ながら「私はこんな犯罪者ではない。法を犯したことがないまっとうな市民だ」と思っていることと同じです。でも、この世の法を犯していなくとも、神様の法を犯していない人はいないでしょう。分かりやすく言えば、「良心の呵責を感じることをしたことは一回もない」と断言できる人はいないのです。
 私たちは自分の罪や恥を葉っぱで隠しているし、神の前では全身を隠している。そして、自分でも見ないようにしています。そういう意味で、私たちは誰だって失われた者です。隠し、隠れている者なのです。もちろん、自覚的には、お金もあり人々からの尊敬も受けており、自分の人生に満足している。そういうこともあるでしょう。しかし、それは私たちの表面的現実であり、また表層の思いです。内実は違うし、心の内奥では救いを求めて呻いている。私たち人間の最も深い現実はそういうものだと思います。私たちは自分で自分を造ったのではなく、神様の被造物なのですから。子が親の愛を求め、その交わりを求めるように、被造物は創造主の愛を求め、その交わりを求めているのです。自覚の有無を超えた現実が、そこにはあります。

 神様の救いのご計画 二

 ルカ福音書は二四章まで続きます。そこには、主イエスが十字架の死から三日目の日曜日に復活されたことが記されています。
 日曜日の早朝、墓に納められた主イエスのご遺体に香油を塗りに来た女たちに向かって、天使たちはこう語りかけました。

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。・・・人の子は必ず、罪人らの手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっていると言われたではないか」。

 「必ず、なっている」が「デイ」という言葉です。罪人らの手に渡されて十字架につけられ三日目に復活することが、必ず実現する神様の救いのご計画なのです。
 イエス様がザアカイの家に入るとは「罪人」の家に入ることです。それは、自分は罪人だと思ってはいない多くの人々に軽蔑され、憎まれ、ついに彼ら罪人らの手で十字架に磔にされることに繋がるのです。そのことを、主イエスはこの段階で既にご存知でした。つまり、ザアカイの罪が赦されるために、そして、ザアカイを罪人として軽蔑している人々の罪が赦されるために、ご自分が十字架につけられて死ぬことをご存知なのです。その上で、「今日、ぜひあなたの家に泊まりたい」とおっしゃっている。それは、あなたが赦されるために、清い者として生きるために是非とも必要なことなのだという意味であり、私は必ず十字架の死と復活を通してあなたの罪を清めると約束してくださっていることなのです。
 主イエスはその十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈りつつ、罪の赦しのための犠牲となってくださいました。ただその事実の故に、ザアカイは罪赦され、清い者とされ、世界の祝福の源であるアブラハムの子孫とされたのです。罪の赦しと新しい祝福を受け、神様の愛を自分の家族にもたらしていく者とされたのです。イエス様は、「今日この人は救われた」ではなく、「この家に救いが訪れた」(「救いが実現した」)とおっしゃったのですから。

 隠れていないで、出て来なさい。

 主イエスを見ようとし、しかし、主イエスから隠れようともする。それは私たち多くの人間が持つ共通した思いです。礼拝に来ることは、主イエスを見ようとしたことでしょう。しかし、礼拝に来ても、主イエスから見つけられ、声をかけられることは怖いから隠れている。でも、私たちは神に造られた被造物として、その心の最も奥底において、神様と出会い、声をかけていただき、その御腕に抱き締められたいと願っているのです。そのことに気付いて欲しいのです。
 そして、主イエスは今日も「失われた者」を捜して救おうとして、私たち一人ひとりを見つめつつ語りかけてくださっています。「隠れていないで、わたしの前に出て来なさい。今日、是非あなたの中に泊まりたい。私を受け入れて欲しい」と。その声を聞き取り、喜んで主イエスの前に出て、主イエスを自分の中に迎え入れて救われることが出来ますように、祈ります。
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