「イエス・キリストの系図」

及川 信

       マタイによる福音書 1章 1節〜6節,17節
1:1 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。 1:2 アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、1:3 ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、1:4 アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、1:5 サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、1:6 エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけた。

1:17 こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。

 今日から四回の礼拝において、マタイによる福音書が記すイエス様の誕生の次第を読んでいきたいと思います。

 ファミリーヒストリー

 皆さんの中にも御覧になっている方がおられると思いますが、NHKで「ファミリーヒストリー」という番組が、たまに放映されています。役者やスポーツ選手、またタレントの先祖たちがどのような歩みをしてきたのかを番組スタッフが調査して再現ドラマに仕立てている番組です。三代、四代前の先祖の歴史については、ドラマを見させられるまで、その当人たちは何も知らないのです。私も祖父以上になると何も知りません。
 その番組に登場する人々の先祖には由緒正しい家柄の人もいれば、庶民の人もいます。かつては地位が高かった家柄の人が、明治維新とか戦争という歴史の荒波の中でどん底に叩き落されたり、そこから這い上がったりと色々です。元々は中国内陸部にいた先祖が台湾に渡り、さらに日本にまで渡って来たという方もいました。
 そういう先祖たちの歩みを映像で見させられた人は、一様に目に涙を浮かべて先祖の苦労に思いを馳せ、今生きている自分が何者であるか、これからどのように生きていかねばならぬのかを深く考えさせられるのです。

 系図が表わす時代の変遷

 マタイが記すイエス・キリストの系図は、アブラハムからダビデ王まで。ダビデ王からバビロンへの移住(捕囚)まで、そして、バビロンからイエス・キリストまで、それぞれ十四代で区切られていきます。完全数と言われる七の倍数です。イスラエルの誕生から栄光の時代、栄光から転げ落ちる没落の時代、そして、暗黒の時代と言って良いかもしれません。
 今は選挙期間中ですが、「日本を取り戻す」というキャッチフレーズを聞きます。日本のいつの時代の何を取り戻そうとしているかは、その言葉だけではよく分かりませんが、この国も明治維新以降は激動の時代を生きてきました。富国強兵、殖産興業、領土拡大路線が敗戦によって破綻して以後は、経済大国を目指して世界第二位までになりました。しかし、今は経済的にも政治的にも落ち目になっています。精神的にはどうなのか、その点についての評価は割れるでしょう。今後、この国がどのような歴史を生きていくのか、それは誰も分かりません。
 イエス・キリストの系図に記されている歴史は優に千年を越えます。千年前に今の日本を想像できた人はいないし、千年後の日本を思い浮かべることが出来る人もいません。十年後ですら予想がつかないのです。私たちは歴史の中を生きている存在であり、歴史を外から見ることができるわけではなく、まして、歴史を導く者でも支配する者でもないからです。
 マタイが記す系図に名が記されている人々もまた、明日をも知れぬ我が身を抱えて懸命に生きていただけです。そして、まさか自分が「イエス・キリストの系図」に名が記されることになるとは思っていないでしょう。しかし、彼らは「イエス・キリストの系図」に組み込まれている。それは何を意味しているのでしょうか?それが一つの問題です。

 旧約と新約 連続と断絶

 マタイによる福音書の一つの特徴は、ことある毎に「〜は、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」というマタイの注釈が出てくることです。イエス様ご自身もしばしば、目の前の現実を指して「預言が実現した」とおっしゃいます。
 しかし、弟子たちにこうおっしゃることもある。

「はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」。(13章17節)

 マタイによる福音書は新約聖書の冒頭に置かれた書物として、旧約聖書の流れがすべてイエス様に入り込み、イエス様によって実現していく様を描きます。しかし、旧約聖書と新約聖書の間には継承だけがあるのではなく、全く新しい出発がある。あるいは、それが入ってきたら古い皮袋を裂いてしまう新しいぶどう酒があることを、イエス様の言葉は表わしています。

 異邦人 女たち

 系図とは基本的に血のつながり、特に純血を表わす意図で書かれるもので、この系図も基本的にはそのことを表わしています。しかし、この系図の意図はイエス・キリストがアブラハムの子孫であることを明示しつつ、それだけではないことを告げることにあります。この系図の中には、ユダヤ人ではない異邦人も含まれるからです。
 また、系図は基本的に男の名が記されていきます。この系図もそうです。しかし、「イエス・キリストの系図」には、マリアを含めて五人の女の名が出てくるのです。そのすべてがいわくつきの人物なのです。

 「ユダはタマルによってペレズとゼラを」とあります。しかし、タマルはユダの妻ではありません。ユダの子どもの嫁だった女性です。しかし、色々なことがあって、彼女は遊女の格好をして舅のユダを騙して子を宿しました。それは彼女の罪というよりはユダの罪なのですが、ペレズとゼラはその様にして生まれたのです。創世記38章に出てきます。
 「サルモンはラハブによってボアズを」とあります。ラハブはエリコという町では有名な娼婦でした。しかし、そのラハブがエジプトを脱出してきたイスラエルの民が約束の地を取得するために重要な役割を果たすことになるのです。ヨシュア記に出てきます。
 「ボアズはルツによって」のルツは、ルツ記に出てきます。夫が亡くなった後もユダヤ人の姑に献身的に仕える女性です。貧しくて落穂ひろいをしながら生活をしており、未来に希望を持てない女性です。その彼女の子孫にダビデ王が生まれることになる。
 そのダビデは「ウリヤの妻によってソロモンをもうけ」ます。サムエル記下の11章から12章に出てきます。彼女だけは敢えて「バテシバ」という名前ではなく、「ウリヤの妻」と記され人妻であることが強調されているのです。ウリヤはダビデ王に忠実に仕える部下です。その部下の妻と密通し妊娠したことが分かると、ダビデはウリヤを戦闘の最前線に送って殺しました。このことだけが原因ではありませんが、ダビデの王国は息子のソロモン以降は滅亡へと向かっていくことになります。
 アブラハムというイスラエルの先祖から始まったこの系図は、このようにして異邦人を巻き込み、女たちを巻き込み、王も娼婦も庶民も巻き込みながら成長しますが、次第に滅亡に向かい暗黒時代に入っていきます。そして、その暗黒が極まった時にイエス様が誕生する。誰も想像し得なかったことですが、「神様がそのように導いたのだ」。マタイは、そう言いたいのだと思います。

 アブラハム 祝福の源

 以上のことを踏まえた上で、この系図において決定的に大事な二人の人物について考えておきたいと思います。
 まずはアブラハムです。彼はイスラエルの族長です。しかし、それだけでなく、罪によって呪いに落ちた世界を、神様が再び祝福するために神様によって選び立てられた人物でもあります。単に一つの民族の族長には留まらないのです。
 妻のサラは不妊で、子どもが生まれる可能性がありませんでした。創世記1章から11章までに記されている人類の罪の結果、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という神様の祝福はなくなり、すべてが死で終わるという呪いの中に落ちていたのです。アブラハムはその呪いを身に帯びた人物です。彼に未来はありません。子どもが生まれないのですから、彼の代でその系図は終わるはずでした。
 しかし、神様はそういうアブラハムを選び、親族から離れて見知らぬ地に旅立つことを命ぜられました。それまでの彼を破壊し、新しいアブラハムを造り出すためだと思います。
 アブラハムは神様の意図を知る由もありませんが、神様の命令に従ってカナンの地にまでやって来ました。そのアブラハムに向かって、神様は「あなたの子孫にこの土地を与える」という約束を与えました。彼の妻は不妊であり、彼は既に高齢であり、またカナンの地においてはよそ者であり、また遊牧民なのです。彼に子どもが生まれるはずもなく、土地を取得できるはずもありません。だから、この約束を信じることは難しいことです。
 以後の彼の歩みは、神様の約束を信じるか信じないかを巡ってのものになります。当然のことながら、様々な試練がありました。不信仰に陥ったこともしばしばありました。けれども、神様の忍耐と憐れみの中で彼の信仰は支えられ、また強められていきました。そして、百歳になった時、神様の約束どおりイサクを与えられ、その後、ベエル・シェバに小さな土地を与えられたのです。つまり、神様の約束は二十五年以上の年月を経て実現した。

 試み 主の顕現

 しかし、その時に、神様はアブラハムを「試み」ました。彼の愛する独り子であるイサクをモリヤの山の上で「焼き尽くす献げ物として捧げよ」と命ぜられたのです。その命令を受けた時、アブラハムはもちろん激しく苦悶したでしょう。でも、神様が「先を見ておられる」ことを信じて旅立ち、ついにモリヤの山の上にまで行き、イサクを捧げようとします。自分の手で独り子を犠牲として捧げる痛切な悲しみを経験したのです。
 神様は、今まさに刃物をイサクに振り下ろそうとするアブラハムを見た時に、彼が本当に神を畏れる者であることを知り、「その若者に手をくだしてはならない」と言い、イサクの代わりに雄羊を用意されました。そして、旅立ちの時に約束した祝福を彼に与え、彼を通して全世界を祝福することを約束されたのです。
 犠牲は罪の赦しを求めて捧げるものです。アブラハムは神様の「試み」を通して彼自身の罪を自覚させられていました。だから彼の罪の赦しを願っていました。でも、彼は全人類の罪をもその身に負い、その執り成しをするためにも立てられた人物なのです。イサク奉献は、その使命を彼が果たすかどうかの「試み」でもあったと思います。そして、彼はその「試み」を通して「主の山には備えがある」(アドナイ エレ)こと、主が贖いの羊を備えて、その羊を通して彼を含む全人類の罪を赦してくださる神であることを知らされたのです。そして、彼を通して、主なる神はそういう神であることが全人類に知らされていくことにもなった。イエス様は、そういうアブラハムの子です。しかし、それを越えるキリストです。

 ダビデ 神の国の王

 ダビデ、彼は「ウリヤの妻」の件だけでなく様々な過ちを犯し、そのことに対する裁きを受けつつ、イスラエルの王として立てられ続けた人物です。神様は預言者ナタンを通して、「あなたの王座はとこしえに堅く据えられる」(サムエル下7章16節)と約束されました。彼の子孫が世々に亘って神の国の王座に着くということです。その神様の約束の真実の故に、彼は王として立てられ続けたのです。また、彼は罪を犯しましたけれど悔い改める人でもありました。
 神様は、ご自身の御心を地上で行われる人物を必要とされます。ご自身の支配、その御国をこの地上に広めるためにです。しかし、彼の子のソロモンは次第にこの世の富や権力に心を奪われ、彼の死後、王国は分裂し、滅亡の道を歩み、ついに多くの民はバビロンに捕らえ移されてしまいました。
 その後、世界史のうねりの中で一部の人間がバビロンからエルサレムに帰還し、神殿を再建しますが、イエス様誕生の時代には、基本的にはローマ帝国の支配下にありました。だから、多くの人々はダビデの子の再来を待ち望んでいました。イエス様は、そういう「ダビデ」の子孫です。しかし、それを越えるキリストなのです。
 イエス様は「自分の民を罪から救う」「インマヌエル」だからです。

 洗礼者ヨハネ

 イエス様は、千年を越えるご自身のファミリー-ヒストリーをいつどの様に知らされたのかは分かりません。ユダヤ人は子どもたちに聖書を教えていきます。自分たちの民族の歩みを教えていくことを通して、自分たちが何者であり、だからどの様に生きるべきかを考えさせるのです。イエス様もその教育を受けられました。
 イエス様は悪魔とも聖書の言葉のみで戦われました。多くの旧約聖書の言葉を引用しつつその御業をなされましたし、現実を説明し、未来のことを預言されます。律法、預言書、詩編などを暗唱することができるのです。
 そういうイエス様が、すべての人間の罪を背負い、犠牲となって死に、そのことを通して神様の支配(神の国)をもたらすために自分は生まれたのだと受け止めたのはいつか?それは、恐らく洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時なのではないかと思います。

 天からの声

 イエス様が洗礼を受けられた時、神の霊がイエス様に降り、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえたのです。この言葉を聞いて後に、イエス様は悪魔の誘惑に勝利をし、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って神の国の宣教をお始めになります。
 だから、洗礼をお受けになった時に、明確な召命をお受けになったと思います。この時に、イスラエルの歴史のすべてをご自分に流れ込んでくる全人類の歴史としてイエス様は受け止められたのではないか、罪によって暗黒にまで落ちてしまった人間の歴史の中に光を灯す使命が与えられていることを、自覚させられたのではないかと思います。

 苦悶

 そのことを自覚された時、イエス様は心が張り裂けんほどの苦しみを味わわれたと思います。百年余りのファミリーヒストリーの一端を知らされただけでも、人はその重たさを自覚させられます。イエス様が知らされた歴史は天地創造に遡る人間の罪の歴史です。アブラハムは、アダム以来の罪による呪いを命の祝福に変えるべく立てられた人物だからです。その歴史、罪の歴史をすべてその身に負わねばならない。それこそが、神様の愛する子の使命、御心に適うことなのだ。イエス様が、そのことを知った瞬間、その心は張り裂けていくしかなかったと思うのです。

 暗闇の中の光

 もし、イエス様が、洗礼・聖霊・天からの言葉によって与えられる使命を受け入れなければ、イエス様は「自分の民を罪から救う」ために十字架に磔にされることはありません。イエス様がご自身に与えられた使命を受け入れるということは、ご自分があの恐るべき十字架で死ぬことを受け入れることです。「これはわたしの愛する子」と言ってくださった父なる神様に「見捨てられる」ことなのです。それは、イエス様にとって、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と呻きつつ悶え苦しむことでした。
 イエス様が十字架に磔にされた日、太陽が最も輝く昼の十二時に、「全地は暗くなり、それが三時まで」続きました。その暗黒の中で、イエス様は十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれ、そして「息を引き取られ」ました。
 しかし、その時、ローマの百人隊長たちは非常な恐れにとらわれて、「本当に、この人は神の子だった」と言ったのです。人間が、つまり、罪の故に死の暗闇に支配されている人間が、暗黒の中で神に見捨てられて死ぬイエスという人間を見て、これこそ「本当に神の子である」と知る。この方こそ、暗黒の中に輝く光、死を打ち破る命、呪いを祝福に変え、愛による永遠の支配を打ち立てるキリストであることを知る。そのようにして、罪から救われていく。そのことのために、イエス様は生まれ、召命を受け、激しい葛藤と悪魔との戦いの果てに、ガリラヤ地方で「悔い改めよ、天の国は近づいた」と宣教を開始されるのです。ただ神の愛を信じて、この先に何が待っていたとしても、そこに「主の備えがある」ことを信じて新たな救いの歴史を切り開くために旅立ち、その旅を歩み通してくださったのです。
 そのことをマタイはこう言います。

「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
(中略)
暗闇に住む民は大きな光を見、
死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」

 旧約を越えるキリスト

 イエス・キリストの系図、それはすべての人間が「暗闇に住み」「死の陰の地に住んでいる」ことを示す系図です。そして、その人間をなにがなんでも罪から救おうと決意されている神様の救済のご意志を示す系図なのです。そして、その救済の意志は神の子イエス・キリストにおいて完全に示されるのです。
 この系図の中に含まれない人間はいません。ユダヤ人も異邦人も、男も女も、身分の高い者も低い者も、皆、この系図の中にはいます。すべてが救われねばならぬ罪人です。だから、私たちがこの系図の中にいます。
 その私たちすべてのために、イエス様は暗黒の中で神に見捨てられる裁きを受けられました。罪の贖いの小羊としてご自身を犠牲として捧げられたのです。その点で、イエス様はアブラハムとは決定的に違います。そして、神はご自身の独り子をさえ惜しまずに犠牲としてくださる神様であることをお示しになり、この小羊を通して全世界の民を新たに祝福されたのです。だから、イエス様はアブラハムに代わって全人類に対する新しい祝福の源なのです。
 この神の子イエス・キリストは、十字架の死を死なれたが故に神様によって復活させられました。そして、復活の主イエスは、ガリラヤの山の上で弟子たちに向かってこうおっしゃったでしょう。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 この点において、イエス様はダビデとは決定的に違います。イエス様がもたらす神の支配は天地を貫き、歴史を貫き、生死を貫くものだからです。人間の目にはしばしば隠されていますが、イエス様は今も、神様から授かった権能をもって世界を支配し、歴史を導き、天の国の完成に向かって歩んでおられるのです。そして、私たちはかつて罪の闇の中に住んでいた者です。しかし、今は洗礼を受けたキリスト者です。イエス様を神の子キリストとして宣べ伝え、信じた者に洗礼を授ける教会の枝とされているのです。なんと光栄なことかと思います。そして、そのことのために生きる私たちと、イエス様はいつも共にいてくださいます。イエス様は「インマヌエル」だからです。

 神の民の系図に連なる

 そのイエス様がお生まれになった。今日も私たちに語りかけ、私たちと共に生きてくださっている。いつか神の国を完成してくださる。そのことを知る時、いや信じる時、どうしてイエス様を賛美しないでいられるでしょうか。どうして証をしないでいられるでしょうか。私たちは今や、「諸人こぞりて、ほめたたえよ、主は来ませり」と賛美しつつ歩む神の民なのですから。
 この季節、普段に増して、愛する人々を教会に招き、「あなたのために主は生まれた。悔い改めて福音を信じてください」と教会に招き、主の御降誕を感謝し祝うために歩みたいと思います。
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