「アッバ、父よ」

及川 信

       ローマ信徒への手紙 8章 12節〜17節
8:12 それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。8:13 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。8:14 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。8:15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。8:16 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。 8:17 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

 継続している「3・11」

 今年の3月は、皆さんと共に詩編22編を読み続けました。22編は、

「わたしの神よ、わたしの神よ、
なぜわたしをお見捨てになるのか。
なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず
呻きも言葉も聞いてくださらないのか」

 という嘆きで始まり、最後は

「あなたに賛美をささげ(中略)、
成し遂げてくださった恵みの御業を
民の末に告げ知らせるでしょう」

という感謝と賛美に満ち溢れる言葉で終わります。
 この詩が私たちの一ヶ月の歩みを導き、支えてくれたことを思います。今年の3月は、多くの苦しみや悲しみを知らされた月でした。何度も、胸に迫ってくる悲しみがありました。
 2011年3月11日に起きた東日本大震災は、3日後の原発事故も重なって、今も継続している出来事だと思います。あの震災が何であったか、何であるかは今も未解決の問題です。今も、「なぜ」という問いは続いており、「何のために起こったのか、何をなすべきなのか」という問いは深めていかねばなりません。そして「誰か助けてよ」という苦しい叫びは今も挙げられているのです。「助け」とか「救い」とは何であるかも考えるべきことです。
 皆さんに派遣される形で、私は5日から7日まで石巻山城町教会と福島教会を訪ね、牧師や信徒の方たちと交わりの時を与えられました。そういう交わりを通して少しずつ教えられることは、神様は苦難を共にしてくださる方だということです。神様から見捨てられたと思わざるを得ないその時に、実は神様は最も近くにいてくださる。上を向いて叫んでいる時、実は神様は下にいる。天におられるだけでなく、地上で共に苦しんでくださっている。さらに地下の世界、死者の世界にまで降って死者にも救いをもたらし賛美を与えてくださる。そういうお方であることをその時その場で示されて感謝する人もおり、後からじわりじわりと示されていく人もいる。そういうことを思わされました。22編の作者は、苦しい時の経過の中で、地の果て死者の世界にまで神様はその支配を広げておられることを知らされて行ったのです。
 しかし、そうは言っても、愛するご家族を、自宅を、仕事を、故郷を、そして心の拠り所であった礼拝堂を失った方の悲しみが深いことは言うまでもありません。また、放射能汚染の影響に対する絶えざる恐れの中に生きている方たちの苦しみは、ますます深まっていると言うべきでしょう。

 お二人の死

 その被災地の訪問から帰った日に、教会員のTMさんが交通事故に遭われて重態であることを知らされました。医師たちの治療とご家族の介護の甲斐なく、TMさんは一週間後に亡くなってしまいました。その葬儀の日に、今度はFKさんがご自宅のお風呂場で亡くなったことを知らされました。お二人とも直前の日曜日には神の家族として共に礼拝を捧げていたのですから、私たち教会の者たちの驚きと悲しみは深いのです。
 しかし、不慮の事故で愛する家族を失う。それも何の前触れもなく突然失うことで与えられる衝撃と悲しみは本当に深いものだと思います。遺されたご家族に主の慰めが与えられるように祈り願うばかりです。

 喪失感

 この3月は、震災に関する様々な報道やドラマの放映がありました。私は出来るだけ見ようと努めましたが、録画したままのものがいくつもあります。震災関係のものは何を見ても胸が痛みます。
 被災された方たちが経験した苦しい現実は様々です。でも、そこにある苦しみや悲しみの根源には「喪失感」と言うべきものがあるように思いました。そして、愛する者を失った悲しみは、自分自身を失うこと、自己喪失に繋がるのだと思いました。人は愛の交わりの中で生きているものです。その交わりの中で、自分が生きていることの意味を感じるのだし、自分の命の尊さを感じている。しかし、突然、愛する夫、妻、親、子、孫、恋人、友人がいなくなってしまう。その時、そのようにして命を失ってしまった人のことを思って悲しみます。そして、次第に自分自身の生きる意味を見失い、自分の存在が無価値なものに思えてくる。そういうことが起こると思います。津波によって妻も子もすべて一気に亡くされた方もおり、そういう方が将来に対する希望をもって生きていくということは、本当に大変なことです。

 詩編22編の作者は、こう言いました。

「わたしは虫けら、とても人とはいえない。
人間の屑、民の恥。」

 孤独に陥った時、人は自分のことをこのように思うのではないでしょうか。
 最近の説教の中で何度も引用してきたことですが、相馬市に暮らす女子高生たちは、放射能汚染が将来の自分たちの肉体と人生にどんな影響を与えるのか分からない恐怖と、大人たちの無関心に対する怒りに震えながら、「ねーねー、だれか私たちを助けてよ」と叫びました。それは彼女らがつくった演劇の中の台詞です。その台詞を叫ぶのは、希望を失った上に激しく傷つけられて死に呑み込まれてしまった女の子です。愛する者を失った悲しみに加えて、将来は結婚して子どもを産みたいと願う未来までが奪われたと思う時、人は自己喪失の悲しみに呑み込まれてしまうことがあります。実際に呑み込まれずとも、ギリギリの所まで行ってしまうことがあります。

 諸々の悲しみに打ちひしがれてはいけない

 昨年の2月に、やはり愛する兄弟の一人であったKHさんを病によって突然天に送りました。KHさんは、私よりもはるかに若い方であったこともあり深い悲しみを味わいました。多くの方が深く悲しまれました。もちろん、夫人は悲しみのどん底に落とされました。
 その時、ある方がこういう言葉を私に書き送ってくださいました。

「諸々の悲しみに打ちひしがれてはならない。Maybe,否surely,諸々の悲しみをくぐって、真の悲しみに達した方はあの方以外にいないに違いない。その方だけが慰めを用意してくださる。」

 「真の悲しみに達した方」、それはあの十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と祈りつつ息を引き取られた方です。罪人の罪を背負って十字架刑に処せられるという壮絶な悲しみを経験された主イエス・キリストです。この方と出会う。それは人生において決定的なことです。この方だけが与えてくださる真の慰めを受けることだからです。

 転機

 「西暦」とは「キリスト暦」のことです。2013年とは、イエス・キリストが地上に誕生してから2013年目という意味です。キリスト者は、キリスト誕生以前と以後で人間の歴史は決定的に変ったと考えているのです。キリストの誕生こそが歴史に対して決定的な転機をもたらしたのだと考えている。それと同じように、イエス・キリストを信じる信仰を告白する前と後では決定的な違いがあります。
 3月17日、UTさんが洗礼を受けられました。それは、悲しみが多かった私たちにとって非常に大きな喜びでした。それは、何よりも神様の喜びです。「この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」という喜びが、天におられる父なる神様にはあります。

 愛と命 罪と死

 古代キリスト教会においては、洗礼式は年に一回、イースター礼拝の中で執行されたと言われています。洗礼式はキリスト者が誕生する式です。それは、それまでの自分が死ぬことが前提となっています。同じ人間の中に新しい命が誕生するためには、それまでの命が死なねばならないことは当然です。もちろん、その死は肉体の死ではありません。肉体の死だけが人間の死ではないし、その逆に肉体の命だけが人間の命でもありません。
 先程から言っていますように、愛の交わりの中で生きていた者は、相手が死ぬことで自分の存在をどこに傾けたらよいのか分からなくなります。若い頃、私はそのことが怖くて人を愛することに怯えました。もし、全身全霊を傾けて誰かを愛してしまったとして、その人が突然死んでしまったら一体どういうことになるのかと思って怯えたのです。
 しかし、次第に、人は全身全霊を傾けて誰かを愛することなど出来るのか、人間の愛など所詮は偽りでしかないのではないかということに怯えるようになりました。真実の愛、永遠の愛など人間にはない。少なくとも私はその愛で愛されることはなく、愛することもない。そう思わざるを得ませんでした。そして、「そう思う」ということは、恐ろしく空虚なことです。
 真実の愛、永遠の愛に生き得ないのは、私たちが肉をもって生きている限り、その肉の欲望が私たちを支配するからです。その肉の欲望とは自己愛、自己中心、エゴイズムと言ってもよいことだろうと思います。そういう肉の欲望、愛の交わりを壊すものを、聖書では「罪」と言います。愛をもって私たちを創造し、生かしてくださる神様を拒絶し、命も人生もすべて自分のものであり自分のためにあると思って生きていることは、この世においては罪でも犯罪でも悪でもありません。でも、命の源である神様を捨てているという意味でそれは「罪」です。気付かぬままに自らを死へと追いやっている罪なのです。
 私たちにおいては、人を愛することも自分のためである場合がいくらでもあります。愛する人も自分のために存在すると考えているのです。お互いがそう考えているとすれば、そこに真実の愛の交わりは成り立ちません。自分だけを愛している者が二人いて、互いに愛し合っているつもりでも、そこには絶えずある種の不安とか恐れがあるものです。聖書が「罪に支配されている」とか「罪の奴隷」と言う場合、それは真実の愛を生きていない状態、あるいはそういう人間のことです。悪人とか犯罪者という意味ではありません。ごく普通の人間のことであり、その多くは善良な市民です。
 しかし、罪は必ず人間に死をもたらします。交わりの死、関係性の死です。神と人、人と人の交わりを喪失する死です。

 死と復活

 信仰を告白して洗礼を受けるとは、自分が罪に支配されて死んでいたことを知ること、認めることです。そして、神様はそういう罪人を愛し、御子イエス・キリストの贖いの御業を通して新しく生かしてくださると信じることです。
 洗礼式の時に私が必ず読む聖書の言葉は、先程読んだ箇所の少し前、ローマの信徒への手紙6章の言葉です。そこでパウロはこう言っています。

 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命の中に生きるためなのです。(中略)わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。(6:4〜6)

 洗礼を受けるとは、それまでの「古い自分」が死ぬことです。罪の奴隷としての自分が死ぬことです。それは自分を永遠に愛してくれる方に出会うことだし、その方を愛し始めることです。その方との愛の交わりに新たに生き始めることです。その方とは、十字架の上で真の悲しみに達した方。罪の奴隷の身代わりとなって「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と呻き、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈りつつ死んでくださった方。ご自分の死を通して罪の赦しを与え、神様との永遠の愛の交わりを開いてくださった方、神の独り子イエス・キリストです。この方に出会う。その愛を心に感じる。信じる。その時、それまでの自分が死に、新しい自分が生き始める。そこに私たちの復活経験があります。この時を境として、私たちの人生は決定的に異質なものに変ります。

 神の子にされた喜び

 UTさんは長老会における信仰告白をこういう言葉で締め括りました。

「神を堅く信じる信仰をここに告白し、これからの新たな人生を、キリスト者として生きることを決意します。そして罪を犯した私でさえ受け入れてくれるイエス・キリストの十字架の死と復活を信じ、洗礼を受けることを望みます。」

 自己愛の中に留まり、神を拒絶し、人を愛することが出来なかった。裏切ることもあった。そういう罪を犯した自分を受け入れてくださるイエス・キリストを信じて洗礼を受ける。そのことによって、古い自分が死に、新たに一人のキリスト者が誕生するのです。
 しかし、イエス・キリストが私たち罪人を「受け入れる」とは、どういうことなのか。
 パウロは、言います。

神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。

 私たちはかつて「罪の奴隷」だった。私たちの主人は罪であり、その結果は死であった。しかし、聖霊の導きの中でイエス・キリストの愛を知らされた。信じた。その時、私たちは「罪の奴隷」から「神の子」とされたと言うのです。この身分は永遠に変ることがありません。決して失われることがないのです。この地上で夫であるとか、妻であるとか、親であるとか、子であるとかは死を超えた身分ではありません。この世における役職や身分などは、この世においてさえ変化します。まして永遠のものではありません。しかし、信仰によって与えられた「神の子」としての身分は、この世においても、来る世においても変ることがないものです。神様が永遠の方であり、その愛は何にも増して強く、その愛によって私たちは神の子とされたのですから。

 アッバ、父よ

 イエス様は、神の独り子として神様を「アッバ」と呼びました。これは、「父よ」という言葉です。言葉と言うより声です。赤ん坊がまだ言葉を喋れなくとも、お母さんやお父さんをママとかパパとか呼びます。それと同じです。赤ん坊が生きていく上で絶対に必要な存在を必死になって呼んでいるのです。お父さん、お母さんとの愛の交わりの中でしか生きていけないから、赤ん坊は絶対的な愛と信頼を込めて「ママ、パパ」と呼び、その腕の中に生きるのです。イエス様にとって神様はそういう存在です。
 罪に支配されていた当時の私たちは、神様を「父よ」と呼ぶことなく、自分の命を自分で創造したかのように錯覚し、「自分の命は自分のもの、どう生きようが自分の勝手」と思い込み、自分を主人として神様との交わりを捨てていました。しかし、そういう私たちのために十字架に掛かって死んでくださったイエス様の愛と、イエス様を三日目に死人の中から甦らせ給う神様の全能の愛によって、私たちの罪は赦されました。そして、信じる者はその信仰によって神の子として新たな命が与えられる。それがイエス様の愛であり神様の愛であり、上野さんが信じた愛であり、私たちキリスト者が信じている愛です。
 その愛を信じいつも新たに求めて、私たちは祈り、礼拝する度ごとに「アッバ、父よ」と呼ぶのです。神様を「父よ」と呼ぶことが出来る所に、私たちの救い、イエス・キリストの復活の命に与る救いがあります。信じる者の中にイエス・キリストが生きてくださっているからです。

 父の家

 私はTMさん、FKさんのご遺体を棺にお納めする納棺式において、いつものようにヨハネ福音書14章の主イエスの言葉を読みました。
 主イエスはご自身がほどなく死ぬこと。弟子たちは、自分の命を惜しんで、イエス様への信仰を捨ててしまうことを預言されました。その言葉を聞いて弟子たちは激しく動揺します。その弟子たちに対して、イエス様はこうおっしゃるのです。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」(ヨハネ14:1〜4)

 TMさんは、「信徒の友」という月刊誌の愛読者でした。私は、田中さんの葬儀が終わってから、「信徒の友」5月号の原稿を急いで書きました。それは、震災から2年を経た今、被災者の方たちに聖霊の励ましが与えられるようにヨハネ福音書14章を元にして何か書いて欲しいと依頼されていたからです。
 ヨハネ福音書14章の言葉は納棺式とか葬儀の時にしばしば読まれます。それは、イエス様が十字架の死と復活を通して天に場所を用意したら戻って来て、信じる者たちを天の住まい、「父の家」に受け入れる約束の言葉として理解されているからです。それは間違いではないと、私も思います。でも、ここでイエス様は、聖霊によって信仰を与えられる者は地上に生きている時既に「父の家」に迎え入れられることになるとおっしゃっているのです。「父の家」に迎え入れられるとは、父の子、神の子とされることです。イエス様と共に神様を「アッバ、父よ」と呼びつつ生きることです。「わたしはそういう救いをあなたがたに与えるために十字架で死に、復活し、聖霊において戻ってくる。そのことを信じなさい。」イエス様はそうおっしゃっているのです。
 「父の家」とは教会です。その教会とは、地上に建っている目に見える教会のことではありません。少なくともそれだけではない。地上に建っている教会は、聖霊において天の教会と繋がっているが故に教会なのです。もし、天の教会と繋がっていないならば、それは単なる一つの団体に過ぎません。私たちの中渋谷教会も、イエス・キリストの誕生、十字架の死、葬り、復活、昇天と聖霊降臨を通して天地を貫いて建設された「父の家」に繋がっているが故に「教会」なのです。その「父の家」に私たちは子として招き入れられている。だから、信仰を告白して洗礼を受けることに救いがあるのです。

 呼ばれた者たち

 「教会」は、ギリシア語ではエクレシアと言います。それは「呼ばれた者たち」という意味です。神様から「わたしの子よ」と呼ばれた者たちの共同体、それが教会です。だから、私たちもまた「アッバ、父よ」と呼ぶ。そして、父なる神様の言葉を聞く、命の息である聖霊を呼吸する。それが私たちの礼拝、永遠に続く神の子としての礼拝です。その礼拝は、死を超えて天上でも捧げられている礼拝です。
 最後に、パウロがローマの信徒への手紙8章の最後に記している言葉を読んで終わります。

 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
(中略)
 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
(ローマ8:32〜39)
 全くその通り。「アーメン」としか言い様がありません。
主題説教目次へ戻る
礼拝案内へ戻る