「その水をください」

及川 信

       ヨハネによる福音書 4章 1節〜15節
4:1 さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、 4:2 ――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――
4:3 ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。 4:4 しかし、サマリアを通らねばならなかった。 4:5 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。 4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
4:7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。 4:8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。 4:9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。 4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」 4:11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。4:12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 4:15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

 対話

 「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」


 今日与えられているイエス様の言葉です。その言葉を聞いた時、それまでイエス様と対話をしていた女は思わず、「主よ、その水をください」と言いました。
 この先を読むと分かることですが、この女はこれまでに五人の男との結婚と離婚を繰り返し、今は新たな男と同棲中の女です。その事実を聞いてふしだらな女だと考えるか、愛に恵まれない可愛そうな女だと考えるかは、人それぞれだと思います。いずれにしろ、この女には真実な愛に対する飢え渇きがある。それは確かだと思います。楽しくて仕方がない充実した人生を生きているわけではなく、真実な愛を求めてさ迷っているという印象を受けます。
 しかし、それにしても、イエス様の言葉は不思議です。イエス様はどこかに魔法の水を隠し持っているのかと言えば、そういうことではないのです。この先を読んでも、イエス様が女に水を与えて飲ませる場面はありません。それでは、「わたしが与える水」とは何なのか。あるいは、「与える」とはどういうことなのか。ここでイエス様は何をおっしゃっているのか。

 カルカッタの駅で

 マザー・テレサというカトリックの修道女がいました。1997年に天に召された方です。彼女は「神の愛の宣教者」という修道会の創始者で、インドのカルカッタ(コルコタ)を本拠地として、飢え渇きによって路上で倒れている人々を最期まで看取ったり、孤児たちに教育を与えたりする活動をした人です。当時も今もそのことに対する評価は様々です。そのマザー・テレサの生涯を描く映画がいくつかあります。そのうちの一つは、彼女が修道女として新たな召命を受けるきっかけになった出来事から始まります。それはこういうものです。
 時は、第二次世界大戦が終わった3年後のことです。当時のインドは、今よりもさらにイスラム教やヒンズー教の宗教間の対立が激しく、政治的立場も様々でしばしば流血の惨事が起こっていました。ある時、出血によって瀕死の状態になったヒンズー教徒の男性を、テレサは修道院内に入れて手当てをしました。しかし、それが大きな問題となり、彼女は遠く離れた地方にある修道院に身を潜めるためにカルカッタの駅に行くのです。駅は、行き交う大勢の人々と大人や子どもの物乞いでごった返しています。
 そういう騒然とした駅のプラットホームに、一人の男性が茣蓙を敷いて倒れているのです。人々は誰もその人に気付かない、あるいは気付いていても気づかぬ振りをして行きかっている。テレサは気付いていましたが、そのまま汽車に乗ろうとします。でも、乗る前に振り返ってその男を見ると、彼は弱った手を上げてテレサに手招きをするのです。彼女は恐る恐る近寄って、その男が何を言うのかと顔を近づけました。すると彼は、こう言ったのです。「わたしは渇く」(I’m thirsty)。そう言った後、彼は死んでしまったかどうかは分かりませんが、力なく目をつぶってしまいます。「わたしは渇く」とは表面的な脈絡では、「喉が渇いている。水をください」ということでしょう。しかし、それだけなのか?

 「わたしは渇く」

 彼が「わたしは渇く」と言ったその瞬間、テレサは金縛りにあったような表情になります。その目が異様に開いて、何か恐るべきものを見たかのような雰囲気が漂うのです。映画では、一瞬、周囲の人々がすべて消え、倒れている男とテレサだけしかいない無音の場面になるのです。その二人だけの姿をかなり高い所から見ている画面なのです。それは、天の神様からの眼差しを感じさせる場面です。
 その後、彼女はその男をホームに残したまま田舎の修道院に行きます。その修道院における最初の場面は、十字架に磔にされたイエス様が画面の前方に映り、その向こう側でテレサが祈るというものです。この映画の流れと場面の作り方は、明らかに、ヨハネによる福音書を意識して作られたものです。
 ヨハネによる福音書においては、十字架に磔にされたイエス様の言葉はこういうものです。

「わたしは渇く。」

 駅で倒れている男が「わたしは渇く」と言ったその時、若き修道女のテレサが金縛りにあったような表情になった訳は、その男と十字架のイエス・キリストがダブって見えたからです。彼女にとって、飢えや渇きによって路上で死んでしまう人は、これまで日常的に見てきた姿なのです。インドの大都会では、そのようにして命を落とす人がそれなりの数いたからです。
 しかし、この時、彼女は全く初めての体験をしたのです。その男がイエス様に見えた。この体験を通して、彼女は修道女になる召命からさらに次元の違う召命を与えられたのでしょう。そして、結果として、それまでの修道会を退会してカルカッタの貧民街に独りで住み込み、貧しい子どもたちの教育を初めとする様々な慈善事業を始めて行ったのです。その業が次第に全世界に拡大していくことになります。

 キリストだと気づかなかったから

 私が学生だった頃から彼女の活動が日本でも報道され始め、彼女が語る言葉が小さな本にまとめられたりし始めました。その言葉はいずれもシンプルにしてシャープなもので、時にグサリと心に突き刺さってきます。その一つは、こういうものです。

「もし貧しい人々が飢え死にするとしたら、それは神がその人たちを愛していないからではなく、あなたが、そしてわたしが、与えなかったからです。神の愛の手の道具となって、パンを、服を、その人たちに差し出さなかったからです。キリストが、飢えた人、寂しい人、家のない子、住まいを捜し求める人など痛ましい姿に身をやつして、もう一度こられたのに、わたしたちがキリストだと気づかなかったからなのです。」(『マザー・テレサのことば』女子パウロ会 1979年)

 カルカッタの駅でテレサが体験したことは、こういうことです。彼女は、渇きによって倒れている男にキリストを見たのです。
 私たちキリスト者は大体においては、「飢えた人や寂しい人の友となりなさい。それはイエス様が願っておられることです」という形で愛の実践を考えると思います。飢えた人、寂しい人がキリストであるとはなかなか思いません。そもそもそれは「思う」ことではなく、そのように「見えるか見えないか」の問題です。でも、マタイによる福音書の中には、困窮に陥った人を助けることはイエス様を助けたのと同じであるとイエス様ご自身がおっしゃっていますから、マザー・テレサが言っていることは正当なことだと思います。
 しかし、困っている人はプラットホームや路上で倒れているだけではなく、私たちの職場にも家庭にも友人の中にもいます。その一人に寄り添い、どこまでも愛していく。そのことが私たち多くの人間に与えられている現場だと思います。マザー・テレサに与えられている現場があり、その働きがあります。私たちにも、それぞれの現場があり、愛の現し方があるのです。そこに優劣はありません。

 それでもなお

 先日、ある大学の公開講演会に行きました。主題は『信仰と学問』に関してでしたが、その中で配られたレジュメにマザー・テレサの言葉として一つの詩が掲載されていました。カルカッタ(コルコタ)にある「孤児の家」の壁に記されている一つの言葉だそうです。原作者は別にいるようですが、マザー・テレサの実感でもあるので、「孤児の家」の壁に書かれているのだと思います。
 少し抜粋して読みます。

人々は理性を失い、勝手で自己中心的です。
それでも彼らを愛しなさい。
なにか良いことをすれば、隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるでしょう。
それでもなお、良いことをしなさい。
誠実で優しいが故に、あなたは簡単に傷つくでしょう。
それでも、誠実で、優しくありなさい。
本当に助けが必要な人々ですが、彼らを助けたら、
彼らに襲われてしまうかもしれません。
それでも彼らを助けなさい。
持っている一番良いものを分け与えると、
自分はひどい目にあうかもしれません。
それでも、一番良いものを分け与えなさい。

 私たちが困った人を助けることは大事です。それは、イエス様が私たちに求めている愛の実践であることは間違いありません。しかし、私たちがそのような愛に生きる時、そこに混じる感情の一つは優越感だと思います。また、その優越感の中に潜んでいる一つの思いは、助ければ必ず感謝されたり、尊敬されたりするはずだという思いでしょう。たしかに感謝されることは多いのです。しかし、いつもそうであるとは限りません。助けた人に無視されたり、逆恨みされたりすることもあります。私たちがそういう態度をとったこともあるはずです。しかし、感謝されたり、尊敬されることが目的でないのであれば、相手がどういう人であっても愛をもって助けなければおかしいということになります。
 イエス様は、「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。」「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とおっしゃっています。
 しかし、そのような愛で愛することが出来る人は決して多くはないと思います。

 絶望的な思い

 この「孤児の家」に記された言葉は、貧しい人は「痛ましい姿に身をやつして、もう一度こられたキリスト」だという立場ではありません。恩を仇で返されるとしても、そんなことはお構いなく困窮にある人を愛されたのがイエス・キリストであり、私たちはそのキリストに倣うべきだという立場だと思います。どちらの立場も、私たちを追いつめていき、絶望的な思いにさせるものなのではないでしょうか。
 しかし、なぜそういう思いにさせられるのかと考えてみると、それは私たちが愛する側に身を置いているからだと思います。愛する側に身を置いてマザー・テレサやイエス様の言葉を聴くならば絶望的な気分になる他ないと思います。「困った人を助けることが信仰だ。イエスに倣うことだ。キリスト者とはキリストに倣って生きる者なのだ」と豪語することは私には出来ません。「それも信仰かもしれない。しかし、その信仰を自力で生きることは不可能だ」と言う他にないのです。そして、「私にとってキリストとは倣いようもないお方だからこそキリストなのだ」と言う他にありません。

 壁を越えるイエス

 サマリアの女は五人の男との結婚と離婚を繰り返し、今は新たな男と同棲中の女です。それは現代でもそう滅多にないことです。都会であれば、そんな事情は知られずに暮らしていけるかもしれませんが、昔の村落ではそんなことはあり得ません。人々の噂に上ることは間違いありませんし、その噂の大半はこの女に対する非難や蔑みに満ちたものであるはずです。そして、井戸の水汲みは朝と夕方の仕事です。その時、町の女は井戸に集まって井戸端会議をするでしょう。その時間帯には、この女は井戸に来ることは出来ません。女は、誰もいない「正午ごろに」井戸に水を汲みに来たのです。人目を避けるためにです。
 サマリアとはユダヤ地方の北隣に位置しますが、ユダヤ人とサマリア人はお互いに口を利かない関係でした。近親憎悪的な感情を抱いていたのです。現代でも隣の国と関係が良好な国はほとんどありません。国境線は歴史の中でしばしば変動しますし、それは絶えず戦争によって起こることですから互いに根深い敵対感情を持っているものです。現代の日本と周辺国の関係を見てもそれは分かります。しかし、イエス様はそういう敵による隔ての壁も簡単に越えて行ってしまいます。
 ユダヤ人の男であるイエス様がサマリアの地に入って行き、その井戸で「水を飲ませてください」とサマリアの女に話しかける。これも極めて異例なことです。彼女が「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませて欲しいと頼むのですか」といぶかしむのは当然です。男が外で女に声をかける。それも頼みごとをすることもタブーに属することだからです。

 立場の逆転

 その後の対話もまた不思議に満ちています。イエス様は、「水を飲ませてください」と言った直後なのに、水を与える側に立ち始めていきます。女は、目の前にある「井戸」が深いことを強調しながら、「水を汲む桶も持っていないくせに何を言っているのか」と腹を立てます。しかし、イエス様は平然として「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」と、おっしゃる。すると、いきなり女が「その水をください」と叫ぶのです。
 ここで立場が逆転します。与える側が求める側に逆転するのです。渇いていたはずのイエス様が渇くことのない水の与え手になり、水を汲んで与えるはずの女が永遠の命に至る水を求める者となる。こういう立場の逆転はどこでどのようにして起こるのか。それが問題となります。

 迷子の渇き

 ヨハネ福音書で「水」が出て来る場合、それは飲んだり洗ったりする水でありつつ、神様から注がれる命の霊(聖霊)を意味する場合があります。今日の箇所もそうだと思います。
 また、イエス様が座っていた「井戸」は原語では14節に出てくる「泉」と同じ言葉です。生きた水を湧き出す源としての「泉」です。それに対して、サマリアの女が「この井戸は深いのです」と言う場合の「井戸」は人間が掘った井戸のことです。イエス様は、その井戸から汲む「水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」とおっしゃいました。さらに、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」とおっしゃったのです。
 そのようにおっしゃるイエス様は、人々を愛しました。刃物で人を傷つけたことなどありませんし、まして殺したりしたことはありません。また、当時の支配者であるローマ帝国に対して反乱を企てたこともありません。十字架で処刑されるような犯罪を犯してはいないのです。すべての人々、特に困窮の中にある人々を愛し、助けてきたのです。しかし、人々を愛し、助けてきても、その人々に襲われることはあるのです。裏切られることもある。愛にはいつでも愛が返って来る訳ではありません。私たちも愛に愛を返さなかったことは何回もあるはずです。
 サマリアの女はそのことを嫌というほど経験してきたでしょう。裏切られもしたし、裏切ってもきただろうと思います。だからこそ愛を求めてさ迷う。心の渇きを埋めるために真実な愛を求めてさ迷い続ける。つまり、罪を赦してくれる愛を求めてさ迷うのです。また、自分自身も罪を赦せる愛を求めてさ迷うのです。しかし、そのような赦しの愛を与えてくれる存在はこの世にはいません。だからこの世の中で求めれば求めるほど、渇きは強まるのです。彼女は、その渇きによって内面においては倒れている。瀕死の状態になっているのです。カルカッタの駅で倒れている男もそういう人間の一つの象徴だし、サマリアの女もそうでしょう。

 十字架上の渇き

 そして、主イエスはそういう人間の「渇き」をあの十字架の上で味わってくださったのだと思います。「わたしは渇く」というイエス様の言葉は、そのことを表していると思います。
 しかし、それだけではない。いや、それどころではない。十字架に磔にされて死にゆくイエス様には愛した相手に襲われる悲しみ、愛した相手に裏切られる苦しみ、そして、ついに殺されてしまう絶望があったでしょう。しかし、この時のイエス様にはそれでもなお人を愛することを止めない神の力が漲っていると思います。そして、その「人」とは、命の源である神様から離れて愛を求めてさ迷っている人、つまり、すべての罪人のことです。罪人とは犯罪者とか悪人という意味ではありません。迷子のことです。この迷子を、命の源である神の許に導き返す道を、イエス様は十字架の死と復活を通して切り開いてくださったのです。

 信じることによってしか

 それは、私たちの想像を越える愛であり、理解を越える愛です。無視されても、裏切られても、襲われても、ついには殺されても、その人を愛し、その罪を赦す愛など、私たち人間にはありません。この愛は、マザー・テレサが実践しようとする愛とも全く次元が違うのです。この愛は、神のみが実践できる愛、そして実践してくださった愛だからです。その愛は私たちには理解不能です。
 また、愛は、そもそも理解するものではありません。愛は、信じるものなのです。愛は、信じることによってしか受け取ることができないものです。愛は、その中に全身全霊を委ねた時初めて私たちの渇きを癒し、さらに泉となってわき出てくるものなのです。
 イエス様は、神様の愛に全身全霊を委ねられた方です。だから、いつもイエス様の内からは愛の泉がわき出てくる。人から無視されても、邪険にされても、恨まれても、憎まれても、愛が泉となってわき出てくる。そして、ついに殺されてもです。いや、その死においてこそ、愛がほとばしり出てくるのです。

 血と水が流れ出た

 イエス様は十字架の上で「わたしは渇く」とおっしゃった後、「成し遂げられた」と言って息を引き取られました。
 その後、イエス様を十字架に磔にした兵士が槍でイエス様のわき腹を刺したのです。「すると、すぐ血と水とが流れ出た」と記されています。人々の罪が赦されるために流される犠牲の血がそこにはあるでしょう。そして、命の源である愛の泉としての聖霊がイエス様の体から流れ出てきたのです。
 サマリアの女が、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」と叫んだその水は、十字架の主イエスを通して、ただこの方を通して私たちに与えられる。ヨハネ福音書はそう告げています。そして、この水は信じる者が飲むことができる水です。この水を飲んでいる者だけが、あるいはこの水を飲んでいる時にだけ、私たちは真実な愛で愛されていることを知るのです。そして、真実な愛で愛されていることを知り、その愛に身を委ねている時に、自分の身近で助けを必要としている人を愛し続けることが出来るのです。
 人は、真実に愛されなければ愛することは出来ないし、赦されなければ赦すことは出来ません。その愛と赦しの源はイエス・キリストなのです。

 待っているイエス

 私たちは、困窮にある人を助けることがなかなか出来ません。見知らぬ人はもちろんですが、時には知人や家族ですら愛することが難しいのです。何故かと言えば、私たちの中に愛がないからです。実は、渇いているのは私たちなのです。愛は井戸の水のように貯蔵しておくことは出来ません。そういう水は死んだ水です。生きた水とは絶えず流動しているのです。その生きた水を絶えず新たに受け入れない限り、私たちには人に与える愛などあるはずもないのです。その愛がないまま愛そうとする時に陥っているのは優越感です。そうである限り、愛した相手に無視されるだけでも愛することを止めるでしょう。そもそも愛がないのですから、それは当然のことです。
 イエス様が心を痛めつつ見ている現実は、そういう私たちの枯渇した心です。心が枯渇し、真実の愛に生き得ない私たちがご自分の所に来るのをイエス様は待っておられるのです。そして、イエス様と対話することを通して、いつか「その水をください」と求めることを願っておられるのです。

 礼拝とは

 礼拝を捧げる。それは、井戸のそばに座っているイエス様と出会い、対話することです。生ける水は誰が与えてくださるのかを知り、その方に「その水をください」と願うことです。真実をもって願うことが出来れば、水は必ず与えられます。聖霊によって愛が心に注がれ、その愛は内からわき出てくるのです。
 今日、初めて礼拝に来られた方もおられるでしょうし、1年ぶりの方もおられるでしょう。是非、来週も来ていただきたいと願います。ここに泉があるからです。私たちを生かす愛があるからです。この泉を受け入れる時に、私たちはほんの僅かであっても愛に生きることが出来るようになるのです。私たちキリスト者は、そのことを望んで毎週礼拝を捧げているのです。そして、イエス様もそのことを望みとしてくださっています。水は溜めておけません。溜めておけば腐ります。いつも新たに注がれなければ、溢れ出てくることはないのです。だから、私たちは一週毎に「その水をください」とお願いするのです。
 今日の礼拝に誘われて来た方々も、イエス様と対話をするためにこれからも来ていただきたいと願います。イエス様の言葉は不思議なものですから、すぐには分かりませんし、知性で分かるものでもありません。神様の言葉は神様にいつも新たに教えて頂くしかないのです。聖霊の注ぎの中で、神様の言葉を聞く時、それは私たちに神の愛とその力を知らせてくれるものになります。そして、その霊と言葉が、私たちを永遠に生かしてくださるものなのなのです。その霊と言葉を、イエス様は与えたいと願って、毎週この礼拝堂で私たちを待っている。そのことを覚えておいて頂きたいのです。
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