「風は思いのままに吹く」

及川 信

       ヨハネによる福音書 3章 1節〜15節
3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」3:5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。3:7 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」3:9 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。3:11 はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。3:12 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。3:13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。3:14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。3:15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

 キリスト教会には三つの大きな祝祭日があります。イエス様が誕生されたことを祝うクリスマス。イエス様が復活されたことを祝うイースター。そして、聖霊が降って弟子たちが世界中の言葉で説教を始めたことを記念するペンテコステ。この日が教会の誕生日だと言われます。すべて、命の誕生に関する祝祭日です。今日は、その中のペンテコステ礼拝として捧げています。

 空気を読む

 いつの頃からか、「空気を読まなければならない」と言われ始めました。極めて日本的な表現だと思いますが、日本人にはよく分かる言葉だと思います。
 先日、テレビを見ていたら、ドイツ人の父と日本人の母の間に生まれ、ドイツで成長してきた若手女流ピアニストに関する番組をやっていました。彼女の感性は極めて日本人的なものだけれども、思考はドイツ人的なのだそうです。
 彼女が、まだ少女だった時、週末に通う日本人学校で『蛍の墓』というアニメ映画を観たそうです。テレビで何度も放映されていますから、御覧になった方も多くおられると思います。戦争末期、父は軍人で家におらず、母が死んでしまった少年と幼い妹が、町の近くの洞窟に暮らしているのです。兄は、空襲のどさくさにまぎれて民家に入り込んで盗みをしたりしながら、必死になって妹に食べさせている。しばらくすると、街の雰囲気が変わり、戦争は終わったように思える。でも、妹は病気になり栄養失調で死んでしまうのです。兄は、妹の小さな遺体をリヤカーに積んで、遠くに街の灯りが見える野原で焼きます。妹の遺体から、煙が天に上がって行きます。その時、無数の蛍が光を発しながら飛び交うのです。こういう場面の描き方に日本的な情感が込められていると思います。日本人なら分かる。そういう空気があるのです。
 日本人の血が流れ、母親とは日本語で話している彼女は、そのアニメを観て非常に感動したそうです。そして、その感動をドイツ人の父に伝えたくて、必死になって語った。深い感動を人に伝えることはただでさえ難しいことですが、自分が感じたことをドイツ語で表現することは不可能だと分かったそうです。その感覚を伝える言葉がなかったのだそうです。そういう経験を通して、彼女はアイデンティティクライシスに陥りもしますが、ついにピアノを演奏するステージが自分の居場所であることを発見したと言うのです。自分にとっては、音楽だけが国籍とか言語、宗教や文化の違いを越えて、感動を人々に伝え、同じ感覚を共有できるものだと言っていました。

 空気を共にする

 その場合の「音楽」とは、その場で演奏される音楽であって、CDで聴く音楽ではないだろうと思います。出版された説教集などもそうです。一定の意味はありますが、語っている時の息遣いや間、表情や声の強弱などを含めた空気を共にすることまでは出来ません。コンサートはライブで味わうものだし、礼拝も同様です。ライブ(LIVE)であることが大事です。生きていることが大事なのです。
 でも、ライブなら何でも良い訳ではありません。礼拝だって同じです。そこに活き活きとした空気が漲っており、優れた演奏がなされ、ここでしか聴けない言葉が語られていなければ、演奏会であれ礼拝であれ、そこにいるだけで疲れます。そして、眠くなるものです。

 風が吹く瞬間

 先日、若き日から今に至るまでお交わりを頂いている恩師のご夫妻とお会いする機会がありました。来年には、九十歳になられます。その先生のお話の中で、「ああ、本当にその通りだ」と思うことがありました。先生はこうおっしゃいました。

「説教の準備をしていて、土曜日の夜中になっても御言葉の意味が分からないことがある。でも、それが分かった時の喜び、それに勝るものはないよ。及川君」

 十八歳の頃、先生の説教は私には難しくてほとんど分かりませんでした。ただ、先生が神様から示されたことを必死になって語っていることは分かりました。当時の私には、その姿を見ればそれで良かったような気がします。今は、先生のおっしゃることが、体感的に分かります。御言葉が分かった時の喜び、その喜びがあるが故に、今も牧師であり続けることが出来ていると言ってよいと思います。
 皆さんの中には、牧師は勉強をしているから聖書が分かる、注解書も読むから分かると思っておられる方もいるかもしれません。しかし、そういう「勉強」で分かったことだけを、牧師が説教で語るとすれば、礼拝に集まってきた方たちは、牧師の講義を聞きに集まってきたことになってしまいます。そこには、悔い改めも信仰も賛美も生じないでしょう。そうであれば、形式は「礼拝」であっても、それは「集会」なのです。
 説教には、古代に書かれた書物の解き明かし(解説)という側面もありますから、歴史的なことや言語的なことは学者たちに教えて貰わねばなりません。しかし、神の言は神様に教えてもらうしかないのです。神様に教えて頂いた時の喜び、その感動を表現することは難しいし、分からせて頂いたことを言葉に移しかえることも簡単なことではありません。しかし、そのことも最終的には神様がしてくださることです。
 一メートル先も見えないほどの濃い霧に覆われた登山道を歩いている時に、一瞬、風がサ〜〜と吹いて来て、霧が払われ、周囲の景色が見える、目指している頂の姿が見えることがあると思います。それと同じように、御言葉が見える、あるいは御言葉が語りかけている事柄が見える。その言葉が何を語っているかが分かる。そういう瞬間があるのです。その瞬間の喜びに向って毎週、登ったことのない山に登る。あるいは、新たな発見を求めて何度でも同じ山に登る。それが、私たち牧師の仕事だと思います。
 一瞬であっても見えた景色、聴こえた声を礼拝の中で証する。そのために、書き出しはどうするかとか、展開はどうするかとか色々と考えます。でも、願っていることは、礼拝の時もあの風が吹くことなのです。風さえ吹けば、会衆に御言葉は聴こえるはずだからです。風が吹かなければ、説教がいかに整っており、分かりやすく語っていたとしても、それは人の言葉が語られ、人の言葉として聞かれ、納得されただけのことです。そこに礼拝は生じません。
 会衆もまた、一人ひとり、聖霊を求めて聖書朗読を聞き、説教を聴きながらそれぞれの山に登るのです。そして、風が吹いて来た時に初めて知らされること、見させられることがある。その時に、悔い改めと信仰と賛美の礼拝が生じるのです。

 聖霊を求めつつ

 現在の礼拝式次第は2009年度からの形です。それまでの式次第からの変更点はいくつもありますが、最も大きな変更は聖書朗読と説教を結びつけたことです。かつては、司式者による聖書朗読があり、その後に司式者の祈祷が続き、讃美歌がありました。その上で、説教題と説教者名が読まれて、私がおもむろに説教卓に向うというものでした。日本の教会の多くが採用していた形であり、私も長年親しんできた順序です。
 私は、次第に違和感を抱くようになりました。中渋谷教会は長く二人〜三人の複数教職制でしたから、その日の説教者の名前を呼ぶことに一定の意味があったかもしれません。でも、今は朝も夕も私ですから、名前を呼ばれる必要はありません。説教者の名前が強調されることにも違和感があります。また、説教題を読まれると、そういう内容の話をしなければならないという思いになります。でも、題をつけるのは前の週の木曜日です。金曜日に次週の予告を含む週報を作成するからです。しかし、その時はまだ目前の日曜日の説教も出来ていないのですから、翌週の御言葉の何を語るのかなんて、考えることはできません。伝道が使命の日本の教会では、表の看板に説教題を掲げて道行く人々に見ていただくことも一定の意味があると思いますから、これは続けています。
 今は、聖書朗読、祈祷、説教、祈祷をすべて私がしますから、説教題も説教者名も読まれません。聖書朗読は非常に大事なもので、その読み方と説教の内容、語り方は結びついています。だから、説教者が読んだ方がよいのです。
 聖書を読み終わったら、すぐに短く祈ります。最初の頃は、祈りの言葉を求めていましたから、その都度多少の変化がありました。でも、今はこう祈っています。

「天の父よ、聖霊を送ってください。今読まれし言葉を、今日のあなたの語りかけとして聴き取り、悔い改め、信仰と賛美をもって応答することができますように、語る者、聴く者すべてをお導きください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

 皆さんと共に「アーメン」と言って説教を始めます。説教は、朗読した聖書の言葉を聖霊の導きの中で共に聴き取り、共に見ることだと思いますから、この順序はそのことに相応しいことだと思っています。
 礼拝が始まる前の司式者、奏楽者、説教者の準備祈祷も聖霊を求める祈りだし、皆さんも礼拝堂の席に座れば、「これからの礼拝の時、ただここでしか聴けない言葉を聴かせてください」と、聖霊の導きを求めつつ座っておられるはずです。礼拝前の礼拝堂にはそういう空気が漂っていなければならないし、会衆はその空気を読まなければならないし、乱してはならないでしょう。その空気の中でしか、聴こえない声があるからです。それは、知的に理解する言葉ではありません。幼子が理解する言葉です。立派な大人であっても、幼子にならなければ分からない言葉なのです。

 ニコデモ

 「ユダヤ人たちの議員」であり、「イスラエルの教師」でもあったニコデモは、人目を忍ぶようにして、夜、イエス様を訪ねてきました。彼は、イエス様が「神のもとから来られた教師であることを知って」おり、「神が共におられる」ことを知っていると言います。直前の二章にありますように、イエス様は、ユダヤ人の支配者たちが認めている犠牲動物を売る商売人や貨幣の両替商を神殿の境内から追い出しました。それはユダヤ人の支配者たちと真っ向から対立し、さらに対決することです。そのことが目的でなくても、そういうことになるのです。私たちが信仰的決断をしても、それは時に政治的な決断をしていることにもなり、公権力と戦う羽目になったり、お上に逆らわないことが善だと思っている人々の好奇や警戒の眼差しにさらされることがあるのと同じです。
 ニコデモは、そういうユダヤ人の中で、極めて例外的にイエス様の本質を洞察した人なのです。

 新たに生まれなければ

 彼は言います。

「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」

 イエス様が喜ばれないはずもありません。しかし、イエス様は即座にこうおっしゃいました。

「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

 「新たに」
とは、「上から」とも訳される言葉です。つまり、神から生まれるということです。本質的に新しい人間にならなければ、神の国を見ることはできない。神が生きて働いている現実を見ることはできない、ということでしょう。究極的には、神に造られ生かされるべき「人」として生きてはいないのだ、ということになります。
 ニコデモは、そのことが分かりません。当然です。

「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」

 彼には、イエス様がおっしゃっている言葉の意味が分からないのです。言葉の次元が違うからです。同じ日本語を使っていても、次元が違えば、さっぱり分からない外国語と同じものになります。
 そのことを承知の上で、イエス様はもう一度こう言われます。

「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」

 新たに生まれる、上から生まれる、神から生まれるためには、水と霊が必要だとおっしゃる。明らかに洗礼を暗示した言葉です。聖書に出てくる「水」が持っている象徴性は、多様にして深いものがあります。原始の海、エデンの園を潤す水、ノアの洪水の時の水、イスラエルの民がエジプトを脱出する時に左右に分かれた海の水、岩から出てくる渇きを癒す水、汚れを洗い清める水、聖霊の徴としての水、新しい天と地が完成される時は滅ぼされる海の水などなど、様々な水があります。
 水をくぐることはそれまでの命の死を意味し、新たな命は、その死を経なければ誕生しません。それは、聖霊の働きによってしか起こり得ないことなのです。
 ウイリモンという牧師が書いた『異質な言葉の世界』から、今日も引用したいと思います。彼はこう言っています。

「ロータリークラブに入会すると、襟章をくれ、握手をしてくれます。教会に入会すると、水に放り込まれ、溺れさせられそうになります。このことはよく考えていただきたいのです。イエスと契約するとはどういうことでしょうか。いろいろな説明がありますが、肝心なのは、いままでの自分のままではいられないということです。変化することが要請されています。毎日の、時には苦痛を伴うほどの自己変革です。これは自然のなりゆきでおきるような出来事ではありません。」(『異質な言葉の世界』62-63頁)

 私たちの教会の洗礼の仕方は、額に水をつける滴礼と呼ばれるものですが、バプテスト派などでは水槽に張られた水や川の水に全身を浸します。それは、洗礼が罪に汚れた人間の全身の清めや、古き自分が死んで新しい自分が誕生することの徴だからです。ウイリモンは、ここで全身を水に沈める洗礼式を思い起こさせていますが、それだけではありません。彼は、洗礼を受けて以後のキリスト者の人生は、しばしば荒海に放り込まれるような人生なのだとも語っているのです。絶えず死に、そして新たな命を与えられる歩みだということです。
 彼が言うように、人生には自然の成り行きでは決して起きないことがあります。肉から生まれるのは自然の成り行きです。しかし、そこでも劇的な変化があります。羊水の中にいる胎児と産道を通って生まれてきた乳児では、同じ命でも全く違います。息の仕方が変わるのですから。そして、羊水の中にいた胎児は出産直後に水で洗われます。その時に、胎児としての命は終わり、新たに乳児としての命が始まるのです。新しい命の誕生とは、そのように激しいことなのです。

 水 聖霊 信仰告白

 洗礼式において水は必須のものです。しかし、水を使えば洗礼式が聖礼典となるのかと言えば、そんなことはありません。洗礼式において必要なことは、信仰告白です。それまでの生き方を捨て、命の源である神に立ち帰り、「イエスは主である」という信仰告白を神と会衆の前でしなければならないのです。
 パウロは、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(Tコリント12:3)と言いました。この聖霊の導きによる信仰告白抜きに、洗礼式は執行できません。その告白は、それまでの肉の人間ではできないことです。どんなに聖書やキリスト教の教理を学んでも、その結果として人は「イエスは主である」という信仰告白をするわけではありません。自然の成り行きで信仰が与えられることはないのです。

 死と新しい命

 洗礼式で、私が必ず読むパウロの言葉はこういうものです。ローマの信徒への手紙6章の言葉です。

それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。(ロマ書6:3〜4)

 こういう言葉が分かる。こういう言葉が、自分の心に響く。もし、そういうことが起こるとすれば、それはその人の中に風が吹いた時です。そして、その時、その人はそれまでの自分ではいられなくなるのです。全く新しい呼吸を始めざるを得ないからです。

 風は思いのままに吹く

「『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」

 ニコデモは分かりません。「どうして、そんなことがありえましょうか」と言うほかにないのです。風が吹かない限り、分からないのです。「風」と訳されたプニュウマは通常「霊」と訳されます。そして、「音」と訳されたフォネーは「声」の意味をもっています。風の音は霊の声です。その声が聴こえる時にのみ、イエス様の言葉が分かるのだし、その言葉がその人間の中に入って来て呼吸を始めるのです。「息」もプニュウマです。
 風が吹いてこない限り、ニコデモにはイエス様の言葉は分かりません。風が吹いて来ても、心を開いてその風、神様の息を受け入れる気持ちがなければ入っては来ません。風の音、霊の言葉を聴くことができなければ、新しく生まれることはできません。神の国を見ること、神の国に入ることはできないのです。こればっかりはどうしようもありません。誰にとっても変わることのない事実ですから。そして、多くの人にとって、神の国に生きることよりも、この世における幸福の方が重要である。それも事実でしょう。神の国に生きるための信仰なんて、この世を生きる上で意味がないのです。

 アーメン アーメン

 この後、主イエスの言葉はさらに不思議さを増していきます。

「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。」

 イエス様は三度も「はっきり言っておく」と言われます。原語では「アーメン、アーメン、あなたに言う」です。イエス様が本当に大切なことをおっしゃる時、イエス様は「アーメン、アーメン」とおっしゃるのです。「あなたはわたしの言葉にアーメンと言えるか。わたしの言葉を受け入れるか。わたしの言葉を信じるか。わたしの言葉を信じるなら、あなたは神の国を見、神の国を生きることになる。わたしの言葉が、聖霊と共にあなたの中で呼吸を始め、あなたは新しい人間として生きることになるからだ」と、イエス様はおっしゃっているのだと、私は思います。そう聞こえます。

 わたし  わたしたち

 それは、イエス様が続けてお語りになっている言葉からも分かります。イエス様は、「わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししている」とおっしゃいます。「わたし」ではない、「わたしたち」です。変です。語り手はイエス様お一人なのに、イエス様は「わたしたち」とおっしゃる。どういうことでしょうか。
 今、皆さんの前に立って語っているのは、私です。ただの人間です。繰り返し罪を犯し、嘆き、自分を持て余し、時に諦め、でも、聖書を読むたびに、特に礼拝で語るために読むたびに、出口のない深い穴に入って行く感覚や、頂が全く見えない高山に一歩一歩登って行く恐れを心に抱きながら、でも最終的には一陣の風が吹いて来て、風の音が聞こえる喜びに生かされている人間です。そういう人間を通して、今も、主イエスは語るのです。これは事実なのです。

 先日、ある方からこう言われました。
 「先週のイエス様の言葉は、ずっと前から全く分からず、読むたびに不愉快な思いをしていた言葉です。『父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる』という言葉は分かりませんでした。でも、先生の聖書朗読を聴いていた時、すべてが分かったように思えました。それでもいいんですよね?」
 説教を聴く前に分かってもよいんですよね、ということでもあるでしょう。若干複雑な思いがしない訳ではありませんが、私は、「僕の理想は、僕が聖書を読めば、その時に分かる。そういう聖書朗読をすることだ。聖書朗読を終えた時に、皆がアーメンと言ってくれる。そういう聖書朗読をしたい」と、言いました。ずっと前からそう思っているのです。聖霊の導きを祈り求めながら、聖書を読む。聖霊の導きを祈りながら、その朗読を聴く。その時、風が吹いて来れば、読まれている言葉から神様の声を聴くことができます。霊の言葉が心に響くのです。その時、人は、神様の愛が見えるのです。その愛をはっきりと知るのです。
 そうなれば、その人は見たこと、知ったことを証するしかなくなります。神様の愛を賛美するしかなくなるのです。ある人は言葉で、ある人は行いで、ある人は祈りで、ある人は会堂建築で。今日の午後は建築懇談会です。私たちは、会堂建築を通しても、神様の愛を証し、賛美する者たちとならせて頂きたいと願います。
 そのように人が変えられることは、自然の成り行きではありません。聖霊の働きによって起こることです。

 信じる者は

 聖霊の働きによって、神の愛を信じる者は皆、「人の子によって永遠の命を得」ます。その命を与えられた者は、「イエスは主である」と証するのです。ありとあらゆる方法で。それぞれに与えられた賜物を捧げて。
 ペンテコステの日に起こったことは、そういうことです。弟子たちの上に「炎のような舌」が留まったと使徒言行録にはあります。すると、「一同は聖霊に満たされ、霊″が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」のです。イエスこそ、主でありメシア(キリスト)であると証し始めたのです。その時、キリスト教会が誕生しました。少し前まで、打ちひしがれていた弟子たちが全員、聖霊を注がれた時に喜びに溢れて、「神は十字架上で死に、墓に葬られたイエスを復活させ、主とし、メシアとなさったのです」と証をしたのです。それが聖霊によって彼らが知らされたこと、見させられたことだからです。
 その証を、イエス様は一緒にしてくださっているのです。私たちの中に生きてくださるイエス様が、私たちに証をさせてくださるのです。その証は、イエス様と共なる証だから「わたしたち」の証なのだし、その証は今だって私だけがしていることではないでしょう。皆さんが、説教の後の私の祈りに「アーメン」と言うことができる時、私の説教は皆さんと共にした説教になるのです。一緒に聴き、一緒に悔い改め、信じ、賛美をしているからです。
 これから与る聖餐式もまた、聖霊の注ぎを受ける者にとっては、神様の愛そのものが見えるのだし、私たちはその式に与ることを通して示された神様の愛を賛美するのです。
 来週は、特別伝道礼拝として礼拝を捧げます。私は毎年、非常に緊張します。来週私は、皆さんの招きによって礼拝に来られた方たちに向けて語ります。その時は、普段にも増して、「わたしが」ではなく「わたしたちが」証するのです。私が語ることは、イエス様が語ることだし、皆さんと共に語ることなのです。そのことが起こるために、皆さんと祈りを合わせて行かねばなりません。自然の成り行きでは起こらないのですから。ひたすら祈りを合わせ、神様に招かれた一人ひとりに聖霊の風が吹き、その一人にでも神の言が響きますように祈りつつ、この一週間を共に歩みたいと思います。
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