「キリストが生きて働く教会」

本城 仰太

詩編 133編
                テサロニケの信徒への手紙T  5章12節〜28節


 新たな歩みが始まりました。今日は四月一日です。新たな年度の始まりです。中渋谷教会にとっても新たな歩みが始まりました。新たな牧師を迎えての新しい年度の最初の礼拝の時を迎えています。私にとっても新しい歩みが今日から始まりました。
 今日はイースターです。主イエス・キリストが十字架の死からお甦りになられた日です。その意味でも、今日は新しい始まりです。教会がいつ始まったか、一般的に言われるのは、使徒言行録第二章に記されているペンテコステ(聖霊降臨日)の時です。主イエスの弟子であった使徒たちに聖霊が注がれ、使徒たちが説教を語り、説教を聴く者たちの中から信じて洗礼を受ける者が現れ、そこに教会が生まれました。それが教会の誕生日であると言われることがあります。
 もちろん、これは正しいことですけれども、教会の歩みがキリストの復活を原点としていることもまた事実です。イースターの朝から、すでに教会の歩みが始まっていたのです。日曜日の朝早く、主イエスの墓へと出掛けて行った女性たちがいます。墓が空っぽでした。その知らせを受けて弟子たちもまた墓へ出かけていく。そして実際にお甦りの主イエス・キリストとの出会いによって、新たな歩みが始まっていくのです。
 「キリストは甦られた!」。この知らせと共に、教会の歩みが始まっていきました。使徒言行録には、この知らせが伝えられ、キリストの復活を信じた者たちが、教会の歩みを始めていったことが記されています。すべての歩みが、キリストの復活によって始まっていったのです。
 今日はイースターの日曜日です。復活の朝です。この朝からすべてが新しく始まっていきました。新たな歩みのスタートを切るのに、本当に相応しき日が与えられたと感謝しております。

 イースターの日に、私たちに与えられた聖書箇所は、テサロニケの信徒への手紙一の終わりの部分です。先ほど聖書を朗読いたしました。それをお聴きになり、どのようにお感じになられたのでしょうか。あまりイースターの聖書箇所らしくないと思われたかもしれません。
 しかし、教会が新たな歩みを始めるにあたり、今日の聖書箇所からどうしても御言葉を聴きたいと私は願ってきました。今日の4月1日がイースターであることは、前々から分かっていました。そして今日の聖書箇所から御言葉を聴くということも、だいぶ前から示されてきたことです。一体いつからと言われても困るのですが、けっこう前からそのように思ってきたのです。
 第5章の12節〜28節まで、比較的長い箇所です。事細かに解説するようなことはできません。しかしここに記されていることは、教会のあるべき姿であり、復活されたキリストが生きて働いておられる、そのような教会の姿が描かれています。
 私たちがキリストの復活を信じるといったとき、それは単に、キリストが十字架の死からお甦りになられた、そのことだけを信じているのではありません。それだけではなく、キリストが今も生きて働いておられることも、信じているのです。それがとても大事なことです。今日の聖書箇所には、復活された主イエス・キリストが生きて働いておられる教会の様子が記されているのです。
 今日の聖書箇所の中で繰り返されている言葉が「あなたがた」という言葉です。とても大事な言葉です。私が伝道者になるという志が与えられて東京神学大学に編入学しました。早速、いろいろな授業が始まります。その中に、ギリシア語の授業がありました。新約聖書の元の言葉はギリシア語ですから、元の言葉で聖書を読むことができるようになるための授業です。文法を学んでいきます。現在形・過去形・未来形とか、いろいろなことを学んでいきますが、しばらく学んでいった中に、命令形を学びました。
 例えば、今日の聖書箇所の16節のところに、「いつも喜んでいなさい」(16節)とあります。これも、喜べ、という命令形です。英語の聖書を開いて見ますと、Rejoice alwaysとあります。Rejoice(リジョイス)という一つの動詞だけで、英語では命令を表すことになります。けれども、この一つの言葉だけでは、いったい誰に命令しているのかが分かりません。文脈や状況によって判断することになります。学校で先生と一人の生徒が個人面談をしている。気落ちしている一人の生徒に、Rejoiceと先生が言ったならば、「あなたは喜びなさい」と言っていることになります。ホームルームに先生がクラスの生徒たちにRejoiceと言ったならば、「あなたがたは喜びなさい」と言っていることになります。文脈や状況で判断することになるのです。
 ところが、古いギリシア語では、命令形に二つの形があります。「あなたは喜びなさい」と「あなたがたは喜びなさい」の二つです。ギリシア語の授業で、命令形の文法を習い、そのことを知りました。当初、私はなぜ二つの形があるのか、余計にたくさん暗記しなければならないではないか、そう思っていましたが、ギリシア語で聖書を読むようになり、なるほどと思わされるようになりました。聖書の命令形の多くは、「あなたがた」で語られているのです。
 例えば、主イエスが山上の説教でこう言われています。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」(マタイ 5章11節〜12節)。山上の説教の最初のところで、八つの幸いが語られていますが、その最後の部分の言葉です。「喜びなさい。大いに喜びなさい」。これも正確に言うならば、「あなたがたは喜びなさい。あなたがたは大いに喜びなさい」となるのです。主イエスは一人の喜びを語っておられるのではなく、教会の私たちの喜びを語っておられるのです。
 今日の聖書箇所も、「あなたがた」への命令形です。16節〜18節にこうあります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(16節〜18節)。この聖書箇所は、一方では有名な箇所であり、愛唱しておられる方もあると思います。しかし他方では、引っ掛かりを覚える聖書箇所でもあると思います。いつも喜べと言われている。いつも喜べるかと思ってしまうのです。しかしこれもまた、「あなたがたはいつも喜びなさい」なのです。
 前後の文脈を考えてみましても、これは「あなたがた」に対する命令であることがよく分かります。14節にこうあります。「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。」(14節)。「気落ちしている者たち」というのは、今、喜べないような者たちが教会にいる、ということでもあります。そのような場合、「あなたがた」の中から、教会から喜びがなくなるのかと言うと、決してそうではありません。その者たちが立ち直り、いつも喜べるように、「あなたがた」に、教会に、喜びがあるのです。
 この手紙を書いた使徒パウロが、テサロニケ教会に問うているのはそのことです。私たち一人ひとりに問われていること、というよりも、何よりも「あなたがた」に、テサロニケ教会に問われていることなのです。そしてそれは中渋谷教会にとっても問われていることです。キリストが生きて働いておられる教会には、この喜びが決してなくなることはありません。

 本日、私たちに合わせて与えられた聖書箇所は、詩編第133編です。表題のところに、「都に上る歌」と記されています。一連のシリーズの歌です。詩編第120編から134編までがこのシリーズです。いろいろな解釈ももちろんあるようですが、エルサレムへの巡礼の歌として、まとめられています。
 巡礼歌と言っても、いろいろな場面があります。これから巡礼へ出発する、出発前の歌もあります。到着時に歌う歌もあります。あるいは遠い異国の地から、慕い求める故郷の礼拝の地を思いながら歌っている歌もあります。そして礼拝をしている最中の歌もあり、礼拝を終えて帰路に着く歌もあります。詩編第133編は、一連の巡礼の歌のクライマックスとも言われる歌です。巡礼にやって来た者たち一同が礼拝に集っている時の歌です。
 2節〜3節にこうあります。
「かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り、衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り、ヘルモンにおく露のように、シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された、祝福と、とこしえの命を。」(2節〜3節)。頭に香油が注がれる。その油が上から下へと落ちていきます。それと同じように、ヘルモンという非常に豊かな山から、シオンの山々によきものが滴り落ちる。神から恵みが注がれている様子を、そのように表現していくのです。
 その恵みが、巡礼をしている者たちに注がれています。1節にこうあります。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」(1節)。神の恵みによって、ここに集った者たちがいる。一緒に礼拝を今、している。その光景を目の当たりにして、心打たれて、このように言っているのです。
 私たちも今、中渋谷教会で礼拝を行っています。ここに百名以上の方がおられるでしょうか。この場を思いながらも来られない方々もあります。電話で礼拝をされている方々もあります。この光景を目の当たりにして、あるいは来られない方々のことを思い浮かべながら、私たちも詩編第133編の詩人と同じ思いを共有できるはずです。
 兄弟姉妹が共に座っている。私たちはお互いに詳しく知っているから、兄弟姉妹になったわけではありません。エルサレムに巡礼をしてきた者たちにとっても、一緒に巡礼をしてきた仲間ももちろんいたでしょうけれども、各地から集まって来た、見ず知らずの人たちと一緒に礼拝をしているのです。そういう者たちのことを、「見よ、兄弟が共に座っている」と言っているのです。見ず知らずの者たちと、しかし同じ神を信じ、一緒に礼拝をし、同じ御言葉を聴き、讃美を歌い、祈りを献げている。その光景に心を打たれているのです。これも、決して一人の喜びではありません。「わたしたち」の喜びなのです。

 教会は「わたしたち」、そして「あなたがた」という言葉によって歩んでいくところです。キリストがお甦りになられた。今なお生きて働いておられる。このことを皆が共に信じて歩むところなのです。
 私がとても不思議に思っていることがあります。何年も牧師をやっていても、これからもずっとそうだと思いますが、不思議に思っていることです。不思議というよりも、まさに神さまのなさる業だと思っていることです。それは、キリストの復活を最初は信じていなかった者が、教会の中に身を置き続けていると、いつの間にか信じるようになるということです。
 こういう求道者がありました。信仰を持ちたいのだけれども、キリストの復活をなかなか信じることができない。一緒に使徒信条の学びをします。キリストの復活の部分をやはり信じることができない。使徒信条の部分的にはよいのだけれども、どうもしっくり来ない部分がある。先生、私は今、50点くらいです。今日の学びでもう一つ納得できたので、60点になりました。何点になれば、洗礼を受けられますか、80点くらいですか?私はこう言います。使徒信条は教会がこのように信じている内容です。教会があなたに対して、私たちはこう信じているけれども、あなたも信じるか、と問いますから、イエスかノーで答えることになります。つまり、100点か0点しかありません。そんなやり取りをしました。
 しかし、そういう学びをしながら、その方は教会の礼拝に出続けました。教会の中に身を置いて歩み続けました。しばらくすると、いつの間にかキリストの復活を信じるようになっていました。不思議です。特に牧師があれこれと説明をして、説き伏せたというわけではありません。その方が何らかの解説本を受けて、自分で納得したというわけでもありません。なぜだかよく分からないのです。
 しかし、答えを一つだけ挙げるとすれば、キリストが生きて働いておられるから、そう言わざるを得ないのです。そのことを知らず知らずのうちに、教会の中で、肌で実感したからです。そうとしか言いようのないことです。教会とはまさにそのような場です。この方も、「あなたがた」「わたしたち」の中に加えられた者なのです。
 中渋谷教会も「あなたがた」「わたしたち」という言葉を大事にしたいと思います。今日から新しい歩みが始まります。しかし何かが突然、変わるというわけではありません。むしろ何も変わらないと言った方がよいかもしれません。キリストが生きて働かれる教会、それは以前もそうでしたし、今もそうですし、これからもそうです。御言葉を聴き、礼拝に生きる。この歩みも変わりません。このような、「あなたがた」「わたしたち」の歩みを、これからも続けていくのです。


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