「疲れたら、教会で本物の安らぎを得よう」

本城 仰太

申命記 5章12節〜15節
              マタイによる福音書 11章28節〜30節


5:12 安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。
5:13 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、
5:14 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。
5:15 あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。

11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

1.「疲れた時にこそ、教会の礼拝に来なさい」

 「疲れた時にこそ、教会の礼拝に来なさい」。だいぶ前のことになりますが、私が学生から社会人になって間もない頃、教会の年配の方から言われた言葉です。学生の時もそれなりに忙しいと思っていましたが、やはり社会人になってからは、忙しさも学生の時の比ではありませんでした。当然のことながら、体も疲れます。心も疲れを覚えてきます。そういう時に聞いた言葉でした。「疲れた時にこそ、教会の礼拝に来なさい」。
 皆さまは疲れた時に、どうされるでしょうか。休むでしょうか。休むことは大事なことです。しかしどのように休むのでしょうか。睡眠が不足しているならば、とりあえず寝るということが考えられるでしょう。あるいは日頃、息をつく間もないような生活をしているならば、のんびりすることを考えるかもしれません。いつも同じところばかりしか行っていないのならば、どこか遠くへ行ってリフレッシュすることも考えるかもしれません。
 先ほど朗読いたしました聖書箇所には、疲れた時にどうすべきなのか、ということが書かれています。イエス・キリストのお言葉です。29節にこうあります。「そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(29節)。聖書の元の言葉を正確に訳すならば、「あなたがたの魂に安らぎが得られる」と主イエスは言われています。単なる表面的な安らぎではなく、魂の奥底までも染み渡る、本物の安らぎが得られることが言われています。
 教会の年配の方から言われた言葉、「疲れた時にこそ、教会の礼拝に来なさい」という言葉も、主イエスが与えてくださる本物の安らぎに関わることです。とりあえず寝ればよい、のんびりすればよい、リフレッシュすればよいということではありません。どのように休むか、その休み方が問われます。本物の安らぎを得るために、たとえ体や心が疲れていたとしても教会に来なさい。その方は私にそう勧めてくださったのです。

2.「我に来れ」

 今日の聖書箇所の28節は、主イエス・キリストのお言葉の中でも、とても有名な言葉です。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(28節)。この主イエスの言葉は、多くの人たちの心をとらえてきた言葉です。
 ある伝道者の話をしたいと思います。明治の時代の話です。これまで四十年、生きてきた人がいました。人生の重荷を負っていた時期でした。大きな疲れを覚えていた時期でした。そんなことから、釈迦や孔子の教えに耳を傾けましたが、どうもピンとこなかった。そんな中、ふと看板の言葉に目が留まります。「我に来れ」、その看板にはそう書かれていました。よく見ると、キリスト教会の集会の案内でした。「我に来れ」。釈迦も孔子も、道については説いたかもしれないが、自分のところに来れ、などとは言わなかった。キリストはずいぶんと大胆なものをいうものだ。どれ、一つ行ってみるか。説教者がつまらないことを言ったら、議論の一つでも吹っ掛けてやろう、そんな思いで、教会の集会へと出掛けていきました。
 その集会で話をしたのは、外国からやって来た宣教師でした。流暢な日本語で話をします。その話の中で、こんな一つの例話が語られました。神戸から東京へ汽車に乗る。信号や速度を守って、線路をまっすぐに走れば無事に目的地に着くことができる。けれども、線路から逸れて脱線するならば、脱線した車両を元に戻すのに大変な労力が必要になる。場合によって大惨事になることがある。そしてこの宣教師はこのように話していきます。私たちの人生も同じで、正しい道を歩まなければならない。そこから逸れてしまうことを、聖書では罪と言います。あなたの人生を振り返ってみて、どうか、というように問われたのです。そのように問われてみて、その人は自分の四十年の人生を振り返ってみます。確かに重荷を抱えたまま、本物の安らぎがない中で歩んできた人生だと、自分の人生を受けとめなおしたのです。

3.キリストの軛

 この人は「我に来れ」という主イエスの言葉によって、キリスト者になり、伝道者になる決意を与えられました。キリストはこの人をはじめ、「我に来れ」と言われます。今日の聖書箇所の言葉で言えば「わたしのもとに来なさい」(28節)、そう言われたキリストは、次に何と言われたでしょうか。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(29節)。
 「軛」という言葉が出てきます。軛というと、どんなものを思い浮かべるでしょうか。たいていは牛や馬などに付けるものを思い浮かべると思います。牛や馬を意のままに操ることができるように、首のところに付けるものです。馬に乗って駆け回ることができるように、牛に田畑を耕させるために、付けられるものです。
 ただし、二千年前の主イエスの時代の軛は、たいていの場合、二頭の牛をつなぐためのものだったようです。牛に畑を耕させる二頭の牛を連結して、軛でつないで、それをさせるのです。
 さて、この軛には誰がつながれているでしょうか。主イエス・キリスト は「わたしの軛を負い」と言われているわけですから、当然、軛の一方の側には主イエスがつながれていることになります。もう一方の側には、「わたしの軛を負いなさい」と言われているわけですから、私たちがつながれていることになります。
 つまり、私たち一人一人が、キリストと一緒に軛を負いなさいと言われているのです。「そうすれば、あなたがたは魂に安らぎが得られる」、キリストはそう言われるのです。軛なしに、勝手気ままにふるまえる方がよほど自由だと、私たちは思うかもしれません。しかし結果として、私たちは線路を脱線し、ますますひどい状況になってしまう。そうではなく、きちんとキリストの軛を負うことだと、主イエスは言われるのです。

4.十戒の安息日の規定

 キリストの軛を負うことによって得られる安らぎとはいったい何でしょうか。このことを考えるために、本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所を読んでみたいと思います。
 ここには十戒の中の安息日の規定が書かれています。まずは12〜14節です。「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」(申命記5・12〜14)。
 神が私たち人間の生活を一週間のリズムで、七日刻みのリズムで定めてくださっていますが、一週間の中で安息日と呼ばれる日はきちんと休むように、と言われています。これが十戒の戒めの一つとして与えられたものです。
 いったい何のために休むのでしょうか。一週間の労働によって疲れたから休むのでしょうか。もちろんそれもあるかもしれませんが、理由が次の節にはっきりと書かれています。「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」(申命記5・15)。
 イスラエルの民はかつてエジプトで奴隷生活をしていました。その奴隷生活から、モーセという人物がリーダーに立てられ、出エジプトの旅をした。その旅の途中で授かったのが、この十戒です。十戒の中で安息日をきちんと守るようにと命じられているわけですが、何のために仕事の手を止めて休むのか。神のことを、自分のことを見つめなおすためです。神が自分たちを救ってくださったことを、自分たちが神から救われた存在であることを思い起こすためです。自分は見捨てられた存在ではない。神から愛され、赦され、導かれ、救われた存在なのだ。日常生活の中で忙しく、たとえそのことを六日の間忘れてしまったとしても、安息日に手の働きを止めて、そのことを思い起こす。自分の原点に戻る。それこそが本物の安らぎであると言うのです。

5.重荷が軽くなる

 キリストが与えてくださる安らぎもまたそうなのです。キリストは単に休め、とは言われません。それどころか、軛を負いなさいと言われる。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(29〜30節)。
 「わたしの荷」とは、キリストの荷のことですが、それはいったいどういうことなのでしょうか。私たちは様々な重荷を抱えています。自分には重すぎるのではないかとしばしば考えるかもしれません。そういう「重荷」としか思えなかったものを、「主イエスの荷」として受け取りなおして背負い直すのです。
 こんな話を聞いたことがあります。嫁と姑がいました。あまり仲が良くなかった。むしろ悪かった。姑はだんだんと年老いてきます。姑は、嫁の世話にはならずに、ピンピンコロリで死にたいと思っていました。嫁もまた、姑の世話をしたくはなかった。両者ともそう思っていたのですが、結果的に、二人の願い通りにはなりませんでした。長期間の介護が必要となりました。姑は嫁の世話を受けなければならなくなり、嫁は姑の世話をしなければならなくなったのです。
 最初は二人とも嫌々ながら、というところがありました。しかしキリスト者の家庭でした。だんだんと介護をし、介護を受けているうちに、お互いを気遣う言葉が出てきます。「お母さん、体調はどうですか」、「いつもすまないね、ありがとう」。そういう愛のある言葉が出てくるようになったのです。時間は長くかかったかもしれません。二人の関係が次第に修復していきます。本当の家族になっていくことができました。当初の自分たちの思い通りになったというわけではありませんが、今やこの二人は、この長い介護の時を、神が与えてくださった大事な時として、また神から与えられた「荷」として、受けとめなおしているのです。
 「キリストの荷」を負うとは、まさにそういうことです。介護をする、介護をされる。そのこと自体は、かつての「重荷」と何一つ変わっていないかもしれません。しかしそれは単なる「重荷」ではなくなる。キリストが言われる「わたしの荷」を負うことになる。しかも主イエスが同じ軛につながれているわけですから、主イエスと共に背負うことになります。背負い方が変わって来るのです。軽くなるのです。安息の息をつきながら、背負うことができるのです。

6.教会で本物の安らぎを得よう

 安らかな息をつくこと、教会ではそれをすることができます。私たちはそれぞれ一週間ごとの歩みを送っています。それぞれの場で、様々な重荷を抱えながら、時に罪との闘いがあり、病との闘いがあり、死との闘いがあります。あえぐような思いで駆け抜けた一週間でしょう。息をつく間もなかったかもしれません。
 しかし教会で神の言葉を聴き、深い息をつくことができます。脱線したかのような曲がった歩みを直していくことができます。そして今抱えているものを、もう一度、キリストから与えられた「荷」として、キリストと共に背負っていくことができるのです。私たちでは背負いきれないものは、キリストが背負ってくださいます。そのような歩みをキリスト者はなしていくことができるのです。


礼拝案内へ
主題説教目次