「何がめでたい?クリスマス」

本城 仰太

       詩編 122編 8節〜 9節
            ルカによる福音書  1章26節〜38節
122:8 わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。「あなたのうちに平和があるように。」
122:9 わたしは願おう/わたしたちの神、主の家のために。「あなたに幸いがあるように。」

1:26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
1:27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
1:28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
1:30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
1:31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
1:32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。
1:33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
1:34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
1:35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
1:37 神にできないことは何一つない。」
1:38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。


1.何がめでたい?クリスマス

 本日のクリスマス礼拝の説教題を「何がめでたい?クリスマス」と付けました。説教題にクエスチョンマークを入れることも珍しいのですが、この説教題はいろいろなニュアンスで意味を受け取ることができます。いったい何がめでたいのか、ちっともめでたくないではないかという意味で受け取ることができるかもしれません。念のため申し上げておきますが、この説教題はそういう意味を意図しているわけではありません。
 クリスマスを迎えました。「クリスマスおめでとうございます」という挨拶を私たちは交わします。あるいは町の中でも、「メリークリスマス」という言葉が交わされています。いったい何が「おめでとう」なのでしょうか。そのような喜びがあるとすれば、それは本当の喜びなのでしょうか。そして私たちの人生にそのような喜びがあるでしょうか。そのようなことを問いかけることを目的とした説教題になります。
 今日はこのクリスマス礼拝で、一人の姉妹が洗礼を受けられました。この姉妹に対して、すでに「おめでとう」と言われた方もあるかもしれませんし、この後でもきっと多くの方が「おめでとうございます」という声を掛けることでしょう。
 私が存じ上げているある方が若い頃に洗礼を受けられました。三人同時の受洗だったようです。その方が一番の年少者でした。洗礼式の当日、他の二人は、いつもとは少し違う格好をしてこられたけれども、自分は普段通りの服装だった。少し恥ずかしさを覚えながら、洗礼式が無事に終わります。礼拝が終わり、多くの方から「おめでとうございます」と言われる。「ありがとうございます」と答えるのだけれども、いったい何がめでたいのか、その時はさっぱり分からなかったと言われます。

2.喜びなさい

 本日、私たちに与えられた聖書箇所にも、「おめでとう」という言葉があります。「天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」」(28節)。この「おめでとう」という言葉は、挨拶の言葉でもあります。この場面の時間帯がよく分かりませんが、朝なら「おはよう」、昼なら「こんにちは」、夜なら「こんばんは」と訳すことができる言葉です。
 本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所にも、挨拶の言葉が出てきました。ヘブライ語で「シャローム」という言葉。「平和があるように」と訳されています。これも「こんにちは」というようにも訳せますけれども、挨拶の本来の意味は、「平和があるように」なのです。
 このように、挨拶は単なる挨拶だけというよりも、挨拶に込められている意味が大事という場合が多くあります。例えば英語で「グッド・バイ」と言います。さようならという意味ですが、God be with you、つまり「神があなたと共におられるように」という意味があります。私はあなたと別れるけれども、あなたに神が共にいてくださるように、という祝福を込めて、さようならの挨拶をしていることになります。
 この場面での「おめでとう」もそうです。単なる挨拶をしているのではありません。この「おめでとう」という言葉の元来の意味は、「喜びなさい」という意味です。同じ言葉が、マタイによる福音書の主イエスの復活の場面にも使われています。十字架の死を死なれ、キリストが三日目にお甦りになります。墓にやって来た女性たちに復活の主イエスが出会われた時に言われた言葉、「おはよう」(マタイ28・9)と訳されています。単なる挨拶というよりも、「喜びなさい」と主イエスは言われました。
 この時にマリアに対しても、天使ガブリエルは「喜びなさい」と言われたのです。それが天使の第一声でした。マリアにとってすべての始まりとなった言葉です。おめでとう、喜びなさい。その言葉をいきなりかけられたのです。
 喜びなさいと言われて、いきなり喜べるでしょうか。聖書には、喜びという言葉が実に多く使われています。しかも私たちに喜ぶことを求めます。「いつも喜んでいなさい」(Tテサロニケ5・16)。「重ねて言います、喜びなさい」(フィリピ4・4)。「喜びなさい。大いに喜びなさい」(マタイ5・12)。
 そのような言葉を聞いた時、私たちは思います。いったい何が喜びなのか、その根拠は何か、それが見つからなければ、いつも喜んでなどいられないではないか、いろいろなことを私たちは考えます。しかしいくら探しても、私たちの中からは、確かな喜びの根拠となるようなものは、なかなか出てこないでしょう。
 聖書は「あなたの人生に喜びがあるか」と問いかける書物です。そして喜びの根拠を教えてくれる、そしてその根拠に従って生きるように教えてくれる書物です。今日の聖書箇所に記されているクリスマスの物語が、まさにそういう物語であると思います。

3.戸惑いから信仰と喜びへ

 クリスマスの出来事は、マリアにとって、神が突然、自分の人生の中に飛び込んでくるような出来事でした。突然、天使ガブリエルから告げられた言葉に、戸惑いを覚えています。「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」(29節)。ある翻訳の聖書は、戸惑ったどころか、「胸騒ぎがして」と訳されています。
 戸惑いや胸騒ぎから始まったマリアでしたが、次第にこの戸惑いや胸騒ぎが和らげられ、最終的には喜びへと導かれていきました。今日の聖書箇所にも、マリアと天使の様々なやり取りが記されています。マリアの不安に対して、一つ一つ天使が丁寧に答えていきます。その流れの中で、「神にできないことは何一つない」(37節)という言葉が語られ、それを聴いたマリアは「お言葉どおり、この身になりますように」(38節)と答えます。
 これが神のなさり方です。私たちの人生に突然、神が飛び込んでこられます。最初の言葉に戸惑いを覚えるかもしれません。マリアの場合は「喜びなさい」でした。いったい何のことか、胸騒ぎさえ覚えます。
 しかし神はその後の歩みを導いてくださいます。神の言葉を聴いて、私たちがどうするか、神を信じるのか、それとも信じないでその言葉を退けるか。神を信じる信仰が、まさにここで問われているのです。
 信じることができることは、とても幸いなことです。神も信じられない、誰も信じることができない、そうなると、いつでも私たちは疑いを持って生きていることになります。人生が悲観的になっていきます。そんな人生を送るのでしょうか。神は私たちに信じる人生を送るように呼び掛けています。信じて、そして喜ぶ人生へと、私たちを招いておられるのです。

4.次第に分かって来る喜び

 戸惑いながらも、神の約束を信じて歩む者にとって、喜びは次第に分かってくるものです。ある人がこう言いました。「私たち人間には時間はないが、神にはたくさんの時間がある」。私たちは時間がないので、すぐに結果を求めたがります。けれども神はゆっくり、しかし着実に、喜びを教えてくれます。
 マリアもそうでした。「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」(29節)、そんな状態から始まっていきました。天使とのやり取りによって、次第にマリアの心が整えられていきます。今日の聖書箇所の次のところに記されているのは、マリアの親類のエリサベトのところに出かけていく話です。かなりの距離がありましたが、マリアは出かけて行きました。エリサベトはもう高齢になっていましたが、マリアと同じように神の力によって身籠っていた人です。この二人がそのようにして出会い、神さまの言われていたことは本当でしたね、と喜び合うのです。神さまの約束の言葉は本当であったと、実感していく日々だったでしょう。神は私たちにゆっくりと、しかし着実に、噛みしめる喜びを、じっくり味わう喜びを与えてくださるのです。
 この説教の冒頭で、若い頃に受洗された方の話をしました。洗礼を受けた時は、何がめでたいのか、さっぱり分からなかった方でした。しかし後日談があります。この方はすでに召された方ですが、晩年に訪問をいたしました。訪問をするたびに、「私は救われています」という言葉を口にされました。高齢のため、教会に行くことができない、家にいながらも、聖書を読み、祈りに生き、信仰をもって歩むことができている、その意味で、「救われています」と言われたのです。若い頃に洗礼を受けて、その時はまるで「おめでとう」の意味が分からなかったけれども、しかし信仰をもって、キリスト者として歩んでくることができた。今この時も歩むことができ、感謝しておられる。「おめでとう」の意味を噛みしめながらの歩みだったと思います。
 神が私たち一人一人をこのような歩みへと招いておられます。今日、洗礼を受けられた一人の姉妹のように、神を信じて、その喜びの中に入れられる歩みへと、神が招いておられます。その招きにお応えすることができますように。クリスマスはまさにそのスタートを切るのに最もふさわしい時です。すでに洗礼を受けられた方にとっては、この喜びをじっくりと噛みしめる歩みがこれからも続いていきます。救い主が与えられたというクリスマスの喜びこそが、私たちの生涯を支える喜びなのです。
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