「新たな居場所への旅立ち」

本城 仰太

        創世記 12章 1節〜 4節
              ヨハネによる福音書 20章11節〜18節
12:1 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。
12:2 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。
12:3 あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」
12:4 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。


20:11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、
20:12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。
20:13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
20:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
20:15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
20:16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
20:17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。



1.居場所

 「居場所」という言葉があります。自分がいる場所、ということを表す言葉ですが、もっと幅広い意味を持っている言葉です。自分が受け入れられている場所、自分の役割がある場所、自分の力を発揮できる場所、何らかの役に立っていると感じられる場所、そのような意味があります。
 もっと広い意味に取られることもあります。ありのままの自分でいることができる場所、それを居場所と言うことがあります。あなたはここにいてもよいと感じられる場所、それも居場所と言われます。居場所探しをする若者たち、ということも言われています。しかしそれは決して若者だけの話ではありません。私たちがどこにいるべきなのか、どこにいてよいのか、このことは誰もが当てはまる問題です。
 今日の聖書箇所には、マグダラのマリアという人物が出てきます。マグダラのマリアも、主イエスのところに居場所を見出していた人です。この人物に関して、ヨハネによる福音書には記述は少ないと言えるかもしれませんが、別の福音書を読むと、「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」(ルカ8・2)と紹介されています。つまり、主イエスによって癒していただいた、命の恩人なのです。そしてマグダラのマリアを含め、何人かの婦人たちが、主イエスと一緒に旅をしていたと記されています。主イエスたちの旅を支えていたのです。日常的な様々な働きをしていたのです。主イエスのもとに居場所を見出していたのです。
 ところが、主イエスが十字架の死を遂げてしまう。主イエスの死によって、マリアは居場所を失いました。それでもなお、主イエスのもとに居場所を見出そうとしました。主イエスが十字架にお架かりになったのは金曜日です。主イエスのお体が墓に埋葬されます。その墓の入り口が大きな石でふさがれます。土曜日は安息日と呼ばれる日です。外出することができない日です。その日を経て、日曜日になる。安息日が明けたので外出できるようになる。早速、マリアは主イエスの墓へと出向いていきます。そこに主イエスのお体があるからです。居場所を失ったマリアでしたが、せめての居場所、主イエスのお体のもとへと出掛けて行ったのです。
 ところが、墓が空っぽでした。マリアは動揺します。そして「どこに」という言葉を口にします。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」(13節)。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」(15節)。
 マリアは二回も「どこに」と言っています。最初の「どこに」というのは、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と天使たちから言われたので、答えました。「なぜ」と問われているのに、マリアの答えは「どこに」です。二回目の「どこに」は、「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」(一五節)と復活の主イエスから問われたので、答えました。「なぜ」「だれを」と問われているのに、マリアの答えはやはり「どこに」でした。異常なまでに「どこに」にこだわっているマリア。場所にこだわるマリア。居場所を失い、居場所を求めるマリアの心の内が伝わってきます。

2.マグダラのマリアの新しい居場所

 マグダラのマリアは、目の前にいるのが主イエスだとは気づきませんでした。しかし「マリア」(16節)と名前を呼ばれて初めて気付きます。そして「ラボニ」(16節)、「先生」という意味ですが、そう主イエスに呼びかけるのです。
 それに対して、主イエスは言われます。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」(17節)。
 「わたしにすがりつくのはよしなさい」と主イエスが言われた時、主イエスとマグダラのマリアはどういう状態だったのでしょうか。マグダラのマリアが主イエスの服の裾を掴んで離さないような様子を思い浮かべられるかもしれません。
 しかし絵画の世界で、この場面が描かれる時は、たいていはこう描かれます。主イエスに触れようとするマリアに対して、主イエスが身をひるがえし、主イエスが触れようとするマリアを手で制している。私に触るな、触らせないという主イエスのお姿が描かれるのです。すがりつこうとするマリア、それを拒否される主イエス、そういう場面が描かれるのです。
 私たちの中渋谷教会の設立にも深くかかわりをもった植村正久という牧師がいます。明治の最初期の牧師たちのリーダー的な存在です。植村正久が書いた著書の中に『霊性の危機』というものがあります。その中で、今日の聖書箇所の場面を取り上げて、このように言っています。少し古い日本語でしたので、現代の言葉に私が置き換えたものをご紹介いたします。
 「しかし主イエスはマリアが感極まって取りすがろうとするのを止め、「私に触ってはいけない」と言われた。マリアは懐かしく、楽しかった主との関係が十字架によって断ち切られてしまい、悪夢にうなされていたが、今や再びこの喜びに復帰することができたと喜び踊っていた。しかし主イエスはもはやこのように触るべき者ではなくなった。死んで、甦り、新しい世界、新しい社会である霊的生活に入って行かれた。そのため、キリストとの関係は「ラボニ」と言うだけでは十分でない。主イエスを「わが主、わが神」と言わなければならない」。
 植村正久は、マリアはもはや「ラボニ」、先生と呼んではいけない、主イエスのことを「主」「神」と呼ばなければならない、と言っているのです。続けて植村はこのように言っていきます。
 「私は今日のキリスト教徒もなお、キリストによって「私に触ってはいけない」と言われている者が多いのではないかと恐れている。キリストのことを明らかに考えることなく、一種の感情任せになり、浅はかで粗雑な信仰をもって満足する者が少なくないからである。キリスト教の立場から社会問題を研究したり、…キリストを倫理学の教師としたり、民主主義の預言者としたり、模範の人物としかみなさないのは、「ラボニ」と呼んでいる者たちである」。
 植村正久がこのように言うように、この場面は、マリアと主イエスの感動的な再開の場面を描いているのではありません。マリアには人間的な、センチメンタルな、感傷的なところもあったかもしれませんが、主イエスはその点を拒否なさったのです。
 その代わりに、主イエスはマリアを新たな所へ遣わそうとされています。改めて一七節をお読みいたします。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」(17節)。
 ここで主イエスが言われているのは、新たな場所です。主イエスによって与えられる新たな居場所です。マリアはこんなことを思ってもいなかったわけです。「どこに」「どこに」と問い続けていたマリア。そんなマリアに与えられた居場所は、マリアが考えてもいなかった新たな場所でした。しかしそこは、マリアが本当に行くべき場所、新たな居場所だったのです。
 続く一八節にこうあります。「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。」(18節)。マリアは最初の伝道者になった、そう言ってもよいと思います。伝道者というのは、聖書に書かれているように、主イエスの弟子たちがその後、伝道して教会を建てていきます。しかしそれに先立ってすでにマリアが主イエスの復活を伝えている。その意味ではマリアが最初の伝道者なのです。その使命を果たすように、主イエスはマリアに居場所を与えられるのです。

3.アブラハムも新たな居場所へ

 本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、創世記第一二章の最初の箇所です。ここにアブラムという人物が出てきます。後にアブラハムという名前になっていきます。
 このアブラムはこの時、すでに七十五歳でした。今の表現で言えば高齢者です。そのアブラムに向かって神は旅に出よと言われます。ちょっとした旅行ではありません。この先、どうなるか分からないような旅、いつまで続くか分からないような旅です。今住んでいる住み慣れた場所を離れ、私の示す地へ行けと言われるのです。アブラムにとって、今の居場所を失うことになります。しかしアブラムは神に従い、出かけていきます。
 旅にはいろいろなことがありました。子どもがいなかったアブラム夫婦でした。しかし高齢にもかかわらず子が与えられ、その家族がやがて大きくなり、イスラエル民族へと成長し、やがてイスラエルの王国になっていきます。イスラエルも様々な歩みがありましたが、その中から主イエス・キリストがお生まれになる。
 アブラムはその出発点になった人物です。今の居場所から別の場所へ行けと言われたアブラム。自分が思ってもいなかったことでした。しかし神から別の居場所が与えられ、その役割を担ったのです。

4.居場所は与えられる

 今日は居場所の話をしてきました。この世の中では「居場所探し」などということが言われています。しかし聖書では、居場所を自分で探すというよりも、自分の思ってもいなかった場所であるかもしれないけれども、居場所は与えられるものである、そう言うのです。
 私にとって、中渋谷教会で迎える二回目のイースターになりました。今の私の思いは、思ってもいなかった居場所が与えられて二年目を過ごしているということです。私は伝道者になってから今年で十年目になります。伝道者というのは、誰でもそういうところがありますが、自分で来たくてそこを選んだのではない。しかし神に導かれて、場所が示され、導かれてここに来たのです。私もそうです。ここが大切な居場所になりました。
 皆様にとっても同じでしょう。思ってもいないところに、今、自分の居場所がある。そういう方も多いと思います。家庭、職場、住まい、そして教会。特に教会は、皆様の居場所として与えられました。今日のイースターの日、神が私たちを招いてくださいました。ここが居場所です。ここで御言葉を聴きます。ただそれだけの居場所ですが、何よりも大事な居場所として、私たちに与えられています。
 主イエス・キリストがお甦りになられました。今日はその甦りの日です。今日、この居場所に集められた私たちは、ここから一週間の生活へと派遣されていきます。礼拝の最後のところで「派遣の言葉・祝福」というものがあります。文字通り、祝福を受けて、一週間の生活の場へ、私たちの居場所へと、私たちは出かけていくのです。私たちが選んだ場ではなく、与えられた場所へ。新たな思いをもって、お甦りの主イエスと共に、教会生活を、日々の生活を始めてまいりたいと思います。
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